概要
「朝鮮出兵」は「文禄の役」と「慶長の役」の2度の出兵「文禄・慶長の役」を総じた表現。または「唐入り」や「征韓の役」とも呼ばれ、韓国と北朝鮮では「壬辰・丁酉倭乱」と呼び、中国では「抗倭援朝」や「朝鮮之役」と呼んでいる。
背景
16世紀の極東アジア。長らく続いた明では沿岸での倭寇によって弱体化が起こり、朝鮮では12世紀から李氏朝鮮王朝が続き、アジアにポルトガルやオランダ、スペインなどのヨーロッパ勢が進出していた。
当時のアジアの国際情勢では古代から中国が頂点に立っていたが、日朝間では同等、あるいは日本がすでに優位にあったとも言われる。
戦国時代が続いた日本では、天正19年(1591年)、豊臣秀吉が北条氏政・氏直を父子を下して関東を制圧し、東北の伊達政宗も服属し、名実ともに天下統一を完遂させ、長く続いた戦乱の世がようやく終わろうとしていた。
しかし、その一方で秀吉は当時の中華帝国である明朝の征服を企図していた。
天正15年(1587年)に秀吉は対馬の宗義智を介してに朝鮮国王に日本への服属入貢と明への先導を求めたが、歴代中華王朝のもとで同格であった朝鮮王朝は、当然、日本を制覇したばかりの秀吉の無謀な侵攻計画を拒んで交渉は紛糾し、天正18年(1590年)の交渉が決裂したことで朝鮮半島への武力侵攻の計画が決まった。
また、フィリピンを支配するスペイン総督、島津家を介して琉球王家、国家が存在していたと思われていた台湾などに服属要求の使者を送ったが、いずれも失敗に終わった。
秀吉の明朝征服の理由ははっきりわかっていない。国内の戦乱がなくなったことより恩賞や領地を海外へと求めたという説(大名達に対するいわゆる失業対策)、明朝を先に統治することでフィリピンからのスペインの日本侵攻を防ごうとしたとする説、有力大名の力の削ぎ落とし説、大名たちの忠誠度や団結を計るための試金石説など諸説唱えられているが、いずれも後年の推測によるもので、秀吉の意図を完全に断定できる当時の資料は今のところ発見されていない。
歴史創作物では「織田信長も天下統一の後には大陸進出を企てており、この構想はその考えを引き継いだもの」とする説がよく用いられているが、こちらも根拠は乏しく俗説の域を出ていない。
明朝征服を成した後は天皇を北京に移し、豊臣秀次を関白に据え、秀吉自身は北京に入った後にインドや欧州も征服するために寧波に移るつもりだったという。また、旧主・信長の孫である織田秀信を朝鮮に封じ、皇族である良仁親王か智仁親王が次期天皇、次期関白は異母弟(実弟との説もある)・豊臣秀長の養子・秀保か宇喜多秀家に任せようとする構想もあり、公武共に大盤振る舞いをする予定であったともいう。
文禄の役
天正19年(1591年)、肥前(佐賀県)の唐津に前線基地として名護屋城を築城。宇喜多秀家を総大将に小西行長、宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、加藤清正、鍋島直茂、黒田長政、島津義弘、福島正則、長宗我部元親、小早川隆景、立花宗茂、安国寺恵瓊、毛利輝元、細川忠興、九鬼嘉隆、藤堂高虎、石田三成、大谷吉継、豊臣秀勝などの名立たる武将が参戦。この時徳川家康は関東での国作りを理由に直接参加しなかった。約15万8千人が動員され、刀や弓、槍だけでなく約50万丁の火縄銃や最新大砲も装備し、当時の世界では明に次ぐ最大規模の軍事力の軍団となっていた。
1592年(天正20)4月、朝鮮へ最後通牒を送り、日本軍の小西隊が釜山に上陸。開戦となった。破竹の勢いで首都・漢城(ソウル)を目指して北上し、5月には朝鮮国王・宣祖王は都を放棄し、行長が一番乗りで入城。逃亡する国王に住民は助けるどころか石を投げる始末で、王朝への不満もあって日本軍に協力する住民もいた。7月には平壌(ピョンヤン)も陥落し、加藤隊は豆満江を越え満州にまで到達し、北京を目指す日本軍の快進撃は止まらなかった。
当時の朝鮮では水軍力や火砲は充実していたが、党争によって国内は混乱状態にあり、軍備も倭寇対策として全国に分散していたため各々での軍事力も弱かった。日本侵略の脅威認識はあったが、楽観論が占めたため準備が間に合っていなかった。そのため、朝鮮軍は抵抗空しく敗退が続いた。一方で李舜臣率いる朝鮮水軍は対馬海峡や半島南部沖合で地の利を生かして日本水軍に打撃を与えていたが、7月の敗北で沈静化した。
ちなみに、朝鮮水軍の軍船「亀甲船(亀船)」は日本水軍攻撃で戦果を上げたことで有名だが、その実態は不明な点が多く、評価されている部分のほとんどが学術的検証されていなく、実在したかどうかも疑わしい。
その7月、対岸の火事ではないと判じた明の万暦帝は、朝鮮援助に李如松や祖承訓が率いる遠征軍約15万~20万人を派遣。平壌での攻防の末に日本軍は後退して膠着状態となり、日明間で講和交渉が始まった。この時、三成は清正が講和交渉の邪魔になると考え、主戦派を代表する清正を謹慎させた。
明朝は日本が降伏したとして朝鮮からの撤兵を提案し、秀吉は明が降伏したとして勘合貿易の復活や朝鮮の割譲、明の皇女を天皇に嫁せることを要求したことにより、双方の講和条件は噛みあうことはなかった。進退窮まった明側代表の沈惟敬と日本代表の小西行長は、秀吉には明が降伏すると、明には秀吉が降伏すると各々で双方偽わる形で講和を結ぼうとした。
文禄5年(1596年)9月、大阪城で秀吉は明朝の使節を迎えたが、講和内容が「秀吉を日本国王に任じ、日本は明は服従する」と知り秀吉は激怒。秀吉は使節を送り返し、行長を謹慎処分とし、朝鮮再出兵を決定した。
慶長の役
慶長2年(1597年)に全国大名に動員令が出され、約14万人が7月朝鮮に上陸。しかし、この時は当初から明の遠征軍が朝鮮に布陣しており、また朝鮮軍も装備を整え、さらに非正規軍の「義兵」も多数参戦。10月には漢城に迫ったが、12月に明軍と朝鮮軍の反攻が始まり、日本軍の進撃は転じて後退。蔚山城にいた加藤隊は補給線が伸びきったところを明軍に包囲されて籠城戦となり、ついには軍馬をも食糧とする悲惨な状況に置かれた。
秀吉は一旦撤兵して大軍を派兵しようとしたが、慶長4年(1599年)8月、秀吉は死去。この訃報を受け日本軍は撤兵を開始。11月には完全撤兵し、秀吉の中華制覇の夢はその死とともに潰えた。
その後
残された豊臣政権では出兵による莫大な負担が政権や各大名を疲弊させ、補給を担当した三成、前田玄以ら「文治派」と補給を受けられなかったことにより苦戦を強いられた加藤清正、福島正則、黒田長政ら「武断派」との対立が深刻化、政権基盤に致命的な打撃を受けてしまうこととなった。1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いで家康率いる東軍は秀吉配下の「武断派」を味方として三成が代表する秀吉配下の「文治派」を倒すことによって、江戸幕府による天下統一と泰平の礎を築くこととなる。そんな中で家康は朝鮮との和平と国交正常化を図り、1607年(慶長12年)に二代将軍に就任した徳川秀忠の時に朝鮮通信使による日朝関係修復がなされた。
朝鮮からは多くの朝鮮人が諸大名に拉致されて学者や陶工が日本に帰化することとなり、とくに陶磁器技術に新たな発展をもたらされた。
勝者となった明朝だったが、こちらも莫大な費用が王朝に重く圧し掛かり、明朝衰退の大きな要因となった。
朝鮮では以前から社会秩序の混乱は著しかったが、侵略によってさらに悪化し国土は荒廃。国の政治も社会も崩壊寸前、経済も破綻寸前にまでなった。住民の大多数は戦争に巻き込まれ犠牲となったが、日本軍だけでなく明軍の横暴も横行したため、両軍ともに朝鮮人から憎まれた。国土の復興には十数年要したが、その後も朝鮮にとってこの日本による侵略は理由もなく他国に国家を蹂躙された「負の歴史」であり、「豊臣秀吉」の名は現在においても忌み嫌われる名となっている。
この戦いの時に日本から唐辛子が持ち込まれ、朝鮮料理の代表的な「キムチ」が生み出された。
少なくともこの戦いは日本と朝鮮との戦いというよりは日本と明朝が朝鮮を舞台に戦った戦争という性格を持っていた。
それから約290年後。明治維新を迎えた日本は韓国との外交・権益を巡って清朝と対立し、日中は再び朝鮮半島を舞台に日清戦争が勃発、勝利したが、三国干渉によって権益を放棄。しかし、以後も朝鮮半島の権益をめぐって日露戦争が起こり、中国大陸へと権益をめぐる争いが拡大、太平洋戦争へとつながることとなった。
当時のスペイン総督府との関係
近年、朝鮮出兵の理由として有力とされているのが、明朝を先に統治することでフィリピンからのスペインの日本侵攻を防ごうとしたとする説である。
キリスト教宣教師の裏の顔
当時の日本には、天文18年(1549年)に来日したフランシスコ・ザビエルを始めとした、多くのキリスト教宣教師が来日していたが、彼らの本来の仕事は布教ではなく、その訪れた土地を将来祖国の植民地にするための情報収集や懐柔工作である。
実際にキリスト教を伝道しながら、ありとあらゆる手段で多くの人々を改宗させて味方に付け、頃合いを見計らい軍隊を送り込んで抵抗する者を殺戮し、その地を植民地とする占領の常套手段である。
現に当時のフィリピンも、既にスペイン帝国の支配下にあった植民地(フィリピン総督領)で、ルソンにはスペイン帝国の東アジア地域の戦略統合本部である総督府が置かれており、東アジアでの植民地拡大の計画が着々と進められていた。
日本の独自鉄砲開発・量産
しかし想定外だったのが、日本は他の国々と違い西洋から伝来した鉄砲をもとにして、独自の鉄砲(火縄銃)を作り出し、瞬く間に量産してしまったことであり、気づけば当時の日本では最盛期で約50万丁もの数の鉄砲を保有する世界一の鉄砲保有国となっていたのである。
これに驚いた宣教師たちの中で、イエズス会のドン・ロドリゴ(ロドリゴ・デ・ビベロ)と、フランシスコ会のフライ・ルイス・ソテロ(ルイス・ソテロ)らは、スペイン国王に
「スペイン国王陛下、陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です。よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に喜んで臣事するよう仕向けるしかありません」
とした上書を送っている。
人口なら日本より南米やインドの方が遥かに多く、城も日本は平城が主流で、他のアジアやヨーロッパの城塞の方が堅固である。
にも関わらず彼らが「日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難」と書いているのは、「鉄砲の数が圧倒的で、軍事力で日本には敵わない」とは、国王宛ての上書にはかけなかったからであり、そうして「福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に喜んで臣事するよう仕向ける」と進言ししており、布教活動に注力していったのである。
スペイン帝国の明国侵攻計画
一方で当たり前のことだが、スペインの狙いは日本だけではなく、隣国の明(中国)も植民地化を狙っており、朝鮮半島は明の支配下だったため、明を落とせ自動的に手に入るため対象外にされた。
スペイン帝国は明国を攻略するために日本に共闘を持ちかけたが、ご存知の通り日本は当時戦国時代で、内乱を治めることが最優先されたため、そんな余裕は無く関心がなかった。
ところが秀吉によってようやく戦乱が治まると、次第に明国への対策が大きな政治課題となった。
どういうことかというと、スペイン帝国は日本に攻め込もうとしても、遠路の航海を余儀なくされるため大軍を差し向けるのは不可能であり、仮に攻めてきても少数になるので火力・武力ともに日本側が優位なため、直接対決なら負けることはない。
だがスペインが明を植民地として支配してしまうと、支配下に置かれた明国兵がスペイン軍と共に数にモノをいわせて攻め込んでくる可能性があった。
その中で秀吉は大陸へ侵攻し、明朝を先に統治して、日本への侵攻を防ごうという計画を起こした。火力・武力の優れた日本には十分可能であり、万一に明国まで攻め込むことが出来なくても、地政学的に朝鮮半島を日本と明の緩衝地帯としておくことで、侵入・侵略は防ぐことができたからである。
また、この頃スペインが誇った無敵艦隊はイギリスに敗れ、スペインは海軍力を著しく低下させていたことを秀吉は知っていたため、スペインが海軍力で日本と戦うこ可能性はまず無かった。
秀吉のスペインに対する交渉
更に秀吉は、スペイン帝国に対して果敢な政治的交渉も行っている。
天正18年(1591年)9月、当時フィリピンルソンのスペイン総督だったゴメス・ペレス・ダスマリニャスに、秀吉は長崎の貿易商人である原田孫七郎を使者として送り、「スペイン総督府は、日本に入貢せよ」と朝貢を要求する内容の書状を、当時世界を制していた大帝国スペインに送りつけたのである。
これはスペイン総督府にしてみれば大変腹立たしいことだが、イギリスが国力を増していた当時、自国の防衛が優先されたため報復的処置には出らなかった。
そうして翌年に日本が朝鮮出兵を始めると、驚いたスペイン総督府は慌てて当時ルソンに移住していた日本人たちを、マニラ市内のディオラ地区に集団で強制移住させており、これが後のマニラ日本人町の始まりとなる。
日本を脅威に感じたスペイン総督府は、同年にドミニコ会士のファン・コーボを日本に派遣し、秀吉に友好関係を樹立したいとする書信を届け、膨大な贈り物も持参しているが、それに騙されなかった秀吉は重ねてスペインの日本に対する入貢の催促の書簡を手渡し、その内容は
「スペイン国王は、日本と友好関係を打ち立て、ルソンにあるスペイン総督府は、日本に臣下としての礼をとれ」
「それが嫌なら、日本はマニラに攻めこむぞ。このことをスペイン国王にちゃんと伝えろ」
というかなり凄まじいものだった。
しかし、秀吉から書簡を受けとったファン・コーボは、帰路に遭難しており、なぜ遭難したかについては、返事の内容が確実にスペイン国王の怒りを買うものであったため、故意に遭難したのではないかという説がある。
在マニラ中国人の反乱
その後、上述した理由からスペイン総督府からの返書がなかったため、秀吉は原田孫七郎の上司である原田喜右衛門をマニラに派遣し、確実な書簡を届けさせたが、喜右衛門らがマニラに到着した時、当時の在マニラの支那人(中国人)約2000人が蜂起して、スペインの総督府を襲っていたため、喜右衛門は手勢を率いてスペイン側に加勢し、瞬く間に支那兵を殲滅した。
日本の強さを目の当たりにしたスペインのゴメス総督は、世界を制していた大帝国の国王に日本の臣下として礼を取らせるなど、とてもではないが報告できなかったため、困り果てていたという。
そのため、文禄3年(1594年)4月には、新たにフランシスコ会士のペドロ・バウティスタを特使に任命して日本に派遣し、そうして特使の派遣を繰り返すことで少しでも時間稼ぎをしようとした。
名護屋で秀吉と会見したペドロは、スペインが今や世界を制する大帝国であること、日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し述べ、普通に考えれば世界を制する大帝国スペインが、東洋の小さな島国である日本と「対等な関係」というのはとんでもない譲歩であるが、秀吉はそれを受け入れずに、ペドロに対して重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請した。
秀吉の強硬姿勢の理由
秀吉がここまで強硬的だったのにも理由があり、この時代においての国際関係というのはやるか・やられるかの上下関係しかなく、対等な関係というものが存在しなかったからであり、たとえ日本が小国であっても、大帝国スペインに日本を侵略させないためには、日本が強国であることをアピールする必要があったのである。
もしこの時に秀吉が中途半端に「対等な関係」を構築しようとしていたなら、上述した通りスペインは平和特使として宣教師を日本に派遣して、切り崩し工作が行われていたとされ、現に世界中の多くの国が、その方法でスペイン帝国の植民地にされていたのである。
こうして名護屋における秀吉とペドロの会見が物別れになると、ゴメス総督は日本への軟弱な外交姿勢を咎められ、スペイン国王によって更迭されてしまう。
その後、後任として総督となったルイス・ダスマリニャスは、アウグステイン・ロドリゲスを使者として日本に派遣して回答を引き延ばしを図り、日本の戦力を冷静に分析して、まともにぶつかればスペインに勝ち目がないことを知り、秀吉との直接交渉を避け、一人一人宣教師を送り込み、時間稼ぎと懐柔工作を行った。
宣教師計画の露呈
そうして文禄3年(1549)年にルイス総督の意向を受けてヘロニモ・デ・ヘススを始めフランシスコ会修道士4人が日本に派遣され、秀吉も公認の下で布教活動を行っていた。
しかし、慶長元年(1596年)にスペインの貨物船であるサン・フェリペ号が荷物を満載したまま遭難し、土佐の浦戸に漂着。
救助された船員たちを五奉行の1人である増田長盛が取り調べたところ、驚きの事実が明らかになり、サン・フェリペ号の水先案内人が長盛に世界地図を見せて
「スペイン国王はまず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると次は軍隊を送り、信者に内応させてその伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのだ」
という証言をしてしまったのである。
その報告を受けた秀吉は、即座にキリシタン26名を逮捕し、彼らを長崎に送って「キリシタンを続けたいなら外国へ出て行け。日本に残りたいなら改宗しろ」と迫り、迷う26名に対し長崎のイエズス会は全員の死罪を長崎奉行に申し出ている。
イエズス会はこの26名をイエスの十字架になぞらえて見せ物にし、間違いなく天国にいけたと宣伝して、信者の団結を高めようという腹があったとされる。