概要
徳川家康を総大将とする東軍が、毛利輝元を総大将として美濃国関ヶ原(現、岐阜県不破郡関ヶ原町)で実質の総指揮官を務めた石田三成らの西軍を破った戦いである。世に「天下分け目の戦い」という。
開戦日は慶長5年9月15日(現在の1600年10月21日)。
前夜
慶長三年(西暦1598年)の豊臣秀吉の死後、豊臣政権は五大老と五奉行による合議制を取る事になったのだが、朝鮮出兵や秀次事件等といった問題が原因で、既に豊臣政権に対する民衆や大名等からの信頼は大きく剥がれ落ちている状況にあった。
また、五奉行の一人である石田三成は、政務を一任された五大老の中で最大の勢力を誇る内大臣・徳川家康を危険視する一方で、朝鮮出兵における自らの軍監及び船奉行としての方針が災いし、福島正則、加藤清正、黒田長政等といった武将達からの反感を買い、対立を深めていた。そんな中で、家康は豊臣秀吉が生前に禁じた大名同士による婚姻を行い勢力を拡大、これと良しとしない政務担当官の五奉行との権力争いが勃発する事になった。
しかし、三成に反感を募らせる武将達の抑え役であった前田利家が太閤没後の翌年に死去した事で事態は一変。調停者不在となった結果、内部分裂は一気に表面化してしまい、七人の大名による石田三成襲撃事件が発生し、三成は佐竹義宣の手引きで辛くも襲撃された屋敷から脱出するも、この不祥事は家康の付け入る隙を与えてしまい、三成は襲撃事件の原因を招いたとして五奉行を解任され、佐和山城に蟄居を命じられた。更には利家の死後に家督を継いで五大老に就任した前田利長も、無届けで加賀に帰還した事をから家康の暗殺を謀ったとされて、生母のまつを人質に取られる事になり(加賀征伐)、共謀者として五奉行の浅野長政や豊臣秀頼の側近であった大野治長にも嫌疑が掛けられる事になってしまい、これによって徳川家康は自らの権勢を盾に権力中枢を掌握していった。
慶長五年(西暦1600年)三月、大阪にいた徳川家康は会津に加増転封された五大老が一人、上杉景勝が加増領土に見合うだけの浪人を雇用している事に謀叛の動きあるとして上洛の要請をした所、これを非とする上杉家家老、直江兼続の意見書が送付され、これを口実に家康は六月に会津討伐に動いた。石田三成はこれを機と見て七月に他の五大老、五奉行の一部とともに徳川家康が不在の大阪で毛利輝元を大将に頂き、家康への弾劾状を叩き付けた上で挙兵する。
東西軍構成
勢力 | 総大将 | 指揮官 | 戦力 | 参加勢(太字は関ヶ原の本戦に参戦した大名) |
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東軍 | 徳川家康 | 徳川秀忠 | 約8万5千 | 井伊直政、池田輝政、加藤清正、黒田孝高、榊原康政、真田信之、仙石秀久、伊達政宗、藤堂高虎、福島正則、古田織部、細川忠興、本多忠勝、本多正信、前田利長、最上義光、森可政、柳生宗矩、山内一豊、結城秀康など |
西軍 | 毛利輝元 | 石田三成 | 約8万 | 安国寺恵瓊、上杉景勝、宇喜多秀家、大谷吉継、九鬼嘉隆、小西行長、小早川秀秋、佐竹義宣、真田昌幸、真田幸村、島津豊久、島津義弘、立花宗茂、長宗我部盛親、鍋島直茂、毛利勝永など |
三成による挙兵後、三成を中心とする西軍も家康を中心とする東軍も、互いに自らの陣営に加わるよう全国の諸将に文を送り続けた。石田三成が総大将として擁立した五大老の毛利輝元と上杉景勝、宇喜多秀家が石田三成の派閥に加わった為にこれに対して諸将は去就を惑うものも多かった。結局は地勢的な意味も込めて、江戸と大坂の両拠点からほぼ均等距離の美濃国を境に軍はほぼ二つに割れる事になる(無論、東軍に属した九州の加藤清正、黒田如水や信濃国で西軍に属した真田昌幸親子といった例外もある)。
本戦
石田三成と大谷吉継は毛利輝元を総大将に擁立し、西国の諸将を味方に付け西軍を組織し畿内以西の大名を粗方、味方に付ける事に成功する。対する徳川家康の東軍は小山評定で各自の結束を固くし、豊臣大名として豊臣秀吉から恩顧の厚い山内一豊(遠江掛川)、福島正則(尾張清洲)両大名を味方に付ける事によって東海道の確保を確実にすると江戸から引き返し、東海道を上って西軍先発隊と関ヶ原で対峙する。ここで東軍は西軍の本拠である大垣城を迂回して大阪に直進する進路を取ったので西軍も大垣城から打って関ヶ原での野戦の構えとなり、九月十五日午前八時に戦の火ぶたが切って落とされた。
戦況は一進一退を経て予め高地に防御陣地を築いて東軍を包囲、殲滅する西軍優勢だったが、南宮山に陣取った毛利秀元と松尾山に陣取った小早川秀秋が再三の督戦にも拘わらず動きを見せず、自動的に更にその後方にある栗原山に布陣した長宗我部盛親も動く事が出来ず、西軍は止めの一手を打てずにいた。毛利秀元は開戦以前から東軍に内通していた吉川広家によって展望の利かない南宮山山頂へと押し込められ、安国寺恵瓊隊と共に動向を封じ込められていた。更に吉川広家は長束正家と共謀して後方の長宗我部盛親の通信を切断し、毛利隊全体と長宗我部隊は戦線から完全隔離していた(宰相殿の空弁当)。また、西軍で群を抜く戦上手である島津義弘も戦前の軍議で奇襲案を却下され、この点で三成と蟠りがあったからか、国元の薩摩に兵力の催促状をつがえる矢の如く送り続けるも尚、寡兵で決戦に臨んでしまったせいか、わずか千五百名余りの島津兵は戦いに消極的であった。それ以前に総大将、毛利輝元と豊臣秀頼を欠く西軍は士気において今一つ気炎の上がらぬ状態にあったのが実際である。
一方、石田三成、徳川家康双方から秋波を送られていた小早川秀秋は正午過ぎに東軍へと寝返り、小早川秀秋離反への備えであった赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治らも一斉に西軍から離反して一気に松尾山を下る。これらの軍勢を支えきれなくなった脇備えの大谷吉継は自害し、この大離反一つで西軍は壊乱し敗走してしまうのである。取り残された島津隊は、後に「島津の退き口」と言われる敵中突破を敢行。島津豊久や長寿院盛淳といった多大なる犠牲を出しながらも、井伊直政や松平忠吉を負傷させて大阪湾から船に乗り辛くも無事、薩摩へと帰還した。が、その戦は薩摩へと帰還できた兵数が千五百名の内、百名にも満ちたりぬという過酷な退き口であった。
天下分け目の戦いは、わずか一日で勝敗が決することとなった。
その一方で未だ懸案事項であった豊臣秀頼を擁する西軍大将、毛利輝元は大坂城にいたが、関ヶ原の勝敗を知りかつ吉川広家が毛利家所領の安堵状を徳川家康より授かっているとの言伝から二十四日に大坂城を無血開城し、ここに関ヶ原の戦いは終戦を迎えた。
その頃
東北
会津の上杉景勝は反転した徳川家康を追撃せず、西軍として東軍の最上義光の領地へ侵攻すると伊達政宗は最上義光の援軍に駆けつけた。積極的に南下せず江戸もそのまま放置して伊達、最上と膠着を演じた上杉景勝は関ヶ原の勝敗を知ってほぼ不戦敗という形で撤退し、十二月に降伏して会津百二十万石から米原三十万石に減封された。越後から続く百戦錬磨の上杉軍団としては何とも締まらぬ結末を迎える事になる。
茶の湯の師である古田重然を遣わして中立を約束させた常陸の佐竹義宣も、出兵には至らなかったものの西軍寄りの動きを見せたとして、減封の上で出羽秋田に転封されるに至る。
信濃
徳川軍本隊として中山道付近の攻略に取り掛かっていた徳川秀忠軍は信濃の上田城を攻めていた(第二次上田合戦)。しかし関ヶ原への進軍命令が、目前の上田城攻略に拘る徳川秀忠の頑なな意志と、濃霧や増水による連絡の遅延により結果的に本戦には遅参してしまった。これにより譜代衆への恩賞配分ができず、後に許されたものの家康から大いに叱責を受けた。
尚、上田城で強固な抵抗を見せた真田昌幸、真田信繁親子は死罪もやむなしと見られていたが、東軍に加わっていた昌幸長男の真田信之、並びに信之を通じて縁戚となっていた本多忠勝の懸命な助命嘆願より九度山への蟄居で済まされた。
九州
東軍の加藤清正は熊本から出陣して小西方と戦い、黒田如水(孝高)は息子、長政が関ヶ原にいる頃、豊前から出陣して大友勢と対決。清正と戦った立花宗茂は降伏、改易。しかし関ヶ原で西軍に加わっていた島津義弘の島津家は強かな外交戦を演じ最終的に薩摩、日向、大隈の領地三国を安堵された。西軍に荷担した大名家の中で減封、改易などの処分を一切、受けなかったのは薩摩の島津家のみである。
この時、黒田如水は、九州を制圧して地盤を固め、疲弊した勝者を倒し機に乗じた天下取りを考えていたと云われる。
その他、各地では東西両軍の合戦や籠城戦が相次いだ。
戦後
石田三成は数日後に捕えられこの戦の責任者として斬首。小西行長も同じ咎で斬首され、毛利家を担ぎ出した張本人であるとスケープゴートにされた安国寺恵瓊と共に処刑される。
一方、総大将である毛利輝元は吉川広家を通して徳川家康と内通していた為、大阪城の無血開城と同時に毛利家はお咎め無しと考えられていたが、実際にこの裏取引を手引きしていたのは井伊直政と本田忠勝の二名であり、安堵状もこの二名の連盟であって徳川家康の花押や署名は何処にもなかった。更に加えて関ヶ原の戦い戦後、黒田長政と福島正則に佐和山城攻めの最中、「関ヶ原の戦いはあくまで豊臣家の一部奉行職が起こした行動であり、毛利輝元を粗忽に扱うつもりはない」という内容の書状を認めさせている。結果、不安に駆られる毛利輝元はこの書状に飛びついた訳であるが、上記の書状は徳川家康の直筆でないという点が重要であって、大阪城西の丸を無血開城する際にも黒田長政、福島正則、井伊直政、本田忠勝は「関ヶ原を引き起こしたのは三成であり、毛利の責任は問わずその領国は安堵する」と繰り返して輝元を説き九月二十四日、遂に毛利輝元は大阪城から退去する。
しかし、家康は大阪城で発見したある物を理由に、城を明け渡した毛利輝元に対し、黒田長政に命じて吉川広家宛起請文を書かせ、それを見た予想外の内容に吉川広家は度肝を抜かれ、冷や汗を流す事になった。
起請文の内容を現代文で訳すと…
「毛利領安堵の約束は、あくまでも輝元殿が否応無く西軍総大将に担ぎ上げられたのが条件であったはずだ。ところが大阪城から発見された西軍の出兵等に関する連判状の数々には、輝元殿本人の花押があった。これは明らかに輝元殿本人が出兵を命令した証拠で、話がまるで違うではないか?輝元殿が約束を違えた以上、毛利の所領は全て没収し、改易もやむを得ないと思ってもらいたい。但し、広家殿の忠節は、井伊直政、本多正信殿もよく理解しており、毛利の所領から一、二ヶ国(後に周防、長門と決定)を下される事になったのでご安心を」
つまり、吉川広家は毛利家を守る為に必死に尽力し、それを認められてもいたのだが、肝心の毛利輝元が西軍の数々の連判状に花押を押してしまった結果、徳川家康から「裏切り」と見なされ、それまでの書状の遣り取り、人質の遣り取りを全て反故にされてしまったのである。もしかすると、輝元は家康率いる東軍側が敗北した場合も想定し、自らの保身を図るべく、三成達に味方であるのを証明する為に連判状に花押を押してしまったのかもしれないが、その結果、戦いを制した家康側から裏切りの疑惑を受ける事になってしまったのである。
吉川広家は毛利元就実子、吉川元春の跡を継いだ毛利家の超重役であり(つまり吉川広家は毛利元就の孫である)、本家を蔑ろにするつもりなぞ本人はまるでなかったので、翌日黒田長政らに「我が身に代えても毛利家の存続を」と訴え、土下座交渉で血判付きの起請文を提出、その助力を大きく仰いだ。最終的には徳川家康も重い腰を上げ、毛利輝元に直筆で吉川広家に与える予定であった長防二国を毛利輝元に献上するという起請文を認めた。
そして吉川広家は戦後、岩国六万石を拝領するが本家からは徹底的に冷遇され、正式に恩赦が出たのは明治時代も近くなった頃の事であった。封じられた岩国も長防の中心である萩、山口とは遠く離れ、毛利家の重臣としてはあるまじき東の国境近辺で、主家の所領を八ヶ国百二十万石(一族合わせて二百万石)から二ヶ国三十万石にまで取り上げられてしまった代償は余りにも大きかった。
戦後処理においてこの点、薩摩が遠方だったこともあり、関ヶ原に参戦しながら家康からの上洛命令を徹底的に拒否し、「信用できないので徳川家康直筆の安堵状を持ってこい。それがない限りは上洛しない」と執拗な外交戦を演じて所領を安堵させた薩摩島津家とは役者が違った。
そしてこの薩摩、長州、加えて西軍に属しながらも東軍と内通を図り関ヶ原では不戦のまま終了しながら、それでも改易された長宗我部盛親の後釜に封じられ、野中兼山の献策で長宗我部遺臣の多くを郷士に取り立てた山内氏土佐(上記、小山評定で遠江掛川を提供し栄転した山内一豊の子孫)、三藩が江戸時代を通じて力を蓄え、「関ヶ原のリベンジ」として明治維新の中心的原動力となる。
関ヶ原の戦いで西軍に付き敗軍を迎えた大名達は以後、「外様」として力を削がれた上で関東からなるべく遠方へと封じられ、およそ三百年を雌伏する事となる。
慶長八年(西暦1603年)、家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸に徳川家の江戸幕府を開き、天下泰平の江戸時代が始まる。最終的に元和元年、その当時の男性平均寿命からして望外に長生きした徳川家康は大阪の役で豊臣家に下克上を起こしこれを攻め滅ぼすと、元和偃武と宣言する。
余談
- 有名な話であるが、明治時代、明治十八年(西暦1885年)に陸軍大学教官として招かれたドイツ軍人のクレメンス・メッケル少佐はこの戦いの布陣図を見せられ即座に「この戦いは西軍の勝ちであろう」と言ったとされる(実際、西軍の構想どおりなら兵力に勝った包囲戦であったので彼の見識は正しい)。
- 関ヶ原の戦いで使用された鉄砲の数は約25000丁。これは当時(1600年)の欧州全土が保有していた鉄砲30000丁に匹敵する。 つまり、関ヶ原の戦いでは世界最大の銃撃戦が繰り広げられていたということになる。
西軍所属で離反、或いは傍観した武将 | 兵数 |
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小早川秀秋 | 15,000 |
赤座直保 | 600 |
小川祐忠 | 2,100 |
朽木元綱 | 600 |
脇坂安治 | 990 |
吉川広家 | 3,000 |
毛利秀元 | 15,000 |
安国寺恵瓊 | 1,800 |
長束正家 | 1,500 |
長宗我部盛親 | 6,600 |
島津義弘 | 1,588 |
- この戦いでは、西軍がカトリック(キリスト教西方教会派=ローマ・カトリック教会)、東軍がプロテスタント(キリスト教ルター派)が関与しており、英国は家康率いる東軍を支援し、その見返りとして英国とオランダに貿易を許可した。これは後の鎖国の際にも影響している。