概要
東京都・神奈川県に路線網を持つ大手私鉄の一つ。
東京都の新宿駅を起点とし、若者に人気の下北沢や高級住宅街である成城学園前、近年発展してきている新百合ヶ丘や町田、厚木など、神奈川県中西部の都市を東西に貫く形で小田原までの路線を持つ。また神奈川県内の藤沢や江の島、多摩方面にも路線を伸ばしている。
通称は「小田急」。開業当時の社名である「小田原急行鉄道」が由来であり、もともとこの時代からの略称であった。
丹沢や箱根方面など観光需要が多いこともあって昔から有料特急に力を入れており、車両や設備の質の良さで知られる独自の「ロマンスカー」ブランドを築き上げている。
歴史
1923年5月、小田原急行鉄道として創立
1927年4月に小田原線(新宿〜小田原間)を、1929年4月には江ノ島線(大野〜片瀬江ノ島間)を開業。
1940年5月 戦時体制に伴い帝都電鉄(現在の京王井の頭線)を合併。
1942年5月 京浜電気鉄道(現在の京浜急行)とともに東京横浜電鉄に合併し、東京急行電鉄と改称。更に1944年5月には京王電気軌道(現京王電鉄)を合併。
戦後、1948年6月に東京急行電鉄(株)から分離独立、新たに小田急電鉄(株)として発足する。なおこの際、東急資本であった箱根登山鉄道が小田急グループに加わっている。
1948年10月 新宿〜小田原間ノンストップの週末特急の運転を開始。
1957年7月「ロマンスカー・SE車」が就役。
1960年9月「箱根ゴールデンコース」が開通。箱根周遊ルートの観光開発が進められる。
1964年2月 新宿駅立体化。特急・急行(地上)と各駅停車(地下)の乗り場が分離される。
1974年6月 多摩線開通。
1978年3月 営団地下鉄(現 東京メトロ)千代田線との相互直通運転を開始。
1991年3月 それまで御殿場行きの片乗り入れであったロマンスカー特急を延長する形で新たに新宿~沼津間においてJR東海と相互直通運転を開始。
2005年3月 ロマンスカー・VSE(50000形)運転開始。
2018年3月 代々木上原~登戸間の複々線化が完成。
路線
小田急電鉄の路線は2020年4月1日現在、全部で3路線、総延長120.5kmである。
現有路線
神奈川県の中西部を通っている(そのため県庁所在地の横浜には縁が無い)。いずれも全線電化、小田原線の複々線区間(多摩川橋梁【登戸手前】~代々木上原)間と3線区間(向ヶ丘遊園~登戸)を除いては全て複線である。
廃止路線
- 向ヶ丘遊園モノレール線:向ヶ丘遊園〜向ヶ丘遊園正門間(1.1 km)
向ヶ丘遊園駅と小田急電鉄系の遊園地である向ヶ丘遊園を結んでいたモノレール線。2001年廃線。日本どころか世界でも2路線でしか採用されなかったロッキード式モノレールであった。岐阜県にあった川崎航空機工業の試作モノレールを譲ってもらい1966年に運転開始。しかし、2000年冬に経年劣化による台車の破損が判明し運転休止に。調査の結果既に部品の調達が困難であった上に利用客が減少していたこともあり、翌2001年2月に廃止。前述の理由からさよなら運転が行えなかったため正門駅でお別れイベントを実施している。なお当路線の目的地であった遊園地の向ヶ丘遊園も2002年3月31日 をもって営業を終了。現在は跡地の一部を使用して藤子・F・不二雄ミュージアムが建てられている。
- 向ヶ丘遊園索道線:遊園正門前〜見晴台間 (0.245km)
- 1986年廃線。ロープウェイも運行していた。
譲渡・移管路線
- 帝都線:渋谷~吉祥寺間(12.7km)
特急ロマンスカー
(ロマンスカー7000形 LSE)
詳しくはロマンスカータグを参照。
簡単に一言で説明してしまうと、小田急線の特急の通称である。
現有車両
車両形式は小田急の場合、「〜系(けい)」ではなく「〜形(がた)」と呼称する。
番号はM車は十の位が0~4を使用し、T車は5~9を使用する傾向があり、新宿方面から数が増える構造になっている。
また、編成を数える際には1066Fという数え方はせず1066×4の様に新宿方面先頭車×両数で表記する。
10両通勤車でVVVF車の場合、地下鉄直通が6M4T。地上線用車両が分割可能編成を含めて5M5Tで構成する傾向がある。
通勤車
8000形
1982年にデビュー。
ブラックフェイスが特徴的。4両編成・6両編成がある。
2002年から更新工事が開始され、最初に更新された6両編成2本は車体保全工事と内装リニューアルのみで足回りはそのまま(界磁チョッパ制御)であるが、以降の6両編成の更新は3編成目から3000形に準じた制御装置、内装に改められ運転台もワンハンドル化された。
また2007年度以降の更新車は後述の4000形に準じた制御装置、内装に改められ、LED灯を車内に設置した編成も登場している。
2013年に更新された4両編成2本は試験的にSiC素子VVVFインバータを搭載している。
2013年度までに全車更新が完了。2019年まで1両の廃車も無かったが、同年の踏切事故による8264×6を皮切りに廃車が始まっている。
小田急通勤車最後の鋼製車で、1000形からステンレス車体を採用したため、小田急通勤車の象徴である「アイボリー車体に青帯」は本形式が最後となった。
西武鉄道のサステナ車両として本車が選定されており、廃車除籍後の一部編成が西武鉄道へ譲渡されている。
1000形
1988年デビュー。
小田急初のオールステンレス製通勤電車。4両編成・6両編成・8両編成・10両編成が製造された。2010年までは地下鉄千代田線直通運用にも入り綾瀬まで顔を出していた。
小田急電鉄で形式単位としては初めてGTO素子VVVFインバータ制御を採用した他、後期製造車両からは扉上LED旅客案内表示器を設置するなど小田急初の技術を多く採用した意欲的な車両という一面もある。
4両編成の一部は小田急に運用が移管された箱根登山鉄道線の小田原~箱根湯本でほぼ終日に渡って運用されている(朝夜に送り込みを兼ねた本厚木~小田原間の運用がある)。
かつてこの運用に充当される編成は小田原駅での誤乗防止のため箱根登山鉄道カラーの赤いラッピングをまとっていた。
2014年度よりリニューアル工事が開始された。
主な更新内容は
・従来のVVVFインバーター装置のフルSiC適用VVVFインバーター装置への更新
・化粧板取り替え
・モケット取り替え
・LCD設置
・ドアチャイム設置or更新
・行先表示幕&種別幕のフルカラーLED化
・側帯のインペリアルブルー化
等である。
2015年度までに4連×3本が更新された。
2016年度以降は車番が揃った6連と4連に対して同時に更新工事を施工し、10両貫通編成にするという魔改造が行われている。運転台部分は完全に撤去され、新たな鋼体により中間車化改造が施工されている。
当初はワイドドア車を除く全車の更新が計画されていたが、途中で計画変更になったのかワイドドア車以外でも更新を受けることなく廃車となった編成も現れ、未更新車は2022年までに引退となった。
2000形(2代)
1995年デビュー。
1000形ワイドドア車について、乗降時間の短縮に効果があったものの座席定員の減少が問題視され、ドアの幅を2mから狭くして1.6mとした。8両編成のみが存在する。
ちなみにこの2000形、全国でいち早く(今では当然のように使用されている)IGBT素子のVVVFインバーターを搭載した画期的な最新性能車両。しかも、インバーターはIPMモジュールを使用した3レベルインバーターという(現在でも通用する)当時の最先端技術を使用していた。2012年から随時内装の更新・方向幕のフルカラーLED化が施工されている。
マスコンは小田急の新車では最後となったツーハンドルを採用しており、更新後もそのまま残されている。
3000形(2代)
2002年デビュー。
6両編成・8両編成と後から中間車を追加した10両編成がある。
陳腐化が進んでいた2600形・4000形・9000形の置き換えを目的に10度にわたって大量に製造され、名実ともに小田急通勤車を代表する形式となった。
先述の様に10度に渡り増備されたため、その過程において設計の変更や設備の追加が幾度も行われている。
1次車は側扉が2000形相当のワイドドア、吊革は丸いタイプ、戸袋窓あり、正面の帯は太帯、小型スカートとなっていた。
2次車は戸袋窓が廃止され、吊革は三角形に変更、ワイドドアは普通幅の扉に変更された。
3次車は大型スカートに変更、方向幕の大型化、正面帯の細帯への変更が行われた。
4次車は車内LCDが千鳥配置ではあるものの設置される。
5次車は車内LCDが全扉上に設置されるようになった。
6次車は5次車とほぼ同じで製造会社の違いのみで区分されている。
7次車は方向幕がフルカラーLEDとなっている。
8次車は7次車とほぼ同じで製造会社の違いのみで区分されている。
9次車は中間車両のみの製造であり、4000形に準じた内装となっている。
10次車は中間車両のみの製造であり1000形リニューアル車に準じた内装となっている。
4000形(2代)
2007年デビュー。
地下鉄千代田線および常磐緩行線直通用に製造された電車。10両編成のみが存在する。
JR東日本のE233系を基本に設計されているため、別名「E233系4000番台」とも呼ばれている。
これにより1000形が地上用に捻出され、5000形の一部が置き換えられた。
登場当時車内のLCDは1つしか設置していなかったが、2013年登場の4065×10から増設が始まり、
2015年度に工事完了している。
2014年度以降JR線の保安装置および無線装置の取り付け工事を行い、2015年9月からJR常磐緩行線での試運転が始まった。
2016年3月からは小田急・東京メトロ・JR東日本による3社直通運転が開始され、今までの運用区間に加えて常磐緩行線 綾瀬~取手間においても運用が開始され小田急車が茨城県内まで乗り入れる事となった。
近年、乗り入れ先の地下鉄千代田線および常磐緩行線においてワンマン運転へ移行する計画がありその準備工事が行われている。
5000形(2代)
2020年デビュー。
こちらも10両編成のみが存在する。
8000形以来となる久々の幅広車体で、側面のラインカラーは初めて2色となっている。
ホームドアの導入が進んでいる事もあり、車両番号は幕板部に、ブランドマークはドア横に変更されている。
2023年からはマスコットキャラクター「もころん」をラッピングした編成が登場した。
クヤ31形「テクノインスペクター」
2004年から運行を開始している総合検測車。車両は3000形(2代)をベースとした。月に2回程度、2日かけて複々線を含めた小田急線の全線を走行し軌道や架線の検測を行う。動力を持たないため、動力車として8000形の一部編成と連結される形で検測を行っている。当初は連結相手は1000形であったが4両編成が廃車されたため、2021年10月以降8000型へ変更されている。
実は屋根のクーラーは4000形(初代)用の転用だったりする。
特急形(ロマンスカー)
各車輌の解説はロマンスカータグの記事に詳しいのでそちらを参照されたい。
過去の車輌
HB車
特徴については、HB車の記事も合わせて参照されたい。
デハ1100形
もともとは開業当時に用意されたモハ1形電車である。モハ1形は15m級の3扉車両で、主に各駅停車専用として使用された。一部は戦時中の合併を経て相鉄に移籍したほか、小田急に残存した車両も日立電鉄や熊本電鉄へと譲渡されている。
最後まで残っていたのは1101で、こちらは早い時期に荷物電車になってデニ1101となっているのだが、1960年代の一時期、振子式の試験車輌に改造されていたという過去がある。
熊本電鉄で廃車になった元デハ1100形を小田急が買い戻し、開業当時のモハ1形の姿に復元されて現在ロマンスカーミュージアムに保存されている。
デハ1200形
開業当時にそろえられた車両のうち、急行用として使用されたモハ101・モハ121・モハ131形である。
もともとは荷物室とトイレがついていてモハニだったが、すぐに取り外されてモハになった。
16m級2扉で、当初はセミクロスシートだった。
トイレに行くときには一回荷物室に入らないといけない、という謎の仕様だったそうである。
廃車後は越後交通などに渡り1976年まで活躍している。
デハ1300形(→デニ1300形)
全線複線化に合わせて登場、モハ101・モハ121・モハ131形の荷物室を大きくしたバージョン。
こちらは16m級3扉ロングシートの車であった。
戦後に東急車輛で車体を改造した際、幅1500mmの両開き扉を2箇所に設置し荷物車の代わりとして働いたが、
HB車の旅客運用がなくなるとデハからデニに形式が変わった。
小田急から引退後、東急車輌の牽引車として第2の人生を歩んだ車両もいる。(1993年に使用停止)
1400形(デハ1400・クハ1450形)
江ノ島線開業に合わせ登場。当初の形式はモハ201・クハ501およびクハ551・モハ251。
2扉だがロングシート、比較的まとまった数が働き、HB車を代表する形式であった。
引退後は新潟交通や越後交通、岳南鉄道などに譲渡された。新潟交通に渡った車両は1999年の全線廃止まで活躍した。
ABF車
間接自動制御(三菱電機製ABF)を採用した吊り掛け駆動の車輌の一群。
1600形
戦前の小田急としては最後の新造車で、窓が大きく美しいスタイルを持つことでファンの人気を集めた。
これよりも前にクハ601形という形式がクハ1651形として編入されたが、これらも戦後デハ1600形に合わせたスタイルになった。
戦時中に運行休止となっていた「週末温泉特急」が1948年に再開された際はこの1600形が充当されている。1970年に引退した。
廃車後は岳南鉄道や近江鉄道に渡ったほか、一部は制御気動車化され関東鉄道にも渡っている。電車から気動車へと魔改造されたこの車両は1984年まで活躍したという。
1900形・1910形
戦後各地の私鉄に投入された「運輸省規格型」と呼ばれる電車。1949年デビュー。
規格設計のせいか窓が小さく重苦しい印象。
もと帝都電鉄(→京王井の頭線)出身の1500形も改造・編入(デハ1914Ⅱ・クハ1964)された
(ただしこの2両の制御器は国鉄制式品であるCS-5であるためABF車ではない)。
特急仕様は1910形という別形式であり、同じく1949年にデビューした。1900形と異なり車内はセミクロスシートでトイレと喫茶スペースも設けられていた。入線後は1600形に代わって週末温泉特急に充当された。翌1950年に2000形に改番されている。1952年夏以降は通勤輸送に専念するようになり、1957年頃には3扉化された。1976年に全車引退した。
廃車後は富士急行や岳南鉄道、大井川鐵道に譲渡された。
初めて本格的な特急車両として製造されたことから1910形を初代ロマンスカーとすることも多い。
(もっとも当の小田急電鉄側は3000形SEを初代ロマンスカーとしているが...)
1700形(初代)
小田急では始めて転換クロスシートを採用した本格的な特急車輌。
第1編成と第2編成は戦災国電の台枠を使ったために先頭車と中間車の長さが違った。
第3編成は完全新造で非貫通2枚窓となった。
ヤマユリをかたどったロマンスカーエンブレムは、もともとはこの1700形につけられていたものだった。1957年に特急運用から撤退。のちにサハ1両を挿入した上で通勤車化改造を受け車輌の長さもそろえられた。
1974年に全車引退したが車体幅が大きすぎたため、他社への譲渡は行われなかった。
1910形の次に特急用として作られたので1700形を2代目ロマンスカーとする向きも多い。
2100形
小田急最後のABF車で、軽量構造を初めて採用した。
そのスタイルは後に登場する2220形に通じる軽快なもの。廃車後5両が三岐鉄道に渡り1991年まで使用された。
1800形
もともとは国電63系……に、なるはずだった車輌を割り当てたものと、
戦災で焼けた国電の台枠を流用して新造した車輌の寄せ集め。名鉄からやってきた車輌もある。
車体更新で小田急顔になったが、切妻で異彩を放っていた。廃車後秩父鉄道に譲渡され800形となった(こちらも1989年に引退した)。デハ1801が保存されている他、クハ1851の車体前半分が残存している。
ABFM車
初期の高性能車群を指す。「FM車」「FM系」とも。
三菱電機製の多段制御器である「ABFM」を搭載しているためこう呼ばれた。
2200形
1954年から製造された小田急初の高性能車。直角カルダン駆動。
ただしデハ2217・2218は2220形と同一の性能を持つWN駆動車である。
廃車後富士急行に譲渡され1996年まで活躍したほか、台車が伊予鉄道に渡っている。
富士急行譲渡車も含めて5両が静態保存されていたが、うち2両はその後解体され現在は3両が保存されている。
2220形
1958年から箱根急行用に製造された小田急初のWN駆動車。登場時は4連だったがのちに2連に改造。
廃車後富士急行や新潟交通に譲渡されたほか、台車が伊予鉄道に渡っている。
新潟交通へ渡った車両が1998年11月まで活躍している。
2300形
1955年デビュー。2200形の特急バージョン。3000形SEの登場が決定していたためショートリリーフとして製造された。ゆえに4両編成1本のみの製造に終わり、3000形SEがデビューすると2扉化とセミクロスシート化の上、準特急用に転用された。1964年以降は3扉ロングシートの通勤型に格下げされた。1982年に全車廃車となった。
廃車後富士急行に譲渡された。
1700形の次に特急用として作られたので2300形を3代目ロマンスカーと見る向きも多い。
2320形
1955年製。2220形の準特急・急行バージョンだが、NSE車が増備されたため程なくして通勤型に改造された。
廃車後富士急行に譲渡され1995年10月の廃車まで活躍した。
2400形(HE車)
1959年登場。4両固定編成だが、両端2両と中間2両で車体長が3m近く異なる、変わった構造の電車。
HEとはHigh Economicalの略である。
レールのジョイントを通過する音の間隔が違うため、走行音だけで容易に判別できた。
冷房やスカート設置など試験的に実施した編成も存在する。
1989年3月、予備車として残されていた最後の1編成が廃車。この編成は小田急として最後まで残った非冷房車であり、引退を持って小田急の全車冷房化が達成された。
廃車後機器類は4000形(初代)のカルダン駆動化に使用された。
2600形(NHE車)
1964年登場。初の20m4扉、裾絞りの大型車両で、後の通勤形電車の標準的規格となる。
小田急顔の電車の代表格として、ありふれた存在であった。
NHEはNew High Economicalの略である。
最後まで側面表示が種別のみ表示だったことが判別しやすい特徴である。
各駅停車専用とされたため、小田急では初めて回生ブレーキを搭載しているほか、
電動車は3両1ユニットという珍しい方式である。
それゆえ編成の自由度は低かったが、この頃の小田急は固定編成が前提であるため問題はなかった。
単独で運用する分にはそれでよかったが、5000形以降の形式と連結した場合、
2600形は回生ブレーキの失効速度が速く、すぐに空気ブレーキに切り替わってしまうため
連結運転の際には運転士に嫌われたらしい。
1編成8両だけ2000形と同じIGBT素子のVVVF制御に改造された車両あり。(当該編成の足回りは廃車後2000形の新造時に転用された)
最後まで残った1編成6両は旧塗装に塗り直され、2004年6月のさよなら運転に使用された。なおその後、先頭車クハ2670が保存されている他、辻堂海浜公園に保存車がある。また厚木の消防学校に寄贈され、事故救出訓練用の訓練器材として再利用されている車両がある。
4000形(初代)
車体は2600形とほぼ同じだが、足周りが特徴の電車。
ギラリと光るディスクブレーキと、吊り掛け駆動が魅力であった。
…が、1984年に、先述の2400形から機器を譲り受けてカルダン駆動化された。
その際に冷房化もされたが、2600形・5000形とはクーラーの数が違うのと、
上記のディスクブレーキが特徴だったので容易に判別できた。
しかしWN駆動化後も回生ブレーキはおろか、発電ブレーキすらついていないため、
ブレーキ操作がシビアであり、特に異形式併結時は2600形以上に運転士に嫌われたそうである。
そのためなのか2600形と共に廃車が進み、2600形全廃半年後の2004年12月、ひっそりと姿を消した。
9000形
千代田線直通用として1972年より製造が開始された。小田急初のチョッパー制御を採用した車両でもある。
「営団に負けるな」という設計陣の一言で決められたという斬新な前面スタイルから「ガイコツ」の異名を頂戴した。
小田急が唯一ローレル賞を受賞した車両でもある。
1000形登場後は直通運用から撤退し、地上線用となっていた。
30年たっても古さを感じさせないスタイルが人気だったが、回生・発電併用のHSC-RDブレーキなど、特殊部品の確保が困難であるほか、車体腐食に伴う老朽化により、2006年5月に全車引退となった。
引退後はトップナンバーのクハ9001が海老名に保存されている。
5000形
ファンの間から「小田急顔」として親しまれてきた前面形状を持つ最後の形式。
1972年からは上述の9000形に予算を転用したため製造が中止されたが、1978年から製造を再開した。
後述の5200形と合わせ、主に急行用であったが、実際には特急以外の多彩な運用につくことができた。
2012年3月に引退。
5200形
6両編成の増備を目的に登場した。
形式上はあくまでも5000形であるが、外観(とくに側窓)が変更されているため便宜的に5200形と呼ばれる。
一部の編成は4両編成に短縮され、5000形と共通の運用についていた。
3000形や4000形(2代)の登場により、廃車が進行。2011年1月に6両編成はラストランを行い引退、残る4両編成も5000形より一歩早い2012年1月に引退した。
1000形ワイドドア車
1991年デビュー。
標準ドアの1000形をベースに開発されたワイドドア車。6両編成のみが存在する。当時は好景気、更に複々線工事も途上であり朝のラッシュが酷く、その対策の一環として導入された。
もともと4両編成が1500形、6両編成が1700形と呼ばれていたが、後に1500形が改造されて全編成が6両編成に揃えられた為に1700形と呼ばれる。
1500形の1700形への改造に関しては先頭車の中間車改造が行われた。
なおこのワイドドア、その名に違わず全開するとその幅2mにも及び、縦よりも横幅の方が広かった。のちに幅を縮める改造が行われ、左右0.2mずつ引き残す(幅が1.6mになる)。車内からはそれ程違和感は無いが、外から見ると違和感を感じる。
側面の方向幕は落成時から3色LEDとなっていた。
ホームドアの設置後は新宿方面に顔を出すことが無くなり、新百合ヶ丘以南の各停運用がメインとなっていた。
2022年までに全車引退。
500形(モノレール)
1967年に運転を開始したが、実は川崎航空機が試作したロッキード式モノレールの電車を小田急が引き取り、向ヶ丘遊園へのアクセス輸送用として運行されていた。
向ケ丘遊園のイベント実施時は、ウルトラマンのお面をかぶって運行されたこともある。
2000年冬、定期点検時に経年劣化による台車の破損が判明し休車、モノレール線も同時に休止となり翌2001年に正式廃止されたモノレール線と運命を共にした。
キハ5000形・5100形
国鉄御殿場線との乗り入れ用に1955年に開発された小田急唯一の気動車である。主に特急「銀嶺」「芙蓉」「朝霧」「長尾」に充当されていたが、1968年に御殿場線が電化されたためお役御免となり関東鉄道へと譲渡され、3ドアロングシートに改造されて1987年まで使用された。
ちなみに関東鉄道では同じく小田急から譲渡され制御気動車化されたクハ1650形と併結されて使用された。
なお、窓割を見ればわかるがキハ5000形は登場当時、シートピッチが恐ろしく狭く窮屈であり、しかもこれで満席の状態になると乗客の重さでエンジンが焼きついてしまうというトラブルに見舞われた。
その反省からキハ5100形ではシートピッチを広げたため、キハ5000形もそれに合わせて改造したのだが、今度はシートと窓の位置関係が合わなくなってしまった。
事業用車両
デユニ1000形→デニ1000形
小田原急行鉄道で1927年11月に荷物輸送用の車両として4両製造された荷物電車。1941年に2両が廃車されたが、残る2両は戦中の大東急時代を経て戦後の小田急電鉄時代まで使用されていた。1971年には郵便輸送が廃止されたため郵便室を荷物室に変更しデニ1000形に改造された後、1976年に1両が廃車されたが最後の1両が1984年の荷物輸送全廃時まで生き残った。
デニ1100形(デニ1101)
1958年2月にデハ1100形から1両のみ改造された荷物電車。油圧式強制振り子車の試験車として用いられた事もある。1976年に廃車。
デニ1300形
1969年10月にデハ1300形から改造された荷物電車。4両が改造され上記のデニ1000形の後継車両となった。1984年の荷物輸送全廃により廃車。
デト1形
小田急電鉄では唯一の電動貨車にして、唯一の自社製造車である。製造元は経堂工場。
旧型車両の電装品・台車を利用して1953年に作られ、台枠の一端に凸型の車体が乗った独特のスタイルでよく知られていた。
デト(電動無蓋車)と名乗ってはいるが、車体形状は長物車のそれに近く「デチ」と名乗らせたほうがよさそうな形態である。
当初は経堂工場構内、1962年以降は大野工場構内の資材運搬ならびに車両入換用として使用されていた。
そのためATSや列車無線は装備しておらず、本線に出ることはできない車輛であった。
2002年に廃車。
電気機関車
デキ1010形(ED1011・ED1012)
1927年の開業に合わせて川崎造船で製造された1形(1・2)をルーツとする。軸配置はB-B。
いわゆる「川崎製40t電気機関車」の一族であり、同型車としては武蔵野鉄道デキカ21形(→西武鉄道E21形)や
上田温泉電軌(現在の上田電鉄の前身)デロ301形(のち名古屋鉄道にわたりデキ500形を経て岳南鉄道ED50形)があり、特に上田温泉電軌には応援のために貸し出されたことがある。
大東急改番でデキ1010形となったのち、戦後は車体標記のみED1011・ED1012と改められた。
1968年に貨物列車縮小のためED1011が、1984年に貨物列車廃止のためED1012が廃車となった。
デキ1020形(ED1021)
1930年川崎車輛製。デッキなし、箱形の40t級で車体側面・機械室部分の窓が丸窓となっていたのが特徴。軸配置はB-B。
当初は101形101と称したが、大東急改番でデキ1020形1021となり、その後車体標記のみED1021と改めている。
1968年に貨物列車縮小のため廃車となり、岳南鉄道へ売却されED29形291として働いていた。
デキ1030形(ED1031)
1930年日本車輛製。こちらもデッキなし、箱形の40t級だが車体はデキ1020形に比べて長い。
軸配置はB-B、屋上へ上がる梯子と砂箱が前頭部分についていていかめしい顔をしている。
当初は201形201と称したが、大東急改番でデキ1030形1031となり、その後車体標記のみED1031と改めている。
戦前生まれの電気機関車としては小田急最後の存在であり、貨物輸送廃止後の1984年以降も新車の甲種輸送などで後述のED1041と重連を組んで使用される機会が多かった。
廃車は1997年で、小田急の本線用電気機関車としては最後まで残った車輛であった。
デキ1040形(ED1041)
1951年三菱製。軸配置はB-B。小田急最大の電気機関車である。
足柄駅に接続する専売公社(当時)の煙草製品輸送など長らく貨物列車を引いてきたが、貨物輸送廃止後の1984年以降は新車の甲種輸送などが主な任務であった。
しかし、合理化のため電車に代替される形で1996年に廃車(なお、廃車の要因としては主電動機焼損という致命的なトラブルを起こしてしまった上に、すでに修理用の部品も枯渇していたためと思われる)。
デキ1050形(EB1051)
1950年日立製、軸配置はB。当初は先述の専売公社小田原工場の専用線で使用されていた機関車で、
専売公社時代の番号は101号。しかしその後専用線には小田急の電気機関車を乗り入れさせることとなったために不要となり、これを小田急が買い取りデキ1050形EB1051となった。
小田急では唯一のEB級で、ATSおよび列車無線を備えていないために本線には出られず、
当初は相武台工場、1962年以降は大野工場の入換用として使われていた。
2002年に入換用モーターカーに置き換えられる形で廃車となり、これをもって小田急から電気機関車は消滅した。
電気機関車の運転士について
上記の通り小田急は貨物輸送を廃止し電気機関車を全廃しているものの、小田急電鉄には、JR貨物の電気機関車も運転できる運転士が在籍している。
これはJR貨物の甲種輸送列車が連絡線を通じてそのまま小田急線新松田駅まで乗り入れるためである。JR貨物のEF65形電気機関車の運転資格を保有している運転士が社内に23名いるという。(2017年現在)
小田急に納入される新型車両を牽引したJR貨物の機関車は、まず牽引したままJR御殿場線の松田駅に到着。JR松田駅からの連絡線は小田急電鉄の線路になっているため、JR松田駅で小田急電鉄の運転士がJR貨物の運転士と交代し、JR貨物の電気機関車を運転して連絡線を通り新松田駅の先まで走行、その後後進する形で新松田駅へ入線後に機関車を切り離し、小田急電鉄の運転士が機関車だけを運転して連絡線でJR松田駅に戻り、待機しているJR貨物の運転士へ機関車を返すという流れとなる。納入される新型車両は新松田駅構内で待機していた小田急の電車に連結・そのまま牽引(状況によっては新松田で通電されて自走)され、最終目的地である海老名検車区へと向かっていく。ちなみに小田急線内から他社へ車両が譲渡される場合はこの逆の手順となり、新松田駅へ単機で入線してきたJRの機関車に連結され構内を後進したあと連絡線からJR御殿場線へ搬出される流れとなる。重量級のJRの機関車が入線することもあり、この連絡線と新松田駅の前後は予め路盤強化がなされているという。
なおこの一連の作業は双方の終電後の深夜帯に行っている。
貨車
トム690形・トム720形
戦前の1930年・1934年に砂利輸送用無蓋車としてそれぞれ30両・10両が製造、戦後の砂利輸送廃止により保線用として4両・1両が残ったが1984年3月に両車共に廃車された。
トフ101形
1929年8月から1930年11月にかけ14両が製造された無蓋緩急車。凸型の車体が特徴。戦後の砂利輸送廃止により10両、1984年3月の保線車両更新により3両が廃止されたが、残った1両(トフ104)が新車搬入時の緩急車として使用され続け、1996年6月30日に引退するまで日本最後の現役凸型緩急車として知られていた。ちなみに車両在籍期間66年10か月という小田急で最長の在籍記録を持っている。
ワフ1形
1927年の貨物営業開始に合わせ3両が新造された有蓋緩急車。1970年に3両ともに廃車された。
ホキ300形・ホキフ300形
1962年に6両が製造された、砂利撒布用の保線用ホッパ車。保線車両更新により1987年に全廃。
イヘ900形・イヘ910形
1959年に川崎車輛で各1両が製造された移動変電車。これはこの当時長編成の急速な増加などで変電能力の不足が問題となりつつあったことが背景にあり、常設変電所の増強完成までの短期間の代行施設として計画されたもの。変電機器は三菱電機が担当している。搭載機器の関係で常にコンビで使用され投入当初は当初は折り返しの多い向ヶ丘遊園の側線。その後は厚木の側線に移動して使用された。その後の常設変電所の整備により代行変電所としての使命を終え、1973年に廃車されている。
運賃
区間 | キロ程 | 運賃(ICカード) | 運賃(切符) |
---|---|---|---|
1区 | 初乗り - 3km | 126円 | 130円 |
2区 | 4km - 6km | 157円 | 160円 |
3区 | 7km - 9km | 189円 | 190円 |
4区 | 10km - 13km | 220円 | 220円 |
5区 | 14km - 17km | 251円 | 260円 |
6区 | 18km - 21km | 283円 | 290円 |
7区 | 22km - 25km | 314円 | 320円 |
8区 | 26km - 29km | 346円 | 350円 |
9区 | 30km - 33km | 377円 | 380円 |
10区 | 34km - 37km | 419円 | 420円 |
11区 | 38km - 41km | 462円 | 470円 |
12区 | 42km - 46km | 503円 | 510円 |
13区 | 47km - 51km | 545円 | 550円 |
14区 | 52km - 56km | 597円 | 600円 |
15区 | 57km - 61km | 639円 | 640円 |
16区 | 62km - 66km | 682円 | 690円 |
17区 | 67km - 71km | 733円 | 740円 |
18区 | 72km - 76km | 786円 | 790円 |
19区 | 77km - 81km | 838円 | 840円 |
20区 | 82km - 83km | 891円 | 900円 |
キャラクター
もころん
2023年8月から登場した子育て応援キャラクター。うさぎをモチーフにしている。
鉄道むすめ
トミーテックが展開する鉄道むすめでは系列会社含めて3人が公式に登場している。ちなみに船橋ちとせ、石田あいこは鉄道むすめ最古参キャラクターである。
2020年代以降はいずれも登場機会に恵まれておらず、渋沢に至っては職種そのものが廃止されたせいか実質クビ扱いとなっている。
小田急に縁のある著名人
- 森繁久彌…千歳船橋に森繁通りが存在するため、同駅前に胸像が移設された。
- 藤子・F・不二雄…1961年から96年に亡くなるまで、沿線の川崎市生田地区に住んでいた。藤子・F・不二雄ミュージアム最寄りの登戸駅は、ドラえもんを意識したラッピングになっている。
- 木梨憲武(とんねるず)…実家の木梨サイクルが祖師ヶ谷大蔵にある。
- いきものがかり…メンバーが海老名市と厚木市の出身で、海老名駅と本厚木駅の駅メロに楽曲が使われている。代表曲「SAKURA」にも名前が登場。
- 森山直太朗…代々木上原の出身。同じ沿線上にある成城大学に進学しており、代表曲「さくら(独唱)」も成城の桜並木道をイメージして作ったもの。
- LUNASEA…ボーカルのRYUICHIが江ノ島線沿いにある大和市の鶴間出身、他メンバーは小田原線沿いの秦野市の出身。このため、両路線のジャンクションにある町田がメンバーの合流地点になっていた。
- SOPHIA…最大のヒット曲「街」のPVは喜多見駅周辺で撮影された。小田急のみならず世田谷とも縁が深い。
- 森友嵐士(T-BOLAN)…同じく東海大学に通学していたため、町田にはよく来ていた事を語っている。
- 19(ジューク)…沿線の柿生に住んでいたため、「小田急柿生」という曲がある。
- ZARD…生まれは福岡県久留米市だが、秦野市で育つ。渋沢駅の駅メロに「負けないで」が使われている。
関連項目
- 小田急 :略称表記としてのタグ
- ロマンスカー:おもに、小田急ロマンスカー関連の絵につけられるタグ
- 東京メトロ千代田線:直通先
- JR東日本常磐線:直通先
- JR東海御殿場線:特急「ふじさん」の直通先。ロマンスカーも参照。
- 箱根登山鉄道
- 江ノ島電鉄
- 富士山麓電気鉄道 長野電鉄 西武鉄道:近年の車両の譲渡先、前2社はロマンスカー、西武には通勤型車両を譲渡している。
- FC町田ゼルビア
- 相模鉄道:親会社の純粋持株会社「相鉄ホールディングス」は小田急が筆頭株主である。
- OdakyuOX:系列会社の小田急商事が運営するスーパー。
- 宇宙のステルヴィア:小田急線内の駅名が名前の由来になっているキャラクターが多数いる。