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欧州連合の編集履歴

2017-11-25 11:39:30 バージョン

欧州連合

おうしゅうれんごう

ヨーロッパの地域統合体。

概要

複数の歴史的プロセスを経て、1993年に発足した。現在の加盟国は28か国。

現地では当然この名前で呼ばれておらず、英語“European Union”以下、言語の数だけ呼び名がある。

pixivでは、この英語の略称であるEUでのタグ登録が多い。ただし、欧州連合以外の略称である場合や個人名等も相当数混ざってくるため、適宜検索方法を工夫する必要がある。


現在、西欧の殆どの国が加盟しており、東欧でも増加傾向にある。

内戦が続いていた旧ユーゴスラビア諸国や、ソビエト連邦独立国家共同体に所属した親派諸国の一部、更には地理的にヨーロッパとは言い難いトルコでも加盟の議論がある。

ただし、これらの後発諸国は政治経済文化が加盟国と「統合」可能な水準に達していないとして、EUの側が難色を示す傾向にある。そのため、加盟の流れ自体は一時期に比べると鈍化している。


一方、永世中立国のスイス、および国民投票で加盟が否決されたノルウェーアイスランドのように、自他共に先進国として認める社会水準に達しているものの、そうした干渉を嫌って加盟しない方針を採っている国も存在する。

2016年には、イギリスの国民投票で加盟国では初となる離脱が可決されており、今後の動向が注目されている。


歴史

混乱~黎明期

ヨーロッパ統合の必要性を説く人物は古くから存在していたものの、強国が乱立する環境から一般には受け入れられにくい発想であった。しかし、強国の利害対立から連鎖的に戦争を繰り返し、ついにヨーロッパ全土が荒廃するまでに至ると、意識が変化してくる。

他方では戦災の影響が少なかったアメリカと戦災の影響が最も大きかったソ連が発展を続け、特にソ連はあからさまに東欧諸国の征服を進めてきていた。もはやヨーロッパ人同士で争っている場合ではなくなっていた

植民地支配による利権構造にも限界が見え始めており、残された西欧諸国は社会を再編して「ヨーロッパ」としての繁栄と存在感の維持を図るようになる。こうした背景から1952年に成立したのが、「欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)」であった。


ECSCは、名前の通り石炭鉄鋼の生産に関する国際カルテルとして発足した組織で、その議題の中心は西ドイツ(当時)とフランスの国境付近にあるルールアルザス=ロレーヌ地方であった。

資源獲得のために幾度となく争われてきたこの一帯の利害を調停し、効率的な生産によって復興・発展の礎を築こうとしたのである。そのために言わば因縁の敵同士であったドイツとフランスが手を結んだ事。そこに歴史的な意義があった。

交渉の過程で両国に挟まれ、度々戦争に巻き込まれていたベネルクス三国と、南欧の中心でありドイツ同様に旧枢軸国でもあったイタリアも参加し、最終的に6ヶ国となった状態で発足を迎えた。これらが後のEU設立の原加盟国に位置付けられている。


この時期の加盟国は以下の通り。太字は後のユーロ導入国。



なお、この時期特徴的な動きをしていた非加盟国としてイギリスが挙げられる。

当初はウィンストン・チャーチルが「ヨーロッパ合衆国構想」を提唱するなどヨーロッパ統合を先導しており、NATOの設立など軍事面では一定の役割を果たした。

一方で時のフランス大統領シャルル・ド・ゴールとの確執などによってECSCへの加盟はままならず、その他の分野では次第に大陸諸国とは一定の距離を置く方針へと転換していった。

現在のヨーロッパ情勢の火種もまた、この時期に撒かれていたのである。


発展期

ECSCの6ヶ国は、同様の発想から1958年には「欧州経済共同体(EEC)」「欧州原子力共同体(Euratom)」の2組織も設立し、結び付きを強めていった。三共同体は1967年「欧州諸共同体(EC)」に統合発展している。


一方、イギリスは1960年に、同じ島国であるアイスランドやECSC系統の流れに与していなかった大陸諸国らと共に「欧州自由貿易連合(EFTA)」を形成。こちらも経済的規制の取り払いなど独自のグローバル化を進めた。


しかし、ド・ゴール退陣で英仏の確執が緩和するといった変化が生じると、イギリスはデンマークと共にEFTAを脱退してECに合流。その後も追随する国が現れ、欧州統合の中心をECが担う流れが確定する。清々しいまでの紳士的外交である。


また、1985年には国境での審査を撤廃し、域内の移動を完全に自由化する「シェンゲン協定」が締結される。ヨーロッパとしての関係強化だけでなく、グローバル化の時代を見据えた施策だった。


この時期の加盟国は以下の通り。アイルランド以外は旧EFTA加盟国。

1973年加盟

1986年加盟


成熟・東欧拡大期

1985年ミハイル・ゴルバチョフがソ連書記長に就任すると、次第に東欧諸国の民主化運動が容認されるようになった。反比例して東ドイツを初めとする独裁政権の基盤は揺らいでゆき、1990年東西ドイツは統合した。

翌年にはいわゆる「ヤルタからマルタへ」の流れの中で冷戦が終結し、ヨーロッパから大きな脅威は消え去った


これを受けて、ECは政治・文化面への注力を強めるようになり、1993年には更なる欧州統合の深化を図るという目的のもと、現在のEUに発展解消した。ここで共通通貨ユーロの導入が決定するなど、超国家的組織としてのシステムを加速させてゆく。

中立的な態度を取っていたオーストリア北欧諸国からも加盟を希望する国が出始め、EUは更に拡大を続ける。なお、先述した社会水準との兼ね合いから、東欧諸国の加盟は新体制が定着・安定する2000年代までずれ込んでいる。


この時期の加盟国は以下の通り。

1995年加盟

2004年加盟

2007年加盟



一方、こうした流れに対して個性を重んずるフランスやオランダ、独立を重んずるイギリス、保守的なアイルランドなどからは次第に「統合」への懸念が示されるようにもなってきた。

ソ連の支配下から脱したばかりの東欧諸国でも超国家的組織への懐疑心は強く、2007年にはいわゆる「リスボン条約」によって「統合」度合いを弱める修正を行ってもいる。これによって既存国家の廃止といった流れはひとまず止まる事となった。

ただし、この段階では個人単位での人権保障・人道主義といった理念については再確認されており、これらに関する取り組みは概ね強化する傾向にあった事もまた事実である。


衰退期

2010年前後になると、それまで想定されていなかった新たな問題が次々と沸き起こり、各国で明確な反EU運動が沸き起こるようになった。


その原因としては、以下のようなものが挙げられている。

経済格差

ドイツ統一の段階で既にドイツ人は経験していた事であったが、古くからの先進国と発展途上の東欧諸国が同一の経済圏に入った事により、先進国では「富が途上国の発展に費やされる」という不満が、途上国では「自国民を安く買い叩かれる」という不満が、それぞれ積もってゆく事となった。

もちろん、こうした人や金の流れを繰り返す事で全体として社会が発展したというのが旧西側資本主義諸国の勝因でもあったのだが、それは不満を抱いている個人にとっては直接関係の無い話である。

民族意識の強いドイツ人ですら未だに地域対立があると言われる中、近年まで赤の他人もいいところであった他国民に対して、そこまで寛容な気持ちで接する事ができる人間はそう多くなく、結果として排外感情をも強める事となった。


人道主義を掲げるとは言え、旧西側諸国の論理で運営されてきたEUにこうした流れを止める術は乏しく、そうであるならば自分の権利を守るためにEUを否定する流れが生み出されるのは時間の問題だったのである。



皮肉な事に、ドイツ(と元中立国オーストリア)は古くから東西の接点を持っていたが故に、二つの立場の「いいとこどり」をする形で発展を続けている。これによって先進国間にも格差が生まれており、周辺諸国からは第三帝国の再来」と揶揄する言説さえ飛び出している。

指導力を発揮できる国が、すればするほどナチス扱いされて疎まれるというジレンマ に陥っており、それがまた問題の長期化とEU運営への懐疑を生むという悪循環に陥ってしまっている。


経済危機

悪い事に、上記の問題を解決できないまま、リーマンショックやギリシャの不正会計問題が相次いで発生した。特に「身内」たる後者の問題は域内の経済に大打撃を与えただけでなく、ユーロを通じて導入各国の市場を次々と混乱させていった

この連鎖倒産一歩手前の事態を前にして、当のギリシャは開き直ったかのような態度を取り続けており、それまで経済統合に好意的だった大企業・富裕層からも反対派が生まれ始めている。今や、皆で一丸となって社会を発展させる希望より、問題児に道連れにされる恐怖の方が遥かに強くなってしまったのである。


東欧など、国内経済を二の次にしてまで導入にこぎつけた所へのこの仕打ちであり、その恨みは非常に大きいと言われる。当然のごとく収拾に駆り出されたドイツにしても、いい加減堪忍袋の緒が切れ始めており、指導的立場を放棄する要望が続出している。

加盟国間の軋轢は増すばかりであり、ヨーロッパ人の社会認識は今再び大戦前夜へと後退していっている。抱える不満が国や地域間で真逆となっている事も珍しくなく、そもそも団結する事自体が困難になってきている


難民問題

EUでは人道主義の観点から難民の受け入れを積極的に行ってきており、ヨーロッパの社会構造としても、植民地時代の接点や少子高齢化傾向から、外国人労働者を受け入れる事に肯定的な意見は少なくなかった。

しかし、 ISILが台頭して桁違いの数の難民を出すようになると、話が変わってくる。物理的に受け入れる余地が無くなってきたのである。当然のごとく職や住居にあぶれた難民によって、社会は不安定化の一途を辿った。

同じヨーロッパ人の途上国出身者でさえ疎まれ始めていたのである。こうした難民に好意的な人間は、先進国にも既に少なかった。カウンターとして力ずくで追い出そうとするネオナチも勢力を拡大させており、リンチさえ蔓延る危険な状態となった。


また、ISILの特徴として「イスラム革命を他国に輸出する」というものがあり、2015年には実際に難民に乗じてやってきた戦闘員が多数のパリ市民を襲うという事件が発生した。

これが決定打となる形で移民も含めた排外感情が一般化。もはや一部の過激派の主張では済まなくなり、外国人排斥を堂々と訴える政治家が次々と当選するまでになっている。



こうした流れの中でいの一番にEU離脱を決めたのがイギリスであった。この国はユーロも導入しておらず、道義的な問題を別とすればむしろこうなってしまったEUに留まる動機の方が少なかったため、早期の見限りが可能であったと言われている。

一方のEU側も、ドイツのアンゲラ・メルケルが「今後加盟国からの経済的利益を享受したいなら、難民の受け入れも継続しなければならない」といった通達を出すなど、露骨に圧力をかける姿が目に付くようになっており、急速に不寛容な姿勢を強めている

既にトルコなどはEUに深入りする事を止めて独自路線での発展を模索する方針へと転換し始めており、他方で過激派によるテロは無くなる気配が無い。ヨーロッパや資本主義自体の先行きを含めて、世界中から懸念が集まっている今日この頃である。


難民」「EU離脱」の項目も参照のこと。



この時期の加盟国は以下の通り。

2013年加盟

2016年離脱決定(現時点では加盟中)

  • イギリス(2019年3月頃離脱予定。)

最近の動向

2016年10月には、ハンガリーが難民拒否に対する国民投票を実施。

結果は最低投票率の50%を下回ったので不成立となったものの、投票者の98%が拒否を支持していたという微妙な情勢で、現在は難民拒否の法案を制定しようとしているところである。


また、イタリアでも首相への権力集中等を図った憲法改正の計画が進んでおり、これがEUの民主主義理念に反する事からなし崩し的に離脱問題が発生してきている。


2016年12月4日オーストリアでは選挙が行われ、自由党が敗北した者の既存政党全てと自由党が拮抗する状態だった。

同じ日にはイタリアの改憲に対する国民投票が行われ、こちらは改憲反対派が勝利し、レンツィ首相は予算案を可決後に辞任する予定である。


そして2017年3月15日にはオランダオランダ自由党に対する選挙が、4~6月あたりにフランス大統領選が、9~10月あたりにはドイツの大統領選などが行われる。

特にフランスではマリーヌ・ル・ペン率いる国民戦線、ドイツではドイツの為の選択肢の躍進が期待される。


そして、2017年(平成29年)3月12日に英国のBrexit正式な時期が発表され、2019年3月頃にEU離脱予定。


オランダの選挙結果は自由党が第一党にはなれなかったものの既存の12議席から20議席に増加した。


フランスではマリーヌ・ル・ペンは、エマニュエル・マクロンに敗れて大統領になれなかったものの1000万票の表を獲得した。


同年、9月24日にはドイツ議会選挙でメルケル率いるCDU・CDSは第1党こそ維持したものの、社会党共々議席を大幅に激減した為、社会党との連立を解消した。

同時に、ドイツの為の選択肢が躍進し、第3党となった。


スペインカタルーニャ独立問題で独立派が勝利したものの、その後のEU及び国連がカタルーニャを独立国として認めなかった。

同時にスペイン政府はカタルーニャ住民を武力で弾圧。

国連やEUもスペイン政府側についたため、カタルーニャの住民は国連・EU・スペイン政府に大きな不信感を抱く結果となった。


更に同年、10月15日にはオーストリア総選挙で反難民の中道右派国民党が第1党になり、同じく反難民の新右翼政党自由党が第2党になるなど、反難民・反EU政党が徐々に躍進している状況である。

加えて、同年11月20日。ドイツはメルケル率いるCDU緑の党自由民主党が連立失敗し、再選挙の模様が出ている。

メルケルは難民問題で支持を失っており、再選挙した場合、CDUの議席減とドイツの為の選択肢がさらに躍進すると言われる。


その他の問題点

難民・過激派への対応の中で、シェンゲン協定に対する懸念も上がり始めている。今や、ヨーロッパ人同士自由に交流できる希望よりも、いつ・どこに異国の犯罪者が現れるか分からない恐怖の方が遥かに強くなってしまったのである。

既にハンガリーは国境に壁を建設して移動を遮断しており、その他の国境でも審査を復活させる場所が増加している。先述した通り、EU経済は域内の自由移動を前提として発展してきた歴史があるため、これによる損失は莫大な額に上ると見られている。



域外の先進国を中心に、EU・ユーロの存在自体がブロック経済の再来に繋がるのではないかという指摘もなされてきた。

ブロック経済は植民地時代に見られた自己完結志向の強い経済体制で、この事が他国の重要性と戦争への抵抗感を下げたとする説もある。異なる発展段階の国が同居し、資源もそれなりに豊富なEUは、順調に発展を続けても対外的な脅威になっていた可能性もある。



他方で、理念優先の頭でっかちな組織となって、「船頭多くして船山に登る」結果にしかなっていなかったとする指摘もある。

それを裏付ける事件が2014年に発生している。EU加盟を巡って親欧派と親露派の対立が発生していたウクライナの混乱に乗じて、ロシアが義勇軍を派兵してクリミア半島を独立させるという重大な戦争行為を犯した。

しかし、EUおよびNATOはロシアへの経済制裁以外にこれといった対策を講じられず、現時点でもクリミア半島はウクライナ政府の管理下に戻っていない。多数の先進国と強力な軍隊が揃っていながら自分達の仲間に加わろうとしている国を助ける事ができなかったのだ。

世界恐慌下におけるソ連の繁栄然り、ロシアはそれ自体が半ば自己完結した国となっており、他国との関係悪化は大きな問題ではないと言われている。そして今回のように、戦争への抵抗感も格段に弱い。そうした国が今後ヨーロッパの再侵略に乗り出した時、EU諸国がどれだけ持ちこたえられるのか非常に怪しい情勢となってきているのである。

ロシアは自国通貨ルーブルによる貿易決済を拡大させており、ブロック経済の成立と欧米諸国からの制裁無効化を着々と進行させている。ロシアは他国の反人権・民主主義的な体制にもある種平等に寛大である事から、途上国の間では盟主として進んで接近を図る国も少なくなく、今後もEUの混迷が続けば世界地図が塗り替わりかねない



また、強まる一方の民族主義は、イギリスのスコットランド北アイルランド、スペインのカタルーニャバスクといった一国内での民族対立をも再燃させ、既存の国家さえ否定する勢力が各地で台頭しつつある

そもそも植民地支配によって各地の政治・経済を混乱させてきたのは他ならぬヨーロッパ人であり、時代を超えて自分達が同じ目に遭うのも因果応報に過ぎないといった意見もある。


関連項目

ユーロ ヨーロッパ 欧州史 NATO EU離脱 EU崩壊 反EU

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