解説
前史
そもそもアメリカ合衆国でもインターネット環境は保守派が圧倒的優勢であった。
日本の「ネット右翼」にあたる勢力も独自に拡大しており「オルタナ右翼」などと呼ばれていた。単にリアルで活動する右翼とは異なるというだけでなく、メディアなどを信用せず「オルタナティブ・ファクト=もう1つの真実」を追求するという傾向を強く持っていた。
彼らはまた、日本と同様に「民主党政権」も嫌悪しており、2016年の大統領選挙に際してもヒラリー・クリントン候補を激しく批判していた。
その中で、ある言説がまことしやかに語られ、信じられるようになる。
「民主党関係者が人身売買や児童虐待に関与している」「民主党御用達のピザ屋は奴らのアジトであり、店内には子供達が囚われている」といった疑惑である。
この疑惑はかつての大統領選挙で発生した「ウォーターゲート事件」に準えて「ピザゲート」と呼ばれた。
日本とは異なり、ヒラリーが敗北し政権交代が確実となっても批判は過熱を続けた。
そして同年末、銃を手にピザ屋に押し入り、実力行使で子供達を救おうとする者が現れる。
当然何も出て来ず、この者一人だけが逮捕・起訴される運びとなるのだが、「オルタナ右翼」の間では不信・不満が一層募ることとなった。
「Q」の出現
2017年に入ると電子掲示板「4chan」の「/pol/」で「Q(Q Clearance Patriot、『Qクリアランス』の愛国者)」と名乗るユーザーが話題になり始める。
このユーザーは「ピザゲート」を発展させる形で
- 悪魔崇拝者・小児性愛者・人肉嗜食者らから成る秘密結社が世界を裏から支配している。
- 奴らは世界規模の児童売春組織を運営しており、ハリウッドのセレブや医者などのエリートもグルである。
- トランプ大統領はこれと密かに戦っている。
- 全てが明らかとなった暁にはアメリカ軍が奴らを一網打尽にし、軍事裁判の後に処刑する。
といった主張を次々と行い、それらは「オルタナ右翼」の間で急速に拡散していった。
「アノン」の形成
「Q」の支持者は「アノン(Anon)」と呼ばれた。これは「Anonymous」の略称、つまり「名無し」のことであり、元々は電子掲示板における匿名ないし偽名の利用者を意味していた。
無数の「アノン」が「Q」の下に集ったことで「オルタナ右翼」は一つの巨大な政治運動に発展し、リアルの政治運動にも波及するまでになる。「Qアノン」の成立である。
大きく「Q」とプリントされたお揃いのTシャツを着て集会を行うなど、社会に己の存在を誇示するような行動も増加していった。ちなみに、標準的なカラーリングは「黒地に白文字」である。
上記の説における「秘密結社」は「ディープステート(影の政府)」「カバール(陰謀団)」などと表現され、それに対峙するトランプは「光の戦士」であるとする世界観が広まった。
「光の戦士」の仲間にはロシア連邦や中華人民共和国、北朝鮮など、一般的にアメリカ合衆国とは関係が良いと言えない国の政治家なども含まれるとされる。
中でもロシアは、公にはトランプ側に立って大統領選挙に介入したとする「ロシアゲート」疑惑が捜査されており、そのアンチテーゼとしてかなりの親近感を持たれている。日本と同様にウラジーミル・プーチンを英雄視する向きも古くからあり、トランプ自身も度々好感を示していたことから、否定する理由が無かったと言える。
主張の展開
「第5世代移動通信システム(5G)」が開発されると、「ディープステートが国民を操るための洗脳電波だ」として拒否する姿勢を示した。
コロナ禍におけるワクチン接種に際しても同様で、「中にはマイクロチップが仕込まれていて5Gに接続されてしまう」とした。
それらを遠ざけていたとしても、 「いつの間にか精巧なゴム人間にすり替えられる」といった恐怖をしばしば抱いた。このあたりは現地の都市伝説に由来する感覚も大きいらしい。
2020年の大統領選挙でトランプがジョー・バイデンに敗れると、「ディープステートがトランプ続投を阻止すべく大規模な不正を働いた」として激しい怒りに燃えた。トランプ自身も繰り返し「票を盗まれた」と訴えたことから火に油が注がれ続け、最終的にバイデンの大統領就任を物理的に阻止しに行くという行動に出ている。
これによって死亡者や逮捕者が続出したことで、「Qアノン」の全盛期は終わりを迎えたと言える。
以降は彼ら自身が秘密結社の類として、あるいは新興宗教の一種として、警察から監視される立場になっているという。
トランプも自身への責任追及を嫌って任期満了と共にホワイトハウスを去った。
もっとも、「真の大統領はトランプであり、一時的にホワイトハウスを出ているに過ぎない」といった説は根強く残り続けた。
「来週には『世界緊急放送』が発令され、蜂起したアメリカ軍と共にトランプが凱旋し、引き換えにバイデン達は逮捕される」と毎週のように言っている。
日本におけるQアノン
Jアノン
「日本(Japan)にいるQアノン」ということで「Jアノン」。
日本の「ネット右翼」ももちろんトランプを支持してきたが、この呼称が広まるのは2020年になってからのことである。
リアルの右翼がビジネスの一環として吹聴した節もあり、例えば櫻井よしこは2016年の大統領選挙時はヒラリーを支持していたにもかかわらず、この時期はトランプやその支持者を持ち上げる言動を繰り返して視聴者を集めていた。
主張にもところどころ齟齬が見られ、例えば「Qアノン」が基本的に「習近平&金正恩:光の戦士」「安倍晋三:誰?」という世界観であるのに対し、「Jアノン」は「安倍晋三:光の戦士」「習近平&金正恩:秘密結社そのもの」としている。
「Qアノン」が習近平や金正恩を高く評価しているのは、米中会談や米朝会談でトランプが二人を高く評価していた(=トランプに手柄を与えた)ためと思われる。一方の「Jアノン」はあくまで安倍晋三を中心に据えるため、彼が敵対的だった習近平や金正恩を高く評価するわけにはいかないという事情があったものと思われる。
反5Gや反ワクチンもアメリカほど盛り上がらなかった。
日本では伝統的に、右翼が科学を信奉し左翼が疑問を呈するという対立構造になりがち(アメリカも「ヒッピー」などがいた時代は同じ傾向があったが)であり、今回もこの流れを汲む左翼が一定数見られた。
有名所では原口一博が公言しており、れいわ新選組にも怪しい関係者がちらほらいるという。
他方で「神真都Q(やまとQ)」という「Qアノンの日本支部」を自称(そもそも「Qアノン」自体が匿名の集団であるため支部どころか本部が無いのだが)する団体も現れている。
「やまと」は「大和民族」から来ており一応は右翼系の団体なのだが、彼らは「善い宇宙人と竜神の遺伝子を受け継いだ民族」という独自の解釈を付け加えており、「ディープステート」も「光と闇の銀河戦争から逃げ延びた悪い宇宙人によって構成される政府機関」と位置付けるなど、よりカルト色が強い。
日本における反ワクチンの最大勢力と言え、「新型コロナウイルスは存在しない」「ワクチンはディープステートによる生体兵器である」などとして全国各地で抗議デモや接種会場への妨害を行っている。
2022年3月に都内で大規模な妨害活動が行われた際には接種を一時中止せざるを得ない状況に陥り、都から警察に相談が来る事態となった。そして、4月8日に東京都内のクリニックに不法侵入した容疑で4人が逮捕。これを機に、翌9日に公安によって事務所の家宅捜索が実施、4月20日にリーダー格の男が逮捕されている。
なお、逮捕されたリーダー格の男は元俳優で、過去に逮捕歴があり引退している。事件を受け、現役で俳優として活動する実父が謝罪コメントを発表した。
父の方は事件の数ヶ月前に新型コロナウイルスに感染してしまい、復帰後も体力が完全には回復していない状態であることが所属事務所によって公表されている。さらに余談ではあるが、親交のあった俳優も反ワクチンの思想を持っており「ワクチンの副反応で死んでしまうかもしれないからワクチンを打ってはいけない」と言われたことを語っている。
「自然派」「スピリチュアル」という観点では、参政党も近い世界観を持っているとされる。
更なる派生
ウクライナ侵攻に際してロシア側の肩を持った人間も「R(Russia)アノン」や「プー(プーチン)アノン」などと呼ばれることがある。
「Qアノン」自体が親ロシアであったことから自然な流れではあるのだが、「Qアノン」本来の主張をどの程度信じているかはさほど考慮されず一律でこう呼ばれてしまうことから、レッテル貼りの側面が強くなっていることは否めない。
命名法則も変わっており、「Jアノン」の流れに基づけば「Rアノン」は「ロシアにいるQアノン」を意味するはずであるところ、「ロシアを信奉するQアノン」になってしまっている。
元々日本では「『ネット右翼』とは左翼からのレッテル貼りに過ぎずそんなものは実在しない」といった反論の様式があり、「Qアノン」の広まりに際しても「神真都Q」の周辺を除いて大々的にアピールする方向には向かわなかったことから、「アノンと言う方がアノンである」としてレッテルを貼り返す場面も見られるようになった。
先述の通り、実際に左翼由来の「Jアノン」が出現していたことも好都合で、「Qアノン」の旗色が悪くなるにつれて彼らに全てを擦り付けて終わりにしようとする風潮が強まった。
その他、憲法9条を擁護している層を「9アノン」と呼ぶといった用法も確認されている。
余談
「4chan」には「2ちゃんねる」の運営経験があるスタッフが複数おり、「2ちゃんねる」は言うまでもなく日本でやりたい放題した後フランスに出て行ったこの日本人の産物である。
このため「Qアノン」の発生にも彼が間接的に関与しているとする説があり、実際にアメリカの警察が彼を捜査対象に加えたこともあるという。
この件について彼自身は何も語っていない。
「ロシアの回し者」を指す単語としては、日本には古くから「露探」というものが存在しており、こちらを用いる方が良いという指摘がある。
関連タグ
ネットスラング ネット右翼 ドナルド・トランプ ディープステート ロシア
- メイク・アメリカ・グレイト・アゲイン(MAGA):トランプが好んで用いたキャッチフレーズで、後に「トランプ支持者」を意味するようにもなった。「赤いキャップ」を被って支持を表明することが多く、「Qアノン」のTシャツと同時に着用する姿もよく見られた。
- ポリティカル・コレクトネス:直訳すると「政治的正しさ」。「/pol/」にはこれを否定するという意味があり、いわゆる「表現の自由」の立場からこの件に乗ってきた人間も多かった。
- 世界基督教統一神霊協会:安倍やトランプとの関係が深く、ロシアへの進出を図っていた過去もあることから、今回の件にも一枚嚙んでいるとする指摘もある。
- 暇空茜:部分的に「ディープステート」と重なる主張をしていたことから、支持者が「暇アノン」と呼ばれた。やはり当人達は否定的である。