概要
世界的に著名な美術品にして「万能の天才」と謳われるレオナルド・ダ・ヴィンチの代表作品の1つ。
日本では、主に小学校、中学校、高校などに伝わる怪談『学校の七不思議』の1つ「モナリザの怪」として馴染み深く、近年では1998年に徳島県鳴門市に設立された『大塚国際美術館』が世界に誇る「陶板名画コレクション」(西洋絵画の傑作を特殊技術で陶板に転写・焼成して原寸大のまま常設展示する)の1つ、または食パンの焼き色を利用した食材美術『トーストアート』の代表的モチーフとしても知られる。
構成
フィレンツェの絹取扱商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻であるリザ・デル・ジョコンド(Lisa del Giocondo)が椅子に腰掛ける姿を題材としたとされる肖像画で、キャンバスではなくポプラ材の木板に油彩で描かれた板絵。
現時点での研究総論によると、ルネサンス期の美術史研究を兼務した画家ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari)の著書『画家・彫刻家・建築家列伝』の記述、フィレンツェの政府職員を務めたアゴスティーノ・ヴェスプッチによる覚書の内容を元に科学分析調査を進めた結果、晩年に当たる西暦1505年前後の作品と推測されている。
当初の名称は『La Gioconda』(和訳:ジョコンダ)だが、ヴァザーリの著書の一節に端を発した通称『Mona Lisa』(和訳:貴婦人リザ)が広く浸透し、現在の一般的名称となっている。随所に見られる特徴や違和感について多種多様な仮説や研究論文が発表され続けている一方、論説によっては一極型で全く整合性の取れていないものも存在するなど、未だに作品が意図する全容解明の糸口すら見つかっていないのが現状である。
フランスにおける国宝の中でも特に厳選した逸品を収蔵、展示するルーヴル美術館にあって最も集客率の高い美術品であり、過半数に及ぶ観客の来館目的を占めている。しかし、過去に「レオナルドの作品なのだからイタリアで展示されて然るべきである」とする国粋主義的理由から盗み出された『モナリザ盗難事件』(1911年8月21日)など様々な波乱、戦乱を経験してなお現存する貴重な美術品でもあり、そうした経緯から厳重な管理体制を必要とする最重要収蔵品の1つに位置付けられている。
流転
ミラノ占領の和平交渉に招かれて対面を果たしたフランス王フランソワ1世の歓待を受けたレオナルドが、愛弟子のフランチェスコ・メルツィと共にフランスに移住した際もこれを携えて修正・加筆を続けたとされるが、イタリアに残ったもう一人の愛弟子であるジャン・ジャコモ・カプロッティの覚書によると「師の死去に際してラ・ジョコンダを遺品として譲り受けた」と記されており、これを含めた数々の遺贈品と共に一度はイタリアへ戻ったとされている。その後、間もなくフランソワ1世が4000エキュ(1エキュ=3リーブル=約2000円当時の貨幣価値換算で約800万円)で買い戻して再びイタリアを離れ、フランスにおけるルネサンス美術の発信基地となったフォンテーヌブロー宮殿に所蔵され、それから約160年後にルイ14世が新たなフランス王宮と定めたヴェルサイユ宮殿へ移された。
さらに約100年後、ルイ家率いるブルボン朝を打倒したフランス革命を契機に国有美術館へと役割を変えたルーヴル宮殿に移されるが、ボナパルト朝初代皇帝に即位したナポレオン・ボナパルトが居城としたテュイルリー宮殿の寝室を飾るために持ち出されたりと、依然として権力者からの完全な離別は難しい状態であった。ナポレオン3世の代になっても王室と美術館の往復を続ける中、スペイン王家の王位継承権問題に介入してヴィルヘルム1世率いるプロイセン王国と対立した普仏戦争が1870年に勃発し、戦禍による遺失を避けるべくフランス最大の軍港を備えるアーセナル・ドゥ・ブレストへ移送された。
ルーヴル美術館に戻ったのも束の間、1939年の第二次世界大戦勃発直前には急速な国力増強で台頭したアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツによる美術品接収を最も怖れたジャック・ジョジャール(フランス国立美術館総局副局長兼ルーヴル美術館長)の総指揮の下、市民の協力を得て周到に準備された収蔵品避難作戦が発動された。最重要美術品の1点に認定されたモナ・リザはパリを離れ、かつての所有者であるフランソワ1世と縁の深いアンドル=エ=ロワール県アンボワーズのアンボワーズ城、ロワール=エ=シェール県シャンボールのシャンボール城を経由後、一気に南下してアヴェロン県マルティエルのロック・デュー修道院、タルヌ=エ=ガロンヌ県モントーバンのアングル美術館を転々としながら執拗な追跡を掻い潜り、ロット県モンタルのモンタル城で遂に待望の終戦を迎えた。
終戦後もまだ災難は続き、1956年に酸性の液体を浴びせた観客によって左腕部に、さらには同年末に石を投げ付けた別の観客によって左顔面部に損傷を受ける前代未聞の損壊事件が起こった。修復作業の成功から大事にこそ至らなかったものの、これらの事件を重く見た関係者一同の提案によって「展示中は常に特注品の防弾ガラスケースに収めておく」とする保護対策が施される運びとなり、1974年4月に東京国立博物館へ貸し出された際に来場者が起こした『モナリザ・スプレー事件』(後述参照)から作品を守る結果に繋がった。
後年になって従来の展示室『Salle des Etas』(サル・デ・ゼタ)そのものが作品の保存性を大きく損ねる可能性を示す事実が発覚し、これに対してルーヴル美術館と深い交流を築いてきた日本テレビが問題の根本的解決に名乗りを上げ、展示室大改修への全面協力の意を表して約480億円の寄付金を投じた。約4年後、建築家のロレンゾ・ピケラスに依頼した防弾・防振・高気密・無反射・温湿調整ガラスケース、自然光採光の天窓、精密な空調システムを組み込んで生まれ変わった展示室『Salle de la Joconde』(サル・ドゥ・ラ・ジョコンダ)に安置され、500年の時を経てようやく安堵の地に落ち着いた。
モナリザ・スプレー事件
1970年代の日本で男女同権・女性解放を訴える市民活動『ウーマン・リブ運動』が熱を帯びていた折、「予測不可能の混雑による不測の事故防止」を理由に高齢者、障害者、妊婦、幼児の来場自粛、即ち実質的な入館拒否を求めた国立博物館および日本政府の態度(後に「1日のみ無料特別開放の障害者デー」を通達したがこれが事件の引き金となった)を「社会的弱者に対する不当且つ悪辣な人権差別」として活動家の米津知子が決行した抗議行動。立案者は、同じくウーマン・リブ活動家の田中美津。
米津・田中両名からすれば、作品がガラスケースに守られている安全性を重々承知の上で行った「社会正義に基づいた抗議のデモンストレーション」だったものの、展示場内で意図的にカラースプレーを噴射した軽犯罪法違反で現行犯逮捕され、最高裁判所まで持ち越された裁定の末に罰金3000円の支払いを命じられた。しかし、自身の事件性のみを糾弾して主催者側の人権差別問題をさほど掘り下げずに終わった結審に落胆を覚えた米津は「総額3000円分の1円玉で罰金を支払う」という手段に訴え、最後まで不服の意志を示したとされる。
しかし成田闘争同様に、70年代のこうした過激な社会運動は結果的に大衆との乖離につながっていった。
関連キャラクター
- モナ・リザ(トラウマイスタ)
「なんていうか……その…下品なんですが…フフ……勃起……しちゃいましてね………」