概略
私的な企業や財産を公的な国家や社会が所有・管理し、貧富の差をなくして平等な社会を実現しようとする思想。英語での「Communism、コミュニズム」はフランス語の「コミューン」(共同社会、自治、語り合う)からきている。漢字での「共産」は「財産を共有する」という意味でできている。根本には太古より人類が平和にすむ夢の世界(ユートピア)という考え方が存在しており、その世界を現実に実現するという思想から始まっており、その起源は古代のプラトンなどの思想にまでさかのぼる。
シンボルは赤で、赤旗や星のマークが使われることが多い(組織や国によっては鎌と槌、穀物の穂、歯車などが使われる)。
「共産主義」と言えば19世紀のドイツでマルクスとエンゲルスによって確立された科学的社会主義を指すことが多い。一般に、共産主義や社会主義は、進歩的な革新的な思想とされ、「左翼」「左派」に分類されている。
共産主義と社会主義の違いについては様々な見解があるが、マルクスやエンゲルス自身は社会主義と共産主義を明確には区別せず、同じような意味に使っていたようである。一応、共産主義は社会主義の派生系・発展型という関係にある。
マルクスは長年、経済学を研究し、資本主義が発達しても労働は楽になるどころかかえって長時間・過密になり、失業は増え、賃金はぎりぎり以下にまで切り下げられ、富は一部の人に集中することを解明した。マルクスは、貧困に苦しむ多数の賃金労働者が科学的な社会主義に導かれて団結するなら、資本家階級の手から権力を奪取し、資本を社会的所有に移し、社会問題の根本的解決を図ることが可能になると考えた。
マルクスらはこの社会主義革命は発達した資本主義国で、民主主義を経験した労働者を中心に起こると考えたが、今までのところ社会主義革命が起こったのはロシアや中国などの遅れた専制国家や植民地であった。従来の「社会主義」国でみられた一党独裁体制も、それまでの皇帝や独裁者のやり方にその国民が慣れており、民主主義を経験したことがないという事情がある。
これは、マルクスの思想に感銘を受けた一部の知識人達が中心となって革命を起こしたためであり、労働者は彼らに煽られる形で革命に参加したからである。したがって、マルクスが想定していた社会と、ソ連や中国などの共産主義の社会は、明確に異なるものである。
革命により成立した旧来の社会主義国においては、国内の反革命武装勢力や諸外国による干渉に対処するため一党独裁体制が敷かれた。平和が戻った後も、共産党が実権を握り続け、共産党の役職者が首相や市長を兼ねる体制が続いた。
市場経済や民主政治などを受け入れた社会民主主義(ソーシャルデモクラシー)も生み出されたがソ連からは受け入れられなかった。
共産党の原理など☭
原始共産制
人類は数百万年にわたって、原始共産制とよばれる長い時代を過ごしてきた。食べ物は分け合わなければ餓死するいう時代であった。私有財産や財産をめぐる争いが始まったのは、今から数千年前のことにすぎない。
初期
古くはギリシャのプラトンが厳格な共産制を含む「哲人政治の行われる理想国」を提唱した。キリスト教にも「乏しい食べ物を皆で分かちあう」「隣人愛」「神の前には平等」といった共産主義に似た思想が見られる。
近代
『人間不平等起源論』を書いたルソーなどの啓蒙思想家に続いて、サン・シモンやフーリエが社会風刺や理想社会の描写をおこなった。イギリスのロバート・オーエンは、幼稚園の創設、協同村の建設などをおこない、労働組合運動や協同組合運動の発端となった。
19世紀にはヨーロッパで産業革命以降、大量の労働者が生み出されたが、経済が発展しても、労働者の生活は少しも良くならない状態になっていた。この状況の中でマルクスとエンゲルスは資本主義はいずれ行き詰まり、共産主義の世界に変わると考えた。マルクスの提唱後、世界中に少しずつ広まり、国際的組織・インターナショナルが結成された。
20世紀前半
1914年、第一次世界大戦末期のロシア帝国でレーニン率いる革命勢力が蜂起しロシア革命が成功。内戦を経て1922年に世界初の共産主義国家・ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連・ソビエト連邦・ソビエト)が建国された。後進国であるロシアで共産主義革命を起こすことには内外から反対意見も多かったが、レーニンはボリシェヴィキ以外の革命勢力を弾圧して急進的な社会主義国家建設に邁進。共産党一党独裁への道を敷いた。
レーニンの死後、ソ連一国で共産主義は実現できるとしたスターリンは、世界的な社会主義革命を主張したトロツキーを追放し、反対者を徹底的に弾圧(粛清)した。スターリン独裁体制の下でソ連の国内基盤は固められ、第二次世界大戦ではナチスドイツとの戦いに勝利。ソ連は東欧を共産主義化することに成功した。加えて、アジアや南米でも共産主義国家の建国が相次いだ。世界はソ連率いる東側陣営とアメリカ率いる西側陣営に分かれる冷戦の時代に入った。
20世紀後半
核兵器を保有した米ソの対立はキューバ危機をはじめ核戦争の危機をはらんだものとなり、朝鮮戦争やベトナム戦争など両陣営の代理戦争が頻発するようになった。
東側陣営の盟主としてアメリカと並ぶ超大国の座にのし上がったソ連だが、これはソ連の侵略によって実現されたものであった。チトー率いるユーゴスラビアは当初からソ連陣営に加わらずに親西側の独自路線を進め、ソ連と鋭く対立した。
ソ連に頼らず革命を成した毛沢東率いる中華人民共和国は独自の毛沢東思想を主張し、中ソで思想方針の不一致が表面化するようになる。特に、キューバ危機をきっかけに、ソ連の姿勢を中国側が強く批判したことで、長きに渡る中ソ対立が生じ、各国の共産主義勢力の混乱と分断を招いた。
金日成率いる北朝鮮は中ソの対立を見て、等距離の関係と独自路線を模索し、金一族の専制を正当化する主体(チュチェ)思想を国是とするようになり、後に主体思想は共産主義とは立場を異にすると宣言した。
1968年、ソ連の衛星国だったチェコスロバキアは、「人間の顔をした社会主義」を掲げ、民主主義に基づく社会主義への道を歩みはじめる(プラハの春)。民主化の動きが自国に及ぶことを恐れたソ連と衛星国は同国へ武力侵攻し、民主主義に基づく社会主義への歩みは挫折を余儀なくされた。これ以降、西側の共産主義勢力は東側の共産主義への幻滅を深めるようになる。
西欧や日本では一党独裁に積極的に反対し、議会制民主主義を擁護する「ユーロコミュニズム」と言われる動きが生まれる。その一方、毛沢東思想などに感化された過激派が各国社会で暴力的な学生運動や赤軍派によるテロ活動を起こすこともあった。
チリでは1970年に民主的選挙で社会主義革命が成されたが、アメリカの援助を受けた陸軍によりクーデターが起こされ、政権は転覆された。クーデター後のチリでは世界で初めての新自由主義改革が実施され、1980年代以降、多くの国に影響を与えた。
1970年代のカンボジアはベトナム戦争の余波を受けて内戦になり、ポル・ポト率いる共産勢力のクメール・ルージュが親米政権を倒し、毛沢東主義に基づいた独裁体制を敷いた。その体制下では、世界史上有数の大虐殺が起こった。さらに、親中的なカンボジアは親ソ的なベトナムと対立し、最終的にベトナムがカンボジアを侵攻したことでポル・ポト政権は崩壊。このベトナムに対し、中国は懲罰と称して侵攻を試みるも撃退された(中越戦争)。
1980年代、東側各国は政治の硬直化と長引く経済停滞を打開するため、ソ連ではゴルバチョフがペレストロイカを、中国では鄧小平が改革・開放を、ベトナムではドイモイ政策により市場経済の導入を進めた。この動きの中でソ連は衛星国への統制を緩めたが、1989年に東欧諸国ではベルリンの壁崩壊や東欧革命が起き、各国は次々と自立、東側陣営は次々に切り崩された。1991年には連邦を構成していた各共和国が独立し、ついにソ連は解体した。
東欧革命の頃、中国でも民主化運動が起こったが、中国政府はこれを徹底的に弾圧した(天安門事件)。中国政府は、経済の自由化は進めても政治の民主化は進めない方針を明確にした。
21世紀
ヨーロッパの共産主義政党の多くは社会民主主義政党に衣替えした。その一方で、ロシア、中南米、インドなどでは今なお共産党が多くの支持を集めている。南米においては、共産主義政党はベネズエラのウゴ・チャベスらが提唱する「21世紀の社会主義」に参画していたが、後に批判を強め政権から距離を置いている。
現在、共産主義を国是としている国は、キューバを除いて経済発展優先の政策をとっている。中国共産党は市場経済の発展は社会主義への移行の前提条件であると主張している。
21世紀、各国で社会主義的諸制度や規制を撤廃する新自由主義改革が推し進められ、資本家と労働者の貧富の差が再び拡大している。グローバル化が唱えられる中、先進国の労働者は没落し貧困層に転落しつつあり、急激な経済発展が進む発展途上国においても環境破壊や貧富の拡大など資本主義の生み出した歪みが顕在化している。この状況の中で資本主義はいずれ行き詰まると思われるが、その処方箋の一つが共産主義ではないかと考える人もいる。
日本
日本では大正末期から昭和初期にかけて共産主義が知識階層の若者に流行した。政府は共産主義を危険思想として厳しく摘発・弾圧し、国民の政治参加(普通選挙)と引き換えに治安維持法を制定。当初は共産主義と無政府主義の取り締まりを名目としていたが、この法律を利用して宗教団体や、右翼活動、自由主義等、政府批判はすべて弾圧の対象となっていった。
第二次大戦後、共産主義勢力がまとまった政治勢力として復活し、公然と活動を開始した。
冷戦下の日本で、日本の保守勢力はアメリカ西側の一員としてソ連と対峙する「単独講和」を主張したが、親ソ連の共産主義勢力は東西陣営のかけ橋となることを目指す社会民主主義勢力と手を組み、中ソを含めた全連合国と和解する「全面講和」を主張した。この相容れない左右の対立は日米安保条約反対運動でピークに達した。
1950年代から1960年代にかけ、ソ連の干渉や中ソ対立の中、日本共産党は平和的な革命を目指す独自路線を確立した。これは西欧におけるユーロコミュニズムの流れと歩調を共にしていた。日本共産党を非難し暴力革命を主張する過激派は新左翼とも呼ばれた。彼らは多くのテロ事件を起こし、後の日本で左派勢力のイメージを悪化させる一因となった。
高度経済成長期、自民党の推進する経済発展優先の「開発主義」に対して、日本共産党と日本社会党は日本は福祉国家を目指すべきと主張した。公害や地域間格差など開発主義のもたらした歪みが顕在化したが、佐藤栄作・田中角栄らは開発主義を推し進めた。その一方で、自民党は社会保障の一定程度の充実にも着手することで左派勢力の存在意義を低下させた。こうしたこともあって、一時期、「日本は世界で最も成功した共産主義・社会主義の国だ」と評された。
1970年代後半以降、社会党と日本共産党の協力関係は壊れ、左派勢力の国政への影響力は低下していった。またこの頃、先進国ではいずれも共産主義の影響を受けた左派の過激な労働活動に悩まされ、イギリスの鉄道業やアメリカの自動車産業などのように壊滅、あるいは壊滅の一歩手前まで追い込まれたが、日本では国家や資本側ではなく、本来自らが味方するはずの一般市民の逆鱗に触れ直接反撃を受ける(上尾事件、首都圏国電暴動)という珍事が起きている。ソ連崩壊後、社会党内部の共産主義を支持するグループが解体し、現在、日本で共産主義を志向するまとまった勢力は、日本共産党のみとなっている。
そのような中、左派勢力の緩やかな退潮傾向は続いていたが、2013年頃からこの流れは一転し、2013年の参議院選挙で日本共産党は515万票を獲得し、議席を倍増させた。さらに2014年の第47回衆議院議員総選挙では、改選前の3倍近い21議席を獲得し、野党第2党へと躍進した。しかし、民主党を離れた有権者の票が流れて来ただけであり、共産主義・社会主義の思想に賛同する人間の数が増えたわけでもない。
加えて本来、日本共産党が担当すべきである労働問題や子育て支援についても、自民党や自民とも無関係な各地の首長ら、無党派の議員らが率先して解決を目指している傾向にあり、党本来の存在義意を失いつつある。国民が誰も興味を持っていない憲法9条や原発問題にこだわり過ぎていた代償であろう。2015年以降も特に国会に対してこれらの問題を解決するような法案を全く上げておらず、所属する議員のもほとんど関心を持っていない。
また、若い新規加入者がほとんどいないために、党員数が年々減りつつあり、今後の存続に関しては非常に難しいと言われている。
関連タグ
人物
マルクス レーニン スターリン 近衛文麿 毛沢東 金日成 金正日 ホー・チ・ミン ポル・ポト チェ・ゲバラ カストロ
共産主義(またはそれに類する)国家
ソ連(ソ連構成国)※ 中華人民共和国 ベトナム カンボジア キューバ モンゴル人民共和国※ ユーゴスラビア※ ルーマニア社会主義共和国※ 東ドイツ(ドイツ民主共和国)※ チェコスロバキア※
(※印は、2014年年現在共産主義政権がすでに崩壊した国)