2020年3月場所時点での現役の横綱は下記の1名である。
第69代白鵬翔 不知火型、幕内最高優勝44回
概要
特別な地位であり、土俵入りも大関以下の力士と分けられ、「横綱土俵入り」として、太刀持ち、露払いの2力士を従え登場することで知られる。
横綱審議委員会が定める横綱推薦の内規は次のようになっている。
- 横綱に推薦する力士は、品格、力量が抜群であること。
- 大関で2連続優勝した力士を横綱に推薦することを原則とする。
- 第2項に準ずる好成績を挙げた力士を推薦する場合は、出席委員の3分の2以上の決議を必要とする。
- 品格については、協会の確認に基づき審議する。
この基準は1958年に定められたものであるが、その条文の解釈及び運用は時代によって変わっている。特に、双羽黒(横綱昇進前の四股名は「北尾」)を準優勝1回、優勝同点1回で横綱昇進させ、結局優勝を一度もしないままトラブルで廃業となったという事態が発生して以降、鶴竜の昇進以前は2場所連続優勝が事実上の絶対条件となり、第3項の規定は考慮されないに等しい情勢となっていた。
大関以下と比べて、どんなに負け越しても地位が陥落しない、とあるが、実際は最低でも10勝以上挙げることが求められ、9勝以下で終わった時は厳しい批判を受ける場合が多い。負け越すとその進退が問題になる(※)。1958年以降、横綱で皆勤の上負け越したのは大乃国、若乃花(3代)の2例があるが、負け越す前に休場するのが通例であり、貴乃花は膝の大怪我のため7場所連続全休をした事がある(休場明けは優勝次点ではあったが、その次が全休の後、4勝4敗で引退した)。
最近では(品位はともかく)朝青龍、白鵬と好成績を残す横綱が続いているので、成績面では問題とされることは少ない。
※……実際に成績不振により「激励」を決議されたのは、2018年11月場所後、稀勢の里に対してのみである。稀勢の里は翌場所中に引退した。また、引退勧告書を提出されたのは暴行事件を起こした朝青龍(そのタイミングで引退)のみで、前述の大乃国が負け越した時には直ちに引退を申し出たものの、当時の二子山理事長(元横綱・初代若乃花)が「初心に帰ってやり直せ」と一喝し、これを許さなかった。なお、2017年11月に不祥事のため引退した日馬富士に対しては「引退勧告相当」との判断を下している。2020年11月場所後にはここ数年休場が多いとして白鵬と鶴竜に対して初めて「注意」の決議がなされた。
同時昇進の場合
2人以上の力士が同時に横綱に昇進した場合、先に引退した方を先代としている。これは常陸山谷右エ門と2代目・梅ヶ谷藤太郎が同時昇進した時、常陸山を先代としたが、結局は常陸山が先に引退し、これ以降は先に引退した方を先代と位置付けるようにしたためである。
横綱大関
何らかの事情により大関が1名以下になった場合、番付記入上の措置として、時の東西正横綱が大関を兼務する「横綱大関」という表記が為されることがある。直近では2020年3月場所において大関が貴景勝1名となったため、西横綱の鶴竜が横綱大関として番付表に記載された。これは、1981年11月場所、北の湖が「横綱大関」として番付表に掲載されて以降、38年半ぶりのことである。なお、横綱大関となった横綱は、当然のことながら番付表記以外では横綱として扱われる。
引退後
日本国籍を持つ横綱の場合、年寄名跡を持っていなくても引退後5年間は現役時の四股名のまま親方として協会に残る事が出来る。引退後1年を経過すれば、部屋の師匠の了承の下、部屋の新設が許可される。また、功績顕著(優勝20回以上が目安)の横綱の場合は、いわゆる一代年寄として当該横綱一代に限って、現役時の四股名を用いた特別な年寄名跡が与えられる。功績顕著の一代年寄には、大鵬、北の湖、貴乃花がいる。千代の富士は本人の意向により一代年寄を辞退した。
横綱土俵入り
現役横綱の特権及び責務として、幕内力士とは独立して本場所の幕内取組前や巡業に於いて行う土俵入りの儀式である。片屋入りと呼ばれることもある。現在は雲龍型(メイン画像参照)と不知火(しらぬい)型(せり上がる時に両腕を広げる)の二つの型が伝わっている。但し、指導する親方や横綱自身による個人差が見られる。
いずれの型に於いても冒頭に記されている通り、太刀持ち・露払いを従えるが、これを務める力士は同部屋あるいは同じ一門の関脇以下の幕内力士から選ばれることが近年の慣例となっている(大関が務めることが禁じられている訳ではない)。このうち、番付上位の力士が太刀持ちを務める。
例えば、日馬富士の場合は、同部屋の兄弟弟子である安美錦と宝富士をそれぞれ太刀持ち・露払いに起用している。白鵬の場合は同じ伊勢ヶ濱一門に属する友綱部屋の魁聖らがこれらを務めていたが、2014年1月場所後の一時期、白鵬の師匠・宮城野親方と、旭天鵬・魁聖の師匠である友綱親方とのトラブルが原因で、太刀持ち・露払いが豊ノ島(時津風部屋:時津風一門)と臥牙丸(木瀬部屋:出羽海一門)に変更される異例の事態になっていた(※1)。2014年3月場所の白鵬の土俵入りについては、魁聖と旭天鵬の組み合わせに戻ると友綱部屋のブログに書かれていたが(※2)、実際に本場所の土俵入りに太刀持ち・露払いとして登場したのは豊ノ島と臥牙丸であった。
横綱の所属部屋以外から太刀持ち・露払いを起用する場合、どちらか一方が横綱と対戦するときは当該力士が、あるいは太刀持ちと露払いの力士で対戦が組まれる時はどちらか一方が、その日に限りその任を外れる。
※1……伊勢ヶ濱部屋、友綱部屋以外の伊勢ヶ濱一門の幕内力士には追手風部屋の遠藤がいるが、当時は大銀杏が結えなかったので、太刀持ちや露払いを務めることが実質的にはできない。白鵬と同じ宮城野部屋の大喜鵬(当時)が幕内に在位していたときも、大銀杏が結えなかったので露払いを務めることができなかった。
横綱土俵入りの型について
二つの型の内、不知火型は短命横綱のジンクスがあるとして人気がない。事実、不知火型を選択した力士は、現役中に死去した玉の海、30歳を過ぎて昇進し、型の保存の目的で継承した琴櫻と隆の里、全盛期を過ぎていた旭富士(現・伊勢ヶ濱親方)、若乃花勝、トラブルで廃業した双羽黒、日馬富士がいる。
しかし、2007年に横綱に昇進した白鵬が、2017年11月場所終了時点で歴代最多となる40回の優勝を記録、2012年に昇進した日馬富士も引退までに9回の優勝を記録し、この悪いイメージは払拭されつつある。不知火型の横綱が複数同時に在位するのは、白鵬と日馬富士のケースが初めてであるが、2017年11月現在、不知火型の土俵入りを経験した在職中の年寄が伊勢ヶ濱親方(第63代横綱・旭富士)しかおらず、やむなく引退した日馬富士は相撲界を離れ、型の継承が危ぶまれる状態にある。もっとも、現役の不知火型の横綱である白鵬が2019年に日本国籍を取得し引退後に親方として活動する条件である年寄襲名資格を得た。
なお、横綱在位期間(場所数ではない)歴代2位の記録を持つ36代横綱・羽黒山政司も不知火型の土俵入りを行っていた。
- 現在伝わっているのは上記の二つの型であるが、過去にはこの二つに当てはまらない型の土俵入りをする横綱もいた。また、「雲龍型」と「不知火型」が、かつては逆の型を指していたのではないか、との指摘もあり、今日の定着に至るまで混乱があったようだ。
- 雲龍型、不知火型両方の土俵入りを経験したのは、北の富士と白鵬である。北の富士の場合は二班に分かれて行われていた巡業中に、別の班で巡業していた横綱玉の海が入院し、急遽玉の海の班に合流して土俵入りを行うことになったが、その際に諸事情で玉の海の綱を使うことになった為である。白鵬は双葉山生誕100周年を記念して大分県の宇佐神宮で行われた奉納土俵入りに際し、双葉山への敬意を表するとして雲龍型の土俵入りを行った。
還暦土俵入り
原則として、引退相撲を最後に横綱土俵入りが出来なくなるが、満60歳を迎えた時に、長寿を祝い赤い綱を締めて還暦土俵入りを行うことがある。健康状態その他の事情によって、赤い綱だけを受け取り土俵入りそのものは行わなかったり、土俵入りが完全なものにならなかったりするケースがある。引退相撲及び還暦土俵入りに於いて、横綱経験者が太刀持ち・露払いを務める場合(このときは二人のうち、先に横綱に昇進した者が太刀持ちを務める)は、自らも綱を締めて土俵に上がる。
歴代横綱
※基本的に和暦で記載。明治5年までは陰暦。
※太字は還暦土俵入りを行った横綱。
※出身地は現在の都道府県(外国出身力士は出身国)で示した。
江戸時代
代数 | 四股名 | 出身地 | 生年月日 | 没年月日【享年】) | 優勝回数 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
初代 | 明石志賀之助 | 栃木県 | 不詳 | 不詳 | 不詳 | 日下開山 |
2代 | 綾川五郎次 | 栃木県 | 元禄16年(1703年)? | 明和2年(1765年) | 不詳 | |
3代 | 丸山権太左衛門 | 宮城県 | 正徳3年(1713年) | 寛延2年(1749年)【36歳】 | 不詳 | 赤痢により現役死 |
4代 | 谷風梶之助 | 宮城県 | 寛延3年(1750年)8月8日 | 寛政7年(1795年)1月9日【44歳】) | 21回 | 事実上の初代横綱。古今十傑の一人。流感により現役死 |
5代 | 小野川喜三郎 | 滋賀県 | 宝暦8年(1758年) | 文化3年(1806年)3月12日【48歳】) | 7回 | 古今十傑の一人 |
6代 | 阿武松緑之助 | 石川県 | 寛政3年(1791年) | 嘉永4年(1851年)12月29日【60歳】) | 5回 | 19世紀初の横綱 |
7代 | 稲妻雷五郎 | 茨城県 | 享和2年(1802年) | 明治10年(1877年)3月29日【74~75歳】) | 10回 | 19世紀生まれ初の横綱。古今十傑の一人 |
8代 | 不知火諾右衛門 | 熊本県 | 享和元年(1801年) | 嘉永7年(1854年)7月27日【53歳】) | 1回 | 横綱から(関脇へ)陥落した唯一の力士 |
9代 | 秀ノ山雷五郎 | 宮城県 | 文化5年(1808年) | 文久2年(1862年)5月19日【56歳】) | 6回 | |
10代 | 雲龍久吉 | 福岡県 | 文政6年(1823年) | 明治23年(1890年)6月15日【66~67歳】) | 7回 | 雲龍型の開祖 |
11代 | 不知火光右衛門 | 熊本県 | 文政8年(1825年)3月3日 | 明治12年(1879年)2月24日【53歳】) | 3回 | 不知火型の開祖 |
12代 | 陣幕久五郎 | 島根県 | 文政12年(1829年)5月3日 | 明治36年(1903年)10月21日【74歳】) | 5回 | 江戸時代最後の横綱。古今十傑の一人。横綱在位は僅か2場所だが勝率は10割 |
明治時代
代数 | 四股名 | 出身地 | 生年月日 | 没年月日【享年】) | 優勝回数 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
13代 | 鬼面山谷五郎 | 岐阜県 | 文政9年(1826年)5月3日 | 明治4年(1871年)7月23日【44~45歳】) | 7回 | 明治時代初の横綱。43歳での横綱昇進は史上最高齢 |
14代 | 境川浪右衛門 | 千葉県 | 天保12年(1841年)4月8日 | 明治20年(1887年)9月16日【46歳】) | 5回 | |
15代 | 初代梅ヶ谷藤太郎 | 福岡県 | 弘化2年(1845年)2月9日 | 昭和3年(1928年)6月15日【83歳】) | 9回 | 古今十傑の一人。歴代最長寿の横綱 |
16代 | 初代西ノ海嘉治郎 | 鹿児島県 | 安政2年(1855年)1月3日 | 明治41年(1908年)11月30日【53歳】) | 2回 | 番付表に初めて「横綱」が記された横綱 |
17代 | 初代小錦八十吉 | 千葉県 | 慶応2年(1866年)10月15日 | 大正3年(1914年)10月22日【47歳】) | 7回 | 19世紀最後の横綱。土俵入りが現存する最古の横綱 |
18代 | 大砲万右エ門 | 宮城県 | 明治2年(1869年)11月28日 | 大正7年(1918年)5月27日【48歳】) | 2回 | 20世紀初の横綱および明治生まれ初の横綱。引き分けの多さから「分け綱」と呼ばれた |
19代 | 常陸山谷右エ門 | 茨城県 | 明治7年(1874年)1月19日 | 大正11年(1922年)6月19日【48歳】) | 8回 | 古今十傑の一人。大相撲に武士道の精神を持ち込み、地位を高めたことから、「角聖」と称される |
20代 | 2代梅ヶ谷藤太郎 | 富山県 | 明治11年(1878年)3月11日 | 昭和2年(1927年)9月2日【49歳】) | 3回 | 12年に渡り横綱を務め、常陸山と「梅常陸時代」を築く |
21代 | 若嶌權四郎(大阪) | 千葉県 | 明治9年(1876年)1月19日 | 昭和18年(1943年)10月23日【67歳】) | 4回 | 初の大阪相撲出身の横綱 |
22代 | 太刀山峯右エ門 | 富山県 | 明治10年(1877年)8月15日 | 昭和16年(1941年)4月3日【63歳】) | 11回 | 明治時代最後の横綱。強烈な突っ張りで56連勝を記録した。史上初の還暦土俵入りを行った。古今十傑の一人。 |
大正時代
代数 | 四股名 | 出身地 | 生年月日 | 没年月日【享年】) | 優勝回数 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
23代 | 大木戸森右エ門(大阪) | 兵庫県 | 明治9年(1876年)5月13日 | 昭和5年(1930年)11月7日【54歳】) | 10回 | 大正初の横綱。 |
24代 | 鳳谷五郎 | 千葉県 | 明治10年(1877年)4月3日 | 昭和31年(1956年)11月16日【69歳】) | 2回 | |
25代 | 2代西ノ海嘉治郎 | 鹿児島県 | 明治13年(1880年)2月6日 | 昭和6年(1931年)1月27日【50歳】) | 1回 | |
26代 | 大錦卯一郎 | 大阪府 | 明治24年(1891年)11月25日 | 昭和16年(1941年)5月13日【49歳】) | 5回 | 入幕から僅か5場所で横綱にスピード昇進した |
27代 | 栃木山守也 | 栃木県 | 明治25年(1892年)2月5日 | 昭和34年(1959年)10月3日【67歳】) | 9回 | 古今十傑の一人。史上最軽量の横綱(103kg)で、スピード感ある相撲で近代相撲の創始者とされている。引退した6年後に行われた第1回大日本相撲選士権で年寄・春日野として出場し優勝を果たした。 |
28代 | 大錦大五郎(大阪) | 愛知県 | 明治16年(1883年)3月22日 | 昭和18年(1943年)5月16日【60歳】) | 6回 | 26代の大錦卯一郎との取組もある。 |
29代 | 宮城山福松(大阪) | 岩手県 | 明治28年(1895年)2月27日 | 昭和18年(1943年)11月19日【48歳】) | 2回 | 大阪相撲最後の横綱。 |
30代 | 3代西ノ海嘉治郎 | 鹿児島県 | 明治23年(1890年)11月2日 | 昭和8年(1933年)7月28日【42歳】) | 1回 | 昇進時の四股名は「源氏山」だったが横綱2場所目に改名 |
31代 | 常ノ花寛市 | 岡山県 | 明治29年(1896年)11月23日 | 昭和35年(1960年)11月28日【64歳】) | 10回 | 大正最後の横綱。元力士としてはじめて日本相撲協会理事長に就任。 |
昭和時代(戦前・戦中)
代数 | 四股名 | 出身地 | 生年月日 | 没年月日【享年】) | 優勝回数 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
32代 | 玉錦三右エ門 | 高知県 | 明治37年(1903年)12月15日 | 昭和13年(1938年)12月4日【34歳】) | 9回 | 昭和初の横綱。猛稽古と豪放磊落な性格で二所ノ関部屋を大部屋へと育て上げた。腹膜炎の悪化により現役死。 |
33代 | 武藏山武 | 神奈川県 | 明治42年(1909年)12月5日 | 昭和44年(1969年)3月15日【59歳】) | 1回 | 近代的な容貌と怪力で人気を集めたが、横綱昇進後は右腕の負傷のために1場所しか皆勤できず「悲劇の横綱」と呼ばれた。 |
34代 | 男女ノ川登三 | 茨城県 | 明治36年(1903年)9月17日 | 昭和46年(1971年)1月20日【67歳】) | 2回 | 四股名は百人一首から採られた。魁偉な容貌で注目を集めたが、横綱昇進後は双葉山に歯が立たなかった。引退後は角界を去って職を転々とし、最後はかつてのファンが経営する料理店の従業員として生涯を終えた。 |
35代 | 双葉山定次 | 大分県 | 明治45年(1912年)2月9日 | 昭和43年(1968年)12月16日【56歳】) | 12回 | 明治生まれ最後の横綱。古今十傑の一人。年間2場所の時代でありながら、3年以上にわたる69連勝の記録を持つ。連勝が止まった後も、「われいまだ木鶏たりえず」と言って相撲に取り組み、現在でも不世出の大横綱として力士の模範と称される。引退後は年寄時津風を襲名し、相撲協会の理事長にも就任した。 |
36代 | 羽黒山政司 | 新潟県 | 大正3年(1914年)11月18日 | 昭和44年(1969年)10月14日【54歳】) | 7回 | 大正生まれ初の横綱。両国で銭湯の従業員として働いていたところを、親方の目に留まりスカウトされるという異色の経歴を持つ。12年以上(1941年5月場所後より。番付上は11年9カ月)も横綱に君臨し、在位期間は歴代横綱で第2位。ただし、当時は年2~4場所であった為、場所数としては30場所となる。 |
37代 | 安藝ノ海節男 | 広島県 | 大正3年(1914年)5月30日 | 昭和44年(1979年)3月25日【64歳】) | 1回 | 平幕時代に双葉山の70連勝を阻止した力士として有名。 |
38代 | 照國萬藏 | 秋田県 | 大正8年(1919年)1月10日 | 昭和52年(1977年)3月20日【58歳】) | 2回 | 安藝ノ海と同時に横綱昇進。終戦前に昇進した最後の横綱。 |
昭和時代(戦後)
代数 | 四股名 | 出身地 | 生年月日 | 没年月日【享年】) | 優勝回数 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
39代 | 前田山英五郎 | 愛媛県 | 大正3年(1914年)5月4日 | 昭和46年(1971年)8月17日【57歳】) | 1回 | 戦後初の横綱。しかし、野球観戦が原因で横綱として短命に終わる。 |
40代 | 東富士欽壹 | 東京都 | 大正10年(1921年)10月28日 | 昭和48年(1973年)7月31日【51歳】) | 6回 | 東京生まれで初の横綱だったことから「江戸っ子横綱」と呼ばれた。 |
41代 | 千代の山雅信 | 北海道 | 大正15年(1926年)6月2日 | 昭和52年(1977年)10月29日【51歳】) | 6回 | 千代の富士の師匠。 |
42代 | 鏡里喜代治 | 青森県 | 大正12年(1923年)4月30日 | 平成16年(2004年)2月29日【80歳】) | 4回 | 大正生まれの横綱で最も長く生きた。(史上第4位) |
43代 | 吉葉山潤之輔 | 北海道 | 大正9年(1920年)4月3日 | 昭和52年(1977年)11月26日【57歳】) | 1回 | 横綱時代は優勝出来なかった。 |
44代 | 栃錦清隆 | 東京都 | 大正14年(1925年)2月20日 | 平成2年(1990年)1月10日【64歳】) | 10回 | 大正生まれ最後の横綱。初代若乃花と「栃若時代」と呼ばれる一時代を築く。引退後は年寄・春日野として後進の指導に当たり、相撲協会理事長も務めた。定年の僅か1か月前に死去。 |
45代 | 初代若乃花幹士 | 青森県 | 昭和3年(1928年)3月16日 | 平成22年(2010年)9月1日【82歳】) | 10回 | 昭和生まれならびに戦後に初土俵を踏んだ初の横綱。「土俵の鬼」と称され、栃錦と共に一時代を築いた。必殺の呼び戻しは多くの相撲ファンをうならせた。引退後は年寄・二子山として実弟の大関・貴ノ花俊彰をはじめ、隆の里や二代目若乃花(いずれも横綱)を育てた。若乃花勝、貴乃花光司の伯父。1988年から92年まで相撲協会理事長。ちなみに、稀勢の里が初めて奉納土俵入りした際に使用した化粧まわしは初代若乃花が現役時代に使用したもの。 |
46代 | 3代朝潮太郎 | 鹿児島県 | 昭和4年(1929年)11月13日 | 昭和63年(1988年)10月23日【58歳】) | 5回 | 堂々たる体躯と太い眉毛・濃い胸毛で「毛ガニ」というあだ名が付くほどの人気を集めたが、横綱昇進後は脊椎分離症などに悩まされた。引退後は高砂部屋を継承し、大関4代朝潮や小錦などを育てた。「週刊少年マガジン」創刊号の表紙を飾ったことでも知られる。 |
47代 | 柏戸剛 | 山形県 | 昭和13年(1938年)11月29日 | 平成8年(1996年)12月8日【58歳】) | 5回 | 優勝回数こそ5回に留まるが、大鵬と共に「柏鵬時代」と呼ばれる一時代を築く。引退後は年寄・鏡山として後進の指導に当たるも、在職中の1996年に死去。本記事のメイン画像を飾る横綱。 |
48代 | 大鵬幸喜 | 北海道 | 昭和15年(1940年)5月29日 | 平成25年(2013年)1月19日【72歳】) | 32回 | 柏戸と同時昇進。幕内最高優勝は32回を誇る昭和の大横綱の一人。土俵上の実績にも拘わらず、引退後に脳梗塞で倒れて車椅子生活となった為、理事長などの要職には就けなかった。国民栄誉賞受賞(2013年、死後追贈) |
49代 | 栃ノ海晃嘉 | 青森県 | 昭和13年(1938年)3月13日 | 令和3年(2021年)1月29日【82歳】) | 3回 | 小兵の横綱として優れた技能を示したが、ケガが相次ぎ28歳の若さで引退。82歳10か月は史上2位の長寿で年6場所制では最長寿。 |
50代 | 佐田の山晋松 | 長崎県 | 昭和13年(1938年)2月18日 | 平成29年(2017年)4月27日【79歳】) | 6回 | 「平幕優勝した力士は横綱や大関に昇進できない」というジンクスを破り横綱昇進を果たす。幕内最高優勝6回。引退後は義父の出羽海(元前頭筆頭出羽ノ花)から年寄株を受け継ぎ部屋を継承。関脇・出羽の花、小結・大錦、佐田の海、舞の海などを育てた。特に舞の海に関しては異例の指導を行い、「技のデパート」を開花させたことでも知られる。 |
51代 | 玉の海正洋 | 愛知県 | 昭和19年(1944年)2月5日 | 昭和46年(1971年)10月11日【27歳】) | 6回 | まさに全盛期を迎えようとしていた矢先の1971年10月、虫垂炎の悪化により27歳で死去。大鵬の引退相撲直後の悲劇であり、同時昇進した北の富士も、当初は訃報を信じなかったという。 |
52代 | 北の富士勝昭 | 北海道 | 昭和17年(1942年)3月28日 | 存命中【79歳】) | 10回 | 十両と幕内の双方で全勝を達成した唯一の力士。引退後、九重部屋の師匠として千代の富士と北勝海の2横綱を育てた。現在はNHKの解説者としておなじみ。 |
53代 | 琴櫻傑將 | 鳥取県 | 昭和15年(1940年)11月26日 | 平成19年(2007年)8月14日【66歳】) | 5回 | 「猛牛」と呼ばれた激しい押し相撲で、32歳にして横綱に昇進した。引退後は佐渡ヶ嶽部屋を継承し、数多くの関取を育てた。孫にあたる琴ノ若傑太も2020年3月場所で入幕を果たしている。終戦前に生まれた最後の横綱。 |
54代 | 輪島大士 | 石川県 | 昭和23年(1948年)1月11日 | 平成30年(2018年)10月8日【70歳】) | 14回 | 戦後生まれ初の横綱。日本大学在学中に学生横綱となり、卒業前に花籠部屋に入門。「黄金の左」と言われた腕力の強さを武器として横綱として君臨、北の湖と「輪湖時代」と呼ばれる名勝負を演じた。引退後、花籠を襲名したが借金問題を起こし相撲協会を退職、プロレスラーに転向、ラグビーの監督も務めるなど数奇な運命をたどっている。 |
55代 | 北の湖敏満 | 北海道 | 昭和28年(1953年)5月16日 | 平成27年(2015年)11月20日【62歳】) | 24回 | 後に相撲協会理事長、北の湖親方(一代年寄)。21歳2か月での横綱昇進は最年少記録である。輪島とは「輪湖時代」と呼ばれる名勝負を演じた。「憎らしいほど強い横綱」と評されたが、横綱として高い矜持を持ち続けていた。横綱在位場所数は歴代2位の63場所。 |
56代 | 2代若乃花幹士 | 青森県 | 昭和28年(1953年)4月3日 | 存命中【68歳】) | 4回 | 二子山親方(元・初代若乃花)のスカウトで隆の里と同時に入門。大関までは「若三杉」を名乗ったが、横綱昇進と同時に師匠の四股名を譲られた。引退後は年寄・間垣を襲名し部屋を興したが、健康を害し定年を待たずに部屋を閉じ角界を去った。 |
57代 | 三重ノ海剛司 | 三重県 | 昭和23年(1948年)2月4日 | 存命中【73歳】) | 3回 | 31歳の遅咲きで横綱に昇進。引退後は武蔵川部屋を創設し、横綱・武蔵丸や大関・出島、武双山、雅山をはじめとする関取を育て日本相撲協会の理事長にも就任した。 |
58代 | 千代の富士貢 | 北海道 | 昭和30年(1955年)6月1日 | 平成28年(2016年)7月31日【61歳】) | 31回 | 渾名は「ウルフ」。若いころは脱臼癖に悩まされていたが、腕立て伏せなどの筋トレで克服した後は一気に番付を駆け上がり、ウルフフィーバーを巻き起こした。その後は53連勝、幕内通算807勝、生涯勝利数1045勝の大記録を打ち立て、昭和最後の大横綱として記憶されることとなった。角界で初の国民栄誉賞受賞(1989年)。幕内最高優勝31回。躍進著しい貴花田(後の65代横綱・貴乃花)に敗れ、その2日後に引退。引退後は年寄・陣幕を経て九重を襲名し、大関・千代大海(現・九重親方)をはじめとして、小結・千代大龍、小結・千代鳳など、数々の関取を育て上げたが、2016年7月に膵臓がんのため死去。 |
59代 | 隆の里俊英 | 青森県 | 昭和27年(1952年)9月29日 | 平成23年(2011年)11月7日【59歳】) | 4回 | 若い頃の不摂生が祟り糖尿病を発症。その苦しみに耐えながら30歳11ヶ月で遅咲きの横綱昇進を果たし、「おしん横綱」と呼ばれた。引退後は年寄・鳴戸を襲名して稀勢の里、若の里、隆乃若らを育て上げたが、稀勢の里の大関昇進直前に59歳で急死した。 |
60代 | 双羽黒光司 | 三重県 | 昭和38年(1963年)8月12日 | 平成31年(2019年)2月10日【55歳】) | なし | 幕内最高優勝経験の無いまま昭和61年(1986年)秋場所で昇進。「仮免横綱」とも揶揄されたが、一時は千代の富士の「一人横綱」状態を解消できるものと期待された。しかし在位8場所の末に親方夫婦とトラブルを起こし、半ば角界追放同然に廃業した。この一件以降、横綱昇進には2場所連続優勝またはそれに準ずる成績を収めるという条件が課せられることとなった。 |
61代 | 北勝海信芳 | 北海道 | 昭和38年(1963年)6月22日 | 存命中【58歳】) | 8回 | 千代の富士の弟弟子であり、彼との激しい稽古を重ねて横綱に昇進した。また、一度だけ千代の富士と優勝決定戦をしたことがある(これについて二人は「もう二度とやりたくない」と語っている)。現・八角親方、相撲協会理事長。 |
62代 | 大乃国康 | 北海道 | 昭和37年(1962年)10月9日 | 存命中【58歳】) | 2回 | 昭和最後の横綱。当時好調だった九重勢(千代の富士・北勝海)の活躍に押され、また、睡眠時無呼吸症候群による体調不良も相まって、何度も終盤まで優勝争いには加わるも昇進後の優勝は1回に止まった。引退後は自身が大のスイーツ好きであることを公言し、親方業とともにタレントとしても活動。また稀勢の里が72代横綱に昇進した際には雲龍型の土俵入りを指導した。現・芝田山親方。 |
平成時代
代数 | 四股名 | 出身地 | 生年月日 | 没年月日【享年】) | 優勝回数 | 備考 |
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63代 | 旭富士正也 | 青森県 | 昭和35年(1960年)7月6日 | 存命中【60歳】) | 4回 | 平成初の横綱。得意は右四つ、寄り、すくい投げ。引退後は日馬富士、大関照ノ富士、関脇安美錦、関脇宝富士など多くの関取を育てている。ユーモアのある人物だが、非常に厳しい親方としても有名。ネットでは「組長」と呼ばれていることもある。現・伊勢ヶ濱親方。 |
64代 | 曙太郎 | アメリカ合衆国 | 昭和44年(1969年)5月8日 | 存命中【52歳】) | 11回 | 外国人初の横綱。幕内最高優勝11回(ただし全勝優勝が一度もない)。初の外国籍横綱(帰化は1996年)。引退後はいったん年寄になったが、格闘技に転向した。 |
65代 | 貴乃花光司 | 東京都 | 昭和47年(1972年)8月12日 | 存命中【48歳】) | 22回 | 平成の大横綱の一人。大関・貴ノ花の次男として入門時から注目を集め、スピード出世で番付を駆け上がり「若貴フィーバー」と呼ばれる相撲ブームを巻き起こした。引退後は一代年寄として貴乃花をそのまま襲名していたが、2018年9月に相撲協会を退職。 |
66代 | 若乃花勝 | 東京都 | 昭和46年(1971年)1月20日 | 存命中【50歳】) | 5回 | 貴乃花光司の兄。初の兄弟横綱となったものの、横綱昇進後は一度も優勝できず、皆勤負け越しも経験するなど横綱としては今一つの成績に終った。現在は「花田虎上」名義でタレントとして活動。 |
67代 | 武蔵丸光洋 | アメリカ合衆国 | 昭和46年(1971年)5月2日 | 存命中【50歳】) | 12回 | 20世紀最後の横綱。外国出身ではあるが、横綱昇進は日本国籍取得後である。現・武蔵川親方。 |
68代 | 朝青龍明徳 | モンゴル | 昭和55年(1980年)9月27日 | 存命中【40歳】) | 25回 | 21世紀およびモンゴル人初の横綱。取組では圧倒的な強さを示したものの、土俵内外での言動を批判されることも多く、暴力事件を起こして引退した。帰化せずに引退した最初の外国出身横綱でもある。 |
70代 | 日馬富士公平 | モンゴル | 昭和59年(1984年)4月14日 | 存命中【37歳】) | 9回 | 幕内貴ノ岩への暴力問題の責任を取り引退。現役中に日本国籍を取得できなかったために親方にはなれず、現在は伊勢ヶ濱部屋のコーチとして協会に残っている。 |
71代 | 鶴竜力三郎 | モンゴル | 昭和60年(1985年)8月10日 | 存命中【35歳】) | 6回 | 現役引退直前に5場所連続休場。再起を図ったが叶わなかった。尚、横綱は現役時代の四股名で5年間相撲協会に残る資格があるため(2020年12月に日本国籍取得済み)、当面は鶴竜親方を襲名して後進の指導にあたる。 |
72代 | 稀勢の里寛 | 茨城県 | 昭和61年(1986年)7月3日 | 存命中【34歳】) | 2回 | 平成最後の横綱および21世紀初の日本人横綱。昇進直後の2017年3月場所13日目で日馬富士と対戦した際、左大胸筋と上腕二頭筋を負傷。同場所は何とか優勝し連覇を果たしたが、この傷が後の相撲人生に大きく影を落とすこととなった。現・荒磯親方。 |
創作作品に登場する架空の横綱
- 播磨灘勲 漫画『ああ播磨灘』の主人公。破天荒な人物で角界の伝統を尽く批判し第1話より一度でも負けたら引退すると言い放ち作中で連勝街道を続ける。
- 太刀風貢 漫画『ああ播磨灘』に登場。「平成の双葉山」と呼ばれる大横綱で千秋楽にて播磨灘に立ちふさがる。
- 北道山剛 漫画『ああ播磨灘』に登場。角界一の怪力を持つが播磨灘に敗れたのを恥じて自ら名誉大関に降格した。
- 大江川康 漫画『ああ播磨灘』に登場。作中で唯一播磨灘との対戦で水入りに持ち込むが播磨灘相手に連敗を続けて廃業した。
- 大和国清一 漫画『火ノ丸相撲』に登場。作中では既に引退し一代年寄大和国親方となっている。幕内優勝回数は31回を誇る。
- 刃皇 漫画『火ノ丸相撲』に登場。モンゴル出身で通算優勝数が40回を超える大横綱。
- 泡影 漫画『バチバチ』に登場。作中における第72代横綱でモンゴル出身で日本人を母親に持つ。