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関ヶ原の戦いの編集履歴

2015-05-31 14:15:46 バージョン

関ヶ原の戦い

せきがはらのたたかい

日本史上有数の合戦。

概要

 徳川家康を総大将とする東軍が、毛利輝元を総大将として美濃国関ヶ原(現、岐阜県不破郡関ヶ原町)で実質の総指揮官を務めた石田三成らの西軍を破った戦いである。世に「天下分け目の戦い」という。

開戦日は慶長5年9月15日(現在の1600年10月21日)。



前夜

 慶長三年(西暦1598年)の豊臣秀吉の死後、政務を一任された五大老の中で最大の勢力を誇る内大臣徳川家康は豊臣政権の実権を握る為、豊臣秀吉が生前に禁じた大名同士による婚姻を行い勢力を拡大、これと良しとしない政務担当官の五奉行、石田三成らとの権力争いが勃発していた。この時、石田三成を快く思わない七人の大名による石田三成襲撃事件が発生し、佐竹義宣の手引きで辛くも襲撃された屋敷から脱出するも、本来なら咎められるべき襲撃者側は無罪放免で逆に石田三成徳川家康より五奉行を解任され、佐和山城に蟄居を命じられた。当初は家康と同格の五大老である前田利家の仲裁で均衡が保たれていた豊臣政権も、太閤没後、翌年に前田利家が逝去した事により調停者不在となって内部分裂が表層化したのである。他の五大老であり、前田利家死後、家督を継いで五大老に就任した前田利長も無届けで加賀に帰還た事を、家康の暗殺を謀ったとされて利長生母のまつを人質に取られるなど(加賀征伐)、徳川家康は自らの権勢を盾に権力中枢を掌握していった。

 慶長五年(西暦1600年)三月、大阪にいた徳川家康会津に加増転封された五大老が一人、上杉景勝が加増領土に見合うだけの浪人を雇用している事に謀叛の動きあるとして上洛の要請をした所、これを非とする上杉家家老、直江兼続の意見書が送付され、これを口実に家康は六月に会津討伐に動いた。石田三成はこれを機と見て七月に他の五大老五奉行の一部とともに徳川家康が不在の大阪毛利輝元を大将に頂き、家康への弾劾状を叩き付けた上で挙兵する。


東西軍構成


 石田三成挙兵後、石田三成徳川家康も互いに自らの陣営に加わるよう全国の諸将に文を送り続けた。石田三成が総大将として擁立した五大老毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家石田三成の派閥に加わった為にこれに対して諸将は去就を惑うものも多かった。結局は地勢的な意味も込めて、江戸大坂の両拠点からほぼ均等距離の美濃国を境に軍はほぼ二つに割れる事になる(無論、東軍に属した九州加藤清正黒田如水信濃国西軍に属した真田昌幸親子といった例外もある)。


本戦

 石田三成大谷吉継毛利輝元を総大将に擁立し、西国の諸将を味方に付け西軍を組織し畿内以西の大名を粗方、味方に付ける事に成功する。対する徳川家康東軍小山評定で各自の結束を固くし、豊臣大名として豊臣秀吉から恩顧の厚い山内一豊遠江掛川)、福島正則尾張清洲)両大名を味方に付ける事によって東海道の確保を確実にすると江戸から引き返し、東海道を上って西軍先発隊と関ヶ原で対峙する。ここで東軍西軍の本拠である大垣城を迂回して大阪に直進する進路を取ったので西軍大垣城から打って関ヶ原での野戦の構えとなり、九月十五日午前八時に戦の火ぶたが切って落とされた。

 戦況は一進一退を経て予め高地に防御陣地を築いて東軍を包囲、殲滅する西軍優勢だったが、南宮山に陣取った毛利秀元松尾山に陣取った小早川秀秋が再三の督戦にも拘わらず動きを見せず、自動的に更にその後方にある栗原山に布陣した長宗我部盛親も動く事が出来ず、西軍は止めの一手を打てずにいた。毛利秀元は開戦以前から東軍に内通していた吉川広家によって展望の利かない南宮山山頂へと押し込められ、安国寺恵瓊隊と共に動向を封じ込められていた。更に吉川広家長束正家と共謀して後方の長宗我部盛親の通信を切断し、毛利隊全体と長宗我部隊は戦線から完全隔離していた(宰相殿の空弁当)。また、西軍で群を抜く戦上手である島津義弘も戦前の軍議で奇襲案を却下され、この点で三成と蟠りがあったからか、国元の薩摩に兵力の催促状をつがえる矢の如く送り続けるも尚、寡兵で決戦に臨んでしまったせいか、わずか千五百名余りの島津兵は戦いに消極的であった。それ以前に総大将、毛利輝元豊臣秀頼を欠く西軍は士気において今一つ気炎の上がらぬ状態にあったのが実際である。

 一方、石田三成徳川家康双方から秋波を送られていた小早川秀秋は正午過ぎに東軍へと寝返り、小早川秀秋離反への備えであった赤座直保小川祐忠朽木元綱脇坂安治らも一斉に西軍から離反して一気に松尾山を下る。これらの軍勢を支えきれなくなった脇備えの大谷吉継は自害し、この大離反一つで西軍は壊乱し敗走してしまうのである。取り残された島津隊は、後に「島津の退き口」と言われる敵中突破を敢行。島津豊久長寿院盛淳といった多大なる犠牲を出しながらも、井伊直政松平忠吉を負傷させて大阪湾から船に乗り辛くも無事、薩摩へと帰還した。が、その戦は薩摩へと帰還できた兵数が千五百名の内、百名にも満ちたりぬという過酷な退き口であった。

 天下分け目の戦いは、わずか一日で勝敗が決することとなった。


 その一方で未だ懸案事項であった豊臣秀頼を擁する西軍大将、毛利輝元大坂城にいたが、関ヶ原の勝敗を知りかつ吉川広家が毛利家所領の安堵状を徳川家康より授かっているとの言伝から二十四日に大坂城を無血開城し、ここに関ヶ原の戦いは終戦を迎えた。


その頃

東北

 会津上杉景勝は反転した徳川家康を追撃せず、西軍として東軍最上義光の領地へ侵攻すると伊達政宗最上義光の援軍に駆けつけた。積極的に南下せず江戸もそのまま放置して伊達最上と膠着を演じた上杉景勝は関ヶ原の勝敗を知ってほぼ不戦敗という形で撤退し、十二月に降伏して会津百二十万石から米原三十万石に減封された。越後から続く百戦錬磨の上杉軍団としては何とも締まらぬ結末を迎える事になる。

 茶の湯の師である古田重然を遣わして中立を約束させた常陸佐竹義宣も、出兵には至らなかったものの西軍寄りの動きを見せたとして、減封の上で出羽秋田に転封されるに至る。


信濃

 徳川軍本隊として中山道付近の攻略に取り掛かっていた徳川秀忠軍は信濃上田城を攻めていた(第二次上田合戦)。しかし関ヶ原への進軍命令が、目前の上田城攻略に拘る徳川秀忠の頑なな意志と、濃霧や増水による連絡の遅延により結果的に本戦には遅参してしまった。これにより譜代衆への恩賞配分ができず、後に許されたものの家康から大いに叱責を受けた。

 尚、上田城で強固な抵抗を見せた真田昌幸真田信繁親子は死罪もやむなしと見られていたが、東軍に加わっていた昌幸長男の真田信之、並びに信之を通じて縁戚となっていた本多忠勝の懸命な助命嘆願より九度山への蟄居で済まされた。


九州

 東軍加藤清正熊本から出陣して小西方と戦い、黒田如水(孝高)は息子、長政関ヶ原にいる頃、豊前から出陣して大友勢と対決。清正と戦った立花宗茂は降伏、改易。しかし関ヶ原西軍に加わっていた島津義弘の島津家は強かな外交戦を演じ最終的に薩摩日向大隈の領地三国を安堵された。西軍に荷担した大名家の中で減封、改易などの処分を一切、受けなかったのは薩摩の島津家のみである。

 この時、黒田如水は、九州を制圧して地盤を固め、疲弊した勝者を倒し機に乗じた天下取りを考えていたと云われる。


 その他、各地では東西両軍の合戦や籠城戦が相次いだ。


戦後

 石田三成は数日後に捕えられこの戦の責任者として斬首。小西行長も同じ咎で斬首され、毛利家を担ぎ出した張本人であるとスケープゴートにされた安国寺恵瓊と共に処刑される。逆に総大将である毛利輝元吉川広家を通して徳川家康と内通していた為、大阪城の無血開城と同時に毛利家はお咎め無しと考えられていたが、実際にこの裏取引を手引きしていたのは井伊直政本田忠勝の二名であり、安堵状もこの二名の連盟であって徳川家康花押や署名は何処にもなかった。更に加えて関ヶ原の戦い戦後、黒田長政福島正則佐和山城攻めの最中、「関ヶ原の戦いはあくまで豊臣家の一部奉行職が起こした行動であり、毛利輝元を粗忽に扱うつもりはない」という内容の書状を認めさせている。結果、不安に駆られる毛利輝元はこの書状に飛びついた訳であるが、上記の書状は徳川家康の直筆でないという点が重要であって、大阪城西の丸を無血開城する際にも黒田長政福島正則井伊直政本田忠勝は「関ヶ原を引き起こしたのは三成であり、毛利の責任は問わずその領国は安堵する」と繰り返して輝元を説き九月二十四日、遂に毛利輝元は大阪城から退去する。

 しかし、繰り返しになるが毛利輝元大阪城退去や領土の安堵状について家康は唯の一枚も直筆の書状を輝元に与えてはいなかった。裏を返せばこれは「部下が勝手にしでかした事で自分の与り知る所ではない」というロジックが成り立つ。そして実際、家康大阪城を明け渡した毛利輝元に対して、それまでの書状なぞ知ったものかと黒田長政に命じて吉川広家宛起請文を書かせた。曰く輝元石田三成らに味方して大阪城に入り、諸将への廻文にて署名捺印をし、出兵させた事は明らかなため領国を没収する。ただし、吉川広家は律儀により毛利の所領から一、二ヶ国(後に周防長門と決定)を下される事に決まった」という内容に吉川広家は度肝を抜かれた。徳川家康はそれまでの書状の遣り取り、人質の遣り取りを全て反故にしたのである。

 吉川広家毛利元就実子、吉川元春の跡を継いだ毛利家の超重役であり(つまり吉川広家毛利元就の孫である)、本家を蔑ろにするつもりなぞ本人はまるでなかったので翌日、黒田長政らに「我が身に代えても毛利家の存続を」と訴え、土下座交渉で血判付きの起請文を提出し、その助力を大きく仰いだ。最終的には徳川家康も重い腰をようよう上げ、毛利輝元に直筆で吉川広家に与える予定であった長防二国を毛利輝元に献上するという起請文を認めた。結局、毛利家はそれまで何ら拘束力も実行力もない、家康以外の大名達や家康の重臣達の言葉や誓書を心から信じ、それにひたすら踊らされていたのである。

 そして吉川広家は戦後、岩国六万石を拝領するが本家からは徹底的に冷遇され、正式に恩赦が出たのは明治時代も近くなった頃の事であった。封じられた岩国も長防の中心である山口とは遠く離れ毛利家の重臣としてはあるまじき東の国境近辺であったが、自らの不始末で主家の所領を八ヶ国百二十万石(一族合わせて二百万石)から二ヶ国三十万石にまで取り上げられてしまったのであるからしてやむなきものであろう。

 戦後処理においてこの点、薩摩が遠方だったこともあり、関ヶ原に参戦しながら家康からの上洛命令を徹底的に拒否し、「信用できないので徳川家康直筆の安堵状を持ってこい。それがない限りは上洛しない」と執拗な外交戦を演じて所領を安堵させた薩摩島津家とは役者が違った。

 そしてこの薩摩長州、加えて西軍に属しながらも東軍と内通を図り関ヶ原では不戦のまま終了しながら、それでも改易された長宗我部盛親の後釜に封じられ、野中兼山の献策で長宗我部遺臣の多くを郷士に取り立てた山内氏土佐(上記、小山評定遠江掛川を提供し栄転した山内一豊の子孫)、三藩が江戸時代を通じて力を蓄え、「関ヶ原のリベンジ」として明治維新の中心的原動力となる。

 とまれ、関ヶ原の戦いで西軍に付き敗軍を迎えた大名達は以後、「外様」として力を削がれた上で関東からなるべく遠方へと封じられ、およそ三百年を雌伏する事となる。


 慶長八年(西暦1603年)、家康朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸に徳川家の江戸幕府を開き、天下泰平の江戸時代が始まる。最終的に元和元年、その当時の男性平均寿命からして望外に長生きした徳川家康大阪の役で豊臣家に下克上を起こしこれを攻め滅ぼすと、元和偃武と宣言する。



余談

 有名な話であるが、明治時代、明治十八年(西暦1885年)に陸軍大学教官として招かれたドイツ軍人クレメンス・メッケル少佐はこの戦いの布陣図を見せられ即座に「この戦いは西軍の勝ちであろう」と言ったとされる(実際、西軍の構想どおりなら兵力に勝った包囲戦であったので彼の見識は正しい)。




西軍所属で離反、或いは傍観した武将兵数
小早川秀秋15,000
赤座直保600
小川祐忠2,100
朽木元綱600
脇坂安治990
吉川広家3,000
毛利秀元15,000
安国寺恵瓊1,800
長束正家1,500
長宗我部盛親6,600
島津義弘1,588

関連タグ

日本史 戦国時代

徳川家康 石田三成 小早川秀秋 東軍 西軍

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