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ドストエフスキー

どすとえふすきー

ロシアの小説家・思想家。代表作は『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』など。
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To live without Hope is Cease to live.(希望を持たずに生きることは死ぬことに等しい。)

誘導



概要

フョードル・ドストエフスキー(フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー)は、ロシアを代表する小説家である。というか地球を代表する文豪である。

世界的な文化や文学に与えた影響は大きく、当然日本文学とてつもなくでかい影響を受けている

特に日本の文化の中では、手塚治虫に与えた影響の大きさが挙げられ、「ボクの長編の基本は『罪と罰』なんです」と語ってることから、間接的に日本漫画文化を作り上げたと言っても過言ではない。

代表作は『罪と罰』『白痴』『未成年』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』など。

現在も世界中のクリエイターからのリスペクトが絶えない天才の中の天才である。

ロシアソ連における受容

 ドストエーフスキイの最初の全集は1881年に出版された(A. Toliverova: Dostoevsky: In Memoriam. In: Peter Sekirin (Hrsg.): The Dostoevsky Archive. Firsthand Accounts of the Novelist from Contemporaries’ Memoirs and Rare Periodicals. McFarland, Jefferson, North Carolina 1997, S. 260.)。1883年、ドイツ系ロシア人のオレースト・ミールレルと、ニコラーイ・ストラーホフが初のドストエーフスキイの伝記を出版し(Joseph Frank: Dostoevsky. The Seeds of Revolt, 1821–1849. Princeton University Press, Princeton, New Jersey 1976, S. 26.)、すでに1915年には4つの長編(『白痴』、『罪と罰』、『ニコライ・スタヴローギン〔『悪霊』〕』、『カラマーゾフの兄弟』)が映画化されていた(Quelle: Fjodor Dostojewski in der IMDB. Abgerufen am 2. Dezember 2013.)。

10月革命以後

 ドストエーフスキイの受容は、すでに19世紀には二律背反的な側面を持っていた。1875年、ニコラーイ・ミハイローフスキイが彼の左派新聞『祖国の記録』に小説『未成年』を取り上げた際、彼は自分の雑誌の予約購読者たちに、なぜ反社会主義的な小説『悪霊』の作者に紙幅を割いたのか説明しなければならなかった。ソ同盟の時代に入ると、その二律背反はより大きな問題になった(Marc Slonim: Dostoevsky Under the Soviets. In: Russian Review. Band 10, Nr. 2, 1951. Artikelvorschau. Abgerufen am 3. Dezember 2013.)。

 ドストエーフスキイが革命闘争の暴力的な手段に反対し、キリスト教を説き、無神論に敵対していたことから、マルクス・レーニン主義の文学研究は、ドストエーフスキイを「階級の敵」、「反革命」と評価しない訳にはいかなかった。プロレタリアの文化を形成するという使命の中、革命派の文学研究はやむを得ずドストエーフスキイを「近代」の話題から外すか、不都合な問題については沈黙を保ち、彼の作品をイデオロギー的な要求に順応させることにした。(ономарёв Е. Р. Ф. М. Достоевский в советской школе // Достоевский и XX век : научное издание / Под ред. Т. А. Касаткиной. — М.: ИМЛИ РАН, 2007. — Т. 1. — С. 612—624.)。

 ドストエーフスキイの著作は、芸術的価値については疑う余地のないことから、かつてなく高い部数で発行されていた。1926年から1930年の間に、ソヴェトの国営の出版社はボリース・トマシェーフスキイが編集した3冊の全集を出版していた(Dostoevsky in Soviet Russia. Abgerufen am 3. Dezember 2013.)。

 1918年には、モスクワでドストエーフスキイの記念碑が除幕され、影響力のある批判者ヴァレリヤーン・ペレヴェールゼフの下、その立場が「多くの穏健なマルクス主義者たちを代弁していた」とされ、作家に「革命予言者」という賛辞が述べられた(Dostoevsky in Soviet Russia. Abgerufen am 3. Dezember 2013.)。

 1921年、ロシヤ社会主義連邦ソヴェト共和国教育人民委員А・В・ルナチャールスキイは、Ф・М・ドストエーフスキイ生誕100周年の祝典の演説の中で、彼を「ロシアの偉大な作家で、偉大な預言者」と評価した。「ドストエーフスキイは単なる芸術家ではなく思想家だ……ドストエーフスキイは社会主義者だ。ドストエーフスキイは革命家だ!……愛国者だ」(Луначарский, А. В. Достоевский, как художник и мыслитель // Красная новь : журнал. — 1921. — № 4. — С. 204—211.)。

 1929年11月20日、А・В・ルナチャールスキイは、Ф・М・ドストエーフスキイに充てられた祝典で開会の辞を述べ、「我々の文学における最大の作家であり、世界の文学の最大の作家の一人」と言及した(Переверзев В. Ф., Риза-Задэ Ф. Достоевский Федор Михайлович // Литературная энциклопедия. — М.: Изд-во Ком. Акад., 1930. — Т. 3.)。

 ドストエーフスキイは「その公式には貴族の出自にもかかわらず、ロシアの雑多な階級の代表者であり、町人たちの代表者であった……ドストエーフスキイは有害だろうか? いくらかの場合には非常に有害だが、それは、私が『図書館や舞台で彼を継続して禁書にすべきだ』と考えているという意味ではない」(Хлебников Л. М. Вступительное слово на вечере, посвящённом Ф. М. Достоевскому. Наследие Луначарского.)。

 しかしドストエーフスキイの著作に表出している、哲学的、イデオロギー的、宗教的な、マルクス主義に対して正反対の異議を唱える見解は、厳しい批判にさらされざるを得なかった(Marc Slonim: Dostoevsky Under the Soviets. In: Russian Review. Band 10, Nr. 2, 1951. Artikelvorschau. Abgerufen am 3. Dezember 2013.)。

 1913年、「ドストエーフスキイの『反動的』な立場は、彼の芸術的な天才によって許容されうるものではない」と主張し、レーニンからも賛意を得ていたマクシーム・ゴーリキイは、ドストエーフスキイの最も鋭い敵対者と考えられている(Maxim Gorki: Über Weltliteratur. Aufsätze. Reclam, 1969.)。

 レーニンはドストエーフスキイを小説『悪霊』だけでなく、チェルヌイシェーフスキイの哲学に対して批判的な『地下生活者の手記』によっても否定した(Robert Louis Jackson: Dialogues with Dostoevsky. The Overwhelming Questions. Stanford University Press, Stanford, California 1993, S. 121 f.; Dostoevsky in Soviet Russia. Abgerufen am 3. Dezember 2013.)。

 レーニンは小説の読書に多くの時間を費やすことができず、またそれを欲してもいなかったが、イネッサ・アルマンドに宛てた有名な「最も醜悪なドストエーフスキイ」(1914年)という表現を受けて、革命派の文学者たちも指導者の遺言に習わざるを得なかった。1920年代から1930年代には、ドストエーフスキイは公式の路線においては完全に否定される場合が多かった(Шаулов С. С. Религиозность Достоевского как методологическая проблема советского литературоведения. — В: Евангельский текст в русской литературе XVIII-XX веков: цитата, реминисценция, мотив, сюжет, жанр: сб. науч. тр., вып. 7 // Проблемы исторической поэтики : ежеквартальный рецензируемый журнал / Отв. ред. В. Н. Захаров. — 2012. — Вып. 10, № 3. — С. 216—223.)。

 ドストエーフスキイの著作の内容だけが、議論の余地があると考えられたのではなかった。1920年代に行われた彼の書簡の「形態」に関する議論からは、ロシア語圏がこのテーマを巡って生み出した最も有名な著作の一つ、ミハイール・バフチーンの『ドストエーフスキイの詩学』(1929年)が生まれた(Dostoevsky in Soviet Russia. Abgerufen am 3. Dezember 2013.)。

 ドストエーフスキイの小説の構造の基本的な方針を、バフチーンは「ポリフォニー」にあると指摘した。ドストエーフスキイの小説の登場人物とは、様々な役割に振り当てられた作者の声の代表者などではなく、重なり合って声を交わし合う、自意識と世界観の自律的な担い手であるというものだった。ドストエーフスキイの個人的な立場は、彼の小説の中ではほとんど前面に出てはいないと彼は主張した(Reinhard Lauer: Geschichte der russischen Literatur. Von 1700 bis zur Gegenwart. C. H. Beck, München 2000, S. 366 f.)。

 多くのマルクス主義者たちはバフチーンのテーゼを拒絶し、そのうえ、出版された年には彼はカザフスタンへ追放されることになった(Dominick LaCapra: Rethinking Intellectual History. Texts, Contexts, Language. Cornell University Press, Ithaca, New York 1983, S. 292.)。

スターリン時代と社会主義リアリズム

 ドストエーフスキイの著作についての自由な議論は、社会主義リアリズムの時期には最悪の状況にあった。ヴィークトル・シクローフスキイは1931年から1932年にかけて、『死の家の記録』からモチーフを採って実験的な映画を撮影することを試みたが、社会主義プロパガンダ映画として終了した(Dostoevsky in Soviet Russia. Abgerufen am 3. Dezember 2013.)。

 ソ同盟作家同盟の議長として、ゴーリキイは1934年にドストエーフスキイの扱いに関する党の路線を決定し、その路線はスターリン時代の最後まで重視されねばならなかった。学問的な出版物は、その時からイデオロギー的な問題に集中していた。予定されていた書簡集と『悪霊』の単行本の出版は実現せず、1958年まで、グリゴーリイ・ロシャーリの『ペテルブルクの夜』を除けば映画への翻案も行われなかった(Dostoevsky in Soviet Russia. Abgerufen am 3. Dezember 2013.)。

 20世紀の20年代から30年代にかけてソ同盟の内部で行われた「反革命」と反セム主義に対する闘争の中で、「反セム主義者」「反革命」のドストエーフスキイは禁じられた作家とはならなかった。しかし小説『悪霊』『作家の日記』は全集においてのみ出版され、決して個別の出版とはならなかった。1935年に出版されたソヴェトの最初の文学に関する教科書には、ドストエーフスキイについての文章が存在した(Пономарёв Е. Р. Ф. М. Достоевский в советской школе // Достоевский и XX век : научное издание / Под ред. Т. А. Касаткиной. — М.: ИМЛИ РАН, 2007. — Т. 1. — С. 612—624.)。

 しかしФ・М・ドストエーフスキイの名は、1938年から1940年にかけて出版された第二版の教科書では、作家のリストから消えていた(Пономарёв Е. Р. Ф. М. Достоевский в советской школе // Достоевский и XX век : научное издание / Под ред. Т. А. Касаткиной. — М.: ИМЛИ РАН, 2007. — Т. 1. — С. 612—624.)。

 ドストエーフスキイの作品は、長い間学校からは撤去され(Фридлендер Г. М. Достоевский в эпоху нового мышления // Достоевский. Материалы и исследования / Редактор Г. М. Фридлендер. — научное издание. — Л. : Наука, 1991. — Т. 9. — С. 5. — 304 с.)、高等教育機関での文学研究のプログラムにおいてさえも姿を消していた(Погорелова, К. Достоевский в советской школе // II Международный симпозиум «Русская словесность в мировом культурном контексте»: избранные доклады и тезисы / Под общ. ред. И. Л. Волгина. — М.: Фонд Достоевского, 2008. — С. 535—537. — 614 с.)。

 ドストエーフスキイはソヴィエト権力が公認する作家のパンテオンに含められず、ソヴェトの学校において、浅浮彫(プーシキントルストイチェーホフゴーリキイマヤコーフスキイショーロホフ。もしくはプーシキン、ゴーゴリ、トルストイ、チェーホフ、ゴーリキイ、マヤコーフスキイ)の中に彼の肖像画が含まれることもなかった。

1940年代

 第二次世界大戦中、ロシア人愛国心を喚起する目的で「国民的英雄」が求められ、ドストエーフスキイは一時的に「名誉回復」を受けることになった。ヴラジーミル・エルミーロフによって、『悪霊』は「近代のファシズムの姿を優れた手腕で予言的に暗示した」とされた(Dostoevsky in Soviet Russia. Abgerufen am 3. Dezember 2013.)。

 党のイデオローグ、イェメリヤーン・ヤロスラーフスキイも、ドストエーフスキイを彼のドイツ人に対する偏見ゆえに称賛した(Wladimir Seduro: Dostoyevski in Russian Literary Criticism 1846–1956. Columbia University Press, New York 1957, S. 245.)。

 アルカージイ・ドリーニンとヴァレーリイ・キルポーチンは、イデオロギー的な主流からは外れたドストエーフスキイに関する本を出版した(А. Долинин: В творческой лаборатории Ф. М. Достоевского. Л., 1947; В. Кирпотин: Mолодой Достоевский. М., 1947.; В. Кирпотин: Ф. М. Достоевский. М., 1947.)。ドリーニンはドストエーフスキイを人類の、の概念を排して現れる未来の幻視者として擁護した(Susan McReynolds: Redemption and the Merchant God. Dostoevsky’s Economy of Salvation and Antisemitism. Northwestern University Press, Evanston, Illinois 2008, S. 4.; A. S. Dolinin: Stavrogin’s Confession. With Reference to the Composition of “The Possessed”. In: Soviet Studies in Literature. Band 23, 3‒4 (Sommer/Herbst 1987), 1987, S. 106.)。

 1940年代後半、ジダーノフ批判が徹底されていた時期、ドストエーフスキイは他のロシアの作家たちと同様、再び批判に晒されることになった。文化省は高等学校に対し、その生徒たちにドストエーフスキイの著作を「反動的でブルジョワ的な個人主義のイデオロギーの表出」として紹介するよう指示を与えていた(Wladimir Seduro: Dostoyevski in Russian Literary Criticism 1846–1956. Columbia University Press, New York 1957, S. 245.)。

 コンスタンチーン・モチューリスキイの有名なドストエーフスキイの伝記は、1947年、ソ同盟のものではなくパリの出版社によって出版された。

1955年から現在まで

 フルシチョーフの昇進によって、ようやく恒久的な緩和が訪れた。1955年、ドストエーフスキイ研究における方針はいくらか緩められることになった。1956年、初めてドストエーフスキイの肖像画を伴った切手が登場した。1971年には、さらに大きな肖像画を伴ったものが続いた。作家のヴラジーミル・ボンチ=ブルイェーヴィチは、ある論文の中で「レーニンがドストエーフスキイを極めて高く評価している」ことについて指摘した。1956年から1958年までの間に、レオニート・グロースマンが担当する10巻組の全集が出版された。新たな文学研究が現れ、十月革命以降初めて特筆すべき数のドストエーフスキイの小説の映画化作品が映画館に現れ、その中にはイヴァーン・アレクサーンドロヴィチ・プイーリエフの『白痴』(1958年)や、キリール・ラヴローフの『カラマーゾフの兄弟』が含まれている(Dostoevsky in Soviet Russia. Abgerufen am 3. Dezember 2013.; Fyodor Dostoevsky in der IMDB. Abgerufen am 3. Dezember 2013.)。

 1972年から1990年までの間に、ゲオールギイ・フリドレーンデルによって、出版上の偉業と評価を受けた、13巻組の批判的なアカデミー版が出版され、豊富な新たな二次文献、そして新たな翻訳版が活気を与えた(Ilma Rakusa: Glatt und fehlerfrei, Die Zeit, 10. März 1995)。

 1981年、アレクサーンドル・ザルヒーの劇映画『ドストエフスキーの人生の26日』が上映され、主演俳優アナトーリイ・ソロニーツィンがベルリン映画祭で最優秀男優として銀熊賞を授与され、国際的な注目を集めた(«Двадцать шесть дней из жизнь Достоевского» in der IMDB. Abgerufen am 6. Dezember 2013.; Jahrbuch Film 81/82. Hanser, 1981, S. 213)。

 レオニート・ツィープキンの小説『バーデン=バーデンにおけるひと夏』(1982年)は当初はアメリカ合衆国でのみ出版され、1999年になって初めてロシアにおいても出版された(Ein unbekanntes Meisterwerk. In: Neue Zürcher Zeitung. 11. Juni 2005.)。

 2011年、ロシアのテレビにおいて、ヴラジーミル・ホチネーンコ監督、イェヴゲーニイ・ミローノフ主演のミニシリーズ『ドストエフスキー』が放映された(Dostojewski. 5. Dezember 2013, archiviert vom Original am 4. August 2014; abgerufen am 8. August 2015.; Kaspar Heinrich: Drei Haselnüsse für Dostojewski, Die Zeit, 5. Dezember 2013.)。

有名なフレーズ

Если Бога нет, все позволено.

神がいなければ、全て許される。

-『カラマーゾフの兄弟』



совершенно без надежды жить невозможно

希望を持たずに生きることは死ぬことに等しい。

-『死の家の記録』



Любопытно, чего люди больше боятся? Нового шага, нового собственного слова они всего больше боятся.

いったい人間は何を最も恐れているだろう?新しい一歩、新しい自分自身の言葉、これを何よりも恐れているんだ。

-『罪と罰』



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