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ダイオライト(種牡馬)

だいおらいと

1930年に2000ギニーを制したイギリスの競走馬。種牡馬として来日し三冠馬セントライトなど輩出、4年連続リーディングサイアー。
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曖昧さ回避編集

ここでは馬のダイオライトについて記述する

その他の用法はダイオライトを参照


データ編集

馬名Diolite(ダイオライト)
出身イギリス
生年月日1927年(誕生日不明)
性別
毛色黒鹿毛
牡系ベンドア(Bend Or)
ディオフォン(Diophon)
ニードルロック(Needle Rock)
母の父ロックサンド(Rock Sand)
近親レディクルーン(Lady Kroon)
競走成績24戦6勝
馬主ヒューゴー・ハースト(Sir Hugo Hirst)
管理調教師フレデリック・G・テンプルマン(Frederick G. Templeman)
主戦騎手フレデリック(フレディ)・S・フォックス(Frederick "Freddie" Sidney Fox)
没年1951年8月26日(24歳)

概要編集

1930世代イギリス競走馬。右前一白の黒鹿毛。

馬名は「閃緑岩」を意味する。


競走馬として英クラシック2000ギニーで父仔制覇を達成、引退後に競馬黎明期の日本へと渡って史上初の三冠馬セントライト」はじめ数々の名馬を輩出した偉大なる種牡馬


死後、船橋競馬場ダートグレード競走ダイオライト記念」にその名を残している。


馬主はゼネラル・エレクトリック・カンパニー(紛らわしいがアメリカのGEとは無関係)の創業者で男爵位も得た実業家・ヒューゴー・ハースト卿。


主戦騎手のフレディ・フォックスはダイオライトとの出会いから再ブレイクし、20世紀のベストジョッキー20位に選ばれるまでになった名手。


血統編集

父ディオフォンは1924年2000ギニーを勝ち、英領インドの政治家にして大馬主のアーガー・ハーン3世に初のクラシック勝利を贈った馬。


母ニードルロックは1903年英三冠馬ロックサンドのラストクロップ。


半妹レディクルーンは1956年英ダービー馬ラヴァンダン(Lavandin)の母。

ラヴァンダンは1963年に種牡馬として輸入されており、福永洋一の手で天皇賞史上初の万馬券を生んだヤマニンウエーブ(1972年秋の天皇賞馬)などの産駒がいる。

生い立ち編集

1927年、ディオフォンの初年度産駒として生を受ける。


小柄だったこともあってニューマーケットの1歳馬セールではあまり値はつかず、ハースト卿の為の馬を見に来たテンプルマン調教師が安値の480ギニーで購入した。

現役時代編集

2歳に馬体も大きくなり、細身だが体高があるステイヤー向きの体型に育った。

デビュー戦は1929年4月14日、ニューベリーで行われた31頭立ての芝5F(1005.8m)「マントンプレート」。フレディ・フォックスを背に3着とよく走ったが、勝者ブレニム(Blenheim)からは4馬身半も千切られた。


次走でも2着に入り、3戦目のスプリング2歳ステークスでは1番人気に推され初勝利。ここからシリル・レイ(Cyril Ray)の騎乗でアスコットのコヴェントリーステークス(5F)、グッドウッドのモルコムステークスと3連勝(6F≒1207m)で2歳シーズンを終えた。


1930年5月7日、再びフォックスとのコンビで「第122回2000ギニーステークス」(8F≒1608m)に出走。

オッズ1/10(10.0倍)の28頭中2番人気となったダイオライトは、好位先行からラスト1Fで2着パラダイン(Pradine この年のマイル重賞「サセックスステークス」勝ち馬)を2馬身突き放す完勝。デビュー戦で完敗したブレニム(4着)への雪辱も果たした。

父ディオフォンとの2000ギニー父仔制覇となり、フレディにとってアトマー(Atmah)で勝った1911年1000ギニー以来、19年ぶり2度目のクラシック勝利。テンプルマン調教師にとっては初のクラシック勝利だった。

ハースト卿も「私はずっと、ダイオライトなら必ずチャンスを掴めると思い描いていたんだ。それが証明されたよ。彼ならダービーも勝てると思う」と、自身初のクラシック勝利を喜んだ。


ダービーステークス(エプソムダービー)では17頭立てでオッズ4/11(2.75倍)の1番人気に推されたダイオライト。鞍上はレイが務めた(フレディはDick Swivellerに騎乗)。

「第155回ダービーステークス」


直線、前でイリアッド(Iliad)と激しく叩きあうダイオライト。しかしその2頭を、オッズ1/18(18倍)の6番人気に甘んじていたブレニムが外からまとめて撫で切る。ダイオライトはブレニムの末脚にまたしても3馬身千切られ、3着に終わった。

ブレニムはその後腱を痛め、5戦3勝で種牡馬入り。再リベンジの機会が喪われたダイオライトはフレディと組まなくなったせいか3~5着が定位置の善戦ホースとなっていき、セントレジャーステークス(ハリー・ビーズリー騎乗)でも6着。


翌31年、キャメロニアンでダービージョッキーとなったフレディが戻ってきて6月にコンビ復活。以降全レースでフレディが騎乗し、今で言うスプリント~マイル戦を選んで走るようになった。11月にはリヴァプールの「グロブナーカップ」(8F)で2000ギニー以来約1年半ぶりの勝利。

5歳になると掲示板に乗ることも難しくなり、二桁着順を連発。しかしラストランの「グロブナーカップ」では見事に連覇を果たし、引退の花道を飾った。


生涯成績:24戦6勝 2着2回 3着5回

引退後編集

種牡馬となったダイオライトだったが、母国では晩年が振るわなかった印象からか種付数は低迷。

そんなダイオライトを1935年(昭和10年)宮内省下総御料牧場(千葉県成田市)が8500ギニー(当時のレートで約18万円)で購入した。

当時は巡査の年収540円(令和では約670万円)の時代、ざっくり現代換算すると20億円は下らない大金である。

(参考:サンデーサイレンスの購入額が10数億円)


翌36年、来日したダイオライトは早々にロケットスタートを決めた。

種付け初年度から桜花賞馬タイレイ菊花賞馬テツザクラとクラシックホース2頭を輩出すると、2年目の産駒からは“史上初のクラシック三冠馬セントライトが誕生する。


その後も次々と八大競走馬を輩出し、1940年(昭和15年)には6連覇中だった大種牡馬トウルヌソルから全日本首位種牡馬(リーディングサイアー)の座を奪うと、そのまま4年連続(戦時中断の44~45年除く)リーディングサイアーに君臨した。


母父としても非常に優秀で、史上初の海外重賞馬ハクチカラ顕彰馬)、春天馬ミツハタ二冠馬ボストニアン、名牝シラオキなど様々な名馬が生まれており、なんと来日以前に生まれた娘からもフランスのクラシック馬ディクタウェイが誕生している。


1951年(昭和26年)8月26日、老衰のため24歳(旧25歳)で永眠。


ダイオライトの子孫達編集

直仔編集


母父産駒編集

【第四バツカナムビユーチー(シユクセツ)産駒】

【第弐スターカツプ(ミスコウア)産駒】

【ニユージランド産駒】

【神正(カミマサ)産駒】

【オーマツカゼ産駒】

【昇城(フアイヤライト)産駒】

【クサナギ産駒】

【ケンタッキー産駒】

【その他】


ダイオライト記念編集

ダイオライト最期の地となった千葉県では5年後の1956年(昭和31年)3月15日、船橋競馬場で彼の名を冠した南関東重賞競走「農林水産大臣賞典 ダイオライト記念」が創設された。


1998年にはGⅡ格交流重賞となり、現在も南関東のみならず日本全国の砂の猛者達が凌ぎを削っている。

母父ダイオライトの勝ち馬編集

ダイオライトの直仔に勝ち馬はいないが、娘クサナギの全兄弟フシミカブトが67年、シントーが68年にレースを制した。

(父チャイナロック


外部リンク編集

新聞記事「ニューマーケットの王 2シリングの賭け “TOTE(電光掲示板)”の成功

(1930年の2000ギニーについて書いたニュージーランド紙「オタゴ・デイリー・タイムズ」の記事)


関連項目編集

イギリス競走馬

日本種牡馬

セントライト

ダイオライト記念

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種牡馬 しゅぼば

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