ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

横綱の編集履歴

2021-07-02 20:42:41 バージョン

横綱

よこづな

大相撲において力士の番付上最高位となる称号。「日下開山」。メイン画像は第47代横綱・柏戸剛。

大相撲において力士番付上最高位となる称号。


2020年3月場所時点での現役の横綱は下記の1名である。

第69代白鵬翔 不知火型、幕内最高優勝44回



概要

特別な地位であり、土俵入りも大関以下の力士と分けられ、「横綱土俵入り」として、太刀持ち、露払いの2力士を従え登場することで知られる。


横綱審議委員会が定める横綱推薦の内規は次のようになっている。


  1. 横綱に推薦する力士は、品格、力量が抜群であること。
  2. 大関で2連続優勝した力士を横綱に推薦することを原則とする。
  3. 第2項に準ずる好成績を挙げた力士を推薦する場合は、出席委員の3分の2以上の決議を必要とする。
  4. 品格については、協会の確認に基づき審議する。

この基準は1958年に定められたものであるが、その条文の解釈及び運用は時代によって変わっている。特に、双羽黒(横綱昇進前の四股名は「北尾」)を準優勝1回、優勝同点1回で横綱昇進させ、結局優勝を一度もしないままトラブルで廃業となったという事態が発生して以降、鶴竜の昇進以前は2場所連続優勝が事実上の絶対条件となり、第3項の規定は考慮されないに等しい情勢となっていた。


大関以下と比べて、どんなに負け越しても地位が陥落しない、とあるが、実際は最低でも10勝以上挙げることが求められ、9勝以下で終わった時は厳しい批判を受ける場合が多い。負け越すとその進退が問題になる(※)。1958年以降、横綱で皆勤の上負け越したのは大乃国、若乃花(3代)の2例があるが、負け越す前に休場するのが通例であり、貴乃花は膝の大怪我のため7場所連続全休をした事がある(休場明けは優勝次点ではあったが、その次が全休の後、4勝4敗で引退した)。


最近では(品位はともかく)朝青龍、白鵬と好成績を残す横綱が続いているので、成績面では問題とされることは少ない。


※……実際に成績不振により「激励」を決議されたのは、2018年11月場所後、稀勢の里に対してのみである。稀勢の里は翌場所中に引退した。また、引退勧告書を提出されたのは暴行事件を起こした朝青龍(そのタイミングで引退)のみで、前述の大乃国が負け越した時には直ちに引退を申し出たものの、当時の二子山理事長(元横綱・初代若乃花)が「初心に帰ってやり直せ」と一喝し、これを許さなかった。なお、2017年11月に不祥事のため引退した日馬富士に対しては「引退勧告相当」との判断を下している。2020年11月場所後にはここ数年休場が多いとして白鵬と鶴竜に対して初めて「注意」の決議がなされた。


同時昇進の場合

2人以上の力士が同時に横綱に昇進した場合、先に引退した方を先代としている。これは常陸山谷右エ門と2代目・梅ヶ谷藤太郎が同時昇進した時、常陸山を先代としたが、結局は常陸山が先に引退し、これ以降は先に引退した方を先代と位置付けるようにしたためである。

横綱大関

何らかの事情により大関が1名以下になった場合、番付記入上の措置として、時の東西正横綱が大関を兼務する「横綱大関」という表記が為されることがある。直近では2020年3月場所において大関が貴景勝1名となったため、西横綱の鶴竜が横綱大関として番付表に記載された。これは、1981年11月場所、北の湖が「横綱大関」として番付表に掲載されて以降、38年半ぶりのことである。なお、横綱大関となった横綱は、当然のことながら番付表記以外では横綱として扱われる。


引退後

日本国籍を持つ横綱の場合、年寄名跡を持っていなくても引退後5年間は現役時の四股名のまま親方として協会に残る事が出来る。引退後1年を経過すれば、部屋の師匠の了承の下、部屋の新設が許可される。また、功績顕著(優勝20回以上が目安)の横綱の場合は、いわゆる一代年寄として当該横綱一代に限って、現役時の四股名を用いた特別な年寄名跡が与えられる。功績顕著の一代年寄には、大鵬、北の湖、貴乃花がいる。千代の富士は本人の意向により一代年寄を辞退した。


横綱土俵入り

現役横綱の特権及び責務として、幕内力士とは独立して本場所の幕内取組前や巡業に於いて行う土俵入りの儀式である。片屋入りと呼ばれることもある。現在は雲龍型(メイン画像参照)と不知火(しらぬい)型(せり上がる時に両腕を広げる)の二つの型が伝わっている。但し、指導する親方や横綱自身による個人差が見られる。


いずれの型に於いても冒頭に記されている通り、太刀持ち・露払いを従えるが、これを務める力士は同部屋あるいは同じ一門の関脇以下の幕内力士から選ばれることが近年の慣例となっている(大関が務めることが禁じられている訳ではない)。このうち、番付上位の力士が太刀持ちを務める。

 

例えば、日馬富士の場合は、同部屋の兄弟弟子である安美錦と宝富士をそれぞれ太刀持ち・露払いに起用している。白鵬の場合は同じ伊勢ヶ濱一門に属する友綱部屋の魁聖らがこれらを務めていたが、2014年1月場所後の一時期、白鵬の師匠・宮城野親方と、旭天鵬・魁聖の師匠である友綱親方とのトラブルが原因で、太刀持ち・露払いが豊ノ島(時津風部屋:時津風一門)と臥牙丸(木瀬部屋:出羽海一門)に変更される異例の事態になっていた(※1)。2014年3月場所の白鵬の土俵入りについては、魁聖と旭天鵬の組み合わせに戻ると友綱部屋のブログに書かれていたが(※2)、実際に本場所の土俵入りに太刀持ち・露払いとして登場したのは豊ノ島と臥牙丸であった。


横綱の所属部屋以外から太刀持ち・露払いを起用する場合、どちらか一方が横綱と対戦するときは当該力士が、あるいは太刀持ちと露払いの力士で対戦が組まれる時はどちらか一方が、その日に限りその任を外れる。


※1……伊勢ヶ濱部屋、友綱部屋以外の伊勢ヶ濱一門の幕内力士には追手風部屋の遠藤がいるが、当時は大銀杏が結えなかったので、太刀持ちや露払いを務めることが実質的にはできない。白鵬と同じ宮城野部屋の大喜鵬(当時)が幕内に在位していたときも、大銀杏が結えなかったので露払いを務めることができなかった。

※2……友綱部屋ブログ『みんなの部屋』より「土俵入り」


横綱土俵入りの型について

二つの型の内、不知火型は短命横綱のジンクスがあるとして人気がない。事実、不知火型を選択した力士は、現役中に死去した玉の海、30歳を過ぎて昇進し、型の保存の目的で継承した琴櫻と隆の里、全盛期を過ぎていた旭富士(現・伊勢ヶ濱親方)、若乃花勝、トラブルで廃業した双羽黒、日馬富士がいる。


しかし、2007年に横綱に昇進した白鵬が、2017年11月場所終了時点で歴代最多となる40回の優勝を記録、2012年に昇進した日馬富士も引退までに9回の優勝を記録し、この悪いイメージは払拭されつつある。不知火型の横綱が複数同時に在位するのは、白鵬と日馬富士のケースが初めてであるが、2017年11月現在、不知火型の土俵入りを経験した在職中の年寄が伊勢ヶ濱親方(第63代横綱・旭富士)しかおらず、やむなく引退した日馬富士は相撲界を離れ、型の継承が危ぶまれる状態にある。もっとも、現役の不知火型の横綱である白鵬が2019年に日本国籍を取得し引退後に親方として活動する条件である年寄襲名資格を得た。


なお、横綱在位期間(場所数ではない)歴代2位の記録を持つ36代横綱・羽黒山政司も不知火型の土俵入りを行っていた。

  • 現在伝わっているのは上記の二つの型であるが、過去にはこの二つに当てはまらない型の土俵入りをする横綱もいた。また、「雲龍型」と「不知火型」が、かつては逆の型を指していたのではないか、との指摘もあり、今日の定着に至るまで混乱があったようだ。
  • 雲龍型、不知火型両方の土俵入りを経験したのは、北の富士と白鵬である。北の富士の場合は二班に分かれて行われていた巡業中に、別の班で巡業していた横綱玉の海が入院し、急遽玉の海の班に合流して土俵入りを行うことになったが、その際に諸事情で玉の海の綱を使うことになった為である。白鵬は双葉山生誕100周年を記念して大分県の宇佐神宮で行われた奉納土俵入りに際し、双葉山への敬意を表するとして雲龍型の土俵入りを行った。

還暦土俵入り

原則として、引退相撲を最後に横綱土俵入りが出来なくなるが、満60歳を迎えた時に、長寿を祝い赤い綱を締めて還暦土俵入りを行うことがある。健康状態その他の事情によって、赤い綱だけを受け取り土俵入りそのものは行わなかったり、土俵入りが完全なものにならなかったりするケースがある。引退相撲及び還暦土俵入りに於いて、横綱経験者が太刀持ち・露払いを務める場合(このときは二人のうち、先に横綱に昇進した者が太刀持ちを務める)は、自らも綱を締めて土俵に上がる。


歴代横綱

※基本的に和暦で記載。明治5年までは陰暦。

太字は還暦土俵入りを行った横綱。

※出身地は現在の都道府県(外国出身力士は出身国)で示した。


江戸時代

代数四股名出身地生年月日没年月日【享年】)優勝回数備考
初代明石志賀之助栃木県不詳不詳不詳日下開山
2代綾川五郎次栃木県元禄16年(1703年)?明和2年(1765年)不詳
3代丸山権太左衛門宮城県正徳3年(1713年)寛延2年(1749年)【36歳】不詳赤痢により現役死
4代谷風梶之助宮城県寛延3年(1750年)8月8日寛政7年(1795年)1月9日【44歳】)21回事実上の初代横綱。古今十傑の一人。流感により現役死
5代小野川喜三郎滋賀県宝暦8年(1758年)文化3年(1806年)3月12日【48歳】)7回古今十傑の一人
6代阿武松緑之助石川県寛政3年(1791年)嘉永4年(1851年)12月29日【60歳】)5回19世紀初の横綱
7代稲妻雷五郎茨城県享和2年(1802年)明治10年(1877年)3月29日【74~75歳】)10回19世紀生まれ初の横綱。古今十傑の一人
8代不知火諾右衛門熊本県享和元年(1801年)嘉永7年(1854年)7月27日【53歳】)1回横綱から(関脇へ)陥落した唯一の力士
9代秀ノ山雷五郎宮城県文化5年(1808年)文久2年(1862年)5月19日【56歳】)6回
10代雲龍久吉福岡県文政6年(1823年)明治23年(1890年)6月15日【66~67歳】)7回雲龍型の開祖
11代不知火光右衛門熊本県文政8年(1825年)3月3日明治12年(1879年)2月24日【53歳】)3回不知火型の開祖
12代陣幕久五郎島根県文政12年(1829年)5月3日明治36年(1903年)10月21日【74歳】)5回江戸時代最後の横綱。古今十傑の一人。横綱在位は僅か2場所だが勝率は10割

明治時代

代数四股名出身地生年月日没年月日【享年】)優勝回数備考
13代鬼面山谷五郎岐阜県文政9年(1826年)5月3日明治4年(1871年)7月23日【44~45歳】)7回明治時代初の横綱。43歳での横綱昇進は史上最高齢
14代境川浪右衛門千葉県天保12年(1841年)4月8日明治20年(1887年)9月16日【46歳】)5回
15代初代梅ヶ谷藤太郎福岡県弘化2年(1845年)2月9日昭和3年(1928年)6月15日【83歳】)9回古今十傑の一人。歴代最長寿の横綱
16代初代西ノ海嘉治郎鹿児島県安政2年(1855年)1月3日明治41年(1908年)11月30日【53歳】)2回番付表に初めて「横綱」が記された横綱
17代初代小錦八十吉千葉県慶応2年(1866年)10月15日大正3年(1914年)10月22日【47歳】)7回19世紀最後の横綱。土俵入りが現存する最古の横綱
18代大砲万右エ門宮城県明治2年(1869年)11月28日大正7年(1918年)5月27日【48歳】)2回20世紀初の横綱および明治生まれ初の横綱。引き分けの多さから「分け綱」と呼ばれた
19代常陸山谷右エ門茨城県明治7年(1874年)1月19日大正11年(1922年)6月19日【48歳】)8回古今十傑の一人。大相撲に武士道の精神を持ち込み、地位を高めたことから、「角聖」と称される
20代2代梅ヶ谷藤太郎富山県明治11年(1878年)3月11日昭和2年(1927年)9月2日【49歳】)3回12年に渡り横綱を務め、常陸山と「梅常陸時代」を築く
21代若嶌權四郎(大阪)千葉県明治9年(1876年)1月19日昭和18年(1943年)10月23日【67歳】)4回初の大阪相撲出身の横綱
22代太刀山峯右エ門富山県明治10年(1877年)8月15日昭和16年(1941年)4月3日【63歳】)11回明治時代最後の横綱。強烈な突っ張りで56連勝を記録した。史上初の還暦土俵入りを行った。古今十傑の一人。

大正時代

代数四股名出身地生年月日没年月日【享年】)優勝回数備考
23代大木戸森右エ門(大阪)兵庫県明治9年(1876年)5月13日昭和5年(1930年)11月7日【54歳】)10回大正初の横綱。
24代鳳谷五郎千葉県明治10年(1877年)4月3日昭和31年(1956年)11月16日【69歳】)2回
25代2代西ノ海嘉治郎鹿児島県明治13年(1880年)2月6日昭和6年(1931年)1月27日【50歳】)1回
26代大錦卯一郎大阪府明治24年(1891年)11月25日昭和16年(1941年)5月13日【49歳】)5回入幕から僅か5場所で横綱にスピード昇進した
27代栃木山守也栃木県明治25年(1892年)2月5日昭和34年(1959年)10月3日【67歳】)9回古今十傑の一人。史上最軽量の横綱(103kg)で、スピード感ある相撲で近代相撲の創始者とされている。引退した6年後に行われた第1回大日本相撲選士権で年寄・春日野として出場し優勝を果たした。
28代大錦大五郎(大阪)愛知県明治16年(1883年)3月22日昭和18年(1943年)5月16日【60歳】)6回26代の大錦卯一郎との取組もある。
29代宮城山福松(大阪)岩手県明治28年(1895年)2月27日昭和18年(1943年)11月19日【48歳】)2回大阪相撲最後の横綱。
30代3代西ノ海嘉治郎鹿児島県明治23年(1890年)11月2日昭和8年(1933年)7月28日【42歳】)1回昇進時の四股名は「源氏山」だったが横綱2場所目に改名
31代常ノ花寛市岡山県明治29年(1896年)11月23日昭和35年(1960年)11月28日【64歳】)10回大正最後の横綱。元力士としてはじめて日本相撲協会理事長に就任。

昭和時代(戦前・戦中)

代数四股名出身地生年月日没年月日【享年】)優勝回数備考
32代玉錦三右エ門高知県明治37年(1903年)12月15日昭和13年(1938年)12月4日【34歳】)9回昭和初の横綱。猛稽古と豪放磊落な性格で二所ノ関部屋を大部屋へと育て上げた。腹膜炎の悪化により現役死。
33代武藏山武神奈川県明治42年(1909年)12月5日昭和44年(1969年)3月15日【59歳】)1回近代的な容貌と怪力で人気を集めたが、横綱昇進後は右腕の負傷のために1場所しか皆勤できず「悲劇の横綱」と呼ばれた。
34代男女ノ川登三茨城県明治36年(1903年)9月17日昭和46年(1971年)1月20日【67歳】)2回四股名は百人一首から採られた。魁偉な容貌で注目を集めたが、横綱昇進後は双葉山に歯が立たなかった。引退後は角界を去って職を転々とし、最後はかつてのファンが経営する料理店の従業員として生涯を終えた。
35代双葉山定次大分県明治45年(1912年)2月9日昭和43年(1968年)12月16日【56歳】)12回明治生まれ最後の横綱。古今十傑の一人。年間2場所の時代でありながら、3年以上にわたる69連勝の記録を持つ。連勝が止まった後も、「われいまだ木鶏たりえず」と言って相撲に取り組み、現在でも不世出の大横綱として力士の模範と称される。引退後は年寄時津風を襲名し、相撲協会の理事長にも就任した。
36代羽黒山政司新潟県大正3年(1914年)11月18日昭和44年(1969年)10月14日【54歳】)7回大正生まれ初の横綱。両国で銭湯の従業員として働いていたところを、親方の目に留まりスカウトされるという異色の経歴を持つ。12年以上(1941年5月場所後より。番付上は11年9カ月)も横綱に君臨し、在位期間は歴代横綱で第2位。ただし、当時は年2~4場所であった為、場所数としては30場所となる。
37代安藝ノ海節男広島県大正3年(1914年)5月30日昭和44年(1979年)3月25日【64歳】)1回平幕時代に双葉山の70連勝を阻止した力士として有名。
38代照國萬藏秋田県大正8年(1919年)1月10日昭和52年(1977年)3月20日【58歳】)2回安藝ノ海と同時に横綱昇進。終戦前に昇進した最後の横綱。

昭和時代(戦後)

代数四股名出身地生年月日没年月日【享年】)優勝回数備考
39代前田山英五郎愛媛県大正3年(1914年)5月4日昭和46年(1971年)8月17日【57歳】)1回戦後初の横綱。しかし、野球観戦が原因で横綱として短命に終わる。
40代東富士欽壹東京都大正10年(1921年)10月28日昭和48年(1973年)7月31日【51歳】)6回東京生まれで初の横綱だったことから「江戸っ子横綱」と呼ばれた。
41代千代の山雅信北海道大正15年(1926年)6月2日昭和52年(1977年)10月29日【51歳】)6回千代の富士の師匠。
42代鏡里喜代治青森県大正12年(1923年)4月30日平成16年(2004年)2月29日【80歳】)4回大正生まれの横綱で最も長く生きた。(史上第4位)
43代吉葉山潤之輔北海道大正9年(1920年)4月3日昭和52年(1977年)11月26日【57歳】)1回横綱時代は優勝出来なかった。
44代栃錦清隆東京都大正14年(1925年)2月20日平成2年(1990年)1月10日【64歳】)10回大正生まれ最後の横綱。初代若乃花と「栃若時代」と呼ばれる一時代を築く。引退後は年寄・春日野として後進の指導に当たり、相撲協会理事長も務めた。定年の僅か1か月前に死去。
45代初代若乃花幹士青森県昭和3年(1928年)3月16日平成22年(2010年)9月1日【82歳】)10回昭和生まれならびに戦後に初土俵を踏んだ初の横綱。「土俵の鬼」と称され、栃錦と共に一時代を築いた。必殺の呼び戻しは多くの相撲ファンをうならせた。引退後は年寄・二子山として実弟の大関・貴ノ花俊彰をはじめ、隆の里や二代目若乃花(いずれも横綱)を育てた。若乃花勝、貴乃花光司の伯父。1988年から92年まで相撲協会理事長。ちなみに、稀勢の里が初めて奉納土俵入りした際に使用した化粧まわしは初代若乃花が現役時代に使用したもの。
46代3代朝潮太郎鹿児島県昭和4年(1929年)11月13日昭和63年(1988年)10月23日【58歳】)5回堂々たる体躯と太い眉毛・濃い胸毛で「毛ガニ」というあだ名が付くほどの人気を集めたが、横綱昇進後は脊椎分離症などに悩まされた。引退後は高砂部屋を継承し、大関4代朝潮や小錦などを育てた。「週刊少年マガジン」創刊号の表紙を飾ったことでも知られる。
47代柏戸山形県昭和13年(1938年)11月29日平成8年(1996年)12月8日【58歳】)5回優勝回数こそ5回に留まるが、大鵬と共に「柏鵬時代」と呼ばれる一時代を築く。引退後は年寄・鏡山として後進の指導に当たるも、在職中の1996年に死去。本記事のメイン画像を飾る横綱。
48代大鵬幸喜北海道昭和15年(1940年)5月29日平成25年(2013年)1月19日【72歳】)32回柏戸と同時昇進。幕内最高優勝は32回を誇る昭和の大横綱の一人。土俵上の実績にも拘わらず、引退後に脳梗塞で倒れて車椅子生活となった為、理事長などの要職には就けなかった。国民栄誉賞受賞(2013年、死後追贈)
49代栃ノ海晃嘉青森県昭和13年(1938年)3月13日令和3年(2021年)1月29日【82歳】)3回小兵の横綱として優れた技能を示したが、ケガが相次ぎ28歳の若さで引退。82歳10か月は史上2位の長寿で年6場所制では最長寿。
50代佐田の山晋松長崎県昭和13年(1938年)2月18日平成29年(2017年)4月27日【79歳】)6回「平幕優勝した力士は横綱や大関に昇進できない」というジンクスを破り横綱昇進を果たす。幕内最高優勝6回。引退後は義父の出羽海(元前頭筆頭出羽ノ花)から年寄株を受け継ぎ部屋を継承。関脇・出羽の花、小結・大錦、佐田の海、舞の海などを育てた。特に舞の海に関しては異例の指導を行い、「技のデパート」を開花させたことでも知られる。
51代玉の海正洋愛知県昭和19年(1944年)2月5日昭和46年(1971年)10月11日【27歳】)6回まさに全盛期を迎えようとしていた矢先の1971年10月、虫垂炎の悪化により27歳で死去。大鵬の引退相撲直後の悲劇であり、同時昇進した北の富士も、当初は訃報を信じなかったという。
52代北の富士勝昭北海道昭和17年(1942年)3月28日存命中【79歳】)10回十両と幕内の双方で全勝を達成した唯一の力士。引退後、九重部屋の師匠として千代の富士と北勝海の2横綱を育てた。現在はNHKの解説者としておなじみ。
53代琴櫻傑將鳥取県昭和15年(1940年)11月26日平成19年(2007年)8月14日【66歳】)5回「猛牛」と呼ばれた激しい押し相撲で、32歳にして横綱に昇進した。引退後は佐渡ヶ嶽部屋を継承し、数多くの関取を育てた。孫にあたる琴ノ若傑太も2020年3月場所で入幕を果たしている。終戦前に生まれた最後の横綱。
54代輪島大士石川県昭和23年(1948年)1月11日平成30年(2018年)10月8日【70歳】)14回戦後生まれ初の横綱。日本大学在学中に学生横綱となり、卒業前に花籠部屋に入門。「黄金の左」と言われた腕力の強さを武器として横綱として君臨、北の湖と「輪湖時代」と呼ばれる名勝負を演じた。引退後、花籠を襲名したが借金問題を起こし相撲協会を退職、プロレスラーに転向、ラグビーの監督も務めるなど数奇な運命をたどっている。
55代北の湖敏満北海道昭和28年(1953年)5月16日平成27年(2015年)11月20日【62歳】)24回後に相撲協会理事長、北の湖親方(一代年寄)。21歳2か月での横綱昇進は最年少記録である。輪島とは「輪湖時代」と呼ばれる名勝負を演じた。「憎らしいほど強い横綱」と評されたが、横綱として高い矜持を持ち続けていた。横綱在位場所数は歴代2位の63場所。
56代2代若乃花幹士青森県昭和28年(1953年)4月3日存命中【68歳】)4回二子山親方(元・初代若乃花)のスカウトで隆の里と同時に入門。大関までは「若三杉」を名乗ったが、横綱昇進と同時に師匠の四股名を譲られた。引退後は年寄・間垣を襲名し部屋を興したが、健康を害し定年を待たずに部屋を閉じ角界を去った。
57代三重ノ海剛司三重県昭和23年(1948年)2月4日存命中【73歳】)3回31歳の遅咲きで横綱に昇進。引退後は武蔵川部屋を創設し、横綱・武蔵丸や大関・出島、武双山、雅山をはじめとする関取を育て日本相撲協会の理事長にも就任した。
58代千代の富士北海道昭和30年(1955年)6月1日平成28年(2016年)7月31日【61歳】)31回渾名は「ウルフ」。若いころは脱臼癖に悩まされていたが、腕立て伏せなどの筋トレで克服した後は一気に番付を駆け上がり、ウルフフィーバーを巻き起こした。その後は53連勝、幕内通算807勝、生涯勝利数1045勝の大記録を打ち立て、昭和最後の大横綱として記憶されることとなった。角界で初の国民栄誉賞受賞(1989年)。幕内最高優勝31回。躍進著しい貴花田(後の65代横綱・貴乃花)に敗れ、その2日後に引退。引退後は年寄・陣幕を経て九重を襲名し、大関・千代大海(現・九重親方)をはじめとして、小結・千代大龍、小結・千代鳳など、数々の関取を育て上げたが、2016年7月に膵臓がんのため死去。
59代隆の里俊英青森県昭和27年(1952年)9月29日平成23年(2011年)11月7日【59歳】)4回若い頃の不摂生が祟り糖尿病を発症。その苦しみに耐えながら30歳11ヶ月で遅咲きの横綱昇進を果たし、おしん横綱」と呼ばれた。引退後は年寄・鳴戸を襲名して稀勢の里若の里隆乃若らを育て上げたが、稀勢の里の大関昇進直前に59歳で急死した。
60代双羽黒光司三重県昭和38年(1963年)8月12日平成31年(2019年)2月10日【55歳】)なし幕内最高優勝経験の無いまま昭和61年(1986年)秋場所で昇進。「仮免横綱」とも揶揄されたが、一時は千代の富士の「一人横綱」状態を解消できるものと期待された。しかし在位8場所の末に親方夫婦とトラブルを起こし、半ば角界追放同然に廃業した。この一件以降、横綱昇進には2場所連続優勝またはそれに準ずる成績を収めるという条件が課せられることとなった。
61代北勝海信芳北海道昭和38年(1963年)6月22日存命中【58歳】)8回千代の富士の弟弟子であり、彼との激しい稽古を重ねて横綱に昇進した。また、一度だけ千代の富士と優勝決定戦をしたことがある(これについて二人は「もう二度とやりたくない」と語っている)。現・八角親方、相撲協会理事長。
62代大乃国北海道昭和37年(1962年)10月9日存命中【58歳】)2回昭和最後の横綱。当時好調だった九重勢(千代の富士・北勝海)の活躍に押され、また、睡眠時無呼吸症候群による体調不良も相まって、何度も終盤まで優勝争いには加わるも昇進後の優勝は1回に止まった。引退後は自身が大のスイーツ好きであることを公言し、親方業とともにタレントとしても活動。また稀勢の里が72代横綱に昇進した際には雲龍型の土俵入りを指導した。現・芝田山親方。

平成時代

代数四股名出身地生年月日没年月日【享年】)優勝回数備考
63代旭富士正也青森県昭和35年(1960年)7月6日存命中【60歳】)4回平成初の横綱。得意は右四つ、寄り、すくい投げ。引退後は日馬富士、大関照ノ富士、関脇安美錦、関脇宝富士など多くの関取を育てている。ユーモアのある人物だが、非常に厳しい親方としても有名。ネットでは「組長」と呼ばれていることもある。現・伊勢ヶ濱親方。
64代曙太郎アメリカ合衆国昭和44年(1969年)5月8日存命中【52歳】)11回外国人初の横綱。幕内最高優勝11回(ただし全勝優勝が一度もない)。初の外国籍横綱(帰化は1996年)。引退後はいったん年寄になったが、格闘技に転向した。
65代貴乃花光司東京都昭和47年(1972年)8月12日存命中【48歳】)22回 平成の大横綱の一人。大関・貴ノ花の次男として入門時から注目を集め、スピード出世で番付を駆け上がり「若貴フィーバー」と呼ばれる相撲ブームを巻き起こした。引退後は一代年寄として貴乃花をそのまま襲名していたが、2018年9月に相撲協会を退職。
66代若乃花東京都昭和46年(1971年)1月20日存命中【50歳】)5回貴乃花光司の兄。初の兄弟横綱となったものの、横綱昇進後は一度も優勝できず、皆勤負け越しも経験するなど横綱としては今一つの成績に終った。現在は「花田虎上」名義でタレントとして活動。
67代武蔵丸光洋アメリカ合衆国昭和46年(1971年)5月2日存命中【50歳】)12回20世紀最後の横綱。外国出身ではあるが、横綱昇進は日本国籍取得後である。現・武蔵川親方。
68代朝青龍明徳モンゴル昭和55年(1980年)9月27日存命中【40歳】)25回21世紀およびモンゴル人初の横綱。取組では圧倒的な強さを示したものの、土俵内外での言動を批判されることも多く、暴力事件を起こして引退した。帰化せずに引退した最初の外国出身横綱でもある。
70代日馬富士公平モンゴル昭和59年(1984年)4月14日存命中【37歳】)9回幕内貴ノ岩への暴力問題の責任を取り引退。現役中に日本国籍を取得できなかったために親方にはなれず、現在は伊勢ヶ濱部屋のコーチとして協会に残っている。
71代鶴竜力三郎モンゴル昭和60年(1985年)8月10日存命中【35歳】)6回現役引退直前に5場所連続休場。再起を図ったが叶わなかった。尚、横綱は現役時代の四股名で5年間相撲協会に残る資格があるため(2020年12月に日本国籍取得済み)、当面は鶴竜親方を襲名して後進の指導にあたる。
72代稀勢の里茨城県昭和61年(1986年)7月3日存命中【34歳】)2回平成最後の横綱および21世紀初の日本人横綱。昇進直後の2017年3月場所13日目で日馬富士と対戦した際、左大胸筋と上腕二頭筋を負傷。同場所は何とか優勝し連覇を果たしたが、この傷が後の相撲人生に大きく影を落とすこととなった。現・荒磯親方。


創作作品に登場する架空の横綱

  • 播磨灘勲 漫画『ああ播磨灘』の主人公。破天荒な人物で角界の伝統を尽く批判し第1話より一度でも負けたら引退すると言い放ち作中で連勝街道を続ける。
  • 太刀風貢 漫画『ああ播磨灘』に登場。「平成の双葉山」と呼ばれる大横綱で千秋楽にて播磨灘に立ちふさがる。
  • 北道山剛 漫画『ああ播磨灘』に登場。角界一の怪力を持つが播磨灘に敗れたのを恥じて自ら名誉大関に降格した。
  • 大江川康 漫画『ああ播磨灘』に登場。作中で唯一播磨灘との対戦で水入りに持ち込むが播磨灘相手に連敗を続けて廃業した。
  • 大和国清一 漫画『火ノ丸相撲』に登場。作中では既に引退し一代年寄大和国親方となっている。幕内優勝回数は31回を誇る。
  • 刃皇 漫画『火ノ丸相撲』に登場。モンゴル出身で通算優勝数が40回を超える大横綱。
  • 泡影 漫画『バチバチ』に登場。作中における第72代横綱でモンゴル出身で日本人を母親に持つ。

関連タグ

相撲 大相撲 大関 番付

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました