石田三成(史実)
生涯
- 生誕:永禄3年(1560年)
- 死没:慶長5年10月1日(1600年11月6日)
永禄3年(1560年)に近江(滋賀県)で石田正継の次男(三男とも)として生まれる。幼名は佐吉。
元は近江で寺小姓をしていたが、羽柴秀吉にその才を見出されて配下となる。
賤ヶ岳や小牧・長久手の戦い等では、一応槍働き等もこなす形で直接的な戦闘もしている。しかし、小田原征伐では、忍城攻略の司令官を勤める事になるが、長大な堤防「石田堤」を築き水攻めを試みたが決壊し失敗。北条家当主・北条氏政が降伏し切腹した後も、延々と開城に持ち込めなかった事で、後年戦下手のレッテルを貼られてしまった。もっとも、近年この水攻めは秀吉の指示によるものであることがわかっている。
秀吉が天下人になるにつれて内政面を中心に活躍していく事になり、太閤検地や刀狩りの推進に務める。秀吉の九州征伐では二十万とされる兵士の輜重を大過なく運営。『鋭利なる吏僚』として重用される。その後は豊臣政権の中央集権化と官僚制を目指して苦心したが、後の秀次事件や五大老・五奉行制の導入によって叶わないものとなっている。
朝鮮出兵では朝鮮半島まで渡海。現場の支援や連絡を担当する役目を担っていたが、二度目の朝鮮出兵時には、現地の状況の悲惨さを強く訴える手紙を日本に送っており、毛利輝元の書状や「看羊録」などからも、三成は朝鮮出兵自体に悲観的だった様子が伝わっている。
このとき、命令違反や軍機違反を行ってしまう者を容赦無く批判した上で逐一秀吉に報告していた為に、秀吉の怒りを買ってしまったり、処罰されてしまう事になった加藤清正や黒田長政、そして司令官の役割を任され、自らの報告で領地没収・改易寸前にまで追い込まれた小早川秀秋から、激しい不信と憎悪を買ってしまう事になったとされる。
秀吉の死後の豊臣政権を任される五奉行の一人に抜擢される。
秀吉没後
秀吉の死後、五大老の筆頭格である徳川家康と連携する形で、朝鮮からの撤兵を決定。このあたりの時期で、五大老の一人である毛利輝元と接近する事になるのだが、五大老・五奉行の中でも知行と官位が段違いに上である家康の存在が、豊臣政権の脅威になると考えるようになった三成は、秀吉の死から僅か10日後、輝元を証人に前田玄以、増田長盛、長束正家の3人との間で、「豊臣政権を守る為に、秀頼の意思よりも五奉行の意思を優先させる」という起請文を交わす事になる。これは「徒党を組んではならない」という明確な秀吉の遺命破りであった。
これに対抗する形で、家康もまた禁止されていた大名同士の婚姻を行うという遺命破りに出ており、これを大きく問題として取り上げた三成は、豊臣政権でも強い影響力を持った前田利家に協力を求める形で大勢の大名達を集め、徳川屋敷への夜襲計画を立てて家康を武力によって排除しようと目論む。
しかし、徳川屋敷にもかなりの数の大名が集まり、しかも自身を止める為に交友関係にある大谷吉継までもが徳川屋敷での防衛をする事になった結果、深刻な武力抗争へと発展する事を恐れた利家の意向で、家康との間に和解が成立。目論みは大きく外れた上に、それからしばらくして利家本人もまた病没してしまう事になった。
その後、兼ねてより自身を恨んでいた清正、正則、長政、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明の七人からの襲撃を受けた三成は、懇意の佐竹義宣の手配により女輿に乗って逃れるものの、家康の差配により、五奉行から外されることになる。こうして政争に破れた形で、政治の表舞台から退き、自らが城主である佐和山城へ帰城する事になった。
挙兵
政権から外された三成は、復権と家康打倒を目的とした壮大な計画を考案。長盛、吉継、安国寺恵瓊を佐和山城に呼び集め、秘密会議を行い、朝鮮出兵を機に親交を深めていた輝元を西軍総大将に担ぎ上げる。
吉継は当初、三成の計画を無謀として諌めたが、当の三成は断固として実行する事を主張し続けた結果、止む無く吉継は自らが折れる形で協力する事になったとされている。
三成と親交のあった上杉家の直江兼続が直江状で家康を挑発する事で、家康が日本各地の大名を呼び集めて会津征伐に乗り出し出陣した隙を見計らって、あらかじめ協力を呼びかけていた吉継、恵瓊、島左近、宇喜多秀家、小西行長と共に大坂城へ入城。玄以、正家、長盛の三人と共に三奉行の連署による挙兵宣言を行い、家康の弾劾状を叩き付け、雌雄を決するべく、ついに「関ヶ原の戦い」へと突入する。
勘違いされがちであるが、関ヶ原の戦いにおける西軍の総大将は石田三成ではなく、毛利輝元である。ただし、これは大大名である毛利家に配慮したものであり、実際に挙兵を主導したのは三成とされる。実際、輝元は当時大坂城にいて関ヶ原には出陣していない。
かくして、実質的な西軍総大将として立ち上がった三成の、戦いの幕が上がる事になった。
関ヶ原の戦い
挙兵宣言後、三成は大坂城に居た諸将達の妻子達を人質として一箇所に集め、家康と共に行動している諸将達宛てに家康を打倒すべく三成につく内容を書いた書状を出させる。
しかし、三成は家康打倒にはやる余り、人質にされた妻子達や半ば強引に自軍へ引き込んだ大名達の動揺の配慮に欠けていた結果、細川忠興の妻であるガラシャが自害してしまう事態を招く。
その後も、三成は豊臣への忠誠・恩顧という大義名分を用いて各地の武将達に協力を呼びかけ、会津の上杉家、上田の真田家からも協力を得るのを確認した三成は、10万もの兵力にまで膨れ上がった西軍を率いて関ヶ原を舞台に家康を中心とする東軍と開戦する。
しかし、当初こそ戦闘は有利であったのだが、西軍の実情はバラバラだった。
毛利家はもともと家中の統率が取れておらず、三成と家康の明確な力の差を理解していた輝元の家臣・吉川広家は輝元に三成に協力しないよう説得し東軍に内通しており、奉行の増田長盛も予想以上に激化していく戦いを恐れて積極的に協力しようとしなかった。
更に島津義弘・島津豊久率いる島津家も、元々家康に協力するはずだったのを三成によってなし崩し的に協力させられていたに過ぎなかった上、前哨戦である墨俣の戦いでは三成の軍に見捨てられ、夜襲の提案でさえも三成に拒否された事で堪忍袋の緒が切れてしまい、憤慨した彼等に静観を決め込まれてしまう。そして、同じく巻き込まれただけである小早川秀秋に至っては、元々豊臣家で冷遇された上に家康に恩義があった為、伏見城の攻略に参戦しても、やはり三成への協力に抵抗感を抱いていた。
これらの実情を理解出来ず「豊臣家への恩顧」のみを主張して強引に戦力となる味方を集めた三成の計画は、この時点で既に穴だらけな状態にあったと言わざるを得ない。
やがて関ヶ原で両陣営は決戦を迎えるが、開戦からしばらくして、元々恩義のある家康につこうとしていた秀秋率いる部隊が、大谷軍に向けて攻撃を仕掛けるという裏切りが発生。これに呼応する形で、西軍側の武将達も、次々と東軍側へ寝返る形となり、形成は完全に覆されてしまう。
そして吉継は自刃。自らの快刀である左近も敵陣に突撃して消息不明となってしまい、三成は敗走を余儀なくされる事になった。
最後
ただ一人で敗走した三成が大坂城へと向かう中、居城である佐和山城も、秀秋率いる軍によって襲撃され、三成は兄や父、妻達を失ってしまう事になった。
やがて、自身の領地にある洞窟で農村民に匿われていた三成は、追捕隊に捕縛され、最終的には同様に捕縛された行長、恵瓊の二人と共に六条河原で斬首された。享年41。
人物
内政の手腕に優れ、豊臣政権の奉行として強い権勢を振るった人物。ちなみに、額が出っ張っていたらしく、周りから「才槌頭」と言われていたらしい。
主君に対しては誠意を持って仕え、「顔色を窺わずに直言する」と秀吉に評され、部下に対しては人を遇する道を知っていたとされる。また、領地でも善政を敷き、領民にも強く慕われていた。
豊臣秀長と同様、かなりの倹約家だったようで、関ヶ原の合戦の3日後に居城の佐和山城が落城した後に、城に乗り込んだ小早川秀秋、脇坂安治らの武将は、19万石の大名で秀吉に寵遇された三成の城は、さぞかし豪勢で私財を貯えているだろうと期待していたが、壁は板張りで上塗りされずむき出しのままで、庭には風情のある植木もなく手水鉢は粗末な石、金銀は少しもなく、あまりの質素さに驚いたという。
加藤清正や福島正則といったいわゆる「武断派」諸将に、特に朝鮮出兵を機会に憎まれ、こうした「武断派と文治派の対立」が秀吉死後の政争に繋がったとされるが、この時期の行動も諸将によってさまざまに異なり、ひとくくりに「武断派」「文治派」とくくれるものではない。
日本では合戦時において、民衆を巻き込まないことが掟とされ、戦国時代も例外ではなかったが、中には“合戦の間の気晴らし”として近隣の農村に押し入り、食糧や資財の略奪や婦女暴行などを行う者もおり、三成はこうした無辜の弱者への横暴を働いた部下を厳しく罰し、さらに法度まで設けて諫めたといわれる。
ただ、命の危険を伴う戦時中である以上、こういった不祥事について逐一秀吉に報告しては処罰するよう謹言する事は、現場で活躍する人間達からしてみれば不快を抱かれるのも致し方ない部分もある。
「水清ければ魚棲まず」と言う様に、あまりにも自分の理念や美学に拘り、それを他者に強いることも辞さなかった三成の清廉潔白すぎる姿勢が、同じく幼少期より秀吉に目を掛けられ戦場で必死に戦い続けていた清正や正則には、「傲慢になった」と映ってしまったのかもしれない。
なお、豊臣秀次を讒言によって貶めたと言う説などは現在では否定されている。
評価
三成について残された逸話の多くは、後世の創作の可能性が高いものである。
ほんの数年前まで、三成の評価はおおよそ良くなく、暴虐な悪政を働く秀吉に追従するだけの無能な奸臣というイメージが強かった。こういった印象や評価は江戸時代の講談を中心につくられ、その後も三成評価の主流だった。
こうした時代で、司馬遼太郎は石田三成に好意的で、小説「関が原」で「生真面目で、正論で人を厳しく糾弾する、それゆえ嫌われ者」である、極めて優秀だが青臭く不器用な三成を描き、後世に影響を与えている。
最近は三成に対する見直し、再評価が行われるようになり、ゲームで主役級の扱いをされて人気になり、大河ドラマでも「天地人」や「真田丸」では三成が好意的に描かれ、「豊臣一の忠臣」、「裏切りに次ぐ裏切りが原因で罪人に貶められた悲劇の義将」といった、不器用で清廉潔白な描かれ方をするようになってきている。これまでの悪辣奸臣ぶりとは180度変わってしまっており、歴史上の人物の中でも、近年もっともイメージの変わった人物の一人といえる。
ただし、あまりに見直しや美化が行われ、「義将扱いされている直江兼続と交友関係にあった」という史実から、一部の聞きかじりなライト戦国ファンの間では、「石田三成=正義の味方」、「徳川家康とその協力者=全員悪の権化」という極端過ぎる認識を招く事にもなっている。
そもそも、追い込まれた焦りから半ば強行的に戦いを起こし家康に敗北した結果、上杉・毛利という大大名は、戦いを起こした責任を取らされる形で一気に弱体化。真田昌幸や長宗我部盛親といった西軍側についた数多くの名立たる武将達も改易や幽閉に追い込まれる事になってしまい、更には東軍として活躍した武将達への論功行賞として、豊臣家の力も大幅に削られ、一大名のレベルに追い込む結果になってしまっている。
むしろ戦いがなければ、これだけの事をするのにどの程度時間がかかったかわからず、三成が多くの大名や武将達を巻き込んで強引に関ヶ原の戦いを起こした暴挙自体が、結果的に家康の征夷大将軍就任へと繋がり、豊臣を中心とする西側勢力の弱体化と共に徳川と豊臣の対立が深刻化するまでに悪化、最終的に大坂の陣にまで発展して豊臣家が滅亡に追い込まれるにまで至ったという見方もできる。
こういった部分も冷静に考慮しておくと、判官贔屓をしてまで三成の遺命破りから始まった関ケ原の挙兵を擁護・賛美してしまうのは、考え物かもしれない。
実際の所、豊臣政権の筆頭内政官と言う立場上、どこまでが秀吉の意向で、どこまでが三成の独断なのかわかりにくい。また、関ケ原での敗残の将であることから、手紙の類もほとんど廃棄されていて残っていない。その知名度に比して、実の所案外実態が見えにくい人物であり、江戸時代につくられた信ぴょう性の低いエピソードを排して比較的史実を踏まえたとしても、素直に忠臣として描くことも、野心に満ちた悪役として描くことも可能な、複雑な人物である。
(ただ最近の研究だと石田三成は反家康派だが、話し合いで解決しようとした穏健派だったが、加藤清正などの家康派が独断で石田家襲撃を起こし(なお家康はこの件にノータッチ)その結果
石田三成は家康たちを恨み、関ヶ原の戦いを起こした説があり、そのため一言に豊臣家衰退が石田三成だけの責任とも言えない。)
戦国無双シリーズや戦国BASARAシリーズといった近年におけるゲーム作品やその他のメディアミックス作品等では、真田幸村や直江兼続と同様、もっぱらイケメン武将として描かれる事が多く、大河ドラマでもイケメン俳優が起用されている事が多い。
逸話
この時代の多くの武将同様に、創作の逸話が非常に多い。
三杯の茶(三献茶)
鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が近江国長浜の観音寺(伊香郡古橋村の三珠院という説もあり)に立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、最初に大振りの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。
まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな心遣いに感じ入った秀吉は彼を連れ帰り、それが後の三成であったとされる逸話。
三成の逸話としては非常に有名であるが、創作である可能性が非常に高いとされている。
大谷吉継
大人数の茶席で茶碗を回し飲みしていた際、大谷吉継が口をつけた(または茶の中に膿が落ちた)茶碗を誰も飲むのを嫌がって、次の人へ回して行ったが、三成はためらわず茶を飲み干した。
この時以来二人は強い友情を持ったといわれる。
これまた有名ではあるが、「大谷吉継はハンセン病ではなかった可能性が高い」「そもそもこの逸話は、初出では三成ではなく秀吉が登場していた」など、複数の観点から創作の可能性が高いとされている。
島左近
筒井家から出奔した島左近を部下として射止めた際、当時まだ出世街道駆け出しであった三成は自身の俸禄4万石の内の2万石を与えるという、破格の待遇で左近を手中に収める。その後、二人三脚で出生街道を突き進み有力大名となった三成は、左近の俸禄を30万に引き上げようとしたが、左近は『自分はあなたの心意気に惚れて仕えている』といい、その申し出を断ったとされる。
なお、この逸話の真偽ついては不明な点も多いものの、三成が左近を重用したことは事実であり、左近もまた関ヶ原の戦いでは三成の敗走を助けるべく、東軍へ特攻を仕掛けて散っている。
似たような話ではあるが、三成がまだ500石の俸禄の折に、柴田勝家、豊臣秀吉からの仕官の誘いも蹴った渡辺勘兵衛新之丞を召し抱えた。それに驚いた秀吉がどうやって雇えたのか聞いたところ、「500石、すべて彼に与えました。今では私が彼に養われております」と答えたという話もある。もっともこの契約には、将来、三成が100万石を所有する折には10万石を与えるという約束もしていたという。
その後、三成は俸禄も増えたので、何時までも500石という訳にはいかないだろうと勘兵衛の俸禄を上げようとしたが、彼は三成が100万石の大名になった折に10万石を頂くので今はいらないと固辞し続けたと言う。
真田信之
信之の叔母は三成の妻であり、二人は懇意の仲で手紙のやり取りが多く、信之は手紙を寝ずの番を付けてまで保管していた。後に明治に入った頃、真田家伝来の家康拝領の短刀が入っていると思われていた長持に、信之宛の三成からの書状など、真田家にとって不利になる危険な機密書類が納められていた事実が判明し、長野県「真田宝物館」に保存されているという。ただ、特に隠す事なく普通に整理されていたとも言われる。
詳細については真田信之の項に詳しい。
佐和山
三成治下の佐和山はその善政によって民は豊かになり、「三成に過ぎたるものがふたつあり。島の左近 (島左近)と佐和山の城」と言われるほどだった。 ちなみに三成の善政を示すものとして、古橋の領民が凶作で苦しんでいたとき、三成は年貢を免訴して領民を助けたり、様々な法令を制定して領内を整備するなどの手腕を発揮している。三成が関ヶ原で敗れて敗走している間の動向は諸説あるが、領地の百姓が命懸けで岩窟にかばったエピソードが残されている。
その後処刑されたことを知った佐和山の民衆は三成の死を悲しみ地蔵を作ったという(亡くなる以前に作られ、彼が念持仏としていたとも言われる)。
この地蔵は「石田地蔵尊」と呼ばれ、現在も彦根城のそばにある浄土宗の寺院・宗安寺に安置されている。
また、領民が三成を慕っていた為、彼の後に領主となった井伊直政は、三成の統治法を踏襲すると領民に伝え、三成を弔うことも黙認したという。
戦略眼
明治の頃に来日し、陸軍大学の教官となり、日本の参謀本部を作ったドイツ参謀本部の将校クレメンス・W・J・メッケル少佐は、関ヶ原の戦いでの東軍と西軍の陣の配置図を見て、「どちらが勝った戦だと思いますか?」と聞かれた時、迷わず西軍を指したが違っていたことに大変驚いたという逸話。三成が武略に劣っていなかった事を示す逸話とされている。
現在では司馬遼太郎の創作として知られる。司馬自身は創作と考えていなかったと言う話もあり、何らかの資料に当たった結果、こうした逸話を知った可能性も有るが、その「何らかの資料」が不明であるため、推測の域を出ない。
また、関ヶ原の趨勢には小早川秀秋(以前は裏切り説が有力だった。現在は最初から東軍とされ、そもそも秀秋の布陣地には毛利輝元が布陣するはずだった)や、吉川広家(東軍に内通していた)の動向が大きく影響を与えたため、これを西軍として扱っていれば、西軍の勝利を確信するのは当然であり、布陣図だけを見て勝敗を判断する事にあまり意味はない。
加えて、実際に関ヶ原の戦いは三成が負けている訳で、仮にメッケルが説明を受けていたとしても「三成に武略があった」と言うよりは「メッケルに武略がなかった」と言う話にしかならない。
大将の器
三成が斬首される前、家康は捕虜となった三成を呼び出し、「どのような武将でもこういうことは昔からあることだ。恥じることはない」
と言って慰めたが、三成は臆した様子もなく、いかにも打ち解けた様子で
「ただ天運によってこうなったのであるから、さっさと首をはねてくだされ」
と語り、それを聞いた家康は
「三成は流石に大将の器量がある。源頼朝に助命嘆願した平宗盛とは違うな」
と感嘆したといわれ、三成の肝の据わった人物像が伝えられているが、「斬首寸前の逸話」と言うのは、三成に限った話ではなく、創作のものも多いため、どこまでが真実かは不明とされる。
創作物上の扱い
石田三成(戦国無双)
CV:竹本英史
『戦国無双2』から参戦。
詳しくはこちらを参照。
石田三成(戦国BASARA)
CV:関智一
『戦国BASARA3』より参戦。
詳しくはこちらを参照。
石田三成(采配のゆくえ)
豊臣家に忠誠を誓い、自分の信念に誇りを持ち、敵味方問わず誠実に相対する熱血漢。
真っ直ぐすぎて窮地に立たされることもままあり、若干ヘタレ。
石田三成(へうげもの)
CV:関俊彦
漫画『へうげもの』に登場、堅物で無愛想な人物として描かれている。
秀吉への忠誠は人一倍強い生真面目で、わずかに人間味を見せるが、数寄への理解は示さない。
眉毛がなくて何が悪い。
石田三成(かいこ)
うっかり戦国漫画かいこに登場する。眼鏡とヘアピン(?)、おおきなおみくじが特徴。
分かりづらい冗談を飛ばすことも。
石田三成(殿といっしょ)
秀吉の家臣にして漫才の相方(ボケ担当)。糸目。秀吉に三献茶で三段オチのボケを披露して才能を見出されて家臣となった。
大谷吉継とは「みっつん」「よしぶー」と呼び合う仲で、お笑いつながりの親友。一方で武断派武将に対しては「ギャグが面白くない」ということで「不暖派」と皮肉り、我慢バカの家康のことを「単純に我慢するだけで笑いを取るとは美学に反する」と蛇蝎の如く嫌悪しているなど、悪い意味で第2秀吉となりつつある。
石田三成(戦国☆パラダイス)
ゲーム『戦国☆パラダイス』に登場する武将(主君)。
友の大谷吉継や部下の島左近と共に西軍を率いて、関ヶ原で東軍と戦いを繰り広げている。
ツンデレキャラであり、プレイヤーや他武将を振り回すこともしばしば。
石田三成(BRAVE10)
CV:緑川光
豊臣側の一人。太閤(秀吉)を尊敬しており、家康は「狸」と呼びバカにしている。中性的な(童顔ともとれる)顔立ちで右目の下に泣きほくろがある。口が悪く、伊達政宗を蛇扱いしていた。作者曰く「小悪魔」。
直江兼続とよく一緒にいる。兼続と幸村とは親友。忠実では幸村より7つ年上であるが、外見年齢二十代くらいの若い外見をしている。刀を持っているが抜いているシーンはない。
『BRAVE10S』において関ヶ原の戦いで敗死。
石田三成(信長の忍びシリーズ)
『信長の忍び』では小坊主時代のみ登場。この頃は剃髪しているが、『軍師黒田官兵衛伝』にて羽柴一門に下った後には髪を長く伸ばしている。
イケメンで気も回るが、自身の算術(算盤)に絶対の自信を有しており、空気の読めない発言も目立つ。同門である大谷吉嗣とは仲がいいが、正則や清正からはかなり嫌われている様子。妻は『真田魂』に登場する山手殿の妹 。黒田官兵衛からは「いつかコイツ『私の算術を超えるだと!?』とか言って負けそう」などと呆れられている。
石田三成(妖怪ウォッチ)
CV:羽多野渉
アニメ47話及び、ゲーム『真打』に登場する人物。ある妖怪と深い関係にある。
石田三成(妖怪ウォッチ)で検索を。
石田三成(ラヴヘブン)
乙女パズルゲームの攻略キャラクター。初期レアリティはSRでの登場。
赤い長髪を一つに束ねている。敵の攻撃ターンを遅らせるレアスキルの持ち主。
異世界の危機を救うため、主人公により召喚された。
石田三成(ミツナリズム)
鈴木コイチ(pixivユーザー名はまくた)氏による石田三成を主役にした戦国コメディ漫画。
石田三成(Twitterアカウント)
いわゆる戦国武将なりきりアカウント。
生前での行いから生真面目な人物として扱われやすいイメージとは打って変わってイベントの度にはしゃいだり、徳川家関連の話題がトレンドになると対抗意識を燃やしたり、時事的なニュースを自虐ネタを引っ張り出しながら取り上げたりする御茶目な人物という設定になっている。また、ドラマや映画で石田三成を演じた俳優を応援したり、石田三成が登場する作品を宣伝したりするなど、自分のアピールにも事欠かない。
毎年9月15日になると、「#関ケ原(西暦)」でSNSを大きく盛り上げ、果ては企業のTwitter公式アカウントが支援に名乗り出るほど、武将なりきりアカウントでは一番知られている。
最近ではその知名度の高さ故岐阜関ヶ原古戦場記念館にて専用グッズが売られていたり、ショート番組「光秀のスマホ」「土方のスマホ」にて登場していたりする。
関連タグ
豊臣秀吉 徳川家康 大谷吉継 前田利家 加藤清正 毛利輝元 小西行長 小早川秀秋 皎月院
戦国無双 戦国BASARA 采配のゆくえ 信長の野望 太閤立志伝 創作戦国 風雲児たち
いしだみつにゃん(ご当地キャラ)
小栗旬 - NHK大河ドラマ『天地人』(2009年)にて三成役を担当。子役時代の1996年にも『秀吉』にて佐吉(幼少期の三成)役として出演しており、『天地人』での回想シーンでは『秀吉』出演時の映像が引用された事もある。
山本耕史 - NHK大河ドラマ『真田丸』(2016年)にて三成役を担当。ちなみに、山本氏は同じ脚本家の前の大河ドラマにも、土方歳三役で出演している。