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Atariの編集履歴2018/02/23 22:40:21 版
編集者:やっきょ
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Atari

あたり

ATARIとは、ノーラン・ブッシュネルが1972年に創業したアメリカ合衆国のビデオゲーム会社である。なおビデオゲームを作るためだけに創立された会社としては世界初である。

概説

この会社はアーケードゲーム家庭用ゲームを軸に、パソコン(主にホビー用のパソコンであるが、高性能機も後期には作成した)・ピンボール(1979年まで、7作品)・電子ゲームも製造していた。

現在もアタリという会社はあるものの、これはブランドを買収した会社が社名を変更した結果であり、親元であるインフォグラム(フランス語だと「アンフォグラム」)グループの本社はパリ、アタリブランド部門の本社はニューヨークにある。日本支社にはアタリジャパンがあるが、これらは当初のアタリとは異なる会社である。

以下の文章はwikipediaの記事を元として記載された。

アタリマーク

この会社の社紋はATARIのA富士山を図案化したものとされ、別名フジマークとも呼ばれる。

このロゴは会社ができて間もない1973年春頃に作られたため、生まれたプロセスや初登場日ははっきりしていない。

マークの下には関連企業の名前、それがない場合はキャッチコピーの"Innovative Leisure"(イノベイティブ・レジャー:新鮮な遊び)が入る。

1991年6月には創業25周年を記念し、社員で人マーク(人文字のようなもの)が作られた。スマートデザインで親しまれたため、インフォグラム傘下となった今でも使われている。しかし、現在使用されているロゴは当時使用されていたものと比べると細部は微妙に変えられている。

社名の由来

囲碁の日本棋院初段を持つブッシュネルが囲碁用語「アタリ」から社名を取ったとされる。当初彼は社名を"Syzygy"にしようとした。しかし、この社名は他の会社が申請済であり使用することはできなかった。

そのためブッシュネルが好きな囲碁用語「センテ」「ハネ」「アタリ」の中から「アタリ」を選んだ。「アタリ」を選んだ理由には「どんどん敵を包囲し、自陣を広げてしまう」と言う狙いもあったと言われている。

沿革

前史

ノーラン・ブッシュネルは、ビデオゲームのアーケードゲーム化を目指し、「コンピュータースペース(研究などで使用されるコンピューターで作られたゲーム「スペースウォー!」のアーケードゲーム化)」を発売した。

しかし、このゲームは初心者にとっては「難しい」ゲームであったことや処理速度が遅いため、商業的には失敗した。

だが、このゲームの発売元の社長からの情報を元に、世界初とされる家庭用ゲーム機オデッセイ」の発売前展示を見たブッシュネルは感銘を受け、独立して新会社設立を決心した。

「コンピュータースペース」を発売するため、ブッシュネルと一緒に転職もしてくれた人物と250ドルずつ出す計画だった。

2人でカリフォルニア州サンタクララの小さなガレージカンパニーの1407号室を借り、1972年6月27日に創業した。ガレージの中を衝立で仕切り、手前は事務室、奥は工作室とした。

創業時

会社創業時の目的は「他の大手アーケード会社にビデオゲームを売り込む」ことだった。しかし当初は「コンピュータースペース」の権利料が僅かに入って来るだけであった。

そこで彼らはピンボール会社からピンボール筐体を買い、近所のスタンフォード大学の近くでディストリビューター(アーケードゲームを買って設置し、金を回収する業務)を始めた所、収入が安定し、会社が当面の間潰れる心配はなくなった。

社員面では、娘のベビーシッターを電話番受付嬢として雇ったり、会社の後輩を「副社長として、技術者として雇ってやる」と誘ったりした。その会社ではリストラが始まっていたため、同意してアタリに引き抜かれた。この社員に「Odessey」と似たゲーム『PONG』を作らせた所、大人気となった。

ここからアタリ、そしてアーケードビデオゲームの躍進が始まったとされる。

「ポン」製造開始後

会社設立の時点では、「時間資金を作っておく→電気屋等で資材を沢山買い込む→基板など電子部品を作る→空の筐体を置いて部品をあちこち付ける→売る→売り切ったら売れた金でまた資材を買う」と言う、全くの自転車操業だった。無論この方法ではでは毎日数台、どんなに頑張っても10台しか作れなかった。

ところが『ポン』は製造コスト500ドル、販売は1,200ドルの即現金払いであったが、これが飛ぶように売れた。

ちなみにこの頃アメリカで最も人気のあったピンボールは、一日約100ドルを稼いでいたが、『ポン』は200ドル以上稼いだ為、つまり3日で製造コスト、1週間で販売コストが回収できた。

ところで当時のアーケード業界はアメリカはもちろん日本を始めとする諸外国でもまだ胡散臭いものと思われ、銀行から融資してもらえるゲーム会社は大手あるいは何らかの別の事業を持つ会社だけだったが、アタリはこのような右肩上がりの業績により軍資金を蓄えていくことに成功した。

「ポン」開発後アタリは、「アパートの隣の部屋も借りる→潰れたローラースケート場を借りて工場に改造→当時アメリカで最新設備の工場」と、9ヶ月間に3回も工場を移転した。そして生産ライン従業員職安で片っ端から声をかけた。

こうして最終的には『ポン』を200人で毎日100台生産できる能力を確保した。それでも人手不足だったため、アタリに入って来た者なら誰でも節操なくスカウトした程だった。

なおこのころ入社した、後にスプライト機能等を生み出す技術者スティーブ・ブリストーは、ハンダ付けや現金回収時のボディガードを、妻に手伝ってもらっていた。

従業員は低賃金で一日12時間、忙しい時は20時間働き、疲れた時は作っているゲームで遊んだが、何故か家に帰らない者が多かった。彼らの多数はヒッピーだったため、工場は常にマリファナの臭いとロックの大音響で満たされた上、金に困ったヒッピーが、テレビ部品を勝手に質屋に売り払うこともあった。だがゲームが売れる度に全員にボーナスが頻繁に出るなど、羽振りは大変良かった。

ブッシュネルや初期の従業員たちは、自分たちを「アタリアン」(Atarian) と呼び、自由な格好・時間・雰囲気で、楽しむ様に経営や開発を行なっていた。そして新作ゲームも必ずテストプレイに加わり、意見を述べていた。ワーナー売却以前に大切な会議をする時は、ゲームで儲けたブッシュネルの豪邸で、何とジャグジー(泡風呂)の中でやっていた程である。

1972年に資本金500ドルで始まったアタリは1973年には320万ドル以上の売り上げを記録した。ちなみにこの頃の売り上げと資本金の急成長ぶりは、アメリカの企業として未だ破られていない記録であるとされる。「ポン」以外のゲームでは、1973年に『ポンダブルス』、ボールとラケットタイプ以外のゲームでは、『スペースレース』を発売している。

ただ、共同経営者はこの急成長に付いて行けないと言い出したため、彼の退職条件として「これまでの直営ロケ(会社が直接機械を設置する事)の権利を渡す」ことにより退職金代わりとした。こうして創立後約1年で、アタリは名実共にブッシュネルの会社となった。

1973年には、効率の良い商品販売のため、子会社のキーゲームズ(Kee Games)を立ち上げた。しかし、この会社を約1年半で早々と吸収合併、キーゲームズ社長をアタリの社長に据えたうえで、ブッシュネルは会長になった。

以後、副社長社長と共に、ブッシュネルの腹心の片腕として活躍することになる。この他に、日本支社としてアタリジャパン(初代、後に経営不振によりナムコの関係会社となり、ナムコはアーケード技術をかなりここから得たとされる。1990年に解消されたとされる)を設立する。

1974年初頭には、40人目の社員として、スティーブ・ジョブズが技術者として入社している。同じく1974年には、初の家庭用ゲーム機として、『ポン』の家庭用版『ホーム・ポン』、1976年には『ポン』に続く大ヒット作として、ジョブズがスティーブ・ウォズニアックを関わらせたことでも知られる、『ブレイクアウト』(いわゆるブロック崩し)を発表した。

Atari2600とワーナーの悲劇

この会社は家庭用ゲーム部門としてAtari2600(当初はVCS、ビデオコンピュータシステムと呼ばれていた)の構想を立ち上げた。しかしアーケードゲームにより業績を上げている企業とは言えどもこの計画は多くの金が動く為、資金のやりくりが大変であることは確実であるうえ、この頃は一歩間違えれば倒産しかねない(通常会社というものは運転資金がショートするとあっさり倒産するものである)危機を孕んでいた。

ブッシュネルは株式公開も考えたが、結局大企業への売却で資金を安定させる方法を思いついた。

そこで彼はユニバーサル・スタジオで有名になるユニバーサルや、ディズニーに声をかけたが、これらの大会社はゲームという新しい娯楽の未来を見る目がなかったのかそれらの会社からは反応は無かった。

しかし、映画会社として有名なワーナー・コミュニケーションズ(アタリを傘下にしていた時代に、タイム・ワーナーとなる)のロス会長は、遊園地でアタリのゲームを見たのがきっかけでアタリと接触、ロスが叩き上げの事業家でブッシュネルと意気投合したこともあり、1976年10月に2,800万ドルでアタリを買収した(この買収金額のうち1,300万ドルはブッシュネルの懐に入り、億万長者となる)。この際アタリ重役陣の役職はそのままとされた(ブッシュネルは後に「ワーナーへの売却は失敗だった。あと2週間あれば、資金が調達できた」と語っている)。

買収後の1976年11月にはフリッパーピンボールにも参入している。しかし、この事業は競合他社との競争が激しく、わずか7作品を出したのみで撤退してしまった。

Atari 2600は1977年に発売できたが、直後から「有力ゲームソフトが出せない」などのアクシデントが相次ぎ、なかなか売れなかった。

そのため、親会社であるワーナーは家庭用ゲーム機のテコ入れのため、繊維業界の営業畑で実績を持っていたが、ゲーム業界のことは何もわからないレイモンド・カサールという人物を、家庭用部門のトップとして引き抜いた。このカサールこそが、ブッシュネルとアタリにとって疫病神とも言えたAtari 2600とワーナーの動きに火を注いでしまった。

買収以前のアタリは服装含め自由な気風であったが、親会社がつれてきたカサールを始めとするワーナーの重役陣はネクタイを締め、目的と言えば事業拡張と売り上げだけ、それもアーケードでなくAtari 2600の売れ行きだけを目標としており、もちろんテストプレイにも加わらなかった。

Atari 2600は未だ有力なソフトが無く売れないので、ブッシュネルは前述のフリッパー及び自ら構想したAtari 2600の事業縮小・中止を提案した。だがワーナー側は猛反発、交渉は決裂した。そして、ブッシュネルは1978年12月にアタリアンだけで重役会議をやった所、話を聞いたワーナーが激怒する。ブッシュネルには一応、YesかNoかの答えを迫られた余裕もあったが、事実上ワーナーがブッシュネルを一方的に解任した(なお退社後の彼はピザ店やゲームハード等を製造していたが後に破産した)。

カサール時代

そして社長が会長、カサールが社長に繰り上げ昇格したが、会長も程なく1979年10月に退職(その後もブッシュネルと仕事の付き合いがあった)、ゲームのことはまったくわからないカサールが会長となった。

これまではまだまだ自由だったアタリは厳しい社風に一変、スーツや入館用ICカードが義務付けられる。異なる部門は出入りが制限され、顔も名前も分かりにくくなった。これはワーナー売却前、ある会社のゲームとよく似たゲームが別会社から発売され、訴訟になったことが理由の一つであり、開発部門の情報隠蔽とも言える。

そして風通しの悪くなった会社に対してアタリアン達もどんどん解雇か、依願退職となった(しかしそんな環境でもきちんと在籍し続け、優れたアーケードゲームを開発し続けたアタリアンもいる)。退職した有能なアタリアン達の中には、Atari 2600用のサードパーティー会社を立ち上げる者もいた。たとえばAtari 2600のグラフィックチップを開発したジェイ・マイナーはこの頃に退職し、Atari 2600用のジョイスティックを開発するためとの名目でAmiga社を設立、新型ハードの開発に乗り出している。副社長も自分の電子ゲーム企画を没にされたため、1981年に退職している(その後彼は後輩とも言えるジョブズの作った、アップルコンピュータに勤めた時もある)。

カサールはアタリアン達の企画した(おそらく面白いだろうが混沌とした)ゲームをどんどん没にしただけでなく、会社の本体ともいえるアーケード部門にも予算節減など様々な妨害を加え始めた。

この頃からアタリショックまでのアーケード作品は、フライヤーチラシ)が白黒になる、毎年の新作数が半分強に減る、等からも経営陣による妨害があった事が分かる。しかしそれでもこのころのアタリの売り上げは冷遇されたアーケード部門が稼ぎ、優遇されている家庭用部門は苦戦を強いられていた。

カサールの唯一の功績は、日本の『スペースインベーダー』が売れていたため、Atari 2600への移植を提案したことである。これで1980年にAtari 2600はやっと売れ始め、ワーナーグループ全体の売り上げの1/3をアタリが占めるまでになった。逆に『パックマン』はカサールに無許可で移植が決定したため、カサール(及びこのゲームがレベルの低い移植だということを知らずに購入したユーザー)を激怒させたが、結局これが2発目のキラーソフトとなり、ここに来てAtari 2600の人気は頂点に達した。しかし、このパックマンのカートリッジは誤った需要予測により当時流通していたAtari 2600本体よりも何百万本も多く生産されたため、大量の不良在庫が生じた。

これに味を占めたのか、アタリ経営陣及びサードパーティーは「人気タイトルならAtari 2600でゲームにすればなんでも売れる」と誤解した。そのため、レベルの低いソフトが粗製濫造され、特にアタリが自ら作った、人気映画『E.T.』のゲーム化が大失敗する(このゲームは開発期間が短く、調整する時間も少なかったため、一般人にとって「思っていたのとは違う」ゲームであったため、版権取得の代金さえも回収できなかったとされる。しかし「当時はとっつき難かったが、妙に変わっていて面白いゲームだ」と支持する声も存在することを記しておく)。

これで深刻なユーザー離れを起こしたため、アタリショック(Video game crash of 1983,アメリカのコンシューマゲーム業界が崩壊に追いやられた事件)が発生、その結果、カサールもやっと1983年7月に解任された。だが、カサールはこれに飽き足らず、解任直前にはインサイダー取引の疑いまで起こしている。

カサールの後任であるジェームズ・モーガンの初仕事は社内の無駄減らしであり、次に不良在庫となった『E.T.』のカセットの大量処分、そして社員のリストラであった。この当時がアタリの最大社員数であり、1972年にたった2人で始めた会社が、1983年には約9,800人に膨れ上がっていた。

大鉈を振るった結果、この会社の経営状況はある程度改善し、赤字の垂れ流し状態であったアタリの家庭用ゲーム機部門にも復調の兆しが見え始めた。しかし、1984年にワーナー本社がメディア王ルパート・マードックによる買収攻勢に遭い、アタリの経営改善にかまっている余裕が無くなってしまった。ワーナーは家庭用ゲーム機部門と、アップルコンピュータコモドールなどの他社に押され気味であったパソコン部門の切り離しを決定。努力も空しく、1985年にアタリはアタリゲームズ(アーケードゲーム事業)とアタリコープ(家庭用ゲーム及びマイコン事業)の2社に分割される。

アタリゲームズ(アーケードゲーム部門)

分割された会社のうち、業務用ゲーム部門はワーナーグループに残され、アタリゲームズ(Atari Games)と名前を変えた。ブッシュネルが創業・届け出た会社としての血筋は、こちらが受け継いでいるとされる。『ガントレット』、『マーブルマッドネス』などの秀作ゲームを順調にリリースした。日本へのライセンスは1990年まではナムコ、その後はコナミや、SNKからも行われている。

そして、アタリゲームズ製ゲームの家庭用ゲーム移植を目指し、子会社「テンゲン」も設立された。しかし、NES(海外版ファミリーコンピュータ)製造ロットを廻り任天堂と仲たがいし、テンゲンは独自にNESのソフトを製造しだした。この際リバースエンジニアリングにより解析を行っていたため任天堂と裁判沙汰になり、不利な条件で和解せざるを得なくなってしまった。アタリショックから立ち直ろうとしたアタリゲームズは、これで再度傾いた。なお、この裁判のあおりでセガメガドライブテトリスを発売できなくなったとされる。

その後、ワーナーが週刊誌で有名なタイム社に買収され、タイムワーナー社となったのに伴い、タイムワーナー・インタラクティブ(通称TWI)に改名、一時的にアタリの名が消えた。なお、この時社長を勤めていたダン・ヴァン・エルデレンは、「ポン」量産開始直後に入社した、叩き上げの「アタリアン」と言われている。

親会社であるタイムワーナーは家庭用(アタリコープ)に続き、アーケード部門もタイムワーナーからの分離を決定した。

この会社の買収先には日本のゲーム会社の名も挙がったが、1996年3月にピンボール大手のウィリアムス・インダストリーズ(WMS)に買収された。アタリ(ゲームズ)の名はWMS側で復活した。しかし1996年10月にはWMSからアーケードゲーム部門を分離したミッドウェイゲームズ(元はエレメカピンボールの会社)にアタリブランドは引き継がれる。

そして2000年2月にミッドウェイはアタリブランドを使用停止し、「ミッドウェイ・ウェスト」と改名し、アタリブランドのアーケード新作は作られなくなった。この合併の成り行き上、ミッドウェイゲームズは今でもアタリゲームズのゲームの権利を保有しており、またミッドウェイのスロットマシンには『ポン』等、アタリのゲーム名を使っているものがある。

2009年、破産したミッドウェイをワーナーが買収。アタリゲームズの権利は再びワーナーの物となった。

アタリコープ(家庭用ゲーム・パソコン部門)

家庭用ゲームやパソコン部門は新会社で分割、コモドール(タイプライター計算機パソコンのメーカー、コモドール64や、Amigaなどが有名、1994年倒産)を追放されたジャック・トラミエル(ユダヤ人、コモドールの創設者、経営方針は「とにかく安売りしてライバルをつぶす」こと。)に売却され、アタリコープ(Atari Corp)となった。

家庭用コンピュータ

分割前の1979年には、8ビットパーソナルコンピュータAtari 400/800を発売し、家庭用パソコン市場に参入していた。その後継機として、コモドールから引き抜かれた社員が中心となって開発した16ビットパソコンAtariSTを発売(1985年)。Amiga(アミーガ)社を買収した社長追放後のコモドールの16ビットパソコンで、元アタリアンのジェイ・マイナーが開発したAmigaと熾烈なシェア争いを演じる(なお、アップルコンピュータは高級機路線にいたため、この二つの会社の直接のライバルとはならなかった)。

この戦いは結局のところ32ビット機であるIBMPC/AT互換機により、双方敗北の形で幕を下ろした。

ちなみにAtari STはMIDI端子を標準装備していることからミュージシャンに愛用者が多かった。

家庭用ゲーム機

アタリコープは、Atari 2600との互換性を持つ後継機・Atari7800を再発売したものの、これはNESなどライバルにさえぎられる形であまり売れなかった。1989年に携帯ゲーム機AtariLynx、1993年には32ビットゲーム機AtariJaguarを発売する。しかし、他社のライバルハード(ゲームボーイプレイステーションNINTENDO64など)の存在、サードパーティーの不在、開発思想とユーザーの求めるものの相違により最終的には失敗。この後四半世紀に渡り新ハードは発売されなかった。

そして1996年にハードディスクメーカーのJTS(JTS Corporation)に吸収合併され、その後も資産売却や買収が短期間で連続した。そして現在はフランスに本社を置くインフォグラム傘下のアタリ(2代目)となった。

そして2017年、アタリは新たなゲームハード・Atariboxを2018年に発売することを発表した。

版権の行方

上記のような経緯により、元は一つの会社であったアタリのゲーム資産は、ミッドウェイ(Midway,アーケード部門)及びインフォグラム(infograms,コンピュータ、家庭用ゲーム部門)に分割されて継承されるという複雑な状況になってしまった。

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