「見えてる世界がすべてじゃない」
「見えない世界の扉が開く」
概要
2018年4月1日からスタートしたシリーズ完全新作。原作者・水木しげる氏没後初のTVシリーズ。
対象視聴者の年齢層が従来より引き上げられている。
前作・5期の段階で、「同一作品のリメイク数」としてギネス世界記録に認定されたが、今回で更にその記録を伸ばした。
2018年は『ゲゲゲの鬼太郎』TVアニメ化50周年に当たり、本作は記念作品でもあるが、企画自体は「そろそろ鬼太郎やろうよ」と自然に立ち上がったもので、「気が付けば50周年だった。まさに妖怪に呼ばれてスタートした作品」というスタッフの言である。
従来の鬼太郎ファミリーの他に、本作では犬山まなが、4期の村上祐子以来となる人間側のレギュラーヒロインとして設定された。
演出の特徴
原作者である水木しげる本人や、水木作品へのリスペクトが随所に見られ、登場人物の設定やエピソードのシークエンスとして表現されている。原作はもちろん、過去のアニメシリーズを知るファンにとってはところどころでニヤリとさせられる構成になっており、放送後に考察が行われることも多い。
舞台は原作での鬼太郎及び原作者・水木しげる御大の居住地・調布市である。また、御大の故郷であり、鬼太郎たちの像が立ち並ぶ水木ロードが存在し、水木ファンの聖地ともなっている鳥取県境港市も登場。これらは犬山まなの住所や親戚の設定に反映されている。
23話の回想シーンでは、作品中の時代の流れが、現実のそれをカリカチュアライズした形で表現された。ここで挿入された折々の場面は、歴代シリーズの放映年代時(1968年、1971年、1985年)であり、それぞれの時代におけるねずみ男や猫娘たちの行動・雰囲気などにも各シリーズへのオマージュが見られる(スタッフの言で「各放送時の時代考証も再度行いました」とのこと 公式twitter)。
見上げ入道の退治法(2話)や、べとべとさんのやり過ごし方、油すましが「今もいるぞ」と答える、ゲゲゲの森に以前迷い込んできた子供として「(天狗小僧)寅吉」の名前があげられる(4話)など、妖怪についての伝承・伝説も積極的に取り入れられている。
また、水木御大に妖怪や怪異についての知識を授けた「のんのんばあ」を彷彿とさせる人物が、裕太の祖母として会話の中に登場している。この人物は、かつて鬼太郎たちに助けられた可能性もあり、こうした登場する妖怪や人間の言及にも過去のアニメシリーズの時代を想起させる部分が盛り込まれている。
「平成鬼太郎」の集大成
昭和末期に制作された3期鬼太郎は、怪奇色の強かった1~2期から、当時の社会性に合わせて大きく路線変更された。「人間と妖怪の共存」をテーマとし、ギャグやアクションも強化され”明るく快活な正義のヒーロー”となった鬼太郎のキャラクターは、当時の子供たちに大好評を博した。しかし、その一方で2期鬼太郎や原作のファンを中心に「鬼太郎は妖怪なのに、人間と仲良くなりすぎている。妖怪は恐ろしい存在であることを忘れず、距離を置くべきだ。」との批判を受けることとなった。
この点を踏まえ、平成時代に入って制作された4期鬼太郎及び5期鬼太郎では、鬼太郎はそれぞれスタンスは異なるものの、2期や原作同様に、ヒーローでありつつもどこかドライな部分を持ち、見た目通りの幼い子供ではないことを感じさせるキャラクターへと立ち返った。演出面においても初期作品へのオマージュが見られ、あくまで鬼太郎は妖怪であることが強調されている(詳細はリンク先参照)。
その路線は本作の6期鬼太郎にも継承され、鬼太郎は登場当初から一貫して異質な存在として描かれ、時に恐ろしい妖怪としての顔をのぞかせる。
作風もよりダークなものとなり、平成最後の年にふさわしい集大成的な作品に仕上がっている。
作風
6期は「怖い」鬼太郎
6期のテーマは「人と妖怪の距離感」「多様性の在り方」。
この2つを際立たせるため、物語の背景を「人間が妖怪の存在を忘れ去った時代」とし、妖怪の”人と異なるもの”、”危険で恐ろしい存在”としての面が過去作以上にクローズアップされている※1。
本作では、こうした人間の愚かさや更にネット等の技術や生活環境の大幅な進展変化の影響も加わって、見えないものを蔑ろにする人間の傲慢さ・不遜さがより強調されている。
スタッフは本作で「現代社会の闇を描く」ことを明言しており、現代人の抱える業やその闇の深さ、醜さや哀しさが、鋭い形で視聴者に突き付けられる。妖怪が自ら現代社会の仕組みや問題を利用し、あるいは人間の欲望に利用され、人目もはばからず甚大な被害をもたらすという凄惨な展開も目立つ。
アバンタイトルでは、水木御大が生涯語り続けた「目に見えないモノは、いないわけではない」という言葉を、鬼太郎が視聴者に向かって囁きかける。
- 幼少期の御大が聞いた「のんのんばあ」の名言「見えんから、おらんというのが、まちがいのもとじゃがナ」が、改めて本作を作る上での指針となった(「東京人」9月号・プロデューサーインタビューより)。
演出面でも、既存のシリーズよりホラー色が強いことが特徴で、それを象徴するように、OPでは墓場鬼太郎での鬼太郎誕生を彷彿とさせるショッキングなシーン(墓の土を突き破って表れる鬼太郎の手、本体から離れ落ちる目玉)が映し出されている。
また本編でも、人が怪異によって殺害され、世間では事故死や変死で扱われるという近年のニチアサとは思えない壮絶な展開や、自らの愚かさによる自滅、人々の負傷や呪いに苦しむ様などを躊躇わず表現している。この点は映像面でも2期以来の演出描写となる。
※1高度経済成長期の弊害が描写された2期や、科学万能と言われて数十年経過していたバブル最盛期の3期でも、同様の視点・設定が見られる。
妖怪の恐ろしさと人間の業の深さ
鬼太郎シリーズを含め、水木作品(漫画のほか、妖怪画集や妖怪事典等も含む)全体に通底する、いくつかの大きなテーゼの一つとして「妖怪には愛敬のあるモノも多いが、同時に恐ろしい存在でもある」が挙げられる。
本作はそのテーゼを受け入れており、一見ユーモラスな妖怪であっても、次第に欲望を肥大化させ、遂には躊躇いなく殺人を行ったり、個人の善悪に関係なく魂を餌として貪ったりと、人間社会に様々な災厄を齎すようになることが多い。しかし、そのきっかけを作るのは大半が人間であり、その「業」が妖怪以上に薄ら寒い恐怖を感じさせるものとして提示されている。
また、自覚のあるなしに関わらず、人間たちの行為が巡り巡って自身に還る、いわゆる”因果応報”が軸となる物語も頻繁に描かれている。信仰心の喪失や、他人への関心を上回る自己顕示欲、ブラック企業、いじめ、政治の堕落や保身のために仲間を売る人間など、堕落しつつある現代社会への風刺や皮肉も凄まじく痛烈である。
鬼太郎が事件の解決に乗り出すのは、直接助けを求められた時か、妖怪たちが事態に巻き込まれた場合に限られ、問題の根源に対してどのように対処するかは、あくまで当事者たちの手に委ねられている。
時には、罪を自覚することもできない人間が「救われる価値などない」と言わんばかりに放置されることすらある。鬼太郎のさりげない一言や表情、妖怪たちの態度でようやく事態に気付いた彼らは、間も無く遭遇するはずの報いに脅え、恐怖することになる。
その一方で、善良な人と純真な妖怪が互いを愛しく思いながらも、寄り添うことができないという悲劇や、見えないものと調和して生きる人々の姿も描かれている。また、陥った罠から自らの力で立ち上がろうとする、あるいは業を背負いつつも、あえて己の選んだ道を生きる姿など、人間の逞しさや強かさを見せるエピソードも存在する。
全般的に、物語は登場人物たちから一歩引いた視点で展開され、登場人物たちの行動や、彼らが知る由もない未来について視聴者に問いかけ、考えさせる作風となっている。
キャラクターデザイン
鬼太郎はこれまでの原作準拠(130cm、30kg)の身長、体重から離れ、4期以上に頭身が上がってすらりとした印象になった。さらに内巻きのヘアスタイルや細身の体、小さな顎におちょぼ口、整った横顔など、全体的に中性的な美少年風に描かれている。この新しいデザインによって、これまでの鬼太郎にはなかった、妖しい恐ろしさが加わった。
一方、過去のシリーズとのバランスがとられた感のある部分も存在する。4期以降意識されるようになった髪の毛の細かい描写が本作でも踏襲され、頭頂部の髪の毛の流れなどに本作で新たな特徴が出されている。
このデザイン面での過去作に対するリスペクトは他の鬼太郎ファミリーでも同様で、ねずみ男は5期の面影を残した顔立ちにして衣が3期以来の青灰色となり、一反木綿の目や子泣き爺のべべも青になったり、ぬりかべの目は3期~5期を平均化したような細い垂れ目に描写され、身長と等身が大幅に変わった猫娘も、髪の毛が4期同様の紫になったなど、細かい回帰点がある。
猫娘(ねこ娘)のデザインはこれまでと大きく異なる。すらりとしたモデル体型の美女で、ヘアスタイルもロングヘアをリボンでまとめたものとなり、放映前から大きな話題となった。ねずみ男以上のタッパを見せ、ファミリーの中ではぬりかべの次に身長があることになる。チョーカーやアンクレットといったアクセサリーを身に付け、足元が完全なハイヒールとなり、成人女性に近い雰囲気を醸し出している。ただし、未だ身長・体重および3期の様なスリーサイズ設定などは公式発表されていない。
猫娘のこうした造形の変化は、まなとの差別化を図るため、また5期同様、視聴者層を広げることを目的に、ファッションモデルの菜々緒をイメージして行われた。しかしあまりに革新的なデザインであったため、スタッフは「水木プロダクションから了承を得られるまで帰ってくるな」と命じられたという(幸い「東映さんを信頼していますので」と快諾を得られ、放送が始まってからは水木御大と交友があった著名人からも好評を得ている)。
原作では、妖怪たちは概ね低い頭身で描かれているが、6期の鬼太郎ファミリーは全体的に頭身が上がっている。ゲゲゲハウスが自身の幅よりも太い大樹に設えてあり、梯子が2段になっているのもこれまでとは異なる。
一般人の絵柄などは現代風のものとなっているが、中には水木御大の画風を意識した顔の人物も過去作と変わらず登場している。
アイキャッチでは、本編に登場する妖怪が水木しげる画の原作鬼太郎及び妖怪図鑑の絵で紹介される。そしてその横では、LINEスタンプ風の掛け合い入りイラストが3つ出てくるという、今と昔、アニメと原作の特色が両立したものとなっている(LINEスタンプのキャラたちは、5期終了後に公式で作られたものをアレンジしたものとなっている)。
設定
- 「一反木綿が女好きでナンパ癖がある」、「砂かけ婆がデジタル機器に対応したり、砂で味方の体力を回復させる」、「猫娘がSNSを利用していたり、ツンとしたクールな人格になる」などといった点は、これまでの作品でも節々では取り入れられていたが、設定レベルでは殆ど見られなかったことである。一見すると突飛な変更に見えるが、鬼太郎のアニメ・ゲームなどといった外部作品における恒例の「時代反映」の設定となっている。
- 「なるべく人間社会から距離を置こうとする鬼太郎」というキャラクター像は、それぞれ理由は異なるものの、過去のアニメでも描かれたことがあった。しかし、今期では鬼太郎だけでなく仲間の妖怪たちも人間界とは一線を引き、必要以上に関わることを良しとしない様子がうかがえる。
- 一方で、「妖怪と人間、異なるものが共に存在していく上で一番大切なのは、お互いを理解し合うという事じゃ」「(人間がゲゲゲの森に来れたのは)これも何かの縁なんじゃろう」という、3話、4話での妖怪たちのセリフもある。また、妖怪を自然に受け入れる人々や、共存の道を選ぶエピソードも存在し、大切なのは互いの心構えであることが強調されている。
- 妖怪の世界全体が人間界とはっきり異なるものとされている。ゲゲゲの森も通常の人間には感知できず、実に200年近く人間の出入りも無いなど、原作や過去シリーズ以上に人間たちから殆ど知られていない異空間として存在する。2話でゲゲゲの森へ通ずる道の一ヶ所として調布市にある神社横の林が描写されるが、負傷した鬼太郎を送り届けてくれた犬山まなに対してさえ、目玉おやじは礼を述べながらも立ち入りを拒み、それについて駆け付けた仲間たちも反対することはなかった。妖怪たちにとっては、その場所を示すだけでも相手の人間を特に信頼した行為であり、まなにも余程の事が無い限り他者には口外しないように忠告している。
- これまでのシリーズでは登場しなかった現代都市伝説の妖怪も登場し、10話ではトイレの花子さんや人面犬…果ては本人の分霊が憑依して妖怪となった二宮金次郎像などが登場している。
より多彩になった仲間の戦力
『一反木綿の切断攻撃』、『砂かけ婆の砂太鼓』、『妖怪漆喰で敵を自分の体内に塗り込むぬりかべ』など、実写版などを除いて平成アニメ版以降見られなくなった鬼太郎ファミリーの妖術が再び披露されている(一反木綿の切断攻撃は5期でも使用したが、妖怪に引き裂かれて補強した鬼太郎のちゃんちゃんこによるものだった)。
また、子泣き爺も5期の様に体の一部だけを石化する能力を披露した。それだけでなく、『一反木綿の体をゴム代わりにパチンコ攻撃』、『砂かけ婆の砂塵扇』といった新技もある。さらに、これまでは作品のアイドル的な扱いだった猫娘もパワーアップ。本性を露わにすると鋭い爪を鎌の刃状に伸ばし、同じ東映アニメ作品に登場する某ロボ超人の技を彷彿とさせる威力を発揮し、メインアタッカーの一人として活躍する。
このように、作画は現代的であり変更点は多いものの、個々のキャラクター像や各シナリオに通底する水木節など、全体を俯瞰すれば原作、および関連する水木作品の要素が比較的忠実に盛り込まれている。
原作者の水木しげる御大は生前、映像化に対して基本的には肯定の姿勢を取っており、自ら要望を出したりすることもあった。また、5期の時点ではいろいろ吹っ切れていたのか「金さえ運んで来れば大丈夫」という旨の発言をし、『墓場』でも同様のコメントをしている。
本作に対して御大がどういった感想を抱いているかは、今や神のみぞ知るところとなった。しかし水木プロダクションを始め、御大の友人荒俣宏、弟子を標榜する京極夏彦など、御大と深い関りがある人たちからも「本作のアレンジは、おそらく水木大先生も納得して喜んでくれると思う」と、高評価である。
キャスト
レギュラーキャスト
- 鬼太郎(CV:沢城みゆき)※クレジットではゲゲゲの鬼太郎
- 目玉おやじ(CV:野沢雅子)
- ねずみ男(CV:古川登志夫)
- ねこ娘(CV:庄司宇芽香)
- 犬山まな(CV:藤井ゆきよ)
- 砂かけ婆(CV:田中真弓)
- 子泣き爺(CV:島田敏)
- ぬりかべ(CV:島田敏)
- 一反木綿(CV:山口勝平)
- 犬山純子(CV:皆口裕子)
- バックベアード(CV:田中秀幸)
- 名無し(CV:銀河万丈)
6期のキャスティングは、田の中勇らの逝去もあり、全て完全オーディションにより行われて一新された。
主人公である鬼太郎役は、『ルパン三世』シリーズの3代目・峰不二子役などで知られる沢城みゆきに決定。
次回予告の決め台詞「見えない世界の扉が開く」を語ってもらったところ、沢城の口調にぞくりとする恐ろしさを感じたのが決め手となった。沢城のほかにも低いトーンで発声した声優はいたが、人ならぬものの恐怖を感じさせた沢城の演技が抜きんでていた。今期の鬼太郎は「友達ではない、恐ろしい存在である妖怪の代表」であり、スタッフはオーディションの段階でキャラクターをそこまで掴み、作り上げてきた沢城の実力に驚かされたという。
目玉おやじ役には、1期~2期や『墓場鬼太郎』および『劇場版妖怪ウォッチ~シャドウサイド鬼王の復活~』にて鬼太郎役を演じた、アニメ鬼太郎を象徴する存在である野沢雅子が起用された。
2010年に死去した田の中勇の後任としての登板だが、野沢は田の中の死去に際し「代役など居ない」と故人を惜しんでおり、目玉おやじを演じるにあたっては「鬼太郎が成長し、父親になった感じで」と語っている。当然ながら野沢もオーディションによるキャストであり、彼女の作品への深い愛と、流石の貫禄を感じさせる結果となった。
なお、野沢は主演の沢城みゆきが『ルパン三世』で初めて峰不二子を担当した時(2011年)にもゲスト出演しており、その回の冒頭で不二子と会話する裏社会の大物役での直接共演だった。そのため奇しくも沢城とは、7年ぶりに同じ国民的長寿アニメで重要な役どころのレギュラーとして共演が実現した事となる。
ねずみ男役は、前作5期で準レギュラーの蒼坊主役を務めていた古川登志夫が担うこととなった。
飄々としたキャラクターを得意とする古川は、昔からねずみ男役を演じたいと熱望しており、5期でもねずみ男役のオーディションを受けたが落選し、蒼坊主役での出演となった。それだけに今回再度オーディションで役を射止めた喜びは大きく、ツイッターでハイテンションな報告を行った。→古川登志夫twitter
彼のねずみ男に対する愛は深く、その後もツイッターで度々キャラクターについて発言し、6期鬼太郎についての解説や考察も披露している。
また古川は、過去に同じ水木作品のアニメ版『悪魔くん』でメフィスト2世役にてレギュラー出演していた事もある(1989年)。
猫娘役となった庄司宇芽香は、5期と『墓場鬼太郎』の放送当時は声優として新人時代であり、その2作品にもモブキャラ役で何度か出演していた。
その当時の共演から、5期で猫娘を担当した前任の今野宏美とも親しくなり、今野の収録時の演技を間近に見ていたため、彼女の猫娘の声が「イメージ的には、どことなく歴代の先輩方の中で一番の影響を受けている気がします」と、庄司自身もインタビュー等で語っている。スタッフもオーディションで庄司に決めた理由の一つとして、「5期猫娘の進化系の声」という印象も感じたとの事。
子泣きやぬりかべを演じる島田敏は、過去の鬼太郎シリーズでゲストキャラを多数担当した経験があるのはもちろん、本作まで田の中勇の代役として長らく目玉おやじを代演していた。今回は子泣き・ぬりかべの二役でレギュラーとなった。
5期でぬりかべ女房を演じた田中真弓は本作で砂かけ婆役として出演し、一反木綿役の山口勝平も4期でのっぺらぼうとして出演経験があり、共に準レギュラーだった過去出演作から、本作でレギュラーに昇格した。
オリジナルレギュラー・犬山まな役を担当する藤井ゆきよは、2015年から放送されていた『ルパン三世(第四TVシリーズ)』で、やはりオリジナルレギュラー・レベッカ・ロッセリーニの声を演じていた。同作では峰不二子役の沢城みゆきとも共演経験があり、本作で沢城が鬼太郎役に抜擢されたため、実に同じ国民的長寿アニメシリーズにて2年ぶりのレギュラー共演となった。
また、まなの母・犬山純子役の皆口裕子は『劇場版妖怪ウォッチ~シャドウサイド鬼王の復活~』で猫娘を演じている。
以上のように、本作も従来同様に個性あふれる実力派声優が、レギュラーとして配役されている。
2018年6月28日、沢城みゆきが今夏に産前・産後休業、育児休業(早期復帰予定)に入ることを所属事務所が発表。東映アニメーションは、当面の間は沢城の出演が行われるが、その後のスケジュールは未定としている。
キャラクターとしての6期鬼太郎
1話において「幼い頃に水木という青年に命を救われ、育てられた事がある」という過去が披露された。これにより鬼太郎の活躍についても「言わば、その恩返しとして人助けをしている」という理由付けと説明が行われている※1。また、14話では「生まれてすぐ、たった一人で墓場に放り出された」という誕生秘話も具体的に描かれた※2。
これらの情報は、いずれも目玉おやじの言葉として語られ、「子供っぽい夢を見る余裕などなかった」鬼太郎の幼児期が壮絶なものであったことが、改めて明かされている。
23話では、原作や従来のシリーズを踏まえ、1960年代から既に現在と変わらぬ少年の容姿で活動していた事が、鬼太郎本人から披露された。人間から「あなた今いくつなわけ?」と聞かれた鬼太郎は「数えた事無いなあ」と答えている。
※1 原作・アニメなど「鬼太郎」関係の全作品を通じて、彼の生い立ちを語る上で重要なバックボーンとなるエピソードである。ただしこれまでのアニメ版「ゲゲゲの鬼太郎」では設定資料等での記述・解説だけに留まり、劇中で描かれる事が無かったため、直接言及されたのは本作が初となる(アニメ版「墓場鬼太郎」はシリーズとして別扱い)。
※2 こちらは、4期・83話の回想シーンにて僅かに暗示された事があった。
一見可愛らしい容姿だが表情の変化は薄く、暗い場面での無表情は妖怪らしい不気味さを感じさせる。一方、目玉おやじや仲間の妖怪たちなど気を許した身内に対しては、外見年齢相応の豊かな表情を見せている。鬼太郎が物事に閉口した際などの、顔に手を当てながら目を細めて口元をとがらせるトボケ顔(水木御大が原作で頻繁に描く独特なキャラ表情の一つ)は本作でも健在である。
性格と妖怪・人間に対するスタンス
基本的には誰に対してもクールでニュートラル。口調も丁寧だが、本質的には確固たる信念(後述)を持つ熱血漢。また、隔意のある相手に対してはきちんとした礼を言うことができず父親に叱責される、将棋で王手をかけられると気がかりを口実に逃げるなど、やや素直さに欠ける部分や、負けず嫌いな面もある。
原作や3期・5期とは異なり、猫娘以外の美女・美少女に対しても特に弱いという面は見られない。それどころか10話で混浴温泉に入った際、既に入っていた濡女はともかく、全国の大きいお友達を狂喜させた花子さんのタオル一枚の姿を見ても、動じるどころか平然と会話できていた。同話では、さらりと猫娘に「次は一緒に温泉に行かないか」と誘ってもいる。
ただし13話で猫娘と人間の街へ買い物に出かけた際には、自分から荷物持ちを引き受けており、単なる朴念仁と言うわけではなく、紳士的な振る舞いは心得ているようである。
同じゲゲゲの森に住まう妖怪たちには、互いの領分やルールを尊重し、必要以上の干渉はしないように心がけている。
6期では悪事を働く妖怪の多くが自業自得であることもあり、事件解決後、特にフォローするということはない。
人間との関わりの中で居場所を失ってしまった、悪気のない妖怪に対しても、積極的に世話を焼いたり説得しようとはせず、向こうから助けを求めない限りは無干渉である。
ただし、優しさや思いやりの気持ちがないわけではない。6話では無自覚なまま人に危害を及ぼしていたシロに対してまず説得を試み、ラストシーンでは風に乗って聞こえてきた、その首輪の鈴音に思いをはせる様子が見える。18話ではかわうその寂しさを見抜き、気遣う言葉をかけている。
人間に対する基本的な感情は非常にクールかつドライ。本作で親友となった犬山まなに対しても、当初は「妖怪と人間は友達になれないよ」と冷たく突き放していた等、これまでの鬼太郎像とは大きくかけ離れている(特に妖怪と人間が仲良くなれるよう常に積極的だった3期とは、ほぼ真逆な考え方である)。
妖怪ポストを通じて助けを求めてきた人間を救いはするものの、人間社会に関わること自体は億劫に思っているのか、人間界の文明進歩に興奮する父とは対象的に興味すら抱いていない。スマートフォンなどの機器類について仲間たちが便利さを感じれば、それも頭で理解はするが自身はまるで関心を持たない為、まなはもっぱら猫娘とLINE(作中ではLEIN)でやりとりし、鬼太郎に直接連絡を取る際には手紙を書いている。
また、人間から過剰な干渉を受けるのを嫌い、しつこくされると嫌悪感を隠さない。自分達の役に立とうと怪事件の情報を集めるまなに忠告し、「妖怪は少し離れた場所で恐れられるのが丁度いい」と語るなど、「人間と妖怪の間には一線を引くべき」との考えを示している。その忠告後に、涙目になられた程度で裕太に自分達の所在を教えてしまったまなに対し、怒りや呆れともとれる複雑な表情もした。とはいえ、自身も裕太の涙目に根負けしたのだが……。
正義感は強いが、決して「人間の味方」というわけではない。むしろ悪人に対しての容赦の無さは歴代屈指である。
例えば7話では、とある凄惨な負の連鎖の顛末を依頼人に報告するも、その依頼人(女子学生)も同じ末路を辿り得る所業=陰険な虐めを行っている事を明敏に見抜いており、人間の業の深さに対する痛烈な皮肉や危険な警鐘の意味もこめて
「妖怪なんかより、よっぽど恐ろしい」と冷淡に言い放っている。この時の形相は言葉にできない程恐ろしいものがあった。そして漸く自分の罪に気付いた少女が、破滅の予感に脅える姿を目の前にしながら、鬼太郎は何らかの言葉をかける素振りすら全く見せていない(この少女が、その後どうなったかは不明)。
しかし冷徹なばかりではなく、歴代鬼太郎同様、無辜の人間が傷つくことを見過ごしに出来ない優しさも確かに持っており、真摯で純真な相手に対しては、その気持ちを理解して受け止めようとする。
特に善性の強い者に対しては冷徹になれず、初対面時に自己責任でついてきたはずのまなを身を挺してかばったり、「次は助けない」と言いながらも実際は守るなど、複雑な感情を抱いている様子が見られた。
3話では好意から手伝いを申し出たまなに対し、人間と妖怪の距離感について説き、二度と関わらないようにと再度忠告している。一方、欲望のまま世界を傷つける人間を、不要な存在と断じたたんたん坊たちには「見えないものを軽んじて闇を恐れない、今の傲慢な人間たちには腹が立つこともある」としながらも「自分と異なるものを認められない奴が大嫌いだ!!」と強烈な妖気を立ち上らせて激昂した。
結局、まなに対する当初の冷たい発言は、「今回は助けられたから良かったけど、次は助けられないかもしれない。だから、あまり関わって欲しくなかった」というのが真意で、まなには出会った時から、その優しさに心の底で密かな友情を感じていたことが明かされた。改めて友達になって以降は、彼女に危機が迫ると感情的になりだした。
鬼太郎がこのエピソード内で語った、
「妖怪の世界と人間の世界は交わっちゃいけないものなんだ」
「人間と妖怪と、どちらか一つで良いなんて事は絶対に無い!」
という2つのセリフは、彼の複雑な心情を表すとともに、先述の6期のテーマを象徴するものだと言える。
戦闘スタイル
髪の毛針、リモコン下駄、霊毛ちゃんちゃんこ、体内電気、指鉄砲など、お馴染みの技を使う。
体内電気は主力技だった前シリーズから一転、使用頻度は少なめとなったが、相手に触れての放電のほか、遠距離からの飛び道具としても電撃を使用している。
霊毛ちゃんちゃんこは、防御や受け流しのほか、武器としては直接相手に叩きつけたり、槍状にして投擲している。また、今期からの新しい使い方として、腕に巻き付けて相手を直接殴る、地面を砕くほどの強烈な拳を繰り出すなどパワフルな描写が加わった。
指鉄砲は一撃必殺の決め技へと昇華。右手の人差し指に妖気を集中させ、左手を支えにして発射する。どこかで見たことあるとか言ってはいけない。
その威力はのびあがりを爆発四散させたり、たんたん坊の巨体を貫通するなど非常に強力。12話では、まなを媒介に要石の力を借りたことで、1クール目で最大の強敵となった刑部狸の怨念を、操る妖怪獣もろとも吹き飛ばし、光の束となって雲を切り裂き天をも貫いた。
- レーザービームのような指鉄砲の表現は、6既が初というわけではなく、5期ですでに行われていたものである。だって放送コードがゲフンゲフン。一応、原作での”指そのものを銃弾として飛ばし、後ほど再生する”という手間を、妖気のみ発射する形態へ進化させたという解釈も成り立ちはする。
余談
- 作画監督である清山滋崇氏は、1期の作画監督でもある。
- 音楽を担当した高梨康治氏は、実写映画での音楽も担当している。
- OPでは4期以来久々に運動会のシーンが復活(5期はOPに取れる尺が短く、1番ずつしか流せなかったため、運動会の映像が作れなかった)。一方で「ゲゲゲのゲ」の場面で鳴くカエルが沼ではなく都会の路地裏になっているなど、時代に合わせた表現も行われている。
- 予告動画とはいえ、鬼太郎が「幽霊族の奥義」とされる指鉄砲を髪の毛針よりも先に披露したことと最初期から使用しているのは非常に珍しい事例で、実際第1話では決め技として使用された。これまでのシリーズでも新しい試みはあったが、本作の場合、指鉄砲が本来なら放送コード的に厳しい(指そのものが飛ぶため)ことから、「珍しい」と話題になった。
- 1期・2期・4期のEDであった「カランコロンのうた」は、本作でも5期同様に、アレンジがBGMとして使用されている。
- 本作では猫娘や砂かけ婆等、何人かの妖怪がスマートフォンを使用している。ただし猫娘とねずみ男以外は、あくまで妖怪同士で人間には知られていない独自のネット通信らしく、持っているスマホも妖怪界で製造された専用機種の可能性がある。
- 人間界でSNSのやり取りをしながら情報を収集しているのは、猫娘とねずみ男だけのようである。なお、目玉おやじは犬山まなと出会うまで、テレビは知っていたもののスマホの存在を知らなかった。
- この世界の最も普及した検索エンジンは「Geegle(「ゲー」グル)」である。ちなみに、御大の幼少期のあだ名は「げげる」であり(当時、幼さゆえにしげると発音できなかった)、「ゲゲゲ」の語源となった。
- 「公式サイトが××年代懐古ウィルスに感染しました」、エイプリルフール限定画像配信。感染されたメンバーらの姿は、1期(60年代)と変わらない。ただ一人、犬山まなが酷い事に…参考動画までもが感染されていた。
- 本作の放送開始を記念し、東映アニメーションはYoutubeの公式チャンネルで、3期・4期の映画版を順次無料公開した(長編映画となる『日本爆裂』のみ非対象)。
- 水木御大は執筆された数多の妖怪画集等でも、近代から現代の妖怪として口裂け女、トイレの花子さん、人面犬などを描いている(この例の中では口裂け女は現在本作に未登場である)。
前作、前番組との関係
前作に当たる5期は、視聴率そのものは好調だったものの、強引な打ち切りという形で放送が終了してしまった(詳しくは「5期鬼太郎」の「打ち切りについて」 を参照。)。
5期のキャスト・スタッフは復活(あるいは枠移動による継続)を望んでいたが、本作6期が『ドラゴンボール超』の後釜として復活したため、問題は解決されないままとなった。
番組的には10年経って渡したバトンがようやく返ってきた形でもある(歴代の鬼太郎シリーズ同様、6期でも前番組のドラゴンボールシリーズに関わった声優が多く出演している。また、OPを氷川きよしが担当するところも共通している)。
当時、原作は中国をはじめとするアジア各国のほか、英語版、仏語版も発売されるなど、世界的な展開を続けていたものの、御大は5期の打ち切りに非常に心を痛めていた。鬼太郎という作品の先行きについて心配し「鬼太郎はもうだめかも分からんね」と周囲にこぼしたことを著書『わたしの日々』に記している(詳細)。
しかし、鬼太郎は新たな姿を得て現代日本に現れた。
水木先生、やっぱり鬼太郎は不滅です。おばけ(妖怪)は死にませんでしたよ。