概要
JR西日本が運営する鉄道路線。兵庫県で完結し、姫路駅(姫路市)〜寺前駅(神崎郡神河町)~和田山駅(朝来市)間65.7kmを結ぶ路線である。路線記号はJ。
1894年、播但鉄道により姫路駅~寺前駅間で運行開始。のち南は飾磨駅(のち飾磨港駅)、北は新井(にい)駅まで延伸。
1906年、播但鉄道から播但線を譲渡された山陽鉄道が新井駅~和田山駅まで全通させた後国有化。国鉄播但線となる。
1911年、飾磨駅~和田山駅~香住駅間と和田山駅~福知山駅間が播但線となり歴代最長となる。
1912年、福知山駅~香住駅間を山陰本線に編入。播但線は飾磨駅~和田山駅間となる。
1986年11月1日、飾磨港駅〜姫路駅間を廃止(最終営業日は前日)。
1987年4月1日、国鉄分割民営化によりJR西日本の路線となる。
1998年3月14日、姫路駅〜寺前駅間が直流電化。
線形は良い反面、勾配は連続する。寺前駅~生野駅間の生野峠の25パーミルを最大として、急勾配が連続する。最急勾配区間こそ碓氷峠(66.7パーミル)、板谷峠(33.3パーミル)よりは小さいものの、長く続く。
現在では寺前駅で系統が分断され、全区間を走破する列車は特急「はまかぜ」3往復のみである。
加古川線のように全線電化されなかったのは、生野駅~新井駅間の生野トンネルをはじめとした狭小トンネルが多いことが一因として挙げられる。
国鉄時代末期に廃線になった飾磨港駅〜姫路駅間は「飾磨港線」の名でも呼ばれていた。山陽電気鉄道本線に加え、姫路市営バス(現・神姫バス)姫路港線とも並行していたこともあり、旅客よりも貨物輸送にほぼ特化していた。末期は同駅間折り返し列車が1日わずか2往復するのみで肝心の貨物輸送も僅かしかなかった。とは言え、当時最新鋭だったキハ40系が使用されていた。
阪神・淡路大震災の迂回路として
1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生した際には、寸断されたJR神戸線の迂回路線として非常に重要な役割を果たした。
1月20日から線内ノンストップ快速(キハ65形)2往復が走り、さらにキハ181系も駆り出された。
1月23日からは姫路駅発山陰本線/福知山線経由新大阪駅行き快速も設定され、HOT7000系も用いられて3月31日まで運行された。
また、ブルートレイン「なは」「あかつき」や貨物列車も播但線経由で運行されていた。
駅一覧
便宜上、廃止された豆腐町駅~飾磨港駅についても記載する。
廃止区間(飾磨港線)
駅名 | 乗り換え路線 | 備考 |
---|---|---|
飾磨港 | 1986年廃止。旧名は飾磨。1915年に改名。跡地にはNicoPaドームが建てられている | |
飾磨 | 1986年廃止。旧名は天神。1915年に改名。山電の同名の駅からは700m離れていた | |
亀山 | 1986年廃止。この駅も山電の同名の駅から200m離れていた | |
豆腐町 | 1925年廃止。1898年に設置されてからは飾磨港線列車の始発駅となり姫路まで徒歩連絡を行っていた。 |
現役区間
⚫︎:停車 ▲:一部停車 |:通過
駅名 | 特急はまかぜ | 乗り換え路線 | 備考 |
---|---|---|---|
姫路 | ⚫︎ | ||
京口 | | | ||
野里 | | | ||
砥堀 | | | ||
仁豊野 | | | ||
香呂 | | | ||
溝口 | | | ||
福崎 | ⚫︎ | ||
甘地 | | | ||
鶴居 | | | ||
新野 | | | ||
寺前 | ⚫︎ | ↑電化区間/↓非電化区間 | |
長谷 | | | ||
生野 | ⚫︎ | ICOCA利用可能 | |
新井 | | | ||
青倉 | | | この駅のみ車両交換不可 | |
竹田 | ▲ | ICOCA利用可能 | |
和田山 | ⚫︎ | 山陰本線 | ICOCA利用可能 |
DD54形の「終の棲家」
特に勾配のきつくなる寺前駅以北は、蒸気機関車時代は貨物列車を単機で牽引できず、前補機を必要とした。旅客列車も、補機こそ使わなかったものの厳しい勾配線であることには違いなかった。そこで、新機軸を多数採用して高効率の最新鋭ディーゼル機関車を配置して、乗務員の負担や乗客の不便を一気に解消~! ……するつもりだったが、まぁ、あの、お察しください……
この最新鋭ディーゼル機関車が日常茶飯事的に故障し、その度に古豪C57が救援に出る始末。しまいにゃ山陰本線だか福知山線だかで大事故を起こして運輸省マターとなり使用中止。さて老後の余生をどう過ごそうか、房総地区ならあまり急坂もなくていいんじゃないか、なんて考えていたであろうC57共にブラック企業さながらに悪夢の現役復帰通告、他に置き場もないポンコツ共は播但線各駅の留置線に留置……というより放置された。
ある日の寺前駅。ここは生野峠に挑む貨物列車に前補機を連結、あるいは和田山から戻ってきた前補機を解結するため、機関区の派出所がおかれていた。おかげでただでさえ山間部だっつうのに転車台やら給水塔やら給炭台やらで狭っ苦しくて非効率極まりないことこの上ねぇっ! 国労動労の執行部共は東京でノウノウと政治活動してないでここへ来て現実見ろってんだ!! などと思ったところに、視界の中にオレンジの車体────
こいつ補機にしたらいいんじゃないか!? 向きを変える必要も無ければ補給も軽油だけでいい、ポンコツの変速機もスピード出さなきゃ大丈夫だろ!
────などという経緯があったかどうかは不明だが、かくしてDD54は空前の「本務機蒸気機関車(C57)・前補機ディーゼル機関車」の運用に就いた。実際は1959年の真名谷トンネル列車脱線転覆事故の教訓から1960年より生野越え前補機としてDF50が運用されており、DF50が奥羽本線で運用されていた頃は矢立峠越え(陣場駅~碇ケ関駅間の旧線)でも前補機運用に就いていた。DD54はDF50の後任として1969年から播但線が完全無煙化される1972年まで生野越え前補機を務めた。その後は(やはり故障は多かったが)C57やC11の後釜として1978年まで活躍。こうして播但線は悲運のディーゼル機関車DD54の、終の棲家となった。
キハ181系の「最後の花道」
時は流れて1982年、2年後に国鉄一般貨物大幅減便が迫り、トラックに敵わない播但線一般貨物は一足早くなくなっていた。C57やDD54の話も今や昔語り、旅客列車は1978年から50系客車が投入され頼もしい普通の機関車DD51が単機で生野越えを行っていた。一方、気動車はエンジンが旧式化しかえってきつい場所になっていた。特にキハ80系。山陽特急全盛期の「かもめ」「いそかぜ」「なは・日向」での活躍も今は昔。この区間にそんな需要はないと解っちゃいるが、発電セット付きの1エンジン車に対して2エンジン車を増やしてパワーウェイトレシオを高めるため、7両だ6両だのここでは蛇か竜みたいな長ったらしい編成を組まないと特急ダイヤを維持できない。
ん、なんだ? キハ82……じゃないよな、この時間に? ああそうだ、今日は試験列車が走るって言ってたな。……って………おい……
嘘だろ……!? 生野の峠をあのスピードで……悠々と…………
────なんて目撃者がいたかどうかは不明だが、特急「はまかぜ」に、キハ80系に代わるハイパワー気動車が到着した。キハ181系だ。キハ181系も悲運の気動車だった。悪いのは気動車用多段変速機を開発できなかったメーカーの方だと言うのに、「しなの」でデビューしてからこの方、自己否定され続ける毎日……そんな風に思っていた自分もあった。
だが播但線は違う。ゆるい勾配の南部は110km/hで楽々と越えられる。寺前から北はきつい? 本線の制限速度は? 95km/h? 大丈夫だ、問題ない。
そうこれが、キハ181系が猛批判された中央西線・奥羽本線との僅かだが、キハ181系にとっては天と地になる差────直結段が使えるのだ!! チートしないと坂にも挑めん電車のアイツとは違う。
キハ181系は実際のねぐらは向日町運転所(現・京都総合運転所)だ。だが、その最期まで播但線特急「はまかぜ」で最後の力走を精一杯「魅せた」。これが本来の姿だとも言いたげに。
DD54形にとって「終の棲家」であり、キハ181系にとって「最後の花道」となった播但線。さらに遡れば不遇のSLだったC54形蒸気機関車もまた然りでそう言う宿命があるのかもしれない。今度はなにが見られることになるんだろう? ワインレッドのアイツか、かつて新快速で活躍していたアイツか、それとも最近魔改造されたアイツかな?
じゃあな、播但線はお前に任せたぜ後輩。それと……そう、アイツが最後まで上野に顔見せてたそこの白い新型。この先しばらく辛抱することになるかもしれないけどな、その先にあるのは栄光だ。「国鉄特急形」のプライド、お前に託すぜ。