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戦艦ビスマルク

せんかんびすまるく

ドイツ海軍戦艦。名前の由来はドイツ帝国の宰相、オットー・フォン・ビスマルクから
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概要編集

第二次世界大戦中にドイツ海軍が運用した戦艦(超ド級戦艦)で、ドイツ最後の戦艦となったビスマルク級のネームシップである。

姉妹艦にティルピッツがある。


前史編集

ヴェルサイユ条約締結後、ドイツはダンツィヒ回廊をポーランド領とされたためにオストプロイセン州が飛び地となっていた。

仮想敵国に囲まれた飛び地の防衛という無理ゲーを迫られたドイツは、オストプロイセンへの海上輸送路の保護と、もう一つの仮想敵国フランスの戦艦がバルト海へと侵入するのを阻止することを主任務として海軍の再建を開始した。

1933年にはヴェルサイユ条約の制限内で装甲艦(ポケット戦艦ドイッチュラントを建造するも、これに対抗してフランスはダンケルク級戦艦を建造、ドイツ海軍は更に強力な戦艦の建造を求められた。

ドイッチュラント級に続く装甲艦として計画中であった装甲艦「D」、「E」について、ヴェルサイユ条約の破棄を見越した大型艦とすることが検討された。

1935年にヴェルサイユ条約が破棄され英独海軍協定が締結されたため、ドイツ海軍は戦艦の建造を認められ、装甲艦「D」、「E」は巡洋戦艦シャルンホルストグナイゼナウとなった。

両艦はダンケルク級が相手では不安があったため、ワシントン海軍軍縮条約の規定上限ギリギリの3万5,000t級の戦艦「F」が計画された。


計画と建造編集

当初の計画では基準排水量3万5,000t、主砲33cm8門、副砲15cm12門、最大装甲厚350mm、最大速力33knを要求されていたが、イタリアリットリオ級戦艦を建造したことに対抗して、フランスが3万5,000t級戦艦リシュリュー級戦艦を建造、ドイツもこれに対抗するという、絵に描いたような建艦競争が発生した。

ドイツ海軍はリシュリュー級に対抗するために戦艦Fの主砲を35cm8門とすることを決定し、それに伴う重量増加のため、他の要求値を装甲厚320mm、速力28knまで抑えたが、それでも排水量は3万9,000t〜4万tと見積もられた。これは当然ワシントン条約の規定を超過するものであり、公称は『3万5,000t』のまま研究が進められた。

だがリシュリュー級の主砲が38cm、あるいは40.6cm砲となることが報じられると、戦艦Fも38cm砲を搭載すべきではないかとの意見が出るようになった。38cm砲を搭載した場合、基準排水量4万2,500t、最大喫水は9.40mに達すると見積もられた。ここで問題となったのがキール運河の存在である。キール運河はドイツ北部のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州を横断してバルト海と北海を結ぶ運河であり、バルト海と北海を主戦場として想定している戦艦「F」にとってキール運河を通航可能であることは必須条件であった。

38cm砲搭載案の最大喫水9.40mは、水深11mのキール運河を通航するには十分に危険な数字であった。これに対して35cm砲搭載案は基準排水量4万1,000t、最大喫水9.25mであり、運河の通航に問題はないとされた。この報告を受けてドイツ海軍総司令官エーリヒ・レーダー提督は戦艦「F」を35cm砲搭載艦とすることを決定した。

しかし、僅か一ヵ月後、第二次ロンドン海軍軍縮条約の予備交渉が始まると、海軍内部から再び38cm砲を求める声が上がり、兵器局からも「六ヶ月あれば38cm砲への変更も可能」と報告が上がった事もあり、レーダー提督は38cm砲の選定に合意した。しかし、38cm砲搭載でキール運河を通航するためには500tもの重量削減が必要であり、その設計は困難を極めた。

さらに機関の選定も難航していた。機関は高圧高温蒸気タービンとターボ電気推進の二案が検討されており、より軽量な高圧タービンの選定が望ましいとされていたが、主砲の変更により予定外の巨艦となったこの艦を、要求値28knで航行させられる高圧タービンの実用化は疑問が持たれていた。

そのためターボ電気推進が推されていたが、減速歯車機構より発電機モーターの方が重量が大きく、最大の問題であった重量削減に逆行するものであった。ターボ電気推進の良好な燃費を利用し、航続距離をそのままに燃料搭載量を削減することで重量増加をある程度相殺できると考えられたが、増加分を回収するには至らず、重量増加のツケは最大の重量物である装甲へ押し付けられた。

1935年8月にレーダー提督に提出された案は、装甲をB砲塔からC砲塔の間に限定するというものであり、A砲塔、D砲塔の基部はバイタルパート(弾薬庫など艦の最重要部分)であるにもかかわらず、ほとんど無防備であった。流石に艦の弱点を無防備にする案は許容できるものではなく、11月には装甲を全体的に薄くし、A砲塔、D砲塔まで延長する案が最終案として決定した。

しかし翌36年6月、必要な出力を持つ高圧タービンの実用化に目処がついたため、機関を変更して再び設計し直されることとなった。機関変更により艦重量は大きく軽減され、浮いた重量で装甲は再び320mmに戻され、今度こそ戦艦「F」の設計は完了した。

ようやく設計がまとまり1936年7月1日、戦艦「F」はハンブルグブローム・ウント・フォス造船所にて起工され、約2年8ヶ月の建造期間を経て1939年2月14日、戦艦Fは進水し「ビスマルク」と命名された。また1939年4月1日にはヴィルヘルムスハーフェン工廠にて姉妹艦の戦艦「G」が進水し、「ティルピッツ」と命名されている。

その後ビスマルクは艤装工事中に第二次世界大戦が開戦するも、艦首の形状変更含めて工事は滞りなく進み、進水から18ヶ月後の1940年8月24日に竣工した。



高圧タービンについて編集

ビスマルク級は55気圧の高圧タービンを使用し、55気圧の150,170馬力の出力があった。当時これほどの高圧タービンは、日本では製造されなかったが、28気圧の大和型のタービンでも同等の出力があった(ただし大和型では同時期の日本艦艇と比べても低圧で、もう少し高圧化すべきだったという指摘も根強い)。

アメリカやイギリスの商船には高圧缶の採用が見られた。軍艦に採用されなかったのは、万一缶室に破壊が及んだ際、高圧蒸気により被害が大きくなる懸念からである。

高圧缶採用は、ヴェルサイユ体制中の海軍技術力の低下が生み出した結果だった。


艦歴編集

[ライン演習作戦]

1940年8月に就役したビスマルクは、その後バルト海にて公試と乗員の習熟訓練を行い、翌41年3月には実戦出撃が可能となった。

しかし、既にポーランド、フランス共にドイツの勢力下にあり、ソビエト連邦と不可侵条約を結んだことにより、バルト海においてドイツの制海権を脅かすものは無くなっていた。

一方でイギリス海軍は未だ健在であり、圧倒的優勢な英水上艦隊との決戦はドイツ水上艦隊には不可能であった。

結果、ドイツ海軍における大型水上艦艇の任務は大きく限られたものとなり、その必要性には疑問が持たれ始めた。ドイツ首脳部は不要不急の大型艦建造の休止を決定し、対英戦終結まで延期することを決定した。このとき建造を休止された艦に、ドイツ初の航空母艦グラーフ・ツェッペリンがある。そして海運国である英国の搦め手とも言うべき通商破壊に適任であるUボートの建造にようやく力を注ぎ始めた。

その一方でドイツ海軍は開戦当初から大型水上艦を用いた通商破壊作戦も積極的に行い、Uボートなどから船団を護衛する巡洋艦・駆逐艦レベルでは到底防ぎ切れない打撃力を持つ大型水上艦は脅威であった。

その為にイギリス側も、この通商破壊に対処するため、輸送船団の護衛に戦艦を投入した事でドイツ大型水上艦による英輸送船団への襲撃は困難となったが、これこそがドイツ海軍が積極的に大型水上艦を通商破壊に投入した目的でもあり、これにより英本国艦隊主力が戦力を削がれる事でドイツ艦艇の大西洋進出がそれだけ容易になり、また戦艦ビスマルク級が就役した今となっては船団護衛のために分散された英戦艦を、強力な砲力を持つビスマルク、ティルピッツで各個撃破しながら通商破壊を行なえる好機とも言えた。


かくして通商破壊作戦『ライン演習作戦』が計画され、戦艦ビスマルク、巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウ、重巡プリンツ・オイゲンを擁する強力な通商破壊艦隊の編成が予定された。

しかし、シャルンホルストが機関故障、グナイゼナウが空襲による損害で作戦参加不可能で、艦隊戦力は作戦開始前から半減となり、艦隊司令長官ギュンター・リュッチェンス大将はグナイゼナウの修理完了かティルピッツの習熟完了まで作戦を延期すべきとの提言を行うが、レーダー提督はソ連侵攻作戦、クレタ島制圧作戦を控えて英国に打撃を与える事を望み、また作戦延期による時間のロスは敵に利する上に出撃に適さない白夜の時期も迎えてしまうと考え、ビスマルクとプリンツ・オイゲン2隻のみによる作戦の決行を命じた。

そして最新鋭戦艦ビスマルクをドイツの威信と考えるドイツ総統アドルフ・ヒトラーが彼女を危険に晒す事を望んでいなかった事から、ヒトラーの作戦反対を恐れたレーダーはビスマルクの大西洋出撃後にようやくヒトラーに事後報告をしている。


1941年5月19日、『ライン演習作戦』発動に伴いビスマルクは目的を隠したままゴーテンハーフェン港を出港した。この出港に際してある事件が発生した。ドイツ海軍では、大規模な出撃を行う際に民謡「ムシデン」を演奏するという伝統があったが、出港に際して見送りに駆け付けた軍楽隊がその「ムシデン」を演奏してしまったのだ。直ちに選曲者に対して尋問が行われたが、彼にはライン演習作戦の実態は知らされておらず、選曲は偶然であった。

偶然とはいえ、出撃意図は諜報員によってイギリスに漏れ、初動の準備を整えさせる結果となった。


デンマーク海峡海戦編集

「デンマーク海峡海戦 」

僚艦プリンツ・オイゲンと合流すると、カテガット海峡、スカゲラク海峡を通過して北海へ進出、一度燃料補給のためノルウェーのベルゲンフィヨルドに立ち寄り、21日にベルゲンを出撃し、22日には護衛の駆逐艦3隻と別れ、ノルウェー海をさらに北上、アイスランドの北を回って南下、一路グリーンランドとのデンマーク海峡を目指した。

だがゴーテンハーフェンでリュッチェンスはビスマルクに燃料を満載にさせずに出港しており、ベルゲンでもプリンツ・オイゲンは給油したにもかかわらずビスマルクには給油させず、更に予定していた給油艦ヴァイセンブルクの給油をも受ける事無くデンマーク海峡に直行する事になった事から、これが後日、彼を後悔させることとなる。

一方イギリス海軍も、ついに動き出したドイツの新鋭戦艦に神経を尖らせた。

20日にはカテガット海峡にてビスマルクと遭遇した中立国スウェーデン海軍の航空巡洋艦ゴトランドからの報告が寄せられ、21日にはベルゲンに停泊中の姿もスピットファイア偵察機により写真撮影されていた。

イギリス海軍はビスマルクが大西洋に進出することを警戒し、22日の早くにイギリス本国艦隊司令長官ジョン・トーヴィー大将は、巡洋戦艦戦隊司令官ランスロット・ホランド中将率いる巡洋戦艦フッドと戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(以下PoW)を駆逐艦6隻の護衛のもとスカバ・フローより出撃させ、2215時には自身も戦艦キング・ジョージ5世(以下KGV)に将旗を掲げ、空母ヴィクトリアス、軽巡洋艦4隻、駆逐艦6隻を従えてスカバ・フローを出撃し、明朝にはWS8B船団護衛の予定だった巡洋戦艦レパルスと合流して、これを阻止する構えを見せた。

またアイスランド・フェロー間の軽巡バーミンガムマンチェスターに更に軽巡アリシューザを合流させ、デンマーク海峡には重巡サフォークを重巡ノーフォークに合流させ、警戒網も強化した。

それに対してドイツ側は22日に視界の悪い中で目視によるスカパ・フローを偵察したドイツ空軍は商船を改装したダミー戦艦に引っかかり、既にホランド提督の艦隊が出撃しているのにもかかわらず、20日の写真偵察と同じく戦艦3隻が停泊していると報告した為にドイツ側はイギリス本国艦隊は未だ出撃していないと判断し、またジブラルタルの偵察では今度は逆にドイツ空軍はジェームズ・フォウンズ・サマーヴィル中将率いるH部隊が停泊していたにもかかわらず停泊艦艇が無いと伝え、この為にドイツ側はH部隊はクレタ島の支援に向かったという誤判断をしていた(ただしこれより後の23日遅くになってWS8B船団護衛の為にジブラルタルを出撃。そして、この情報はリュッチェンスにもたらされている)。


23日1922時、イギリス海軍の第1巡洋艦戦隊司令官フレデリック・ウェイク=ウォーカー少将率いるノーフォーク、サフォークのうちサフォークがビスマルク戦隊を補足し追尾を開始。その後、ウォーカー提督の旗艦ノーフォークもこれに加わった。その二隻の内一隻がビスマルクの真正面に飛び出すというミスを犯し主砲の斉射を受けるが、命中弾は無く重巡は逃走、主砲射程圏外からビスマルク戦隊の追尾を再開した。ドイツ側はこの砲撃の衝撃でビスマルクの前部レーダーが故障し、艦隊は順序を入れ替え、プリンツ・オイゲンが先頭になり、ビスマルクのレーダーを補う事となった。

発見の報を受けたホランドは麾下の艦隊を急行させた。

この折にホランドは0200時頃の日没間際の会敵で自軍は暗闇の中、相手は日没の残光に姿を浮かび上がらせるという有利な位置取りからのT字態勢での奇襲を目論んでいたものの、0028時に猛吹雪の為にサフォークのレーダー観測員がビスマルクを見失った事でこの計画は水泡に帰し、ホランドは駆逐艦を索敵の為に分派したが発見に至らず、0300時頃に再びサフォークがビスマルクを発見した折には両艦隊は約56㎞離れており、ホランドはフッドとPoWの2隻だけでドイツ艦隊との戦闘を決意し増速を命じ、接触時にはほぼ並走する形となっていた。


24日0535時にPoWがドイツ艦隊を発見。一方のドイツ側ではそれ以前よりプリンツ・オイゲンの水中聴音器が接近する英艦隊のスクリュー音を捉えていた。

0545時、同航砲撃戦が開始された。

数量的には主力艦を2隻揃えたイギリス側が有利だった。ただし旗艦であるフッドは1920年の就役以降は大規模改修を行っておらず、PoWは就役したばかりで主砲に問題を抱えていた為に造船所の工員を乗せて工事を行わせている状況だったことから個艦の能力ではイギリス側が不安を抱えていた。

イギリス側は彼我の距離を縮めようとドイツ側に対して直角に近い進路をとった。上空から垂直に近い角度で砲弾が落下してくる遠距離砲戦をビスマルクと行うにはフッドの水平装甲では力不足とホランド提督が判断したためだった。だがこの体勢ではドイツ側は全主砲を使用できるのに対してイギリス側は前部の主砲しか使用できなかった。加えてイギリスは風下から近づくことを余儀なくされ、波飛沫により砲塔測距儀レンズを濡らして射撃は更に制限を受けた。

イギリス本国艦隊の主力艦が展開している事を知らないドイツ側は対峙した艦隊を巡洋艦か駆逐艦と誤認していた。その為にプリンツ・オイゲンでは軽装甲の目標に有効な榴弾の装填が命じられ、リュッチェンス提督も昼間では戦艦に対して脆弱な重巡洋艦プリンツ・オイゲンを後方に下げようとはせず、それどころか格下相手との交戦は不要と見て肉薄してくる相手にも戦闘を躊躇していた。対するイギリス側も、フッドが先行するプリンツ・オイゲンをビスマルクと誤認し、POWは正確に後続する艦がビスマルクとして射撃目標とした事から無意味に目標を分散させた。

誤りに気付いたのはドイツ海軍が先で、最初の斉射で発砲炎の巨大さから対峙した艦隊が戦艦であると気づいた。それでもリュッチェンスは戦闘を躊躇していたが、ビスマルク砲術長アダルベルト・シュナイダー中佐の反撃許可を求める進言に「これ以上、私の艦を危険に晒すわけにはいかない」と戦闘を決意し反撃を命じた。ホランドが誤りに気づいたのは数射の応報の後だった。

PoWはこの海戦で両軍最初の命中弾をビスマルクに対して与えた。一方のドイツ側もプリンツ・オイゲンが第二射にして旗艦であるフッドを捉え、中央部短艇甲板に命中したそれは火災を引き起こした。

0600時にホランド提督は全主砲を使用すべく艦隊に左舷に転舵を命じた。英艦隊が回頭する最中、ビスマルクの第五斉射が距離14kmでフッドに命中、弾薬庫が誘爆し、船体が真っ二つに折れ、わずか3分で船体は海中に全没し、ホランド提督をはじめとする1416名の乗組員とともにデンマーク海峡の海底へと姿を消した。生存者はわずか3名であった。

PoW艦長のジョン・リーチ大佐は沈没しつつあるフッドを回避するように命じた。急激な転舵のためPoWは一時的に射撃が困難となり逆にドイツ艦隊から集中射撃を受けた。PoWはビスマルクから3発、プリンツ・オイゲンから4発の命中弾を受け、そのうち艦橋を貫通してから爆発した砲弾は無傷だったリーチ艦長と信号員1人、重傷を負った航海科士官以外の司令塔要員を全員死亡させ、他の命中弾では羅針艦橋、音響測定器、レーダー操作室、艦載機収容クレーン、副砲4門が破壊され、艦砲の不具合も深刻なものとなり、限界と判断したリーチ艦長は煙幕展張と離脱を命じた。

ビスマルク艦長エルンスト・リンデマン大佐はリュッチェンス提督に追撃の許可を求めたが、元々今回の作戦の本来の目的である通商破壊を優先していたリュッチェンスはPOWをイギリス本国艦隊旗艦であるKGVと誤認もしており、その為に猶更、レーダー提督の「損害を拡大し、またイギリス海軍の待ちかまえる手の中にビスマルクを差し向けることになるような不必要な戦闘は避けるべし」という命令を優先し、戦闘を打ち切った。(後にリュッチェンスの海戦の報告に対して、撃破したのはPOWであるとの訂正が海軍上層部よりリュッチェンスに伝えられている)


こうしてビスマルクは初陣を勝利で飾った。デンマーク海峡を突破し、ついに大西洋へと進出したビスマルクの艦内では、仇敵イギリス海軍に土をつけた初勝利に沸きあがっていた。

しかし、ビスマルクも決して無傷ではなかった。ビスマルクは3発の命中弾を受け、1発は艦中央部水線甲帯より下部を貫通して発電機1基を破壊、二番罐室ボイラー2基を使用不能とし浸水を起こし、2発は不発でそのうち1発は艦中央部に命中して艦載艇を破壊してクレーンを損傷させたに留まったが、もう1発は艦首左舷水線部に命中して艦首燃料タンク二つを貫通して浸水被害と重油の流出をもたらしたばかりか、燃料供給弁を破壊した為に同タンク内1,000tの重油が使用不可となった。そして船外に漏れ出した重油の帯は追跡するイギリス側にとって格好の目印となっていた。

また依然として、損傷したPoWも指揮下に加えたウォーカー提督の巡洋艦戦隊のレーダーによる追尾を振り切ることができず、燃料を満載してこなかった事による損傷での燃料不足もあり、ビスマルクの作戦継続は厳しい状況となり、プリンツ・オイゲン単独での通商破壊を行わせ、ビスマルクはフランスのサン・ナゼールに向かう事をリュッチェンス提督は海戦の三時間後に送信している。


ビスマルク追撃戦編集

1500時にトーヴェイ提督はビスマルクの速度を低下させて彼の部隊で捕捉出来るように軽巡洋艦ガラティアオールバーン・カーティス少将の指揮下で空母ヴィクトリアスを巡洋艦4隻の護衛のもとビスマルクへの空襲にあてる為に分派した。

リュッチェンス提督は1800時にプリンツ・オイゲンを分派し、その為の牽制としてウォーカー提督の艦隊と小規模ながら砲戦を交えた以外は南への針路を維持し、2200時にはビスマルクは依然としてイギリス艦艇のレーダーを振りほどけず、厳しい燃料事情もあり、予定を変更してフランスのブレスト港へと向かうことをリュッチェンス提督は送信している。

一方でイギリス海軍も、ほとんど無防備の本国向け船団11個が航行する大西洋にドイツ戦艦が展開することは何としても防がなければならず、トーヴィー提督の艦隊の他にも、各海域の戦艦リヴェンジラミリーズロドニー、重巡洋艦ロンドン、軽巡洋艦エディンバラなどの艦艇を任務から外してビスマルクの追撃に向かわせていた。



2200時、ヴィクトリアスはビスマルク足止めのためソードフィッシュ攻撃隊9機を発進させ、攻撃隊は75分後にはビスマルクを襲撃した。ビスマルクには右舷中央部の水線甲帯部に魚雷1本が命中したが損傷そのものは軽微だった。ただしこの折の回避運動で、デンマーク海峡海戦で生じた艦首の破孔に取り付けられた水防マットが外れて艦首が沈下し、艦中央部の浸水も増大して第二罐室は完全に満水となり、その為に防水マットを直し、排水ポンプも設置するなどの防水措置が行われたがビスマルクの速力は20ktに低下したという。


翌25日0300時、ビスマルク艦長リンデマン大佐は追跡を続けていたウォーカーの英重巡を振り切るために、これまでの行動パターンから相手が潜水艦の襲撃を恐れてジグザグ行動に移るタイミングを計って面舵を取って大きく旋回し進路を南東近くに取った。これは功を奏し30分後に何時もの様にジグザグ行動を終えたサフォークのレーダーはビスマルクを捉えることは出来ず、ビスマルクは遂にその探知圏から脱した。

しかし何故かリュッチェンスはそれに気づかず(ビスマルクの逆探は、既に英軍のレーダー波は自軍に戻るだけの力は無かったにもかかわらず、その波長を依然として捉えていた為とも言われる)0645時、0748時の二回にわたって長文の戦況報告を打電し、其の無線を捉えた英海軍はビスマルクの大まかな位置を再び掴めた筈であった。

そしてイギリス本土の電波探知局から寄せられたデータを元に軍令部で作図で出された推定位置は最後に判明した位置より南か東とされていたが、本国艦隊の出撃前の要請で各電波探知局からの無線方位データだけが送られ、作図は送られなかった。これには無線方位探知機を装備した駆逐艦の存在があり、それにより、本土で観測された無線方位データと照合して極めて正確な位置が判明する筈であったが、本国艦隊護衛の駆逐艦隊は燃料欠乏でアイスランドに向かっており、それ以前に無線方位探知機装備していた駆逐艦のうち1隻はボイラー故障で出撃出来ず、残り1隻は装置が故障で使用不能の状態であった。

その為に無線方位データのみでKGVで作図された推定位置は誤って実際より北とされ、ビスマルクが反転してノルウェーかドイツに帰港しつつあると判断した英艦隊は1047時のその座標発表を機に北東に針路を変更し見当違いの方向に7時間あまり進む事となった。

一方、1500時、アイルランド南西でWS8B船団と合流する為にジブラルタルから出撃して北上中であったH部隊はその任を解かれ、ビスマルク追撃に参加するように軍令部からの指示が下されていた。


翌26日1030時にイギリス海軍のPBYカタリナ飛行艇が再びビスマルクを発見したとき、ビスマルクは既に追撃艦隊から240km南東を航行していた。

ビスマルクの燃料事情は悪く、リュッチェンスは燃料欠乏に補給を希望する無線を発する程であった。

だが、イギリス側も事情は似たり寄ったりであり、既に燃料欠乏で脱落したレパルスと交代してKGVと組むはずだったPOW、そして前述のようにトーヴェイ提督本隊の駆逐艦は燃料不足の為にアイスランド、サフォークはスカパ・フローに向かい、ヴィクトリアスは充分な燃料はあるものの護衛する巡洋艦が燃料不足の為に空母単独では危険との判断から巡洋艦と共にクライドに向かい、ビスマルク追跡を継続できたのは彼女の再発見より前にフランスに彼女が向かう可能性が高いとして早めに針路を変更したトーヴェイ提督のKGV、ノーフォーク、ビスマルクに対応できる位置にあった戦艦ロドニーとその護衛の第6駆逐隊、船団護衛中の重巡ドーセットシャー、WS8B船団護衛にあたっていたフィリップ・ヴィアン大佐率いる英第4駆逐隊などであり、魚雷でビスマルクの速度を低下させるべくドーセットシャーもヴィアン大佐も軍令部から許可を得る事無く船団護衛任務を放棄してビスマルクに向かったが、ドイツ空軍の防空圏内にビスマルクが逃げ込む前に捕捉することはほぼ不可能であった。

しかし、ビスマルクの前方にはサマーヴィル提督率いる巡洋戦艦レナウン(旗艦)、空母アーク・ロイヤルを主力とするH部隊が迫っていた。この部隊は当初、主戦場から遠く離れていたために、予備的な意味合いの部隊であったが、ここに至って期待を集めることとなった。

1440時にアーク・ロイヤルをソードフィッシュ15機からなる第一次攻撃隊が発進したが、この攻撃隊は先行してビスマルクを追跡していたH部隊の軽巡シェフィールドの存在を知らず、誤認して攻撃してしまう。幸い攻撃部隊の磁気魚雷の艦底起爆用の磁気爆発尖が不調で投下して海面で爆発、または航跡で爆発したものが三本あり、他の魚雷もシェフィールド艦長チャールズ・ラーカム大佐のビスマルクと誤認されているとの判断による適切な操艦により回避された事で攻撃は失敗し、その戦訓を元に第二次攻撃隊には接触信管の魚雷に変更がなされた。

1910時、第二次攻撃隊のソードフィッシュ15機が出撃し、2053時にビスマルクを攻撃、2本の魚雷が命中し、1本は左舷中部の水線甲帯に命中して損傷は無かったが、もう1本が右舷後部に命中し、衝撃で中央のスクリューが跳ね上がって操舵装置を破壊、舵が取舵12度で固定されてしまう。左右の推力を調整することで直進はできたが速力は7kn以下に落ち込み、追撃艦隊を振り切ることは不可能となった。一連の攻撃でイギリス側の被撃墜は皆無であり、着艦時に3機がクラッシュで廃機となり、1機が175発の被弾で当分使用不能となったのみで、他の機体には次の攻撃に備えての燃料補給・魚雷装備がなされた。

2238時にヴィアン大佐の第4駆逐隊が到着し、ビスマルクは明け方まで接触と雷撃を受け、双方共に被害は無かったものの、英側はビスマルクの乗員を襲撃に対する警戒で疲労させた。


27日、到着したKGV、ロドニー、重巡ノーフォークがビスマルクに接近し、0847時のロドニーの射撃を皮切りに右舷前方から砲撃を開始し、後には重巡ドーセットシャーも砲撃に加わる。これらに対して速度は出ず、転舵もできないビスマルクは不利な状況だったが果敢に応戦、第三斉射でロドニーを夾叉する腕前を示し、ロドニーは被弾を避ける事と全砲塔の射撃を可能とする為に針路を取舵にとった。

当初はロドニーを射撃目標としたビスマルクであったが後にKGVに変更し、夾叉した斉射もあったという。

しかし0859時、ロドニーの砲弾がビスマルクのA、B砲塔の間に着弾して前部砲塔は旋回不能となる。直後、前部射撃指揮所をノーフォークの8インチ砲弾が直撃し機能を喪失させた。この折にリュッチェンス提督、リンデマン艦長、シュナイダー砲術長は戦死したと言われる。

0913時にはKGVの砲弾がビスマルクの後部射撃指揮所の測距儀を破壊し、後部射撃指揮所も機能喪失。ビスマルクは統一された射撃指揮を行う事が不可能となった。

0921時にC砲塔、0927時にはD砲塔が沈黙。集中砲火を浴びたビスマルクでは大火災が発生、火薬庫にも火の手が迫り、誘爆防止のために注水措置がとられた。

ビスマルクの全ての主砲が沈黙したことを確認すると、ロドニーは3kmにまで距離を詰め砲火を浴びせた。しかし近づき過ぎたため艦上構造物を破壊するばかりで撃沈することはできず、更に接近の際にロドニーは装備している酸素推進魚雷(純酸素ではない)も左舷より6本、右舷より2本発射し(※ロドニーが就役した1920年代には戦艦が魚雷を装備するのは珍しくなかった)ビスマルクに命中させたとも言われるが、いずれにせよビスマルクは沈没に至らなかった。

もはや戦闘は一方的な虐殺に近い展開であったが、イギリス側としても相手が戦闘旗を降ろして降伏しない事には攻撃を続けるしか手段は無かった。

1000時、ビスマルク副長ハンス・エールス中佐が自沈を命じ、右舷と中央のキングストン弁が抜かれ、自沈用爆薬が設置された。1015時、未だにビスマルクは浮いていたがトーヴィー提督は射撃停止を命令、燃料不足や敵潜水艦襲撃の危険性も鑑みKGV、ロドニーを帰途につかせる決断をした。同じ頃にビスマルクでは総員退艦が命じられた。1020時頃に、燃料不足で第6駆逐隊が既に去り、第4駆逐隊は前の夜襲で魚雷を打ち尽くしているなか唯一魚雷を残していたドーセットシャーから3本の魚雷が発射(3本とも命中)され、ほぼ同時にビスマルクで自沈用爆薬の起爆操作が行われた。20分ほど漂流した後、1040時にビスマルクは戦闘旗を最後まではためかせたまま沈没した。

トーヴィー提督は艦隊を撤収させたが、ドーセットシャーと駆逐艦マオリをビスマルク乗員の救助のために残した。両艦は重油の漂う海から生存者を救出していたが、Uボートと思われるスクリュー音を探知し(後に誤認であったことが判明。海から煙が出たのを見たので潜水艦と判断したといもいう)、救助を断念して退避した。乗員2,206名のうち、救助された生存者は115名と猫一匹(猫オスカーの存在は最近は疑問視されている)であった。

沈没理由についてドイツ側は自沈としているが、イギリス側は砲雷撃による撃沈を主張している。

イギリス側の被害はビスマルクの副砲弾1発でロドニーが軽微な損傷を負っただけだった。

ただし、発艦させたものの砲戦の激しさに手を出せなかった第三次攻撃隊を収容中のアーク・ロイヤルが命中はなかったもののFw200爆撃機1機に爆撃され、また燃料不足で充分な速度を出せなかった帰途中の第6駆逐隊の駆逐艦マショーナターターは28日にドイツ空軍に発見され執拗な爆撃を受け、命中弾により転覆したマショーナは雷撃処分されている。


こうして英国海軍は総力を挙げて目的を達した。これは大西洋での戦いの転機となるものであった。

ポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペーが自沈した折も不機嫌で、その姉妹艦ドイッチュラントに対して国の名を冠した軍艦が沈められた場合には国威が損なわれるとの理由でリュッツォウに改名させたヒトラーにとってはビスマルクの沈没は対外的に大きな痛手であり、それ以後、彼は大型水上艦の大西洋での通商破壊への出撃に難色を示し始め、それは1942年2月のブレスト在泊の巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウ、重巡洋艦プリンツ・オイゲンを主力とした艦隊を白昼堂々英仏海峡を突破させ本国に帰還させたツェルベルス作戦に帰結する事となる。

かくしてビスマルクの沈没はドイツ水上艦隊の大西洋での通商破壊戦の終わりを告げる始まりとなったのであった。


艦長編集

エルンスト・リンデマン

ドイツ海軍の砲術の権威と言われ、真面目で温和な人格者として乗組員の絶大な信頼を得ていた。

艦橋でビスマルクと運命を共にしたと思われるが、その最期は生存者の証言によれば艦首旗竿付近にて海に漂う乗組員達に敬礼する姿であったと言われる。

最後の姿を目撃した生き残りの乗組員は「ああいう死に方は小説の中の絵空事だと思っていた」と話した。

ドイツ語でも船舶艦艇は普通は女性名詞で呼ばれるため、ビスマルクは女性名詞でDie Bismarckと呼称されているが、リンデマンはこれを嫌い、部下に男性名詞でDer Bismarckと呼ばせていた。


関連タグ編集

ビスマルク級戦艦 オスカー(不沈のサム)

ビスマルク号を撃沈せよ!:1960年の映画。基本ミニチュアだが、アップのシーンではイギリス海軍の戦艦ヴァンガードがビスマルクとして使用された。

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