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藤田進

ふじたすすむ

日本の俳優である。(1912年〈明治45年〉1月8日 - 1990年〈平成2年〉3月23日)
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概要編集

1912年(明治45年)、福岡県久留米市京町出身。

1929年に大学受験のため上京するも失敗、その帰途京都に立ち寄り市川右太衛門プロダクション(右太プロ)で古海卓二の助監督を務めていた郷里の先輩を訪ねた際に俳優になることを勧められる。

その縁で1930年(昭和5年)に右太プロに入り、エキストラとして出演する。

1931年(昭和6年)に東亜キネマに入るも芽が出ず、1932年(昭和7年)に兵役に就き第12師団砲兵隊に入隊し対馬で勤務、1933年(昭和8年)に横須賀の陸軍重砲兵学校に入ったのち二等兵で除隊する。

1934年(昭和9年)にマキノ雅弘の京都映音に入るが、1935年(昭和10年)に『活人剣荒木又衛門』のロケ中に嵐寛寿郎に足蹴にされたことで憤慨、マキノから「お前も役者になり、立派なスターになってアラカンを見返してやれ」と諭され、撮影終了後に解雇される。

1939年(昭和14年)、再び俳優として立つことを決意して東宝ニューフェイス入社。当初は大部屋俳優だった。

1940年(昭和15年)に『妻の場合』で入江たか子高田稔と共演、素朴で真摯な二枚目として注目を受ける。

1941年(昭和16年)に『指導物語』で鉄道連隊の若き機関士役で主演を務めて以降、立て続けに主役に起用される。

1943年(昭和18年)には黒澤明の監督デビュー作『姿三四郎』に主演。

またその男性的な風貌から『加藤隼戦闘隊』の加藤建夫陸軍中佐役をはじめ、『ハワイ・マレー沖海戦』、『雷撃隊出動』など多くの戦意高揚映画に主演、軍人俳優として確固たる人気を得た。

1945年(昭和20年)に黒澤明監督の『虎の尾を踏む男達』撮影中に終戦を迎える。

1946年(昭和21年)に黒澤の戦後第1作『わが青春に悔なし』に戦時中に自由主義者として獄死する青年を演じ戦後の代表作となった。

1948年(昭和23年)、おりからの東宝争議大河内傳次郎長谷川一夫と共に「十人の旗の会」に加わり、新東宝映画の設立に参加する。このため、東宝に残った黒澤の作品からは離れることとなった。


1957年(昭和32年)からはフリーとなり、再び東宝作品を中心に、主に脇役として存在感を見せた。黒澤映画には『隠し砦の三悪人』(1958年)の脇役で復帰。その後も『用心棒』など3作に出演したが、ごくわずかな出演シーンにとどまっている。


特撮作品では司令官役が多く、テレビの『ウルトラセブン』にも地球防衛軍ヤマオカ長官、『帰ってきたウルトラマン』でも地球防衛庁・岸田長官としてセミレギュラー出演していた。

戦後の戦争映画でも司令官・幹部役を多く務めた。


1990年(平成2年)3月23日午後8時15分に肝臓癌のため、日本赤十字社医療センターで死去(78歳没)


主な出演作品編集

映画編集


テレビドラマ編集


関連タグ編集

戦争映画 俳優 雷撃隊出動 燃ゆる大空

あの旗を撃て ハワイ・マレー沖海戦 ウルトラマン

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