正式に定められた系列ではなく、同一設計に基づく形式の便宜的総称である。
概要
関西本線の湊町~奈良などの大都市圏とその近郊における非電化区間の通勤輸送用として投入された3扉ロングシート車。車体強度と軽量化を両立させるため採用された外吊り扉と切妻形の前面が特徴である。
いわゆる「通勤型電車」の気動車版とも言うべき設計の車両で、他形式の気動車では見られない通勤型独特の箱型車体、また通勤線区のみの運用を前提とする割り切った車内設備であったため、後年これを閑散線区に転用すると不興を買うこととなった。
設備
通勤輸送を重視して3扉オールロングシートとしている。関西の通勤輸送や、それなりに輸送量が多い首都圏の非電化区間では、乗降時間の短縮や立席客数の増加(直接的な言い方をすれば詰め込みが効く)によって一定の評価を得るに至った。
ところが、当初投入された路線が電化されて閑散線区に転用されると評価は一変した。ラッシュ時に合わせた3扉ロングシートというアコモデーションはローカル線には合わず、乗客の評判は良くなかった。
また外吊り扉のため、冬季は隙間風が多く、この点でも不評を買っていた。
これは、仮に普通の戸袋つきドアを設置するとドア1箇所に付き900kg超の重量増になるため、国鉄の標準型エンジンで出力の低いDMH17エンジンを使う限りは選択肢がなかったものと思われる。同様に451・471系電車でもこのような手法が採られた。
ロングシートや隙間k…扉の問題が散々嘲笑の対象になってはいるものの、方向幕式の行先表示器、空調、照明、窓などのサービス設備は概ね101系電車に準じたもので当時としては質が高いものであった。
動力性能
機関は当時の国鉄で標準的なDMH17Hが1基に変速機がTC2Aと標準的構成。
堅実さに重きをおいた標準的な構成だが、一方で本系列に属する車両には2機関車両が存在しない。
日本の在来線規格で2機関車両を設計すると車体中心下部にラジエーターを置くしかないが、旧来の客車用プラットホームに発着する前提でステップを設置すると、床下スペースが無くなると思われる。
或いは「大都市の近郊の平坦区間で運用される前提であったため1機関搭載車で充分とされた」(後輩格のキハ45も1エンジン車主力だった)という考え方もある。高度経済成長期の近郊区間は電化の予定や可能性が濃厚でコストを掛けたくなかったと見る者も居る。
しかしながら、現在では近郊型2機関・3ドアステップ付きの車両はキハ201系(JR北海道)が実現させているため全く不可能でも無かったかもしれない。 が、車体そのものの強度、エンジン・補機類の大きさやラジエーター容量、エンジン効率その他諸々を考えると単純比較は難しいところ。
運用
例えば八高線や千葉県内など全区間が平坦区間で、全車1エンジン車で済む場合であればさしたる問題はなかった。
とはいえ、途中に勾配区間を挟む場合であっても、国鉄の気動車は基本的に特急型以外であればどの気動車でも併結可能な前提で設計されているため、ホーム位置などから編成内で混みそうな車両にキハ35を宛てて収容力を発揮させ、他の混みにくい位置の車両に2機関車両(キハ52・55や58など)をあてがえれば、この制約もだいぶ緩む。
ローカル線の長距離の仕業では、短距離客はキハ35、長距離客は他のクロスシートの車両を利用できる合理的編成であった…が、やはり冬の隙間風と暖房の効き辛さだけは不評であったようだ。
新製配備
1961年に関西本線の湊町(現:JR難波)~奈良間に近鉄への対抗馬「気動車の国電」として鳴り物入りで登場。
翌1962年には、当時『気動車王国』であった房総地区(千葉近傍)にも投入された。
その後は、川越線、八高線、足尾線(現:わたらせ渓谷鐵道)、相模線といった首都圏や、新潟地区の弥彦線・越後線、山陰本線の京都近傍の区間、九州の筑肥線などに新製配備された… が、これらの路線、特に混雑する区間は本形式導入後程なくして電化が進められ、通勤型電車に置き換えられた。
ちなみに肝心の関西本線では湊町~奈良で快速の運行まで行ったものの、結果は近鉄の圧勝であった。
(大阪)上本町~奈良をほぼ直接で結び、最速達列車(特急)が30分という俊足を誇った近鉄に対して、路線が大回りであるうえ鈍重な気動車の国鉄が勝負になる訳もなく(とはいえ近鉄がカバーしない区域の客を拾う効果はあったにせよ)、この区間は民営化後の大和路快速投入まで雌伏の時期に入った。
また、関西本線も湊町~奈良は1973年に電化されたため、先に述べたとおりキハ35が主力だったのはさほど長い間でもなかった。
転属
関西地区の近郊区間に投入された車両は、電化と共に更に郊外の紀勢本線などの和歌山地区や、関西本線の山岳区間、草津線、三重県内(関西本線、紀勢本線、伊勢線、参宮線)などに追いやられた。
房総地区では電化とともに、非電化のまま残った久留里線、木原線(現:いすみ鉄道)などの車両を残して他線区へ転出した。
1980年代には散々述べたとおり路線の需要に対して設備がマッチしていないために使い勝手の悪さが悪目立ちするようになり、キハ10系などの老朽車共々優先的に削減されるようになっている。
民営化の際には、JR北海道を除いた旅客5社に継承されたほか、キハ30 15が鉄道総合技術研究所に譲渡された。
また民営化で余剰車になった本形式の一部が、当時通勤需要が伸び、輸送力不足に悩んでいた関東鉄道の目に留まり、39両が中古購入された。沿線にある地磁気観測所のせいで逆立ちしても直流電化できない事情がある関東鉄道ではまさに渡りに船であった。
民営化後
2010年にはJR東日本久留里線にキハ30形が3両、関東鉄道に購入されたキハ30形グループが14両それぞれ現役で運用されていた。(当時としても希少車であった本形式がこの線区に残った理由はここを参照)
しかし、関東鉄道では2011年9月に元キハ35形のキハ350形が運用から退き、またJR東日本に残った3両も2012年秋にキハE130系が久留里線に投入されて置き換えられる事となった。
久留里線では12月1日にラストランが行われ、JR線上からは姿を消した。
その後、久留里線で最後まで使用されたもののうち1両が保存目的でいすみ鉄道へ、2両が水島臨海鉄道へと譲渡されることとなった。
関東鉄道に売却された元キハ30形のキハ100形は最後に残った2両が2017年1月に引退し、関東鉄道からは形式消滅した。1987年に中古購入されてから30年目の事であった。
2018年現在、稼働状態にあるのはJR東日本から水島臨海鉄道に渡ったキハ30形の1両のみとなっている。なお非冷房の為、運用に入るのは秋冬期間に限られるので注意。
そう、この形式は全車が非冷房車である
流石に関東鉄道では購入後に後付けの冷房化改造がされてはいるが、本家の国鉄では1970年代には規模だけは大きくとも爪に火を灯すが如き極貧財政で冷房化の予算はなく、(民営化後も)少ない資金はキハ52やらキハ58、或いはキハ40系などの使い勝手がよい車両に廻されたのである。
主な形式
キハ35
ベース形式。トイレ付き片運転台車。
寒地(新潟地区)向けの500番台、国鉄初のオールステンレス車両となった900番台といったバリエーションがある。
JR西日本では和田岬線用として、ホームの無い側のドアを中央を除いて撤去する改造が行われた300番台が存在していた。
キハ36
トイレなし片運転台車。トイレなし車は後述のキハ30を製造する事となったために早々に製造は打ち切られ、寒地向け仕様などは存在せず、また本形式のみJRに継承されることなく全廃となったが、一部は国鉄清算事業団経由で関東鉄道へ売却され、キハ35からトイレを撤去したキハ350形に編入されて運用された。
キハ30
トイレなし両運転台車。JRでは2012年11月30日にラストランを行い全廃となり、その内の1両が水島臨海鉄道に譲渡され活躍を続けている。また会津鉄道ではトロッコ気動車AT-300形に改造された車輌が存在したが、老朽化により廃車となった。
キクハ35
JR西日本の和田岬線用のキハ35形300番台とペアを組むために、キハ35からホームの無い側のドア(中央除く)とエンジンを撤去した車両。
キハ38
国鉄末期にキハ35形から改造された通勤形気動車。キハ38の項目参照。