概要
中国地方の西端に位置する県。本州最西端の地にして九州、韓国の玄関口である下関市を有する。公用語は山口弁。
小林賢太郎(ラーメンズ)曰く「日本三大名字っぽい県名」(残り2つは石川県と宮崎県)。
略歴
1県の各方角で異なる4海域(東部:瀬戸内海、西部:響灘、南部:周防灘、北部:日本海)に接する珍しい臨海県であり、古来より内海と外海、さらには大陸(韓国および中国)を繋ぐ船舶・交易・漁獲の拠点として栄えた。現在は、県西部は港湾・漁獲業務(代表格:林兼産業、三菱重工業下関造船所)、県東部は化学・重工業(代表格:日立製作所笠戸事業所、マツダ防府工場)、県全体としては下関と萩を中心に豊富な歴史観光資源を利用した観光産業を主力としている。
陶晴賢率いる陶氏に滅ぼされるまでは大内氏32代(前進の多々良氏含む)の所領として長い安寧と繁栄を極め、第32代当主大内義隆が京都の風雅な先進文化を積極的に取り入れた事から「西京」(さいきょう=西の京都)と称されるまでに発展し、日本各地に点在する小京都の中でも最古参の1つに列する。この頃、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが義隆を訪ね、本来であれば時の天皇に献上するはずだった親書や数々の贈物(置時計、望遠鏡、小銃、眼鏡など)を譲って布教活動の認可を受け、キリスト教の布教に努めた。
ちなみに、山口県下では「ザビエル」ではなく「サビエル」を正式公称としており、これはザビエルの故郷であるバスク地方(フランス・スペイン国境地域)でファミリーネーム「Xavier」を「シャビエル」と発音する事に由来する。また、ザビエルが義隆に譲った眼鏡が日本史上最古のものとされている他、廃寺を住居兼用の教会として与えられた事からこれが国内における常設教会および常設礼拝堂の元祖とされており、1991年に焼失した『山口サビエル記念聖堂』の初代聖堂はザビエルの生家『ハビエル城』に隣接する石造教会堂を模して建造されたものであるなど、キリスト教信仰の有無に関わらずザビエルとの縁を深く保っている。
権謀術数の限りを尽くしてたった一代で大内氏、陶氏、尼子氏の所領を手中に収めた毛利元就の活躍も束の間、徳川幕藩体制の決定打となった関ヶ原の戦いで明暗が分かれ、豊臣政権存続を旗印に決起した石田三成・大谷吉継両名の要請に応じて毛利輝元が西軍総大将に就いたが、小早川秀秋の反旗によって劣勢を覆した東軍の大逆転勝利に終わり、まさしく敗軍の将となった。戦後に開かれた評定の結果、西国の要点を守護する外様大名の一家として辛くも毛利三家(毛利本家、吉川家、小早川家)の存続を許された反面、西軍に与した毛利本家の戦争責任に基づく賠償として従来の10国領(安芸・周防・長門・備後・出雲・石見・隠岐、伯耆・備中各半国)112万石から2国領(周防・長門)29万8480石2斗3合への屈辱的減封を余儀無くされた。
なお、約270年間の徳川政権下に存在した統治組織『江戸三百藩』において、通常は「新田藩」の呼称で区分される支藩のまた支藩に特例として「孫藩」(そんぱん)の認可を受けた唯一の藩『清末藩』が140年(長門新田または長府新田藩時代を合算すれば約200年)存在した。家禄1万石の陣屋構えという小藩ではあったが、藩政中期から学問第一を奨励したために長州諸藩の中でも「清末の本読み」とその名を轟かせ、第8代当主毛利元純(清末様)は長州藩主毛利敬親(そうせい公)の名代として活躍した一方、四境戦争(第2次長州征伐)では大村益次郎と共に石州口の守備に当たって浜田藩を含む幕府軍の侵攻を退けた。
明治維新に至る政治体制改革に大きな足跡を残した4大勢力『薩長土肥』の一角を担い、木戸孝允、高杉晋作、大村益次郎、吉田松陰、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、井上馨など多くの幕末志士を輩出した。また、近代日本の政治中枢で多大な影響力を堅持した背景もあって、2017年時点において内閣総理大臣経験者を9人(うち3回以上の再任経験者4人)送り出している。
<内閣総理大臣経験者一覧>
しかし、福岡県と広島県の大都市に挟まれている割には両県に比べて発展速度は一歩及ばず、政治的理由から道路事情が極めて良好である事実が災いして物流・人材・雇用の停留困難を招くというジレンマを抱えており、近県からは「通過の県」とする認識が強い他方、平成以前から「上関原発問題」と「岩国米軍基地問題」、即ち原発建設と在日米軍の可否を巡って揺れ動く巨大な国政問題を同時に、且つ現在進行形で歴代知事が背負い続ける唯一の県でもある。
関連イラスト
- 山口県旗
- 長州毛利家定紋『一文字に三つ星』
- 県公認ゆるキャラ『ちょるる』
- 伝統工芸品『大内雛』(おおうちびな)
※本腰を入れて活動しているのは岩国出身のハクジャオー、下関出身の『海峡戦士タイガーフーク』の2名。