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関ヶ原の戦いの編集履歴

2013-06-09 03:04:02 バージョン

関ヶ原の戦い

せきがはらのたたかい

日本史上有数の合戦。

徳川家康を総大将とする東軍毛利輝元を総大将として美濃国関ヶ原(現、岐阜県不破郡関ヶ原町)で実質の総指揮官を務めた石田三成らの西軍を破った戦いである。世に「天下分け目の戦い」という。


前夜

 慶長三年(西暦1598年)の豊臣秀吉の死後、五大老の中で最大の勢力を誇る内大臣徳川家康は豊臣政権の実権を一手に握る為に、豊臣秀吉が生前に禁じた無届けの大名同士による婚姻を行い勢力を拡大、豊臣政権の中枢で文治派として法律遵守を口にする石田三成らを、これを快く思わない武断派筆頭七将が筆頭、石田三成を襲撃した石田三成襲撃事件で、本来ならば非がある襲撃側を裁くどころか石田三成五奉行から解任した上で佐和山城に蟄居させるというあるまじき裁定を下す。当初は前田利家の仲裁で均衡が保たれていた豊臣政権も、太閤没後、翌年に前田利家が逝去した事により調停者不在となって内部分裂が表層化したのである。五大老徳川家康を留めようがあった小早川隆景豊臣秀吉より早く亡くなり、前田利家も前著の通りで結局、石田三成は「事件の責任を取れ」と強迫され徳川家康からの辞職勧告を受けざるを得ず政治の一線から退き佐和山城に蟄居、前田利家死後、家督を継いで五大老に就任した前田利長も無届けで加賀に帰還しそれを家康の暗殺を謀ったとして難癖を付けられ、利長生母のまつを人質に取られるなど(加賀征伐)、法など何処吹く風と徳川家康は権勢を強めていった。

 慶長五年(西暦1600年)三月、大阪にいた徳川家康会津に転封された五大老が一人、上杉景勝に謀叛の動きあるとして言い掛かりに等しい上洛の要請をした所、これを非とする上杉家家老、直江兼続の意見書が送付され、これを口実に家康は六月に会津討伐に動いた。石田三成はこれを機と見て七月に徳川家康が不在の大阪で挙兵する。


東西軍構成


 石田三成挙兵後、石田三成徳川家康も互いに自らの陣営に加わるよう全国の諸将に文を送り続けたが、石田三成の「治部少輔」という役職に対して徳川家康の「内大臣」という役職は現代で云う係長と取締役ほどの差があり、佐和山十九万五千石で江戸二百五十万石と向こうを張るのは無謀に等しく、勝敗は火を見るより明らかと思われたが石田三成が総大将として擁立した同じく五大老毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家石田三成の派閥に加わった為、去就を惑うものも多かった。下馬評に対して石田三成は外交戦で意外な健闘を果たす。


本戦

 石田三成大谷吉継毛利輝元を総大将に擁立し、西国の諸将を味方に付け西軍を組織し畿内以西の大名を粗方、味方に付ける事に成功する。対する徳川家康東軍小山評定で各自の結束を固くし、豊臣大名として豊臣秀吉から恩顧の厚い山内一豊遠江掛川)、福島正則尾張)両大名を味方に付ける事によって東海道の確保を確実にすると江戸から引き返し、東海道を上って西軍先発隊と関ヶ原で対峙する。ここで東軍は西軍の本拠である大垣城を迂回して大阪に直進する進路を取ったので西軍も大垣城から打って関ヶ原での野戦の構えとなり、九月十五日午前八時に戦の火ぶたが切って落とされた。

 戦況は一進一退を経て予め防御陣地を築いて東軍を包囲、殲滅する西軍優勢だったが、南宮山に陣取った毛利秀元松尾山に陣取った小早川秀秋が再三の督戦にも拘わらず動きを見せず、西軍は止めの一手を打てずにいた。毛利秀元は当初から東軍に内通していた吉川広家に展望の利かない南宮山山頂へと安国寺恵瓊隊と共に押し込められ、更に吉川広家長束正家と共謀して後方の長宗我部盛親の通信を切断し、毛利隊全体と長宗我部隊を戦線から完全隔離していた。

 一方、石田三成徳川家康双方から秋波を送られていた小早川秀秋は去就を迷っていたが正午過ぎに東軍へと寝返り、小早川秀秋離反への備えであった赤座直保小川祐忠朽木元綱脇坂安治らも一斉に西軍から離反して一気に松尾山を下る。これらの軍勢を支えきれなくなった脇備えの大谷吉継は自害し、この大離反一つで西軍は壊乱し敗走してしまうのである。


 その一方で未だ懸案事項であった豊臣秀頼を擁する西軍大将、毛利輝元大坂城にいたが、関ヶ原の勝敗を知りかつ吉川広家が毛利家所領の安堵状を徳川家康より授かっているとの言伝から二十四日に大坂城を無血開城し、ここに関ヶ原の戦いは終戦を迎えた。


その頃

東北

 会津上杉景勝は反転した徳川家康を追撃せず、西軍として東軍の最上義光の領地へ侵攻すると伊達政宗最上義光の援軍に駆けつけた。積極的に南下せず江戸もそのまま放置して伊達最上と膠着を演じた上杉景勝は関ヶ原の勝敗を知ってほぼ不戦敗という形で撤退し、十二月に降伏して会津百二十万石から米原三十万石に減封された。

 茶の湯の師である古田重然を遣わして中立を約束させた常陸佐竹義宣も、出兵には至らなかったものの西軍寄りの動きを見せたとして言いがかりをつけられ、減封の上で出羽秋田に転封されるに至る。


信濃

 徳川軍本隊として中山道を通過していた徳川秀忠本隊は信濃上田真田昌幸信繁親子の抵抗に遭い、関ヶ原の戦いに遅参(第二次上田合戦)。徳川家康にとって遅刻した徳川秀忠ら譜代衆への恩賞配分ができず、家康の後継者という秀忠の面目も潰れ、親子共に苦々しい結果となった。

 尚、上田城で強固な抵抗を見せた真田昌幸真田信繁親子は死罪もやむなしと見られていたが、東軍に加わっていた昌幸長男の真田信之、並びに信之を通じて縁戚となっていた本多忠勝の懸命な助命嘆願より九度山への蟄居で済まされた。


九州

 東軍の加藤清正熊本から出陣して小西方と戦い、黒田如水(孝高)は息子、長政関ヶ原にいる頃、豊前から出陣して大友勢と対決。清正と戦った立花宗茂は降伏、改易。しかし関ヶ原で西軍に加わっていた島津義弘の島津家は強かな外交戦を演じ最終的に薩摩日向大隈の領地三国を安堵された。

 この時、黒田如水は、九州を制圧して地盤を固め、疲弊した勝者を倒し機に乗じた天下取りを考えていたと云われる。


 その他、各地では東西両軍の合戦や籠城戦が相次いだ。


戦後

 石田三成は数日後に捕えられ、小西行長安国寺恵瓊と共に処刑。逆に総大将である毛利輝元吉川広家を通して徳川家康と内通していた為、大阪城の無血開城と同時に毛利家はお咎め無しと思われていたが、「安堵状に家康花押がないのでこの書状は無効、毛利家は改易と処す。但し吉川広家は西軍方としてよく働いた為、毛利家改易後の長門周防二国に封じる」という発言に度肝を抜かれる。

 吉川広家毛利元就実子、吉川元春の後を継いだ毛利家の超重役であり(つまり吉川広家毛利元就の孫である)、本家を蔑ろにするつもりなぞ本人はまるでなかったので再三に亘る土下座交渉で、最終的に自身が賜る予定であった長防二国をソックリそのまま毛利輝元に献上するという点に決着した。その吉川広家は戦後、岩国六万石を拝領するが毛利家の支藩(陪臣)、並びに独立大名として認められるのは明治時代も近くなった頃の事であり、封じられた岩国も長防の中心である山口とは遠く離れ毛利家の重臣としてはあるまじき東の国境近辺であったが、自らの不始末で主家の所領を八ヶ国百二十万石(一族合わせて二百万石)から二ヶ国三十万石にまで取り上げられてしまったのであるからして、これぞ正しく自業自得というものであろう。

 戦後処理においてこの点、関ヶ原に参戦しながら「信用できないので徳川家康直筆の安堵状を持ってこい」と執拗な外交戦を演じて所領を安堵させた薩摩島津家とは役者が違った。そしてこの薩摩長州、加えて改易された長宗我部盛親の後釜に封じられ、野中兼山の献策で長宗我部遺臣の多くを郷士に取り立てた山内氏土佐(上記、小山評定遠江掛川を提供し栄転した山内一豊の子孫)、三藩の不満が明治維新の中心的原動力となる。

 とまれ、関ヶ原の戦いで西軍に付き敗軍を迎えた大名達は以後、「外様」として力を削がれた上で関東からなるべく遠方へと封じられ、およそ三百年を雌伏する事となる。

 慶長八年(西暦1603年)、家康朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸に徳川家の江戸幕府を開き、天下泰平の江戸時代が始まる。最終的には元和元年、予想外に長生きした徳川家康大阪の役で豊臣家を滅ぼし、元和偃武と宣言する。



余談

 明治時代に陸軍大学教官として招かれたドイツ軍人クレメンス・メッケルはこの戦いの布陣図を見せられ即座に「この戦いは西軍の勝ちであろう」と言ったとされる(実際、西軍の構想どおりなら兵力に勝った包囲戦であったので彼の見識は正しい)。

 歴史上では東軍が勝ったと聞かされ、持論である「戦争とは調略と情報収集・分析が要である」という認識を強めたとされる。


 関ヶ原の戦いについては様々な論があるが、大局的な「戦争」としての大枠で見れば日本ナンバー2の毛利輝元とナンバー3の上杉景勝が満足に働かなかった事が完全に戦の方向性を決めてしまった。例え関ヶ原で敗戦しても上杉景勝江戸を接収すれば佐竹義宣もこの動きに同調したであろうし、そうなると領国を失った徳川家康山崎の戦いで敗れた後の明智光秀そのものであった。その後、関ヶ原の西軍と連携して毛利輝元豊臣秀頼と共に出馬していればそもそも戦の勝敗など論ずるに及ばず、戦にすら発展しようがない趨勢に帰しただろう。大阪城毛利輝元が積極的に意思表明を行い西軍についていれば吉川広家も間抜けた行動を起こさなかったであろうし、そうなれば局地戦の関ヶ原ですら東軍の勝利は実に怪しいものとなったであろう。

 「戦闘」としての関ヶ原の戦いも小早川秀秋とその離反予防の武将が揃って離心し戦況の全てを決めてしまった通り、



 全体兵数の内、五万名を欠いた実働兵力でも五分以上に渡り合った戦闘である。小早川秀秋の離反さえなければどう転がっても不思議ではなかった。



関連タグ

日本史 戦国時代

徳川家康 石田三成 小早川秀秋 東軍 西軍

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