人物概要
生没年 建長3年(1251年)~弘安7年(1284年)
鎌倉幕府・北条家嫡流(得宗)・5代執権・北条時頼の嫡男として生まれる。なお、異母兄として文永9年(1272年)に起きた「名越教時の乱」(二月騒動)に連座して滅ぼされた北条時輔、同母弟・宗政らがいる。
康元元年(1256年)、父・時頼が病を得て出家、嫡男・時宗は幼少だったため、文永元年(1264年)までは一族の北条長時が、長時の死去後には一門の長老・北条政村が「中継ぎ」として執権職に就き、時宗は連署に就任する。
文永5年(1268年)、大陸で版図を拡大していたモンゴル帝国から、国交(実際は従属)を求める皇帝クビライ・カーンの国書を携えた使者が訪れた。幕府がその対応に追われるなか、時宗は18歳の若さで執権に就任、それまで執権を務めていた政村が連署に就任し、北条実時、平頼綱らが補佐役となり、いまだかつてない国難に対処することとなった。
幕府は当初、モンゴルからの要求を黙殺していたが、業を煮やしたクビライはついに、文永11年(1274年)、日本に艦隊を派遣。元寇「文永の役」が発生する。
九州での元軍と日本勢をの戦いを遠方の鎌倉から指揮。しかしながら、元軍は「鉄砲(てつはう)」(手榴弾のようなもの)や矢を連射できる「弩」(ボーガンのようなもの)などの新兵器を使用しての集団戦法を駆使するのに対し、日本勢は平安時代から変わらぬ大鎧と「一対一」を基本とし戦いの前に名乗りあう旧態依然の作法を重視しており、この軍備の差と意識のずれに日本勢は苦戦を強いられることとなる。しかし、元軍は朝になると来襲し夜になると船に引き上げることをくり返したため、後に「神風」と呼ばれる暴風雨により、元軍は撤退し辛うじて侵略を防ぐことに成功した。
建治元年(1275年)、時宗は降伏を促す元からの使者を鎌倉で処刑、弘安2年(1279年)にも再び訪れた使者を大宰府において処刑。明確な意思表示をモンゴル側に見せた。
このことに激怒したクビライは、弘安4年(1281年)に前回以上の艦隊を派遣、幕府軍と再び戦端が開かれることとなった。「弘安の役」である。
一方日本側では時宗の指示により、元軍の上陸を阻止するために博多湾沿岸に防塁を築き、異国警護番役を設置しており、準備の甲斐あって水際作戦は効を奏し、持久戦の様相を呈した。
そうこうするうちに再び台風の季節が訪れ、台風の直撃を受けた元軍は壊滅することとなった。
幕府は新たなる元の襲来を怖れて博多湾周辺の警備を重視する。しかし、一部の武士を除いて恩賞を与えることができなかったばかりでなく、警備のための費用も武士たちに賄わせたため、武士たちの幕府に対する不満は募ることとなり、幕府はやがて崩壊への道をたどることとなっていった。そのさなかに高麗や元への逆侵攻を計画したが、その理由は防衛や報復だけではなく、御家人へ与える所領を得るためだったとも言われる。
弘安5年(1282年)、時宗は中国からの渡来僧・無学祖元を招いて円覚寺を建立。
弘安7年(1284年)には病の床にあり出家し、同年4月4日死去した。死因は結核とも心臓病とも言われる。
評価
近世になってから時宗への評価が見え始め、外国からの侵略という空前絶後の国難を退いたという点から肯定的評価が多く、尊皇攘夷論が起こった幕末では評価の傾向は強まり、太平洋戦争が起こった昭和にはさらに礼讃が強まった。
戦後になると代わって否定的評価が出始める。苛烈なほどの体勢固めの粛正、情報の偏りや欠落した国際意識による外交姿勢などから、蒙古襲来の原因を招いたという見方すらある。また、モンゴルに反感意識の強かった南宋からの来日禅僧たちによって外交姿勢が決まったとも、政策決定は若い時宗ではなく重臣たちの意見が強く反映されているともされている。
創作物における北条時宗
元寇を題材にした作品では時の執権として登場。
北条時宗が登場する作品
- 学研まんが人物日本史:イラストは伊藤章夫氏。彼の三十数年足らずの人生を、時宗に仕えた御家人の若者達や教育係の活躍と絡めて活写する。
- 渡部昇一氏の著書:「皇室入門」や「渡部昇一の中世史入門」で元寇による国難を救った立役者として描かれる。
- 杉山正明氏の書籍:モンゴル帝国関係の書籍に多く登場。従来の日本主体の史観では無く、世界史の視点から彼を読み解く斬新な解釈がなされる。なお、杉山氏は後述の大河ドラマの時代考証を担当している。
- 井沢元彦氏の書籍:「逆説の日本史」などで元側の狙いやそれに対応する時宗の活躍を緻密に描く。彼と神風にまつわる論説も多い。
- コーエーの歴史ゲーム:蒼き狼と白き牝鹿の3作目「元朝秘史」に妻の堀内姫、子供の北条貞時と共にデビュー。「チンギスハーン」では神風ばかりか、挫折した大陸侵攻を成し遂げるイベントを受け持つなど主人公的な地位を獲得。史実通りに有能だが、後半生の失政のためか武力や知性に秀でるが政治がイマイチ。信長の野望にもエディット用の顔グラとして存在する。
北条時宗を演じた俳優
『蒙古襲来 敵国降伏』 1937年 映画 演:林長二郎(長谷川一夫)
『かくて神風は吹く』 1944年 映画 演:片岡千恵蔵
『日蓮と蒙古大襲来』 1958年 映画 演:八代目 市川雷蔵
『風雲児時宗』 1961年 テレビドラマ(フジテレビ) 演:松本錦四郎
『北条時宗』 2001年 テレビドラマ(NHK大河ドラマ)演:小池城太朗→浅利陽介→和泉元彌
大河ドラマの主人公としての北条時宗
脚本家・井上由美子が『等身大のヒーロー』として描き、和泉元彌が直球で演じた生真面目で優しい性格の純粋で嘘や隠し事が苦手な青年。第1話の終盤に誕生した。
宝治合戦によって愛僧交わる複雑な関係となってしまった両親のもとで育ったことから、極力戦をせずに物事を解決しようとの考えを持ち、兄・時輔との『ロミオとジュリエット』のようにすれ違う関係、幕府内外の者による様々な陰謀、蒙古の脅威に苦悩しながらも鎌倉幕府、北条一族、ひいては日本を引っ張る執権として大きく成長していく。一族の長老で先代執権の連署・政村からはそんな彼の行動(特に時輔関連)を「甘い」とたびたび指摘されている。蒙古への対応も「見下されずに誇りを持って国を開きたい」との方針から返書をしなかった。
そんな彼の転機は蒙古からの国書が届き、日本国内が混乱する中で誕生した嫡男・幸寿丸(貞時)が名越流北条氏兄弟の弟・教時(及びその姉・桔梗)に襲われたことをきっかけに起きた二月騒動。この事件の首謀者として桔梗の口から時輔の名前が上げられ、時宗は六波羅探題北方・義宗に時輔の討伐を命じる。
(イラストは時輔討伐を命じる直前のシーン。この時の時輔は幻影である。)
この事件で吹っ切れたのか、時宗はそれまでの青臭く弱弱しい雰囲気からガラリと変わり、時輔を討伐(実は生存していたことがのちに判明する)したことを嘲笑う桔梗に「儂の国を思う気持ち、そなたの恨みに決して負けん。」と言い放つほどまでに男らしくなる。それと同時に、蒙古の使者を斬り捨てるよう命じるなど非情な一面を見せるようになる。また、時輔の妻・祥子を死なせてしまった(夫の仇を討つために時宗に斬りかかろうとして頼綱に返り討ちにされた)贖罪として時輔夫妻の子2人を引き取る。ただし、時輔が濡れ衣だと知って浜辺で泣き崩れたり、自らの首と引き換えに蒙古軍の殺戮を止めようとしたり(このあと「そなたに生きてほしいんじゃあ!」と文を破り捨てた安達泰盛と殴り合いの喧嘩になり、義政と時広に止められる)と弱さが出てしまうシーンは相変わらず多く、根本的な性格は最終話まで基本的に変わっていない。
ちなみにこういった時宗と誰かが一対一でやり合うタイマンシーンは上記の泰盛との殴り合いの他にもう1回あり、いずれも時宗の立烏帽子が脱げてしまっている。
蒙古との戦を間近に控えたある日の夜に執権館で突然倒れて以降、評定の場で突然発作を起こすなど時宗は体調に不安を覚えるようになる。時広から『いい薬師』として宋から来た僧侶・無学祖元を紹介された時宗は、その祖元より余命5年を言い渡される。この時の時宗はまだ25歳であり、自らの残酷な運命を知ったショックで泣き崩れてしまう。だが、時宗はこれを機に自分の命があるうちに蒙古との戦を終わらせ、貞時に安らかな国を引き継がせたいとの思いを強め、これまで以上に対蒙古政策を推し進めるようになる。
この病は最終話で時宗が隠退するまで伏せられ、隠退後にその事を泰盛から尋ねられた時宗は「最後まで戦の先頭に立ちたかった」と答えている。
第42話で一族の扇の要・実時が病により六浦に隠退し、その後死去。翌第43話で御内人・平頼綱と泰盛が対立を深め、その板挟みになった義宗が自害を遂げる。さらに連署の義政が出家するなど時宗を支える人々が相次いで退場し、時宗は「この国を護ると心に決めて以来、親しき人々を失い、信義厚き家臣を失い、己の中にある人の心さえも失いかけている気がする」と思い悩むようになる。時宗は唯一「心穏やかに話ができる」相手である祖元にその事を打ち明け、煩悩を捨てて己が道を進むように喝を入れられる(『莫煩悩』の逸話)。
そんな中、2度目の蒙古襲来『弘安の役』が勃発。時宗は指揮官として手腕を発揮する一方で幕府の方針を巡って鎌倉の御家人たちと対立し、特に身内で時頼の代から幕府に尽くしてきた泰盛とは「儂を斬れ」と言われるほどまでに険悪な仲になる。そして博多に上陸した嵐による強風が鎌倉にも吹き荒れる中、泰盛は時宗と刺し違える覚悟でひとり執権館へと向かう。そこで泰盛を逆に討とうと郎党数人とともに現れた頼綱との壮大な斬り合いが起きる。執権館でその知らせを受けた時宗は馬にも乗らずにとても病の身であるとは思えないほどの駆け足で2人のもとへ駆けつけ、2人の斬り合いを渾身の一射で止める。
だがその無理が祟ったのか、時宗は2人を一喝した直後に発作を起こして倒れてしまう。この時は嵐が過ぎ去ったと同時に意識を取り戻し、外へ出歩ける程度まで回復したものの病は時宗の身体を蝕んでいき、死期を悟った時宗は隠退を決意する。そして心残りである泰盛と頼綱の対立の仲裁、二月騒動がきっかけで対立していた母との和解、貞時と時輔の嫡男・時利への遺言(時頼とは対照的に「人を殺すな」と述べた)を正室・祝子の手助けを受けて実行する。だが、本当に逢いたい人には逢えないまま時宗は危篤状態に陥ってしまう。
そんな時宗の34年の生涯は蒙古の脅威(時宗は「クビライ・カアンに魅入られたような一生」と評した)と北条得宗家の嫡男として生まれたがゆえの陰謀と運命に晒された生涯であり、最終話で危篤状態から奇跡的に意識を取り戻した際に発言した通り「何もかもがこれから」の未完の人生だった。最期は生への執着とまだ見ぬ大陸への未練の涙を流しながら、時宗が最も逢いたかった人と祝子に看取られてこの世を去った。
彼の死後、謝国明は「時宗殿は天から遣わされた様な方であった」と評している。
NHK大河ドラマ
2001年放送。全49話。キャッチコピーは『新世紀、凛凛』。
鎌倉時代中期の鎌倉、京、博多、大元を舞台に主人公・時宗が生まれる前に起きた宝治合戦から時宗の死までの陰謀が渦巻く時代を時宗の死後32年経過した時代(時宗の孫・高時が執権に就任した頃)の時宗の正室・覚山尼(祝子)の回想という形で描く。前半は鎌倉に渦巻く権力争いと異母兄弟の対立が主な軸であり、後半は蒙古襲来を中心に描かれる。番組ディレクターが「作中人物は全員悪役と思ってもいい」(上述の通り、純粋な性格として描かれた主人公・時宗ですら例外ではない)とコメントするほどにドロドロした人間模様が展開される。
原作は『写楽殺人事件』の高橋克彦。『炎立つ』と同じく脚本と並行して執筆された。脚本は朝ドラ『ひまわり』や『ギフト』の井上由美子が担当。
平均視聴率は18.5%、最高視聴率は最終話で記録した21.2%。
初めての試み
- 大河ドラマで初めて鎌倉中期を取り扱った作品。この作品以前に鎌倉時代を取り扱った作品は過去にも存在していたが、中期はこの作品が初めて。
- 平成になってから初めて北条時宗を取り扱った実写作品。
- 脚本を担当した井上氏はこの作品が大河ドラマ初脚本。
- 大河ドラマ史上初めて、狂言師が主演を務めた作品。また、和泉元彌はドラマ出演5作目(狂言以外の演劇活動全体だと8作目)にして連続ドラマ初主演となる。ちなみに連続時代劇出演もこれが初めて。そんな彼が時宗役に抜擢されたのは演出家曰く、「和泉氏と時宗には共通点が多く、今の時代で常に家を意識する数少ない日本人である」からとのこと。その和泉氏も「父親への反発以外は似ている」とコメントしている。また、脚本家の井上氏も和泉氏の『俳優としての経験の薄さ』から「和泉氏が俳優として成長していく姿と時宗が作中で成長していく姿を重ねられる」とコメントしている。
- このドラマの元寇シーンはCG(実際には数艘しかない蒙古の船団を特殊撮影で大船団に見せている)を駆使したダイナミックなもので、その出来栄えはドラマ終了後もNHKの歴史番組で元寇を取り扱う際に再現VTRの一部として再利用されるほどのもの。
登場人物
記事のある人物はリンク先も参照。
- 北条時宗 (演:小池城太朗→浅利陽介→和泉元彌)
主人公。上記『大河ドラマの主人公としての北条時宗』参照。
時宗の異母兄で時宗と対をなすもう一人の主人公。
時宗の父で鎌倉幕府第5代執権。物語序盤の主人公。
- 涼子(涼泉尼) (演:浅野温子)
時宗の母。作中では「毛利季光の娘で北条重時の養女」という史実の正室と継室がまぜこぜになった設定。宝治合戦で父を殺したとして時頼を激しく恨んでいたが、彼が毒を盛られて死ぬ間際に和解を果たす。時頼が亡くなった後もしばらくは出家を拒否し続けたが、二月騒動で時宗が時輔を討伐しようとした際に「そなたの罪を償う」として出家する。
有力御家人。第1話の宝治合戦からずっと登場し続けた。肉体言語を多用し、時頼から「御家人の中でも一二を争うほどの戦上手」と評される武闘派。その信頼度は時頼が幼き日の時宗に「戦が起こったときは彼を頼るように」と言い聞かせておくほど。
北条家に仕える御内人。3代執権・北条泰時、4代・経時、5代・時頼に仕え、時宗にも仕えた古参の家司であり長時を暗殺した八郎を養子に迎え入れる。が、史実では長時死去の15年前にはすでに亡くなっていたと伝えられている。
時宗に仕える御内人。
時宗の妻でドラマの語り部。安達泰盛の妹。時宗より1つ下で、彼が10歳の頃に嫁いできた。本編では基本的には西田氏の姿だが、本編開始前のプレタイトルではたまに32年後の姿である十朱氏の姿で登場し、北条高時や足利高氏に説法をしていた。
時宗の嫡男。
時宗の祖母。
- 讃岐局 (演:篠原涼子)
時輔の母。時輔の不遇ぶりに不満を抱いている。最期は安達の館に自害同然で火を放ち、焼死する。
小山長村の娘で時輔の妻。献身的に時輔に尽くす。二月騒動で夫と引き裂かれたことに強い恨みを持ち、時宗を殺そうとするが頼綱によって返り討ちにされる。
時輔の嫡男。母の死後、時宗によって引き取られ貞時と兄弟同然に育つ。流浪の民となった実父とは何度か再会するが、時輔は彼に決して自分が父であることは知らせなかった。
- 梨子 (演:牧瀬里穂)
長時の妹で泰盛の妻。
- 禎子 (演:寺島しのぶ)
摂関家に通じる飛鳥井家の娘で頼綱の妻。夫同様の野心家。
時宗の同母弟。兄・時宗を尊敬している。作中では元寇の際は2回とも博多へ赴く。文永の役ではてつはうの攻撃により負傷し、隻眼になる。その時の怪我がもとで、博多から帰還してからしばらくはその事がフラッシュバックしてパニックに陥ってしまうようになるが、最終的には克服している。弘安の役で博多湾に流されてきた時輔を救出した際、不意打ちしてきた蒙古兵の攻撃によって死亡した。その遺骨は時輔によって鎌倉へ運ばれ、危篤から意識を取り戻した時宗の元へ運ばれた。
極楽寺流の祖で長時、時茂、義政、梨子の父。
鎌倉幕府第6代執権。だが、実質的には時頼の傀儡状態だった。
長時の弟で六波羅探題北方。作中では珍しい、史実通りに若くして病没した人物。
長時の子で時茂の死後、六波羅探題北方となる。弓の名手で二月騒動で時輔の討伐を命じられた際は時輔の左腕を射抜いたが、最終的には討ち取らずに逃がす。のちに泰盛と頼綱の派閥争いにおいて板挟みになり、さらには時輔を逃がした件もあり精神的に追い詰められて自害という結末を迎えることになる。
長時、時茂の弟で政村の死後、鎌倉幕府連署となる。甥の義宗が第43話で自害し果てた後は出家し、表舞台から姿を消す。
鎌倉幕府第7代執権。長時と時宗の代では連署を務めた。
幕府の重鎮で扇の要。第42話で病死するまで幕府のよき知恵袋として活躍する。その知識は時頼から幼き日の時宗に「人の心に迷いし時は実時殿じゃ。ただし、相手に聞く耳がないと知れば口を閉ざすゆえ、日頃の学問を怠るでない。」と言い聞かせておくほど。
時宗に自分の病を見抜かれたことから、時宗が病を抱えていることに気付いた数少ない人物でもある(時宗は「儂は壮健じゃ。10年でも20年でも生き抜いて、この国の安泰を見届ける。」と返し、自らも病の身であることは明かさなかった。)。
彼の死後、泰盛と頼綱の対立が表面化することになる。
実時の子。実時とは前妻(顕時の母・離縁後に自害している)との離縁及び政村の娘との再婚が原因で確執があり、一時期は酒に溺れて荒れていた。この確執は長きに渡り、引きずられることになる。最終話では病により隠退した時宗に蒙古国内で身内の反乱が起こったことにより日本を襲えなくなったことを報告し、時宗を涙させる。
幕府の重鎮。時宗のよき相談役で、無学祖元を紹介した。ちなみに作中では最終話まで登場し、時宗が亡くなるその時まで長老として健在だったが、史実では文永の役の翌年に亡くなっている。
名越北条氏。反得宗。妹や弟に比べて冷静沈着。二月騒動で名越北条氏が攻められた際、自害。
時章、桔梗の弟。反得宗。兄に比べて血気盛んな性格。時宗の妻子に刺客を送り、二月騒動を引き起こす。
足利家の当主。
泰氏の子で時輔の烏帽子親。母は時頼の妹。足利家の中では穏健派。最期は師氏によって強制される形で毒殺される。
頼氏の子。
- 桔梗 (演:原田美枝子)
時章の妹で足利泰氏の前妻。得宗家によって離縁させられたことを恨んでおり、作中で不審な行動(教時に刺客を送るように命じる、その首謀者として時輔の名を挙げる等)をとり続ける。
最期は師氏によって殺害される。
足利家の執事。足利家に害をなすものは例え身内であろうと手にかける。
鎮西奉行。蒙古襲来の際は老体に鞭打って奮戦するも、弘安の役にて戦死する。
資能の子で蒙古襲来時の実質的な大将。
九州御家人。
九州御家人。
九州御家人。文永の役では一番名乗りをするが、そこをてつはうで攻撃されて爆死する。なお、実際は戦死していない。
鎌倉幕府・第4代・征夷大将軍。時頼と幕政の主導権をめぐって対立するも権力争いに敗れて京都に追放される。後、時頼が放った刺客に息子の5代将軍・頼嗣とともに殺害される。
鎌倉幕府・第6代・征夷大将軍。長時や名越北条氏、足利家ら反得宗の面々と手を組んで得宗家を倒そうともくろむ。が、最終的には出家させられ、失意のうちにお亡くなりになる。この際、鐘の音とともにくしゃくしゃになった彼の顔の静止画が5秒間流れた。
鎌倉幕府・第7代・征夷大将軍で宗尊親王の子。父が追放されたのち、3歳で将軍になった。その際に自分の両親が鎌倉にいない理由を時宗から説明され、「まろはお前が嫌いや!」と時宗の頬を扇でひっぱたく。その後も将軍としてたびたび登場する。
関白。六波羅探題南方時代の時輔と交流する。作中での彼の最期は時の帝・亀山天皇の目の前で自害という、普通なら絶対にありえない最期だった。ちなみにこの時、病(時輔に「勝手に朝議を開かれた」とあたるシーンで吐血している。)で余命いくばくもないという描写もある。
モンゴル帝国第5代皇帝。
水軍松浦党の頭領。謝国明の友人。史実では文永の役の際に3人の息子共々戦死しているが、作中では文永の役後も少しだけ生き残り、時宗に木刀で斬り合わせることによって文永の役で戦死した者達の言葉を聞かせに行く等、復讐に生きるようになる。最期は元の大都にてクビライを暗殺しようとして返り討ちにされる。その遺灰は桐子によって一握りを残し、海に撒かれた。
佐志房の長男。
佐志房の二男(養子)。高麗生まれ。
佐志房の三男(養子)。
佐志房の養女で足利泰氏の隠し子。俺女。幼少のころから時宗との交流がある。幼い頃に母を地震で亡くし、文永の役で義兄弟3人を亡くしたことから孤独と自らを孤独にさせた戦を嫌う。一時期、時宗に直訴するために足利家に入り一人称も「私」となるが、目的を果たした後はすぐに松浦に戻った。最終的には房の跡を継ぎ、水軍松浦党の新頭領となる。最終話でそのことを時輔から知らされた時宗は「よき長になりましょうな」と感銘を受けると同時に、もう彼女に逢えないという現実に涙を浮かべた。
なお、原作小説では密偵となった時輔と結婚しているが、弘安の役で亡くなってしまう。
時頼達が諸国漫遊の旅で出会った貧しい武士。鉢ノ木伝説の人物。
宋出身の博多商人。
- 美岬 (演:藤あや子)
謝国明の妻で謝太郎の母。蒙古の使者をもてなした際、大元への怒りを爆発させた勇の攻撃を庇って殺される。
- 謝太郎 (演:松重豊)
謝国明の子。神出鬼没の商人で、時宗と時輔の決闘を2人以外で唯一目撃している。様々な人物と繋がりがあり、長時暗殺の際に泰盛を八郎のところに案内したり、八郎を時宗のところへ連れてきたりと随所随所で活躍を見せる。なお、原作小説ではドラマ以上に大活躍をしている。
日蓮宗の開祖。このドラマでは思想家として描かれている。温厚な性格として描かれる本作の時宗を本気で怒らせた数少ない人物。
宋出身の僧侶で円覚寺の開祖。第33話あたりから体の不調を感じていた時宗に余命宣告をした。その後も時宗に煩悩を捨て己が道を進むように進言する等、終盤の時宗の心を支えた。
OP
全編フルCGで構成されており、『時宗が夢の中でまだ見ぬ大陸に思いをはせる』というのがコンセプト。動画の1:27~1:42部分は毎回ストーリーに合わせて荒れ具合が変化する。
冒頭の石碑に刻まれた文字は『クビライが生涯で戦ってきた相手の名前』であり、『北条時宗』の文字以外はすべてモンゴル文字(それに合わせ、今作の題字もモンゴル文字風となっている)。
特徴的なテーマ曲は栗山和樹の作で、女声ヴォーカルはモンゴルのオルティンドー歌手・ナムジリーン・ノロヴバンザドによるもの。なお、ノロウバンザド氏はドラマが放映された翌年末に亡くなっている。
余談
- ドラマ放映の前年末に放映された第51回NHK紅白歌合戦で、和泉氏は『翌年の大河ドラマ主演俳優』として史上初めて司会(白組担当)に抜擢される。また、審査員として時頼役の渡辺氏、桐子役の木村氏が、応援ゲストとして涼子役の浅野氏が出演。
- 番組のポスターや当時販売されていたテレホンカード等に掲載されていた時宗の写真は甲冑姿(メイン画像参照)であることが多いが、劇中で時宗がこの甲冑を着用したのは全49話のうち、第27話『ご謀反許さず』の終盤から第28話『あの兄を討て!』にかけて起きた二月騒動における名越兄弟討伐シーンのみでほとんどは着用しない状態での登場だった。ちなみにこの甲冑は撮影中に誕生日を迎えた和泉氏にプレゼントされた別注品(櫃箱に和泉家の家紋が入っている。ちなみに値段は400万円とのこと。)で、ドラマ終了後は和泉家の『時宗部屋』のオブジェとなっている。毎年、端午の節句になるとお飾りのひとつとして出されているとのこと(『ダウンタウンDX』出演時の和泉氏本人発言より)。
- 史実で若くして病没した一部の人物の死因が変更されている。また、一部の人物は史実よりも長く生きている。また、主人公である時宗をはじめとした大多数の人物が最後まで剃髪した姿を見せずに退場している。
- 時宗の死後に起きた霜月騒動と平禅門の乱は後日談として、覚山尼のナレーションでその顛末について少し触れられる程度の扱いだった。
- ドラマ放送の翌年には舞台化される。ストーリーは原作小説とドラマを掛け合わせた内容となっている。時宗役の和泉氏、謝国明役の北大路氏はこの舞台版にも引き続き同じ役で出演。