大日本帝国
だいにっぽんていこくまたはだいにほんていこく
概要
日本国の別称。
帝室(皇室)を推戴する日本という名の国家ということで、「大」を美称として接頭に付したもの。
特に近代に用いられたが、当時における意味・用法は現在の「日本国」と全く同様であり、神武天皇建国以来の日本のことを指した。より正確には神武天皇以前の神代から始まって、建国以来の大和時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・吉野朝時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代・幕末時代・現代〈明治・大正・昭和時代、今ならば平成時代も加わる〉のいずれの時代も問わず、日本という君主制国家を指したのである。
またに現在では俗に、近代の日本やその旧体制のことを指す限定的な用い方もされる。その場合、明治維新から大東亜戦争(太平洋戦争)敗戦までという認識が多いが、中には明治23年に大日本帝国憲法が施行されて正式な国号として称されたとする見方もある。しかし正式な国号が「大日本帝国」に統一されたのは、昭和11年になってからのことであり、外交文書にも「日本国」「大日本国」「日本帝国」などのざまざまな表記が用いられ、それ以降も憲法によって名称が統一されていたとは考えられていなかった。
英語表示では「Empire of Japan」「Great Japan」「Empire of Great Japan」「Great Japanese Empire」など。
古代の帝国
大日本帝国の歴史は、九州から大和への東征譚で知られる神武天皇に始まる。すなわち初代天皇の即位(建国)以来、皇室を推戴する国家であることが、日本が古来帝国にカテゴライズされてきた所以である。神武天皇即位の実年代は弥生中期(西暦1世紀)と推定されるが、古代の史実に属するために文献以外の史料が少ない。
現在実在が確かな最初の天皇といわれるのが3世紀の列島内に君臨した第10代崇神天皇で、この頃には外国との交流があったことが『魏志』倭人伝などの史料に見られる。その後大和朝廷が発展していき、また第15代応神天皇以降の時代にも、中国や朝鮮との国交はやはり活発であったようである。
第29代欽明天皇の時代に仏教が伝来し、蘇我氏と物部氏の対立が激しさを増し、ついに蘇我氏が勝利。しかし、その蘇我氏の専横を阻止するために中大兄皇子(天智天皇)が立ち上がり、大化の改新が始まった。
日本古代最大の内乱である壬申の乱の後、第40代天武天皇は国際的な危機意識と自身の卓越したリーダーシップにより、天皇を中心とした強力な統治体制の確立がめざされた。その方針は持統天皇にも受け継がれ、国号も「日本」に改められた。東大寺の大仏の造営で知られるように、第45代聖武天皇をはじめこの時代は仏教への帰依が深く、全国に寺院が建てられた。
桓武天皇は都を平安京に遷し、平安時代の幕が開けられた。第56代清和天皇は幼帝であり、外祖父の藤原良房が摂政として全権を握った。人臣摂政の始まりである。こうして藤原氏の摂関政治が始まり、藤原道長の時代に全盛期を迎える。第59代宇多天皇は藤原基経と対立し、菅原道長を重用して律令国家の再編のために親政を行われた。宇多天皇は譲位後、出家されて最初の「法皇」となられた。第71代後三条天皇のときに宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇が即位された。
中世の帝国
第72代白河天皇は、譲位後も上皇、法皇として院政を行われた。院政は鳥羽上皇、後白河上皇と続き、その後も断続的に江戸時代まで行われた。その権力は朝廷も摂関家もしのぐ強大なものであったが、台頭してきた源平の武家政権と対立することになった。武士が力を伸ばしてきたのに伴い、保元・平治の乱をはじめ源平合戦など戦乱が続いた。
源頼朝により鎌倉幕府が開かれたが、やがて実験は北条氏に移り、後鳥羽天皇は倒幕のために立ち上がられた(承久の乱)。この戦乱に勝利した幕府もやがて衰退し、公家勢力の反撃が始まった。
天皇政治の復活をめざされた第96代後醍醐天皇は、鎌倉幕府と対立し、ついに倒幕を果たして建武新政を行われた。しかし、足利尊氏の反乱により新政権はわずか2年半ほどで幕を閉じ、室町幕府が開かれた。また、京都の朝廷(北朝)と吉野の朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まった。
近世の帝国
その後、南北朝は合体されたものの、騒乱は続き、応仁の乱や群雄割拠の戦国時代へと進み、ついに室町幕府も滅亡した。時の権力は織田信長から豊臣秀吉、徳川家康の手に移り、家康によって江戸幕府が開かれた。
その長期政権も数百年の時を経て、海外諸国の圧力と国内の倒幕気運の高まりの前についに幕を閉じ、政権を朝廷に返還した(大政奉還)。
近代の帝国
統治機関は天皇を明確な国家元首・立憲君主とし、その下に内閣、貴族院と衆議院の二院制による帝国議会が置かれ、行政や法制定などの政治運営がされた。
日本国民は日本本土の日本人やアイヌを始めとする内地人、統治下の海外領土の台湾人や朝鮮人などの外地人とし、外地人には内地人とは違う適用法律、戸籍、地方行政組織が当てられた。
軍事組織である日本軍は天皇に事実上の統帥権があり、統帥部には大日本帝国陸軍の参謀本部と大日本帝国海軍の軍令部が置かれ、各軍を指揮。戦時には大本営が設置された。
国際的に日本は地位を向上し、20世紀前半ではアジアにおける列強として欧米に肩を並べた。第一次世界大戦後の国際連盟では常任理事国になり、パリ講和会議では非白人国唯一の大国として「人種差別撤廃案」を提出し、当時では画期的な国際的人種平等を唱えた。
現代の帝国
第124代昭和天皇は、大東亜戦争のために腐心され、最後は終戦という聖断を下すにいたった。その御心を継がれた第125代今上天皇は、現在も精力的に諸外国を訪問され国際親善、世界平和に務められている。
日本は昭和20年の終戦後、いつしか「大日本帝国」を名乗らず「日本国」と称するようになった。昭和22年に制定された「日本国憲法」や当時の首脳見解によって国号は「日本国」に統一されたとする見解もあるが、正式に国号を定めた法令は未だに存在しない。
現在において日本は「帝国」を名乗っていないが、天皇を国際的に国家元首として世界唯一・最後の皇帝と見なし、すなわち国家のカテゴリーとしては、日本は神武帝以来の「帝国」であるとする見解も多い。
国歌
「君が代」(フェントン作曲)
イギリス人のウィリアム・フェントンにより明治3年に作曲された。
歌詞は現在のものと同じだが、メロディーに日本らしさがどこにもなく、大不評であった。
代わって明治9年、宮内省雅楽部で日本人の手によって作曲し直された。
すなわち林廣守らが作曲し、ドイツ人のエッケルトによって曲調補正されたこの「君が代」は、メロディ・歌詞・オーケストラ編成共に日本式に完成したため、その後も長く国歌の地位を守っている。
「君が代」
作詞:読人知らず(延喜5年『古今和歌集』)
作曲:林廣守(明治13年 撰)
曲調補整:エッケルト