概要
『ハナ肇とクレージーキャッツ』を始めとする黎明期のマルチコミックバンドの1つ。通称は「ドリフターズ」、「ドリフ」、「新生ドリフ」。
1957年の結成時から1969年までのミュージシャン期、1970年以降のコメディアン期の双方で大きく活躍し、特に後者の活動によって昭和の芸能史に揺るぎない一時代を築いた。
来歴
かつては岸部清、桜井輝夫、坂本九、小野ヤスシなどが在籍していたが、加入と脱退の激しいバンドグループであり、1962年にいかりや長介と加藤茶が加入して現在に続くドリフターズの産声を上げる。
1964年にいかりやがバンドリーダーへ昇格すると、同年9月に高木ブーと荒井注が、翌年1月には仲本工事が加入して現在のドリフターズメンバーの基礎が確立される。荒井曰く「音楽喫茶全盛期には『ジャズ喫茶の帝王』の異名を持っていた」とされるほどの人気を誇り、1966年6月のビートルズ来日公演における前座を内田裕也、尾藤イサオなどと共に務めた。
この頃から徐々に「コントも出来るコミックバンド」から「コント主体のコメディアングループ」に方向性を変え、音楽活動よりも映画やテレビなどへのメディア出演に比重を置いてクレージーキャッツを追い抜く人気者となり、1969年に放送を開始した『8時だョ!全員集合』(以下、全員集合)主演を契機にコメディアンとしての人気を不動のものとする。
1974年3月に迎えた荒井の降板に伴う志村けんの正規メンバー入りによって一時は陰りを見せたが、いかりやと志村それぞれの作詞、作曲を取り入れた『東村山音頭』で爆発的な人気を博すとを矢継ぎ早にヒットギャグを連発するようになり、従来の大ボケ役であった加藤と『加トケン』の図式を生み出してさらなる人気を集めた。
1977年からは、全員集合のテイストを残しつつスタジオ収録形式による一味違ったバラエティー番組『ドリフ大爆笑』(以下、大爆笑)を開始し、異なる放送局で巨大な冠番組を掛け持ちする絶頂期を迎えたが、1981年に入ると「同じコントグループとしてコント55号を追い抜く」という目標を実現してみせたドリフターズ同様の目的でビートたけし、明石家さんま、島田紳助など当時のニューウェーブが結集した『オレたちひょうきん族』の放送が始まり、業界史上最大の視聴率抗争『土8戦争』の幕が切って落とされた。
ところが、この時点で志村を除く4人の平均年齢が40代中盤となっていた事に加え、番組での不謹慎な表現内容に対する抗議やメンバーの不祥事が続き、さらには笑いの流れの変化に対応しきれなくなり、1985年に「生放送を公開形式でやっていくことには限界があった。ナンセンスギャグもやり尽くした。」のコメントを発表して同年9月に全員集合を終了し、以降はドリフターズとしての活動を大爆笑にのみ絞りつつ、いかりやは俳優、高木はハワイアンミュージシャン、仲本は演劇役者、加藤と志村はコメディタレントとしてそれぞれの道を歩むようになる。
なお、加藤と志村の売り出しを強力に後押ししたTBSは、半年後の1986年1月から全員集合の放送枠を受け継ぐ形で『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を開始し、諸般の事情による1989年のひょうきん族打ち切り決定で土8戦争覇者への返り咲き、もっと言えば「全員集合に引導を渡したひょうきん族にドリフターズの後番組が引導を渡す」という大逆転劇を成し遂げた。
1980年代後半になると、しばらく途絶えていた音楽活動に再び向き合うようになり、志村が『ウンジャラゲ』のカバー、加藤が『ミヨちゃん』のラップアレンジや『Scatman』のカバーを手掛け、1990年には加藤、高木、仲本がオールディーズナンバーを中心としたトリオバンド『こぶ茶バンド』を結成、1996年にはいかりやがキリンビールのCMでコントラバスによるベース演奏を披露して一世を風靡した。
2004年3月のいかりや逝去後も人気は衰えず、特選映像を収録したDVDシリーズの他、正規メンバー(いかりや、加藤、高木、仲本、志村)をモチーフとした『CR フィーバードリフ外伝 ドリフだよ!全員集合』(SANKYO)や、メンバーをオマージュした外国人5人組『ウリフターズ』(アンカー、ブラウン、ジェイコブ、マット、ケント)のCMで話題を呼んだ一方、不仲にはなっていないが「社会的な年功序列から高木とするか実質的な活動年数から加藤とするか」による『4代目リーダー継承問題』が有耶無耶のままとなっている。
メンバー一覧
最終メンバー
いかりや長介
本名 | 碇矢長一(いかりや ちょういち) |
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生年月日 | 1931年11月1日 |
出身地 | 東京都 |
身長 | 175cm |
体重 | 不明 |
血液型 | A |
担当 | ベース |
戦前生まれでは珍しい175cmの長身、大きな唇とシワの多いゴリラのような顔、負担をかけすぎた声帯によるダミ声が特徴。
コントでは憎まれ役や災難に遭う役を主体とし、「綿密な台本を用意して徹底的な稽古を行った上での完璧なコント」をこそ良しとする信念で舞台に臨んだ反面、それとは真反対の暴力的なツッコミや強引なアドリブで観客の笑いを取る加藤と志村の手法を快く思わないながらも許容する一面も持っており、傑作コントの1つとされる『威勢の良い銭湯』が代表例に挙げられる。
ドリフターズ映画時代から俳優としての片鱗を見せており、晩年には『踊る大捜査線』『八丁堀捕物ばなし』『弁護士・猪狩文助』などで軽妙な演技を披露するバイプレイヤーとして活躍した。
2004年3月15日、頚部リンパ節がんに起因する転移がんにより病没。享年74。
加藤茶
※古い資料ではAB型とされているが、後の血液検査でA型と判明
コミックバンド時代からボケ役を演じる一方、卓越したジャズドラムの腕前で音楽活動におけるドリフターズの中核を担い、喉の良さから代表曲の大半でソロヴォーカルやメインヴォーカルを務め、整った顔立ちも相まってメンバーの中ではアイドルの立ち位置でドリフターズ映画作品での二枚目役を数多く演じた。
志村加入以前の大ボケをほぼ一手に担い、「加トちゃんペッ!」「どうもすんづれいしました。」「ちょっとだけよ。アンタも好きねぇ~」や擬似くしゃみの「へっくしっ!」、吐き真似の「うぅえぇえ…」、歌舞伎ネタ(『楼門五三桐』の石川五右衛門、『道行初音旅』の佐藤忠信)など様々なヒットギャグを持ち、特にサイレントコントによる酔っぱらいの千鳥足については志村の演技に大きな影響を与えている。
高木ブー
20代の頃から全く変わっていないとされている肥満体が特徴。大学在学中にはすでにウクレレ奏者で名を馳せ、プロミュージシャンとなってからもエレキギターやバンジョーをこなすバンドマンとして様々なバンドを渡り歩いていた所、欠員となったピアニストを探していたいかりやのスカウトを受けてドリフターズに加入する。
一部のコントを除いて必要以上にボケ役に回らないスタンスを保ち続けたため、「コメディアンでありながら笑いを狙わない=無能」のイメージを浸透させ、後にこれを無力な失恋男の揶揄に置き換えた『高木ブー伝説』(『筋肉少女帯』)が生まれるきっかけとなったものの、いかりやは晩年の自著『だめだこりゃ いかりや長介自伝』の中で「ドリフの中では最も音楽性が高い」「自分の方から高木をやめさせようと思ったことは一度もない」と綴って厚い信頼を寄せている。
仲本工事
本名 | 仲本興喜(なかもと こうき) |
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生年月日 | 1941年7月5日 |
出身地 | 東京都 |
身長 | 160cm |
体重 | 66kg |
血液型 | A |
担当 | サイドギター(R&Rナンバー限定でリードギター・ヴォーカル) |
厚い黒縁の伊達眼鏡が特徴。高校在学時は文武両道の秀才であり、大学卒業後に東京商工会議所への就職が内定していたが、いかりやが仲本の両親を必死に説得した末にギタリストとして加入した経歴を持つ。
コントでは器械体操の経験を活かしたアクロバティックなサイレントコントやリアクションギャグを得意とする一方、ビートルズ来日公演の前座で『のっぽのサリー』(Long Tall Sally)のセンターを務めるなど音楽面での確かな実績を併せ持つ。
志村けん
本名 | 志村康徳(しむら やすのり) |
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生年月日 | 1950年2月20日 |
出身地 | 東京都 |
身長 | 166cm |
体重 | 65kg |
血液型 | A |
担当 | サイドギター→キーボード |
幼少の頃からコメディアンへの憧憬を抱き、高校3年生の卒業間近にいかりやに弟子入りを直談判してボーヤ(ローディー=雑用係)となる。しばらくして加藤の付き人になるも程無く失踪し、様々なアルバイトを転々とした末、加藤にいかりやへの口添えを頼み込んで「2度も弟子入りするやつはよくよく好きなんだろう。」と快く復帰を許され、内弟子の形で加藤の付き人兼居候として再出発する。
お笑いコンビ『マックボンボン』の結成と消滅、付き人への再降格、荒井の休業宣言に伴うメンバー見習い昇格と降板後の正規メンバー入り、2年に渡るスランプを経て前述の『東村山音頭』で一躍人気者となると「アーミーマー、ユーヤーユー!」「お前、それはないだろう。」「あんだってぇ?」「怒っちゃやーよ!」(後の「アイーン」)や加藤との共演による「ピッカピッカの、一年生、ビシッ!」」「ヒゲダンス」など様々なヒットギャグを量産し、コメディアン活動におけるドリフターズの中核を担うようになる。
近年では大規模な舞台美術を用いたコントが廃れ行く風潮に対して先頭に立って警鐘を鳴らし、これまで培った技術と経験を次世代に伝承するべく全員集合や大爆笑時代のコントを再構成して自身の番組で積極的に演じている。
過去のメンバー
荒井注
本名 | 荒井安雄(あらい やすお) |
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生年月日 | 1928年7月30日 |
出身地 | 東京都 |
身長 | 158cm |
体重 | 不明 |
血液型 | 不明 |
担当 | ピアノ・キーボード |
※血液型はA型説とAB型説があるが、資料の信憑性に乏しく真相は不明
いかりやのスカウトを受けてドリフターズに加入し、自身の丸い頭の薄さを逆手に取った「This is a pen!」で脚光を浴び、想像よりもピアノの演奏技術が低かった事実を加藤が指摘したことで生まれた「なんだバカヤロー。」「なに見てんだよ。」「文句あるか。」などに見られるふてぶてしさを全面に押し出したキャラクターで人気を博したが、体力の限界を理由に1974年3月に志村と交代する形で休業(事実上の脱退)する。
以後はコメディアンや俳優として様々な映像作品で活動し、2000年には富士フイルムのCM『2000年だョ!七福神』(いかりや:寿老人、加藤:福禄寿、高木:布袋、仲本:恵比寿、志村:大黒天、荒井:毘沙門天、田中麗奈:弁財天)で6人体制のドリフターズ(6人体制で稼働していたのは荒井の休業宣言発表から降板までの約3ヶ月間)を26年振りに披露したが、すでに持病の糖尿病に起因する重度の肝硬変および腹水で苦しむ深刻な病身にあり、奇しくもこれが生涯最後の仕事となった。
同年2月9日、慢性肝不全により病没。享年71。
すわしんじ(現・すわ親治)
本名 | 諏訪園親治(すわぞの ちかはる) |
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生年月日 | 1952年11月14日 |
出身地 | 鹿児島県 |
身長 | 167cm |
体重 | 69kg |
血液型 | A |
担当 | サイドギター・ドラム |
ドリフターズに憧れて付き人募集の面接に臨んで不合格となるも、必死の思いで食い下がって加藤の運転手として採用される。後に付き人を経て正式にいかりやに弟子入りし、音楽活動としては得意のアコースティックギターと加藤のドラム代行、コメディアン活動では出世作となった「奇声を上げて暴れ回るブルース・リー」や「鏡男」などで準メンバー『ドリフ第6の男』として活躍したが、正規メンバー昇格を先送りにされ続けるうちに全員集合が終了した1985年に脱退する。
サラリーマン勤務をしていた頃に「手押し車とのソシアルダンス」「スコップギター」(スコップをエレキギターに見立てたハードロックギタリストの形態模写)を編み出して芸能界に復帰し、芸名を『すわ親治』に改めた1987年頃からソロ活動を始め、兄弟子である志村の冠番組やメンバー昇格の約束を果たせずに才能を惜しんだ師匠のいかりやの公演などへのゲスト出演をこなすようになる。
メンバーの中でも抜群の歌唱力を持ち、ギターの腕前を活かした「怪しい流し」(歌謡曲の歌詞に強烈な下ネタやブラックジョークを挟む)は志村のお気に入りであり、コミックミュージシャンとしての才能を高く評価している。また、形態模写という観点に限れば、日本でエアギターが認知された2004年よりも遥か前に持ち芸としてエアギターを完成させている。
pixivタグにおける表記揺れ
pixiv内ではタグ「ドリフ」でドリフターズのギャグを用いたパロディ作品が多いのに対し、タグ「ドリフターズ」ではメンバーの姿を描いた作品が多い。
また、昨今は同一表記である平野耕太による漫画作品『ドリフターズ』(DRIFTERS)とのタグ重複を回避するため、正式名称『ザ・ドリフターズ』を用いる傾向にある。
関連タグ
卒業(ゲーム) キャラクターの名前の由来になっている。