古代ローマにおいて信仰されていた神々にまつわる神話。基本的にはギリシア神話のローマ版。
概要
「ローマ神話」と呼ばれるものは大雑把に2つに分けることができる。一つはどこの民族にもみられる建国にまつわる神話で、もう一つはギリシア神話の翻訳である。
古代ローマの知識人キケロがローマ人が他の民族に勝る点として宗教心を挙げているように、ローマ人は極めて信仰心の強い人々であった。
彼らの宗教観は簡略化すると「形式主義」と「現世利益」で言い表すことができる。内心でいつも神に祈るよりも、定められた手順通り儀式を完ぺきに行うことの方が正しい信仰とみなされた。また神に祈る願い事は死後の魂の救済や来世への希望ではなく現実的なものが中心であった。
こうしたローマ人の間ではその土着の神々も信仰されていたが、南イタリアに住んでいたギリシア人との接触以降ギリシアの神々を受け入れたうえで以前から信仰していた土着の神々と同一視するようになった。これを混淆(シンクレティズム)と呼ぶが、こうした現象自体はローマ人に特有のものではない。
こうした経緯もあり現在「ローマ神話」と呼ばれるものの多くは「ギリシアの神々の名前をローマ人が呼んだ名に置き換えたギリシア神話」であり、例えばローマの詩人オウィディウスがラテン語で書いた『変身物語』もギリシア神話のバリエーションと見ることが可能である。
とはいえローマ神話にはギリシア神話と共通しない独自の挿話もあり、最初に触れたローマの建国伝説がその代表である。
このようなローマの神々は個人レベルのみならず国家レベルでも崇拝された。
共和政ローマにおいては、王政期に宗教的権威を有した王を追放していることもあり、その代替として公選された神職が国家の宗教を司っていた。
そのうちポンティフェクス(神祇官)と呼ばれる神官団の長であるポンティフェクス・マクシムス(最高神祇官)はローマという国家において最高の宗教的権威を担った。この名はのちにローマ教皇も自身のラテン語の名前として採用している。
この他、個別の神に仕える神官団や鳥占いを行うアウグル(鳥卜官)、動物の内臓占いを行うハルスペクス(腸卜官)等の神職が存在し、決まった手順通りに祭祀を執り行った。
以下では大雑把にローマの建国神話を述べたのち、ローマ人が信仰した神について便宜上4つに分類して示す。
建国神話
トロイア戦争で敗れたアエネアスが老父と息子、郎党とともに母神ウェヌスの導きもあってイタリア半島にたどり着く。
そこで現地勢力の娘を娶る、別の現地勢力と争うなど紆余曲折を経て、アルバ・ロンガという都市を築き、アエネアスの子孫が代々その王となる。
時代が下って、アルバ・ロンガの王位争いが兄弟間で起こり弟が王位を簒奪し兄の娘を幽閉する。幽閉された娘レア・シルウィアはある折、男神マルスと契りロムルスとレムスの双子を儲ける。しかしその子らは川に流される。
双子は牧夫に拾われ雌狼の乳を飲み成長する。やがて双子は仲間を募り、簒奪した王を討ち祖父をアルバ王に復位させる。双子と仲間の若者たちはアルバを離れ、自分たちの新たな都市を築いた。
この都市がローマである。
ローマ土着の神
ギリシア神話には登場しない、ローマ人が古くから信仰していた神としてはヤヌスとクィリヌスが代表であろう。
ヤヌスは前と後ろの双方に顔を持つ異形の神で、門、扉といった境界の神として信仰されていた。ローマでは戦争が終結するとヤヌス神殿の扉が閉じられることになっていたのだが、歴史上その期間はわずかでしかなかった。
クィリヌスは性格が今一つ分かっていないが、おそらく農耕や平和を司った神であった。しかし早い段階でローマの建国者ロムルスが神となった姿とみなされるようになっていた。
そもそもローマの多神教では、神は「ヌーメン」(複数形ヌミナ)と呼ばれ様々なものに宿る精霊のような存在であった。ヌーメンは擬人化された神ではなく神話も持たなかった。神的なパワーを象徴するヌーメンをなだめることでローマ人は災いを避けようとしていた。
ヤヌスやクィリヌス、さらにはマルスやウェスタも元はそうしたヌーメンの名前であった。各家庭ではラル(複数形ラレス)やペナテスが祀られていた。一種の守護神ともいえるゲニウスは各氏族ごとに祀られ、ローマにおける祖先崇拝の役割も果たしていた。
ギリシアの神々と同一視された神
「ローマ神話」の神と言った際に最もイメージされるのはこの神々で、太陽系の惑星の名前としてもお馴染み。なお西洋の芸術作品ではギリシア神話の挿話を扱っていてもこのラテン語の神名がタイトルとして採用されている場合が多い。
ギリシア神話のオリンポス十二神(+3)との対応は以下の通り
ギリシアの神々と習合された結果、ここで扱う神々の神話は基本的にはギリシア神話のそれと同一である。しかしローマ土着の神であった際の性質も完全に失われたわけではなく、その影響を受けてギリシアの対応する神とは異なった扱いを受けることもあった。こうした例としてここではマルスとウェスタを挙げておく。
ギリシアの戦争の神であるアレスは、争いや混乱など戦争の持つネガティブイメージを象徴する神でもあった。一方で元来農耕神としての側面も有したというマルスにそのような側面は一切ない。戦士共同体を自らのルーツと信じ尚武の気風の強かったローマ人はマルスを篤く信仰した。マルスは建国神話に登場するだけでなく、古い時代にはユピテル、クィリヌスとともに最も中心的な神として扱われていたという。
ウェスタはギリシアのヘスティア同様、基本的には地味な神であった。しかし古代ギリシアよりはるかに「家」を重視し、国家を「大きな家」とみなした古代ローマでは、「家」での信仰の中心にいたウェスタは「大きな家」である国家においても非常に重要視されていた。処女を義務付けられた6人の名門貴族出身の女性が女性祭司団としてウェスタに仕えた。「ウェスタの巫女(ウェスタの処女)」と呼ばれた彼女ら、その中でも特に祭司長の女性は、一般に女性の社会的地位の低かった古代ローマにおいては例外的に高い公的地位を与えられていた。
この他ミネルウァはカピトリヌスの丘ではユピテル、ユノとともに祀られ、この三柱の神はローマの最高神のごとく位置づけられた。またウェヌスは建国神話においてアエネアスの母神として特別な地位が与えられていた。
それ以外の神々として「ローマ神話=ギリシア神話」の形で以下にいくつか列挙しておく。
サトゥルヌス=クロノス、ウラヌス=ウラノス、ソル=ヘリオス、ルナ=セレネ、アモル(クピド)=エロス、フォルトゥナ=テュケー
外来の神
ギリシアからはまたヘラクルス(ヘラクレス)やアスクラピウス(アスクレピオス)などの神がローマに持ち込まれ信仰されていた。さらに帝政期に入るとケルトの馬の神エポナがガリアより導入された。
しかし歴史の時代にローマが受け入れた神々の多くはこのような西方の神ではなく東方の神であった。形式主義的で現世利益を重視したローマの宗教に対し、オリエントの神々には宗教的陶酔を帯びた儀式や「死と復活」といった要素が結びついており多くの人々をひきつけた。
代表格はエジプトのイシスで、共和政期に元老院はその信仰をたびたび取り締まったものの帝政期にはローマ皇帝の中にも信奉者を得ていた。
小アジアのキュベレは紀元前2世紀の第2次ポエニ戦争(ハンニバル戦争)での国難において、ローマ国家により同盟国であったペルガモンから公式に招致され信仰を得ていた。
ローマ帝国がその領域を東方へ拡げる過程でシリアのバアルやメルカルトの信仰もローマへと流入した。バアルはローマ人からしばしば「ユピテル」の名でも呼ばれている。
牛を屠るペルシア発祥のミトラス教は帝政期、特に兵士たちの間で広まっていた。
シリアはエメサのエラガバルは、その祭司一族がセウェルス朝の妃となったことから皇帝ヘリオガバルスによって持ち込まれた。
民族の信仰を守っていたユダヤ人たちは帝国各地に暮らしたが、その中にはローマ市民権を得た者たちもいた。また紀元1世紀に成立したキリスト教と呼ばれるユダヤ教徒の一派は、幾人かの皇帝の弾圧を受けつつも民族宗教の限界を超えて帝国に浸透し、やがてテオドシウス1世の時代にはローマの国教の地位を得るに至った。
神格化された皇帝
独裁官カエサルは死後元老院決議により神格化され、養子として政治的後継者となったアウグストゥスの統治に宗教的権威を与えた。そのアウグストゥスも同様に没後神格化され、以降の皇帝は自身の立場を宗教的に権威づけるため先帝の神格化を利用した。ただこの神格化を行うのはあくまで元老院であり、元老院に悪感情を持たれた皇帝は逆に死後「記憶の断罪」を行われることになった。
ユリウス・クラウディウス朝断絶後のウェスパシアヌスの時代にはこうした慣例は定着していたようで、ウェスパシアヌスは死の床において「可哀そうなオレ、もうすぐ神になろうとしている」と茶化してみせたという。実際、ウェスパシアヌスは死後神格化されている。
一方で帝国の東方属州に住む多神教徒の間では、ローマによる統治以前から君臨する支配者を神として崇める慣習が存在していた。初代皇帝アウグストゥスはこの慣習には手を付けず放置し、東方においては生前から神として崇められていた。以降の皇帝も基本的にはローマ及び西方属州では特別な職責を負う「市民の第一人者」として振る舞い、東方属州では神として崇拝されていた。カリグラやドミティアヌスといったごく一部の皇帝は帝国全土にて自身を神として扱わせようと試みたが、彼らは暴君の烙印を押され痕跡を抹消された。
しかしながら、帝政が続くうちに皇帝権力は強化され西方においても皇帝崇拝導入へのハードルは次第に低くなっていった。帝国像と皇帝像を大きく変えたディオクレティアヌスの治世においてローマ皇帝は明確に専制的君主へと変貌し、皇帝崇拝も公的に導入された。
こうして帝国全土で生前から皇帝は神となったが、コンスタンティヌス1世のキリスト教公認により神としての信仰の強制は終了する。その後キリスト教が国教化したことで「神としての皇帝」概念は消滅するが、形を変えた「神の代理人としての皇帝」という観念は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の滅亡まで一定存続した。