概要
ユーラシア大陸の南西部。北西でボスポラス海峡とダーダネルス海峡を挟んでヨーロッパと隣接し、北東で中央アジア、東で南アジア、南西のスエズ地峡でアフリカ大陸と繋がっている。
アジアに含まれるが、日本人がイメージする「アジア(=日本を除く東アジアか東南アジア)」からは最もかけ離れた場所であり、文化も社会もヨーロッパとかなり似ている。住民もほとんどが白人である。
隣接して文化も近い北アフリカとまとめて「中東」として扱われる事が多く、pixiv百科事典でも「中東」の項目が先に作られている。
地理
全体的に乾燥しており、可住域は広さの割に少ない。そのため、集約的な農業、羊などの遊牧、交易などの商業が、古代から盛んであった。
西アジア(主要部が北アフリカにあるエジプトを含む)は西洋の文明における発祥の地であるのだが、過度の灌漑による塩害、過度の伐採や放牧による植生の荒廃、地下資源の枯渇などのせいで、今では昔ほどの存在感はない。人口も実は結構少ない(東アジアと南アジアが多過ぎるとかいうのは禁句)。現代で一番目立つ地下資源は石油だが、石油の産出に依存している国では、絶対王制や独裁政治が横行したり、利益を優先して配分される国民と他国からの出稼ぎ者のギャップが目に見えて大きかったり、不健全な面も目立ちがちである。
文化のうえでも、ユダヤ教、およびユダヤ教の影響を受けたキリスト教やイスラム教の発祥の地であり、現代ではイスラム教徒が多いが、ユダヤ教徒やキリスト教徒も無視できない割合で存在する国が多い。
歴史
中東諸民族視点、あるいは西洋史視点の記述は中東記事に譲り、ここでは東洋史の観点で西アジアを取り上げる。
日本の古代・中世における遠い国々を唐天竺と呼んで西アジアを含まないことから分かるように、古来、東アジア諸国では西アジアに関する情報は限られていた。西アジアをシルクロードの果てと考えれば、広大な砂漠を越えねば辿り着く事もできない。草原の道であれば強力な遊牧民族の勢力圏であり、得られるのは彼らが西アジアから宝石などの奢侈品と共にもたらす僅かな伝聞情報に限られる。同じく海の道も広大なインド洋を越えるのは容易ではなく、東アジアの商人が到達できるのはジャンク船が改良される宋朝以降となる。
しかし、古代から部分的にとはいえ西アジアの情報は伝わっていた。古くは後漢の大使である甘英が安息(パルティア)を経て条支(シリア)に到達して報告書を作成しており、これが東洋から初の西アジア訪問とされる。
下って唐代には唐代三夷教と呼ばれる西アジアの宗教が唐朝で隆盛したことが知られる。景教(ネストリウス派キリスト教)、祆教(ゾロアスター教)、明教(マニ教)である。その背景としては、波斯すなわちササン朝ペルシャがイスラム教団に敗れて滅亡し、東方への亡命があったことが挙げられる。日本でも破斯清道という人名を記した奈良時代の木簡出土しており、破斯を波斯とみなしてペルシャ人が来日していたという説がある。実際、正倉院に収蔵された当時のガラス器にはペルシャ産と鑑定されたものが存在する。
ついで大食と呼ばれたイスラム帝国は唐とタラス河畔の戦いで激突し、それに前後して紙の製法がイスラム帝国に伝わる。素材には亜麻などが用いられ、当初の生産の中心はサマルカンドであったが、11世紀にはシリアのダマスカスが紙生産の中心地となっている。また唐王朝の華南諸港にはダウ船を操る大食の商人が来て居住地を作っていた。これは黄巣の乱で衰退するが、代わって11世紀には先述の通りジャンク船が改良され羅針盤も使えるようになって中国商人がインド洋に乗り出し、主に宋朝の陶磁器を貿易していた。
やがてモンゴル帝国が中国からアラビアまでを統一し、ついで大航海時代が到来することで東西アジアの接触はごく容易に行われるようになり、一体としての世界史を歩んでいくこととなる。
関連イラスト
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※「中東」の項目も参照。
国・地域
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