概要
性別 | 牡 |
---|---|
生没年 | 1987年4月11日-2016年9月6日(享年29) |
欧字表記 | Yamanin Globa |
毛色 | 鹿毛 |
父 | ミスターシービー |
母 | ヤマニンペニー |
母父 | ニジンスキー |
生産者 | ヤマニンベン牧場(静内町) |
馬主 | 土井宏二(錦岡牧場)→土井肇(錦岡牧場) |
調教師 | 浅見国一(栗東) |
生涯成績 | 29戦5勝 |
主な勝ち鞍 | デイリー杯3歳ステークス(89年)、アルゼンチン共和国杯(91年)、目黒記念(92年) |
日本の競走馬、種牡馬。父は三冠馬ミスターシービー、母は英国三冠馬ニジンスキーを父に持つヤマニンペニーという良血だった。
デイリー杯3歳ステークスで右前第一種子骨をボルトで繋ぐほどの重傷を負うが、1989年末のフリーハンデでは3歳チャンピオンのアイネスフウジンを超える数値を与えられ、主戦の武豊騎手の「来年のGⅠを4つ損した」という発言もあって「幻の三冠馬」と呼ばれた(実際、後述の通り復帰後脚にボルトが入った状態でGⅡを勝ったりGⅠで入着したりしているのだから可能性は十分にあったと言える)。
治療を経て復帰。
略歴
誕生
1987年4月11日、北海道静内町のヤマニンベン牧場に誕生。やまにんべんグループ創業者一族の土井宏二が馬主となった。
3歳(現2歳)シーズン
栗東の浅見国一厩舎へ入厩。1989年9月17日、武豊騎手を鞍上に阪神競馬場の新馬戦(芝1400m)でデビューし、1番人気に応え1着。同年10月7日、黄菊賞に出走しこれも1着。11月11日、GⅡデイリー杯3歳ステークスに出走しレコード勝ちで重賞初制覇。
しかし、右前種子骨が縦に割れる重傷を負う。通常なら安楽死であったが、ヤマニングローバルの素質を惜しんだ土井は浅見の勧めもあり割れた骨をボルトで繋ぐ手術に踏み切る。負担のかかった左前脚に蹄葉炎を発症するなど、治療は困難を極めたが徐々に回復していった。
5歳(現4歳)シーズン
1991年1月7日、オープンの洛陽ステークスで1年2ヶ月ぶりに復帰。しかし、プリティハットの4着に敗れた。同年2月17日、GⅡ京都記念に挑むも怪我の影響で右回りが苦手となっておりプリンスシンの11着に敗れる。
その後も、3月23日コーラルステークス、4月20日栗東ステークス、5月11日武蔵野ステークス、6月2日阪急杯(GⅢ)、7月7日高松宮杯(GⅡ)、9月15日朝日チャレンジカップ(GⅢ)、10月26日、田島良保騎手に乗り替わりスワンステークス(GⅡ)と挑戦するもいづれも敗れ続ける。
そして、11月17日のGⅡアルゼンチン共和国杯で、横山典弘を背に遂に1着。復帰後初勝利となった。しかし、12月22日、鞍上を河内洋騎手にしたGⅠ有馬記念でダイユウサクの6着に敗れた。
6歳(現5歳)シーズン
1992年2月23日、GⅡ目黒記念で1着を挙げるも、3月22日のGⅡ日経賞でメジロライアンの6着に敗れる。その後、4月26日のGⅠ天皇賞(春)、6月14日のGⅠ宝塚記念でも敗れ、骨折のため休養に入る。
休養後の11月1日、GⅠ天皇賞(秋)で15番人気ながらレッツゴーターキンの3着に差し込む。
しかし、11月29日のGⅠジャパンカップ、12月27日のGⅠ有馬記念では12着、15着と大敗。
7歳(現6歳)シーズン
1993年1月24日、GⅡ日経新春杯でエルカーサリバーの9着に敗れ、2月21日、GⅡ目黒記念でもマチカネタンホイザの12着に敗れた。そして、足元の不安でまたも休養に入る。
休養後の10月23日カシオペアステークスで三着になるも、11月21日の武豊に乗り替えたGⅠマイルチャンピオンシップ、12月11日の河内洋に乗り替えたGⅡ鳴尾記念で大敗。
8歳(現7歳)シーズン
1994年1月15日、また武豊に乗り替えGⅢ平安ステークスに挑むもトーヨーリファールの8着に敗れる。2月20日、横山典弘に乗り替えたGⅡ目黒記念で敗れた。
そして、3月13日のGⅡ阪神大賞典を河内洋を背に挑むもムッシュシェクルの10着に敗れ、現役引退となる。
引退後
1995年、故郷のヤマニンベン牧場に戻り、翌年の1996年に種牡馬として供用を開始する。しかし、トニービン、ブライアンズタイム、サンデーサイレンスが席捲していたため専らヤマニンベン牧場の繁殖牝馬が交配相手で(種付け頭数12頭)、これといった実績を上げることはできなかった。
2002年に種牡馬を引退し、錦岡牧場泊津繁殖牧場で試情馬(当て馬)をしながら余生を送る。そして、2016年9月6日、死去(29歳没)。