概要
国鉄が1961年から1962年にかけて導入した急行形気動車でキハ58系のバリエーション。
キハ57系は正式名称ではなく、運転台付き二等車(普通車)キハ57形と運転台無し一等車(グリーン車)のキロ27形の2形式の総称である。
製造数はキハ57形が36両、キロ27形が7両と少ない。
ちなみにキハ58系よりも4ヶ月デビューが早い。これは、1961年9月の善光寺御開帳のため沿線自治体から輸送力増強の要望が強くキハ58系よりも優先順位が高かったためである。
開発経緯
1960年頃、キハ55系による全国的に準急網が広がっていた。しかし、当時の信越本線の昼行優等列車はいずれも客車列車であり無煙化とスピードアップが可能な気動車化への機運が高まったものの以下の難題があった。
当時の横川駅〜軽井沢駅間(横軽)は66.7‰という国鉄最急勾配に対応するため、開業以来ラックレール式鉄道(アプト式軌道)を採用していた。
キハ55系二次型に採用されていたDT22・TR51形台車のブレーキは車体側にブレーキシリンダーを持つ車輪踏面両抱き式であり、ブレーキてこの一部がラックレールに接触するため、キハ55系は横軽間を走行出来なかった。
これは北海道向けのキハ56系と本州向けのキハ58系も同じであり、横軽通過対策としてキハ58系の台車をキハ80系2次車から採用された空気ばね台車のDT31・TR68形に変更したのが当形式である。
DT31・TR68形ならばラックレールに干渉しないディスクブレーキを備えかつ最低地上高の変異を抑えることが出来る枕ばねを高さ調節弁付き空気ばねを採用しておりうってつけだった。
この台車は乗り心地と制動性能に優れたが、内側にスペースの余裕がない整備屋泣かせだったとか。
なお、横軽間を通過する際には無動力で空気バネはパンクさせ誕生当初はED42、新線移行後はEF63形電気機関車によって牽引や登坂が行われた。
形式
DMH17H形エンジン2基を搭載した二等車(普通車)キハ57形と、同エンジン1基を搭載した一等車(グリーン車)キロ27形の2形式のみ。
勾配の多い信越本線に対応するためキハ28形に相当する1基エンジン型の二等車は存在しないが、中央東線の急行「アルプス」「白馬」ほど高速運転が求められなかったためキロ58形に相当する2基エンジン型の一等車も存在しない。また製造両数が少ないこともあってか荷物車・郵便車・ジョイフルトレインなどに改造された車輌もない。
ちなみに製造数の内訳は以下の通り
運用
前述の特徴から、全車両が長野機関区に配置され1961年5月から上野駅〜長野駅間の急行「志賀」で運用開始した。同年3月にはキハ55系による小諸駅〜新潟駅間の準急「あさま」がデビューしていたが「志賀」の登場で小諸駅以南にも気動車列車が進出した。同年7月にはキロ27形の窓下の一等車を示す帯が青1号から淡緑6号に変更されている。
同年10月には同区間に「丸池」が新設され、準急「とがくし」も気動車急行化された。また車両運用効率を向上するため長野駅〜大阪駅間の「ちくま」にも投入され篠ノ井線・中央西線・東海道本線をひた走った。
1962年3月からは「志賀」や「丸池」の付属編成が屋代駅から長野電鉄の湯田中駅にも乗り入れを開始。12月には上野駅〜直江津駅間の準急「妙高」が気動車急行化され長野駅以北にも乗り入れた。
しかし導入からわずか2年後の1963年に碓氷峠に新線が開通、アプト式区間が廃止されEF63を使用した粘着式運転に切り替えられ、本来の存在意義を失ってしまった。
さらには軽井沢駅~長野駅間の電化に際し、「丸池」は「志賀」に統合。上野駅〜長野駅間の急行「信州」が新たに運転開始。「とがくし」は新たに同区間の夜行急行列車となりいずれも165系電車化された。
また上野駅〜横川駅間の準急「軽井沢」も長野駅発着となったがこちらは横軽対策が施された80系電車で運行されたため横軽を通過するキハ57系使用列車は「妙高」のみとなった。なお「妙高」運用の関係でEF63との牽引・推進運転に対応する横軽対策を施工された。
当時は篠ノ井線と中央西線が電化されていなかったため「ちくま」での運用は継続したがキハ58系と混結された。
その後、信越本線直江津電化が完成した1966年10月改正で「妙高」も電車化されキハ57系は上野口から完全に撤退。以降は「野沢」「すわ」「のべやま」「きそ」「天竜」などの長野エリアの準急や急行に投入され飯山線・小海線・中央東線・飯田線にも入線した。
1965年にキロ27形が、1970年代にはキハ57形が冷房化され、1971年から「越後」「ゆのくに」「能登路」にも投入され北陸本線・七尾線・能登線にも入線した。
キロ27形はAU13形分散式冷房装置と自車専用の4DQ-11P形発電セットを搭載したが、キハ57形は冷房装置のみで発電セットを搭載せず、キハ28やキハ65から電力供給を受けた。
しかし、1973年10月改正でキハ91系と共に「きそ」運用から撤退するなど運用も減り長野機関区を出る車輌も出始めた。そして1975年3月改正でキハ57系を使用していた「すわ」と「のべやま」が廃止され「野沢」もキハ58系に置換えられた。このため使用列車は「越後」「ゆのくに」「ちくま」「能登路」のみとなるが、1978年10月改正でこれらの列車の運用も全滅し長野機関区のキハ57系は急行運用を喪失した。
1974年から78年に掛けて全車長野機関区から転出し、中込機関区(現:小海線営業所)・美濃太田機関区(現:美濃太田車両区)・名古屋第一機関区(現:名古屋車両区)・高松運転所に転属した。
転属先ではキハ58系と共通運用が組まれ、小海線・高山本線・関西本線・紀勢本線、そして四国各線の急行・普通列車に投入された。空気ばね台車を装備していたことから指定席車に重点的に投入された。
しかし、キハ58系シリーズの中では古参であるため老朽化も進んでおり、キロ27形は1980年までに全車廃車となった。
キハ57形も国鉄民営化までに大部分が廃車となったが、JR四国に2両が継承されJR四国色に塗り替えられた。
1991年10月にこの2両が廃車となり形式消滅した。
余談
- 保存車両は1両もないが、群馬県安中市の上信越自動車道横川SAにキハ58 624の前頭部とモックアップの客室を接合した休憩スペースがあり、客室側には「キハ57 26」と記載されている。
- キハ56系やキハ58系にも空気バネ付き台車を履いた車輌が存在するが、これらはキハ81系が1969年に台車をキハ82と同じDT31B・TR68A形に交換した際に捻出されたDT27・TR67形でありキハ57系のDT31・TR68形とは異なる。