武家とは
武家とは、武士のことであり、武士一般をさす(『デジタル大辞林』)。
ただし、武士でなく敢えて「武家」と呼ぶ場合は微妙にニュアンスが異なることもある。平安時代以降、貴族たちは官職を世襲するようになり、これを家職や官司請負制と呼ぶ。その中でも軍事を専門につかさどった家系を、公家一般と区別して武家と呼んでいる。この意味での代表的な家系は清和天皇の子孫たる清和源氏、桓武天皇の子孫たる桓武平氏、平将門を討った英雄藤原秀郷の末裔である秀郷流藤原氏・奥州藤原氏など。
彼らは貴人の子孫である名声と同時に朝廷から主に国司・受領といった諸国を治める官職を得て、各地の武士たちを傘下に従えていった。地方での活躍を元に京都での官職を得る場合は、滝口の武士(内裏警備)や北面の武士(院御所警備)といった護衛系、検非違使判官(京都の治安維持)等の警察系、さらに出世すると左右馬頭や左右大将といった軍事の要職に就いた。
つまり武家とは地方出身の武士ではなく中央貴族であり、この意味では「軍事貴族」とも呼ぶ。もちろん、本当に天皇や功臣の血筋を引いているか疑問のケースも多いし、中央の官位を得ることを捨てて完全に諸国定住の武士となっていったケースもある。いずれにせよ武家は武士の中でも上層であり、貴族としての側面を持った人々でもあったといえる。こうして、平家政権・鎌倉幕府・室町幕府と、武家が上級武士として天下を従える中世の世の中が到来したのである。それゆえ、『太平記』等で用いられるように当時の言葉では「幕府」の事それ自体をも「武家」と呼ぶ。
戦国時代の混乱を経て、安土桃山時代から江戸時代にかけて天下泰平が実現すると、それまでの戦国大名たちが上級武士となった。彼らの出自が本当に源平藤橘の名門であったかはかなり怪しいケースも多い。ともあれ、少なくとも家系図上はそれら名門の子孫であるとされ、朝廷から官職が与えられて軍事貴族すなわち武家となった。
時代劇などでの江戸時代の侍に対する呼びかけは、相手がどうみても浪人な身なりであっても、「お武家様」だったりする。これは現代の客商売での客への呼びかけが、サラリーマンなら「社長!」、物書きなら「先生!」と呼びかけるのと概ね同じと考えていい。「朝廷から官職を授かった名門のお偉い御サムライ様!」と持ち上げているのである。
武家に求められたもの
武家が武士の中でも貴族に近い立場であったとすれば、彼らに求められたものとは何か。武士としての個人的な武力か、それとも戦における勝利か。さもなくば、貴族としての教養や雅さであったのであろうか。
武家の棟梁として求められたものは、まず武芸の巧みさであった(野口実『武家の棟梁の条件』)。野口によれば、源頼朝は弓馬の道に優れ、個人としても百発百中の弓をもって武士の忠誠を集めた。また、驍勇絶倫にして騎射神のごとしと言われた源義家や保元の乱で無双の戦いを繰り広げた源為朝などの頼朝以前の武家たちもまた同じであったという。「不言実行」のような武士としての精神、在地の武士も知らない川の浅瀬のような軍略上の情報、武家の各家代々の兵法、戦場にて開戦前に敵と交わす(自軍の正当性を誇示して士気を高める)弁論術も重要であったとのこと。この一種独特の礼儀作法は元寇のおりにも使用して当然のごとく無視され、幕末においても生き残って使用されたという。
野口によると、朝廷が武士に求めていたものは、古くは呪術的な力であったという。例えば内裏を守る滝口の武士の任務とは、侵入する盗賊の退治よりもむしろモノノケや鬼、ケガレ等から天皇の身体を守る僻邪の能力であったとのこと。もっとも例えば鳴弦(弓を鳴らして邪気を払う儀式)が実効性を持つには、辺境で軍事的勝利を得た武士としての実力・名声が必要であったらしい(『武家の棟梁の条件』)。当初、宮中の治安を守るのが役目とされた近衛府の武官が、時代が下がるにしたがって出世を目指す高級貴族のための名誉職と化したのもここからきている。
やがて、周知のとおり保元・平治の乱に至って、朝廷は武家の軍事力によって物理的に政敵を排除することを何よりも期待するようになる。野口によれば、源頼朝が征夷大将軍となったのは、朝廷のそのような思惑を離れ夷を討伐するという大義名分によって、朝廷から独立した大権を得るためであった。そこに単なる暴力集団を離れた正当な国家権力としての武家政権が成立したという。
確かに、武家の棟梁たる条件が個人的な弓馬の道や兵法では、重要な何かが欠落してしまうであろう。例えば後三年の役における源義家。金沢柵に籠る清原軍を兵糧攻めにし、陥落後に柵に押し入って「逃ぐる者は千万が一人なり」という大虐殺を実行する。男たちはそろって首切られ、その妻は鉾に刺さった夫の首を捜し歩いたという。頼朝が武家の理想と讃えた義家でもこれである。武家・藤原氏の名将・藤原利仁は盗賊数千を打ち破ってその無数の耳を切って献上する。義家の父・源頼義は、一万五千の敵を皆殺しにして耳を切った等々(『武家の棟梁の条件』)。
こうなってくると、個人的な弓馬の道や兵法のみで武家政権を継続させるのは困難であった。当時の公家にとって優れた人物とは詩歌管弦に優れた人物の事である(公家記事参照)。野口によると、義家は公家から多く罪なき人を殺したと非難された(まあ、都に居座って殺人の命令だけを出す公家に言われたくはないだろうが)。また、従来の弓馬の道では「武芸廃するに似たり」と罵倒されつつも和歌に優れた将軍・源実朝が登場したのも、公家にも将軍の実力を認めさせ西国にまで幕府の勢力を伸ばす役割の為という(『武家の棟梁の条件』)。また朝廷は武士を蔑視すらしていたようで、武士には殺生を生業とする者すなわち「屠類」という酷い呼称すらあったとのこと(本郷和人「朝廷と幕府の暴力の骨格」『武力による政治の誕生』)。
さらに庶民も、略奪者と変わらないような統治者に喜んで従うわけがない。農民が負担に耐えかねて逃亡すれば、年貢は手に入らない。本郷によれば、鎌倉幕府にとって武士の横暴による農民の逃散、年貢未納は深刻な問題であった。そこにおいて九条道家が主導した朝廷の徳政政策を参考に、北条時頼、北条重時らが武士の庶民への横暴を制限する撫民政策を開始したという(本郷 和人「北条重時」『人物を読む 日本中世史』)。
室町時代には幕府が最初から全国の庶民を支配するという行政の思想が登場した(本郷 和人「足利尊氏」『人物を読む 日本中世史』)。周知の通り、この過程において道家から武家に引き継がれた「徳政」は武士が庶民の社会福祉を整えることではなく、主に借金をチャラにする「徳政令」の意味になっていった。そこには「富める事、徳がある事とは、共に己の富を支払って貧者を救うという富者の当然の義務の事である(福徳一致思想)」「徳政とは失われたモノや土地を本来の所有者に返還することである(もののもどり観念)」といった庶民と武家が共有していた中世ならでの思想がある(桜井英治『室町人の精神』)。桜井が述べるように、その結果は土倉(当時の金融業者)の貸し渋りであって、必ずしも根本から庶民を救ったとは言い難い。とはいえ、その延長に信玄堤を築いた武田信玄のように治水に励む戦国大名や飢饉対策に頭を悩ます徳川吉宗のような、庶民統治に注力する戦国・近世の武家があったと述べることはできよう。
江戸幕府が公布した「武家諸法度」は、当初こそ第一条に「武家は武芸に励み、弓馬にいそしむ」ことを定められていたが、儒教を学んだ5代将軍・徳川綱吉が改めて公布したものは「学問に励み、忠義をいそしむ」よう改定されたという。ここからも武家の政治体系が武断的なものから文治的なものに変わったといえる。
武家の生活
前節の通り、武家に最も求められたのは弓馬の道である。しかし、大内義隆のようにあまりの「貴族趣味」に重臣・陶晴賢の謀反にあい、自害に追い込まれたとされる例もある。では、その暮らしぶりは「貴族趣味」とは無縁なものであったのか。大内義隆や今川義元のように立烏帽子にお歯黒でイメージされる人物は武家として堕落しているということになるのだろうか。
まず、増田美子編『日本衣服史』によれば、武家における立烏帽子というのは、武家が上級武士としての威儀を正し、他の武士に対して優位な立場にいることを誇示する意味を持っていた。これに対して通常の武士の烏帽子は折烏帽子である。同書によれば、源義朝は保元の乱に際して郎党を率いて後白河天皇に拝謁する時にわざわざ己のみが折烏帽子を立烏帽子に直して拝謁している。平重衡が源平合戦に敗れて源頼朝と対面した時、頼朝は「立烏帽子に白直垂を着して、空色の扇を披き給ひて」現れたという。ただし、源家の大将は左折の折烏帽子を被っていたともいうので、折烏帽子を被らなかったとは言えない。衣服においては先述の頼朝が直垂を着ていたように、鎌倉幕府では上下を問わず直垂を着用していたらしい。しかし、文様のある狩衣を着用できるのは五位以上の官位がある上級武士に限られていたり、警護の職務においては高官のみが水干を着用したりといった、身分による服装の区別は存在している(以上、増田美子編『日本衣服史』)。
時代を超越し、あらゆる秩序・慣例を破壊されたといわれる織田信長でさえ、和漢の大家と言われた細川藤孝、明智光秀を厚遇して朝廷との交渉にあたらせており、また、江戸幕府もその歴史に終止符が打たれるまで、吉良上野介に代表される小禄ながらも和漢の大家と言われる高家を召抱えて朝廷からの使者を礼節をもって接待することに力を入れつづけていた。
また、「幕末の四賢候」の一人である薩摩藩主・島津斉彬は異母弟・島津久光の和漢の教養を高く評価しており、これらの教養は乱世の世では無用の長物、泰平の世では名君の条件、と大きく評価が分けており、その人物が置かれた時代背景も考慮すべきであろう。
結論としては、服装から武家を捉えると、一般の武士に比べて公家・貴族的な面がある。服装だけで武家としては弱々しいといった先入観を持つのは避けるべきであろう。さらに「貴族趣味」と言われる和漢の教養や朝廷の礼儀作法を体系化した有識故実は武家にとって朝廷と交渉することに必須とされたものであった。大内義隆の悲運は「貴族趣味」が時代の趨勢に対して度を過ぎているだけあり、今川義元の非業の死は、彼の「貴族趣味」とは全く関係がない。