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富士重工業の編集履歴

2021-04-30 22:10:58 バージョン

富士重工業

ふじじゅうこうぎょう

日本の自動車・航空宇宙機器メーカー『株式会社SUBARU』の旧社名。

本記事では社名変更後の「株式会社SUBARU」、および同社のブランド「スバル」についても取り扱う。


概要

本社は東京都渋谷区にある。

現法人は1945年に設立し、前身法人は1917年創業。


飛行機メーカーを前身とし、現在は乗用車ブランド『スバル』を主力事業とする『株式会社SUBARU』の旧社名である。

2017年4月に現社名となり、社名及びブランドの由来は牡牛座内にあるプレアデス星団の和名「昴」(すばる)からとられている。


1968年~1999年は日産自動車、2000~2005年までは米GM、2005年以降はトヨタ自動車が筆頭株主となっている。


自動車の特徴

トヨタや日産などのようにジャンルや車種はそこまで多くはない。

しかしながら、基本的にどの車種にもスポーツ走行に重点を置いたエンジン、足回り、内外装のデザインの開発で有名であり、その独自性や品質の高さからファンも多い。

特に四輪駆動車水平対向エンジンの組み合わせはスバル技術の特徴でもある。


とは言うものの、出発が軽乗用車だったこともあり、オート三輪ブームの終焉による中小・零細規模の自動車メーカーの淘汰が行われた1970年代後半からバブル崩壊までの所謂「2強7中」(トヨタ・日産・三菱ホンダマツダいすゞ・スバル・スズキダイハツ)と言われた時代には結構広範囲な車種を手掛けている。

その時代のディーラーの写真を見ると、極端に斜めになったフォント(スバル文字)で

  • アルシオーネ
    • 2ドアクーペ。後継の「SVX」も含めるとスバル内製の乗用車としては現在に至るまで最大排気量。
  • レオーネ
    • スバルの当時の主力車種。当初は1400cc、後に排ガス規制による馬力低下を補うため1600cc、1800ccに拡大する。
    • 特にエステートバン4WD(登録上は4ナンバー(貨物車)、後、5ナンバーの「ツーリングワゴン」も追加)は今日のCUVの先駆けと言われる車両である。
  • ジャスティ
    • 所謂「リッターカー」。スターレットシャレードに対抗する形で、スバルも参入した。ドアにはレックスのものを流用するなど、涙ぐましいコスト削減が図られたが、デビュー当時の3バルブOHCは対抗車種に負けないほどの存在感を放った。だがターボ搭載の期待が高まった時期に突如カタログ落ち。1代限り。
  • ドミンゴ
    • ありのまま起こったことを話すと、サンバーの車体の鼻面伸ばしてケツも少し太らせてジャスティのエンジン乗っけたクルマライトエースワゴンやバネットコーチの対抗車種として投入された……が、もともとRV志向の高かった当時の非常に 訓練された スバリスト達からはジャスティよりよほど評価が高かったクルマ。
    • 隠れた人気者だったドミンゴは1994年最初で最後のFMCを受け、辛うじて2代に渡った。だが期待されたスーパーチャージャー搭載車は発売されないまま衝突安全製の問題からサンバーのFMCと同時にカタログ落ち。
  • レックス
    • スバルの偉大なる凡作。スバルをトヨタの手下に成り下がらせたここ20年の経営者は、レックスの開発担当者に説教されてこい。以上。
  • サンバー トライ/トラック
    • スバヲタでなくとも一度は聞いたことのある、スバルで発売から終焉までその商標が変わらなかった唯一のクルマ。「トライ」は4代目から5代目の途中までの乗用ライク(登録上は貨物車・4ナンバー)なモデルにつけられていた商標。

と、こんな感じで派手に看板を出していた。


クセがある、と言うにはクセがありすぎてほぼ359°捻じくれてた独特な車種を展開していた。

「スバリスト」とは、本来この時期のスバルファンを指すべき言葉である


だが、1989年にレガシィを発売、それをきっかけにスバルはミーハー路線へとシフト。時は折しもバブルのイケイケドンドン、興銀から融資も引き出せてラッキー……のはずが……


時期を外すことではある意味浜松の赤いロゴのあんちくしょうより天才なスバルの末路……

言うまでもない、バブル崩壊である。若者の収入が激減し、一気に瀕死に追い込まれたスバルの、まさに首の皮二枚繋いだのがレックスとサンバーだった。


ところが、あろうことかスバルはその首の皮の一枚を自ら切ってしまう。1994年、レックス販売終了、ヴィヴィオの投入である。

特にRX-Rの派手さは若年層のスバヲタを喜ばせたが、その実バブリーな時勢に合わせて開発されていたヴィヴィオは、バブル崩壊後に求められた軽自動車像(とにかく大人4人と手荷物が乗って走って曲がって止まれりゃいいという経済車)とはかけ離れていた。苦し紛れに限定仕様車の発売やサンバーでの成功体験を夢見たモデルの追加を行うが、素直に時勢に合わせたアルトミラミニカに対抗できていないのは誰の目にも明らかだった。


この頃、アメリカは1970年代から長年自国の工業を苦しめ続けてきた日本の自爆で一息ついた。それなら輸出だ、北米輸出に力を入れよう、頼んますよGMさん。えっその目障りなキラキラ星を外せって? わかりゃあした目立たないようにしときます。


こうしてレガシィの北米輸出に活路を見出したスバルだったが、レオーネの時代から積み上げてきたWRC参加経験がここで生きてくる。レガシィはターマックラリーには少し大柄だったため、少しサイズを抑えた5ナンバー車を開発することに。


これがインプレッサである。言われなくとも輝くスバルの技巧、その完成度。若いスバヲタ共が大喜び! …………してた一方で……

実はインプレッサは第一報で4代目レオーネと報じられていた。それが全く違う、アルシオーネまでのスバルの命名法則(ラテン語源)とも異なるネーミングに、そろそろ頭に白いものがまじり始めた、レオーネ・レックス以来の精鋭スバリストたちをどれだけガッカリさせたか、多くを語る必要はあるまい。


それでもインプレッサWRX発売の頃まではよかった。あの熱いスバルは名前ぐらいちょっと変わってもやっぱり健在だったぜ! 『頭文字D』による市販車モータースポーツブーム、更にインプレッサ自身も登場してにわかスバヲタを量産する一方で、往年のオヤジたちも少し熱くなってきた。


一方この頃、軽自動車はどうかと言うと輸出で儲けにならないということで、開発費も出ず、この時折しも国内軽自動車市場はスズキのワゴンRに端を発する軽トールワゴンブームにあったが、スバルはトールワゴンと2BOXセダン/バンを折衷したようなプレオを発売。お茶を濁す感じでサンバーともども細々と販売を続けていた。

エンジンも改良は続けていたが、形式上EN07型を使い倒すことに。


このエンジンは「3代目途中のレックスをFMCせずにそのボンネットにどうにかしてブチ込む」為、4気筒(そもそも3代目レックス初期型は2気筒だった)と言う制約から他社のように安逸にボア・アップのみで660cc対応とできず、ストローク方向も延長した。これが実は功を奏していた。他社が安逸に4気筒車を出してきた際、フリクションロス(エンジンの部品同士の摩擦によるパワーロス)の増大でむしろ従来の3気筒エンジンより燃費が悪化しトルク配分も3気筒より悪化していた。ストローク方向にも増大させていたEN07型はフラットトルクで扱いやすく燃費もよく、後々課さされる低燃費基準もクリアしていく。

この「レックスが最後の最後で難産の末に遺していってくれた遺児」がいたからこそ、バブル後のスバル軽は約20年にわたって体面だけはなんとか保てたのである


なのだが、実はもう一方のサンバーには絶対安定顧客がいた。赤帽宅配便である。ここの酷使に耐えられるエンジンをスバルしか作れないだろうということで長年指名されてきた。この赤帽仕様車のエンジンは特注製でシリンダーヘッドが赤く塗装されていた。

実はこの時点で怪しかった。だってスズキはジムニーのエンジンつくってるんだもん。


北米輸出や市販車モータースポーツで調子が良さそうに見えたスバルだったが、この頃少しキナ臭くなり始めている影響で、GMが株式を放出しトヨタが筆頭株主に座った。

後の「スバル軽撤退はトヨタの意向」とされがちだが、実はこの時期トヨタは「国内安定モデルであり絶対安定顧客であるサンバーのFMCをしろ!!!!」と再三勧告していたのである。


ところがスバルは調子に乗ってしまう。まずプレオの中途半端ぶりを改善するため2BOXセダンのR2と軽トールワゴンのステラに分けた……まではよかったのだが、R2ではまたしてもこだわりすぎた設計をしてしまい開発費がかかってしまい、オマケに「え、この内容でその値段?」という内容のR1までくっついてくる。


さらにインプレッサを、WRCのレギュレーションへのマッチングもあって初代・2代目とはガラリと印象の変わったノッチバック・スタイルに改める。この為大衆車としてのイメージ作りは根本からやり直しに。しかもWRXモデル以外は手抜きをし始め、インプレッサ・XVなど高速道路の出入り口のワインディングでタイヤが鳴いてしまっていた(日本の一般的なブランドの同サイズのタイヤに嵌めかえるだけで鳴き止んだ。実体験)。

そして時限爆弾のカウントゼロはもうすぐそこまで迫っていた。


2008年リーマンショック本当にありがとうございました


株式会社SUBARUへ……

2020年現在は合理化最優先や目先の流行車種へのシフトはあまり行わずに、ノッチバック型のセダンクーペスポーツカーステーションワゴンオフロードでの走行性能の良いSUVを数少ないラインナップに加えている。

ダイハツからのOEM供給で軽自動車も販売しているが主力車種までにはしていない。


実際のところ、現在のスバルの自動車販売の9割は輸出向けで、その大半が北米である。


ぶれないスバリスト達? もうそんなものはいなかった。多少は現在もスバル車を評価してくれる若いスバヲタ達は、2大経済大国がほぼ20年スパンでやらかした経済破綻のせいで、収入が低くてスバルの主力車種を新車で買う経済的余裕はなかった。エンジンが水平対向であるということ以外、他社と差別のなくなった一般向けモデルに、無事に定年を迎え今年金生活に入り可処分所得を裕福に使える層のスバリスト達は、目を向けなかった。ある者はかつて軽で熾烈なシェア争いを繰り広げた浜松のあの会社の軽を豪華装備で買い、ある者はどんなに窮地に追い込まれてもスポーツカーブランドとしての誇りを捨てなかった広島のあの会社へ流れ、残った者は中古でプレミアついた、あの昔懐かしいスバル車を買い若かりし日のあこがれを満たした。今のスバル車、そんなものはトヨタ車で代わりがきくものしか残っていないのだから。


沿革

前身は主に旧帝国陸海軍軍用機を製造していた中島飛行機である。

帝国陸軍一式戦闘機四式戦闘機帝国海軍九七式艦上攻撃機のメインモデルが特に有名であり、海軍の零式艦上戦闘機三菱重工から受託生産していた。


戦後はGHQによる財閥や軍需メーカーの解体命令を受けて、旧中島飛行機からいくつかの製造会社が独立する。

その後旧中島系企業の再編もあって1953年に富士重工業が誕生。


1958年発売の軽乗用車スバル360と、1961年発売の派生型商用車サンバー大衆車として技術・商業的に大成功し、日本の高度経済成長モータリゼーションを象徴する名車となる。

これを機に「スバル」ブランドの自動車メーカーとしての確固たる地位を築き、現在に至る。


現在自動車以外では自衛隊向けの飛行機(例・T-1)の生産や、人工衛星などの宇宙航空機の部品製造も行っている。

1965年から1986年にかけてFA-200(エアロスバル)の製造・販売も行っていた。


かつては鉄道車両バスなどの車体製造も手掛けていたがいずれも他社へ移管した。

特に旧国鉄第三セクター鉄道への気動車を始めとする技術供給が多い。


海外事業

アメリカ合衆国では「走行性能が良い」、「上質な内装」、「安全性が高い」、「値段の割に装備が豪華」などで評価が高いとされる。


EU各国と豪州向けに水平対向ディーゼルエンジンも生産していたが、排ガス規制の関係から2020年に撤退した。


これまでの主な製品

四輪車

スバル


二輪車

ラビットスクーター


鉄道車両

JR北海道キハ281系

智頭急行HOT7000系

 


関連項目

自動車 乗用車 乗用車 日本車

自動車メーカーリスト

スバル(ブランド) 富士重工

中島飛行機 スバリスト モータリゼーション


高谷裕亮 東明大貴

:元富士重工業硬式野球部(現:SUBARU硬式野球部)に在籍していたプロ野球選手


宮田工業

:一時期同社の自転車競技部「チームミヤタ」のスポンサーとなっていた。


アクアプラス

:スバル車に特化したカープロショップ「AQUA」を前身とするゲームメーカー。

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