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川中島バス

かわなかじまばす

アルピコ交通が運行するバス事業のうち、長野県北部エリアのバス事業の愛称
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アルピコ交通も参照


概要編集

現在はアルピコ交通長野支社(長野県北部に路線を持つ)の愛称だが、ここではアルピコ交通成立前に長野市に本社を置いていた旧・川中島バスおよび、その前身の川中島自動車ならびに在籍する(した)車両について述べる。


草創期からバス全盛時代編集

1925年12月23日、当時の更級郡川中島村を拠点として設立された川中島自動車、および1916年5月、当時の上水内郡小川村に拠点を構える高府自動車商会が、川中島バスのルーツである。

1931年に交付された「交通企業の合理化と交通事業の統制」を目的とした自動車交通事業法が1933年10月から施行されたのを受け、1934〜37年にかけて、川中島自動車を存続会社として高府自動車商会などが合併。長野県にとどまらず新潟県の現・妙高市にまで事業基盤を有するようになった。のち戦時中には陸上交通事業調整法の公布により、国策に沿うべく川中島自動車は北信自動車などを次々と合併し、長野市を中心とする善光寺平西南部を一手に営業する事業者となっている。


第二次世界大戦終結後、1949年4月には7年に1度開催される善光寺の御開帳があり、日本全国から訪れる参拝客輸送に対応するため、運行体制の整備は急務で、燃料事情の好転から1948年よりディーゼルバスの導入が開始された。

同年には貸切バス事業も開始。善光寺の御開帳にあわせて定期観光バスの運行が開始され、好評を博したことから御開帳終了後も運行が継続されることになった。


1950年代には長野市内外へ路線の拡充や本数の増発を行い、集落のあるところにはバス路線が必ずあったほか、長野-上田間の国道経由の路線バスは10分間隔で運転するに至った。車両数も1965年には500両を突破するなど、北信地方西部や南部における足として活躍していた。さらに長距離路線バスも南信地方とを結ぶ「みすず急行」を松電、伊那バス信南交通との共同運行で走らせたり、長電バス千曲バスとの共同運行路線を運行したりするなど、質量ともに充実させていった。

またこの頃は観光バスの利用も増大しており、1953年には団体の積極的な募集のほか、天窓付の「天望車」と称する大型ディーゼルバスも配属された。1957年には日野ブルーリボンの導入でさらに大型化され、1958年からはエアサス車が導入されるなど、こちらも質量ともに充実させていった。


1964年に戸隠バードライン(1985年の地滑りの影響で現在は廃道)が開業したことで戸隠高原の観光開発にも着手し、長野駅からバードラインを経由して戸隠へ向かう観光路線バスやスキー場直行バスの運行をはじめ、1965年には戸隠スポーツロッジ(翌年に「戸隠高原ホテル」へ改名)を開業させた。

さらに大町においても松電と北アルプス交通との共同運行の大町駅-扇沢間の路線バスを運行し、立山黒部アルペンルートへの観光輸送を支えた。


混迷の時代と戸隠事故編集

ところがモータリゼーションの時代が到来すると経営は傾き始める。


1965年からの松代群発地震は営業所建物の破損や路線の運休の影響などの被害のほか、県外の観光客が途絶えたこと、沿線利用者の鈍化などによって経営上の大きなマイナスになった。またこの震災がきっかけとなり、社会構造の変化やマイカーの普及が進んでしまい、道路状況の悪化に拍車がかかったことで、バスの定時運行が困難になってしまった。さらに経済構造の変化による離農の影響で、市街地の周辺の町村における過疎化が進んだことで、農山村へと向かうローカル路線バスの利用が激減してしまった。

以上のような運転効率の低下や乗客減、そして経費増大になった結果、1968年1月決算において初めて欠損を生じることとなった。同年からはワンマンバスの運転を開始し、以後7次に渡ってワンマン化計画を遂行していくが、道路事情や労働組合との関係などから順調には進まず、1970年代後半においても車掌乗務の路線が存在し、ワンマン化率は70%程度であった。加えて山間部の不採算路線の廃止も推し進められ、長野市内の路線の短縮も行われるなど、大幅な整理が進められた。


1969年に国の路線バス維持費補助制度が制定され、長野県でも独自の補助制度を制定、1970年度より国庫補助金の受給を開始した。その頃、収支改善のために関連事業に着手し、まず有料駐車場や不動産、バス車体広告の取り扱いが開始された。続いて1973年タクシー事業を別会社化し、同年にはバス整備の技術を生かして自動車整備業にも進出している。

創業以来、宇都宮一族の同族経営だった川中島自動車は、1972年に創業家が経営から離れ、経営陣も一新。社長は外部から招聘することになる。これに合わせて333人の人員整理を含む再建計画を策定したところ労働争議が生じ、3ヶ月以上に渡る協議の末、人員整理を撤回し会社再建と賃金問題はその方法を見て協議する旨の回答によって終結し、再建への取り組みが始まった。


こうして会社再建に着手した矢先の1972年9月23日、上水内郡信濃町の県道で戸隠神社行のバスが50メートル下の鳥居川に転落大破するという大事故が発生。15人死亡、67人負傷の大惨事となった。いわゆる戸隠事故である。

この事故では運転士が業務上過失致死傷の罪に問われたが、事故の発生した県道は幅4.6メートルと大型車両のすれ違いがかなり困難な未舗装道路で、ガードレールの設置もされていなかったことから、弁護側は事故の誘因は危険な道路を放置していた道路管理者の責任と主張。

1977年に長野地方裁判所で開かれた一審では運転士に有罪判決が出たが、1979年に東京高等裁判所で開かれた二審では、新たな鑑定結果から一審判決を破棄。事故の原因は運転士の過失ではなく道路の欠陥にあるとして、逆転無罪判決を出した。検察側の上告はなかったため、運転士の無罪が確定している。


後に川中島自動車は道路管理者である長野県に対して、既に遺族や負傷者に支払った補償金から自賠責保険相当額を除く3億円の支払いを請求する。長野簡易裁判所より、バス会社の損害額の6割を県が負担すべきという調停案が提示され、合意に至った。


このとき川中島自動車は戸隠事故の裁判や補償以前より経営状態が悪化しており、1981年3月期決算で累積赤字が1億9000万円に上り、翌年には4億円にも膨らんだ。これは人員削減を700人近くしているにもかかわらず、限界がきている状態だった。経営難から会社トップの人事にも困窮する事態となり、結局は大株主の創業家を経営陣に呼び戻し、さまざまな努力を重ねていくものの、営業所跡地における再開発の失敗や労使対立によるいざこざなどから焼け石に水であった。1983年8月1日、川中島自動車は会社更生法の適用を長野地方裁判所に申請、倒産してしまう。


再建から合併まで編集

そこで救いの手を差し伸べたのが松本電気鉄道だった。

川中島自動車は松電を筆頭とする松電グループに入り再建に着手。1984年に社名を川中島バスに改め、車両デザインを一新、貸切車への新車導入や一般路線車を冷房付の中古車への代替などを進めた。

以降は不採算路線の整理や、貸切分社化を推し進めたり、みすずハイウェイバスをはじめとする高速バスへの参入を果たした。1990年からはグループ全体でGI(グループアイデンティティ)を推進させるため、現行のアルピコカラーの導入を中心に大幅な機構改革や業種ごとの組織化を行い、1992年に「アルピコグループ」として本格的なGI活動に取り組んでいる。


長野冬季五輪の開催が1998年に決まると、これに先んじて、海外からの利用客が増加することを想定し英字入りの行き先表示に切り替え、系統番号を導入するようになった。この系統番号はのちに改変され、長野駅発着路線は同駅のりばの番号を10位とした2桁(東口発は80番台)、その他は3桁に統一されており、これは隣の長電バスものちに同様の改変を実施している。


このほか長野冬季五輪の開催に前後して、1997年より長野駅と白馬駅を結ぶ定期特急バスの運転を開始したり、1999年から長野駅と善光寺大門の間を走るシャトルバス「びんずる号」の運転を開始したりするなど、長野駅を中心にした路線づくりにシフトしている。2000年からは長電バスとの共同運行である市街地循環バス「ぐるりん号」の運行を開始したほか、交通希薄地域を埋める「ぐるりん号」路線の新設や、長野駅と長野県庁とを結ぶシャトルバスの新設など、地域に根付いた路線展開によるレベルアップも推し進めた。

また同時期にはバスレーンの延伸を受けて、高速バス車両の送り込み回送を兼ねた通勤ライナーの新設や、深夜バスの運行などによるサービス改善のほか、高速バス利用者のための駐車場新設など乗客の利便性向上のための施策にも力を入れていた。

このほか長野市街地の路線の運賃を長電バスと共に100円へと値下げ(現在は再度値上げ)したり、2002年には長電バスと長野市街地におけるバス事業における業務提携を行うなどの取り組みも行った。


その後2011年3月に松電、諏訪バスと合併し、前述のアルピコ交通となり、企業としての川中島バスは消滅した。


車両編集

概要編集

2024年7月現在においては、いすゞUDトラックス日野自動車三菱ふそうの4メーカーの車両が使用されている。このうちUDトラックス製車両は、他社からの移籍車のみ在籍している。過去にはトヨタ自動車製の車両も数多く導入しており、ボンネットバスからワンマンカーに至るまで採用していた。このほか2000年代には先述の長野駅と長野県庁とを結ぶシャトルバスなどへ、クセニッツ(足回りはメルセデス・ベンツ製)のCITY-ⅢならびにCITY-Ⅳ:CNGノンステップバスを導入したこともある。

さらに1950年代には妙高地区における冬季運行のため、「ふゞき号」と名付けられた雪上車と「新雪号」と名付けられたそりを用いた運行を行っていたこともある。


冷房化と低床化のあゆみ編集

地形が山あいで、かつ比較的冷涼な気候の長野県で営業していることから、県内の同業他社の例に漏れず非冷房車やツーステップ車が多数在籍していた。


先述のとおり一般路線車における冷房化は割と遅い方で、松電グループ入りを果たしたのちも、自社発注の車両は非冷房であり、1991年に新車導入されたエアロスターKですら非冷房という有様だった(ただし親会社の松電も非冷房のキュービックを導入していたほか、非冷房のエアロスターKはグループ全体で導入していた)。これらは後述の冷房付の移籍車で徐々に置き換えを行ったが、このとき自社発注の非冷房車より高年式の冷房車で置き換えるという逆転現象が生じてしまった。


また郊外の山間部へと至る路線を多数有していることから、低床車の導入も遅く、特に戸隠までの路線は2010年代前半ごろまでほとんどの車両が山陽バスキュービック(前後扉・ツーステップ)によって運用されていた。

自社発注の低床車は1999年にキュービックLTとレインボーRJが2両ずつ導入されたのを皮切りに、ブルーリボンシティエルガなど少数が導入されている。それに比して移籍車は2000年代前半に転入した川崎鶴見臨港バスブルーリボン7両をはじめ、2000年代後半に横浜市営バス京成バスなどからワンステップ車を多数譲受したことで、一旦はワンステップ車メインの低床化を推進した。その後2012年には京王バスのエアロスターノーステップや中型ロング車を皮切りに中古ノンステップバスの導入を推し進め、2015年頃からは神奈川中央交通国際興業の車両によって、大幅なノンステップ化およびワンステップ車の増車を推し進めた。


移籍車の概要編集

以上で説明したとおり車両の体質改善用として、よい車両を大量に調達するため移籍車を数多く受け入れており、川中島自動車時代には西武バスや神奈川中央交通より譲受していたが、その後松電グループ入りの際に冷房化を推し進めたときは京阪バス西東京バス千葉中央バス京王バスなどから譲受した。

1990年代後半から2000年代にかけての期間では都営バスや横浜市営バス、川崎鶴見臨港バス、国際興業、遠鉄バス、山陽バスなどから譲受した車両が活躍していた。その後2010年代前半からノンステップ化を推し進めるにあたり、ふたたび京王バスや神奈川中央交通、国際興業をはじめ、東急バス阪急バス新京成バスなどからエルガブルーリボンIIエアロスターを中心に譲受している。


移籍車とは別にアルピコグループ間での車両のやりとりも行われており、近年の例では松本のブルーリボンHIMRが転入したものや、長野で使用した譲受車を諏訪で再度使用したものなどがある。


その他編集

長野冬季パラリンピック期間中には、都営バスが1997年度に導入したノンステップバスを運行前に借り受け、長電バスや当時の松電バスと共に会期中の選手移動用バスとして運用を行ったこともある。これは当初、東京都がリフト付新低床バスやスロープ付らくらくステップバスの貸出を計画していたものの、市民団体などからの要望を受けて計画を見直し、ノンステップバスへ変更したという経緯がある。運行にあたり、事前に1996年度導入車(C201号車)を用いて長野への回送を含めた試運転を行い、概ね問題のないことを確認した上で走行させていた。


関連編集

長野電鉄…川中島自動車時代、長電バスは同社による直営だった(1990年代に分社化)。また経営危機の際に役員を送り込んだものの、ピンチな割に危機感がなかったことから見切りを付けて早々に引き上げている。

千曲バス 伊那バス…県内の同業他社

上田交通…川中島自動車時代に上田交通の東急グループ入りに際し、いずれ東急に乗っ取られるかもしれないという危機感から役員が大層取り乱してしまったという逸話がある。

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