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特攻の編集履歴

2020-10-22 18:35:02 バージョン

特攻

とっこう

『「特」別「攻」撃』もしくは『「特」殊「攻」撃』の略称。

概要

もしかして特効


本来は通常の(その戦闘における標準的な)手段以外の攻撃全般を指す言葉であったが、神風特攻隊の影響から戦死を前提とした自爆攻撃という意味で用いられるようになった。


致死率の極めて高い作戦は古今東西で繰り広げられており、あるいは被弾により生還の見込みがなくなった兵士が個人の判断で体当たり攻撃を敢行するといった事例は第二次世界大戦中のアメリカ軍にも見られたが、組織ぐるみで初めから生還を期さない攻撃を展開したのは旧日本軍のみであった。


その問題点は各所で語られ尽くしているため、本稿では航空機による特攻を中心に、同大戦における旧日本軍の狙いと戦術的意義を取り上げてゆく事とする。


戦術としての「特攻」

戦争が長引くにつれ悪化の一途を辿った環境の中、尋常な戦法では連合軍に対抗できないという認識はほとんどの日本兵に共有されるようになっていた。

さりとて白旗を振る」という選択肢はこの軍に無く、残された道は逆転か、玉砕かのいずれかであった。

そのような中で前線で戦う将兵を中心に、文字通り必死の体当たり攻撃の上申が多く大本営などに寄せられるようになる。どうせ死ぬのであれば、敵も道連れにしたいという事である。

また、「甲標的」の搭乗員黒木博司大尉と仁科関夫中尉らが発案した特攻兵器人間魚雷「回天」や、叩き上げの特務士官であった大田正一特務少尉が発案した人間爆弾「桜花」など、現場に近い技術者からも特攻に特化した兵器の売り込みがあり、多くは自らが先陣を切って使用するという熱心な申し出を伴っていた


むしろ「統率の外道と捉えた大西瀧冶郎のように、上層部の方に慎重論が根強く、そうした上申は却下されていた

……が、マリアナ沖海戦での大敗にもはやなりふり構ってられないという積極論がこれを凌駕し、特攻が開められることとなった。


この時点での米軍は「1944年夏までには日本軍は何処においてもアメリカ空軍に太刀打ちできないということが、日本空軍司令官らにも明らかになっていた。彼等の損失は壊滅的であったが、その成し遂げた成果は取るに足らないものであった。」などとほとんど勝利を確信していたが、大尉の関行雄(殉死後中佐に昇格)に率いられた零戦わずか5機が護衛空母1隻撃沈、3隻損傷という戦果を上げるや、評価が一変し、

  • 「日本軍に対する連合軍の海軍作戦の前途に横たわる危機の不吉な前兆を示していた」
  • 「日本航空部隊の実力に対して何の疑問もなかった。オルモック湾での特攻による戦果が日本航空部隊の実力に対する疑問を残らず拭い去った」
  • 「日本軍は自殺機という恐るべき兵器を開発した。日本航空部隊がその消耗に耐えられる限り、アメリカ海軍が日本に近づくにつれて大損害を予期せねばならない」

などと恐れるようになった。

またその後も続く特攻からの甚大な被害を見たフィリピン戦の最高司令官ダグラス・マッカーサー将軍は

  • 「もし奴らが我々の兵員輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう」

とも危惧したが、やがてフィリピン駐留の部隊は航空機が尽きてしまった。逆に言えば、本当に最後の1機・最後の1人になるまで飛び込み続けたわけであり、そうした精神面に対する攻撃(言い換えれば大和魂的なものの誇示)もまた無視できない「副産物」となっていった



硫黄島の戦いでもわずか32機の特攻機が護衛空母1隻を沈め、正規空母1隻を大破するなど大戦果を上げたが、いよいよ連合軍は沖縄に進攻し、沖縄戦が開始された。連合軍は今までの特攻の損害に懲りて万全の特攻対策を講じてきたが、日本軍も全力特攻作戦となる「菊水作戦」を発令し、沖縄の海と空で太平洋戦争での最大の海空戦が繰り広げられた。

連合軍の特攻対策の主なものは従来の充実した対空砲火に更に「空母搭載の艦載戦闘機を増やし迎撃力を強化する」「機動部隊本隊より先行したレーダーピケット艦による特攻機の早期発見で、味方戦闘機隊を余裕をもって有利な高度と位置で特攻機を迎撃させる体制」などであり、直衛機があるとはいえ爆弾を搭載して運動性の低下した特攻機に有利な体制で迎撃できる戦闘機の効果は高く、陸海軍が投入した1800機以上の特攻機の攻撃による命中・至近弾を255機に抑える事に成功している。


日本軍も、アメリカ軍の目となるレーダーピケット艦を攻撃して警戒網を寸断する、特攻機を高空と低空に分ける、多方向からの襲撃などで迎撃機の分散を図ったりするなどの対抗策を講じ、レーダー対策としてもチャフの散布や、レーダーに探知されにくい海面すれすれの超低空飛行などで対抗。さらにレーダーピケット艦として運用されていた駆逐艦そのものを主目標とするようになり、特攻機対レーダーピケットの駆逐艦の激戦が繰り広げられる事となった。

大型艦なら持ちこたえる攻撃でも駆逐艦では一発で致命傷になりかねず、「棺桶」とか「ブリキ缶」などと呼ばれて揶揄された。艦隊司令は「朝方に士気旺盛で出撃した新品の駆逐艦が夕方には艦も乗組員もボロボロになって帰ってくる」と嘆き、駆逐艦の乗組員は「自分たちは標的代わりに沖縄の近海に浮かべられている」「なんで(主力の空母や戦艦もいるのに主力でない)俺達が目標なんだよ」と憤激し、しまいに「Carriers This Way(空母はあっち)」という看板を掲げる艦まで出てくる有様だった。

逆に言えば駆逐艦が被害担当艦になる形で空母などの主力艦に対する損害が減じたわけであるが、その穴埋めに機動部隊を護衛する駆逐艦を割く必要が生じ、そうなると今度は肝心の機動部隊の警護が手薄になるというジレンマを味わう事となった

沈みこそしなかったものの深刻な損傷を被って修理のために長期離脱する艦艇も大量となり、その中には「そのまま沈めてしまうよりはスクラップにして転売した方が多少は元が取れる」と判断されて屑鉄同然で本土に曳航されるものも多かった。

米軍側も撃沈前提で乗員救助用の舟艇や、除籍済みの廃艦を囮として置くなどの消極的な対策を取るようになり、それでも被害が続き必要な数の駆逐艦が確保できないと懸念した第5艦隊司令レイモンド・スプルーアンス提督らは、大西洋から全駆逐艦を沖縄に回して欲しいと要請までしている。


結局、フィリピン戦で650機突入した特攻機は沖縄戦では3倍の1,900機になり、有効率は26.8%から沖縄戦14.7%と10%以上も減ったが、出撃の母数が増加したので、沖縄戦での特攻による連合軍の被害も甚大なものになり、沈没32隻、損傷218隻、アメリカ海軍兵士の死傷は10,000人に上った。損傷艦のなかには死傷者666人を出して沈没寸前まで追い込まれた正規空母バンカーヒルや、日本軍相手に散々無双してきた「エンタープライズ(CV-6)」なども含まれており、多くが終戦まで戦場に戻ることができなかった。

また沖縄戦で大きく減じたとは言え特攻の有効率平均18.6%というのは、大戦末期に日本軍と連合軍の戦力差がついた状況下では高い確率であり、米軍の公式資料では、統計のある1944年10月(フィリピン戦で特攻が開始された時期)から1945年4月(沖縄戦初期)の間に米艦隊の視界内に入った日本軍航空機(従って米艦隊到達前に撃墜された機は含まれない)による通常攻撃の攻撃有効率はわずか2.7%であったが、特攻の攻撃有効率は27.6%となっており差は10倍以上であった。(米軍公式資料 Anti-Suicide Action Summary August 1945参照)

危うし!ピケット艦

特攻の意外な効果として次のようなエピソードもある。

九州各地から沖縄に向けて大量の特攻機が出撃し、米艦隊に襲い掛かって大損害を被っている状況に業を煮やした太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は、B-29本土空襲をしていた米陸軍航空隊戦略爆撃隊の第21爆撃機集団司令カーチス・ルメイ少将に、B-29を日本本土の大都市無差別爆撃任務から九州の特攻機基地への戦術爆撃任務に回すよう要請した。

東京大空襲の大成功から、日本の大都市への焼夷弾による低空からの無差別爆撃を強化しようとしていた矢先であり、ルメイはニミッツの要請に難色を示したが、陸海軍の連携を重視する米陸軍中央からの指示もあり、渋々ながらB-29による特攻基地への戦術爆撃を開始した。このB-29による九州特攻基地への戦術爆撃任務は1945年4月初めから5月下旬の約1か月半行われ、延べ2,000機のB-29が出撃したが、その間は都市に対する無差別爆撃が休止されており、都市の被害の軽減に寄与しているのである。

なおB-29は元々そのような任務が不得手なことや、日本軍の巧みな偽装や航空機の隠匿もあって、特攻機に大きな損害を与えることはできず、結局爆撃任務は失敗に終わった。

富安俊助中尉機(第六筑波隊)-1

何だかんだで特攻は連合軍に物理的、精神的な大ダメージを与えた。10か月に及ぶ特攻で日本軍は2,550機の特攻機と約4,000人の特攻隊員を失ったが、54隻の連合軍軍艦を沈め、350隻以上に大小の損傷を被らせ、17,000人~33,000人(諸説あり)の連合軍兵士を殺傷した。

こうして見てゆくと(現代の一般的なイメージに反して)戦術的には大成功と言っても過言ではなく、むしろ当時の大多数の日本兵にとっては希望以外の何物でも無いものに映っていた事が理解できるだろう。


だが戦局を挽回するまでには至らず、日本はついにポツダム宣言を受諾した。

結局戦略的には大失敗であった。軍事面からの批判は、その一点に尽きる。


FAQ

  • 特攻で撃沈した護衛空母は脆弱な構造だったのでは?
  • 一般の大型艦への有効打にはならなかったのでは?

確かに護衛空母は戦時設計で「通常の空母よりは」簡素な構造をしていたが、米軍が大戦中に失った護衛空母はたった6隻(太平洋戦域5隻そのうち特攻で「セント・ロー」「オマニー・ベイ」「ビスマルク・シー」3隻)。

サマール島沖海戦では「カリニン・ベイ」が20発以上の戦艦や重巡の巨弾を被弾したが致命的な損傷には至らず(これは薄い装甲であった為に徹甲弾が船体を貫通して外で爆発するだけで船体内部被害が少なかった事も原因)、その後も任務を継続しており、「ホワイト・プレーンズ」は鳥海(重巡洋艦)と撃ち合って、逆に鳥海を大破させるなど非常な難敵で、どれも米軍お得意の「鬼ダメコン」も完備していた。


そもそも特攻が本格化した1944年以降で、日本軍が航空機の通常攻撃で撃沈できた巡洋艦以上の大型艦は軽空母プリンストン」のたった1隻。これも消火活動の失敗などによる誘爆が主因であり、他には脆弱なはずの護衛空母すら撃沈できなかった。

装甲で固められた戦艦装甲空母などには効果が薄かった事も事実であるが、

  1. 被害は水線下ではなく上部構造物のみになりやすく、突入角度も浅くなりがちでバイタルパートを装甲で纏った艦相手では貫通力に劣る
  2. そのような艦艇に有効な魚雷は使用できない(飛行機は潜れない上、爆弾より大きく重いので運動性が低下し辿り着く前に撃墜される)
  3. 確実にパイロットと機体が失われるので反復攻撃ができない

と、末期の戦局ではそもそも取れる手段が限られており、それ以前の戦果との単純比較はできない。


  • 駆逐艦「ニューコム」や「ラフェイ」などは特攻機が3~4機が命中しても沈まなかったが?

「アブナ・リード」「ワード」「ロング」「オバーレンダー」「キャラハン」など1機で沈没しているし、「ウィリアム.D.ポーター」のように「命中こそしなかったが(※)」結果的には撃沈したものもある。要するに当たり所が良かっただけと見るのが妥当であろう。

※:至近距離の海中で機体が爆発した結果、その衝撃波で海面から持ち上がる→再び海面に叩きつけられるという打撃により機関室に浸水を生じさせ最終的に転覆させたという。本来上部構造物を破壊しがちな特攻機が水線下に打撃を与えて沈めた例は珍しい。

特攻隊


  • 飛行機ごとぶつかれば機体がクッションのようになって衝撃力を緩和してしまうのでは?

運動エネルギーの「質量に比例し速さの2乗に比例する」という法則からすれば、爆弾単体より、その数倍は質量のある機体も同時にぶつけた方が、単純には運動エネルギーが大きくなる。つまり角度や速度が同じであれば、爆弾単体より爆弾+特攻機の方が運動エネルギーは大きいことになる。

何より、特攻機の中には航空燃料が満載されていたので、命中すると「爆弾とナパーム弾が同時に命中したようなもの」と言われていた。そのため特攻を受けた艦艇の多くが炎上し、大量の水兵が重篤な火傷を負い、運よく生き残ってもダメージの大きさや後遺症から再起不能となるケースが多々あった。

(よって、「片道分だけの燃料を入れて飛ばした」という俗説は後世の創作と見ていい。入れれば入れるほど被害を拡大できるのだから。)

統計では1機の特攻機が連合軍艦船に命中する度に40名の連合軍将兵が死傷したとのことであり、米戦略爆撃調査団報告書でも「特攻は通常攻撃より効果が大きい、その理由は爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、また航空燃料による爆発で火災が起こる、さらに適切な角度で行えば通常の爆撃より速度が速く、命中率が高くなる」と総括されている。


  • 機体の空気抵抗により、加速度が落ちるため衝撃力が弱まったのでは?

爆弾単体よりは特攻機の機体の空気抵抗によって命中時の速度が落ちるケースがあるというのは事実だが、それは高空から投下した場合の話。

日本軍による研究で、250㎏爆弾を投下した場合、高度2,000mからでは、命中時の時速は1,027km/h、1,000mからでは時速860km/h、500mからでは時速713km/h、特攻機が的確な角度で急降下した場合の命中時の速度が720km/hとなっている。

通常急降下爆撃は700m~400mの高度で投弾されるため、特攻機の機体の速度は急降下爆撃で投下した爆弾単体の速度とほぼ等しい計算となる。この条件下においては貫通力の観点でむしろ水平爆撃に比べ有効と言えた。


そもそも当時の爆弾は基本的に自由落下である。的確な角度で投下しなければ敵艦に掠りもせず、そのような腕を持ったパイロットは既に失われていた。だからマリアナ沖海戦は「マリアナの七面鳥撃ち」になったのである。

一方、最後まで操縦できる特攻機はさまざまな角度や速度で敵艦に命中できた。もちろんそれも理論上の話で、不慣れなパイロットによる不適切な操縦で爆弾単体よりも劣る結果に終わった例は多かったが。


当時の評価

昭和天皇は、特攻開始直後に戦果を奏上されると「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ」と戸惑いも見せていたが、悪化する一方の戦局のなかで、ほぼ唯一戦果を挙げている特攻に期待を寄せるようになり、硫黄島の戦いで特攻が大戦果を上げたと奏上されると、特攻での反復攻撃を命じ、沖縄戦では毎日もたらされる特攻の戦果報告の奏上を心待ちにしていたという。

しかし、それは昭和天皇が軍の最高指揮官たる大元帥としての一面であり、ある日、侍従武官が地図を広げて陛下に戦況を説明していた際に、昭和天皇が特攻隊が突入した地点に深々と最敬礼をしているのを見て、侍従武官は昭和天皇が複雑な心境を耐えている様子を察している。戦後に「特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある、敢て之をせざるを得ざる処に無理があった。」と回想している。

奥日光に疎開していた明仁皇太子(後の125代天皇、現上皇)は、特攻の講義を受けて「それでは人的戦力を消耗するだけでは?」と疑問を呈し、その質問に誰もが返答に窮したという。

8月15日

主な目標であった米軍関係者は、純粋に軍事的観点のみに限れば「冷静で合理的な軍事決定」として肯定的な評価をする傾向にある。

特攻を受けた現場の兵士は兎も角、特に特攻と相対した戦争当時の米軍高官らや、軍事評論家や研究家の間では、有効な戦術であったとの評価が一般的である。あるアメリカの軍事評論家は「日本人には受け入れにくい意見ではあるが」と前置きをしたうえで「もっと早くから特攻を始めるべきであった」と指摘している。

所詮他人事であると言えばそれまでだが、ある意味、合理性を尊ぶアメリカらしい思考ともいえる。


戦後に日本に進駐した連合軍は特攻について徹底的に調査し

  • 「44ヵ月続いた戦争のわずか10ヵ月の間にアメリカ軍全損傷艦船の48.1% 全沈没艦船の21.3%が特攻機(自殺航空機)による成果であった」
  • 「アメリカが(特攻により)被った実際の被害は深刻であり、極めて憂慮すべき事態となった」
  • 「日本が(特攻で)より大きな打撃力で集中的な攻撃を持続し得たなら、我々の戦略計画を撤回若しくは変更させ得たかもしれない」
  • 日本人によって開発された唯一の、最も効果的な航空兵器は特攻機(自殺航空機)であり、戦争末期数か月に日本全軍航空隊によって、連合軍艦船に対し広範囲に渡って使用された」
  • 十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された
  • 「この死に物狂いの兵器は、太平洋戦争で最も恐ろしい、最も危険な兵器になろうとしていた。フィリピンから沖縄までの血に染まった10ヶ月のあいだ、それは、我々にとって疫病のようなものだった」

などという報告書を作成している。

また、米軍の高官らも

  • 「神風特別攻撃隊という攻撃兵力はいまや連合軍の侵攻を粉砕し撃退するために、長い間考え抜いた方法を実際に発見したかのように見え始めた」
  • 「沖縄戦は攻撃側にもまことに高価なものであった・・・艦隊における死傷者の大部分は日本機、主として特攻により生じたものである」

(太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ元帥)

  • 「神風特別攻撃隊が沖縄の沖合で、アメリカ艦隊にあたえた恐るべき人命と艦艇の損害について非常に憂慮している。日本本土に向かって進攻することになったならば、さらに大きな打撃をうける事になるであろう」
  • 「沖縄に対する作戦計画を作成していたとき、日本軍の特攻機がこのような大きな脅威になろうとは誰も考えていなかった」

(第5艦隊司令レイモンド・スプルーアンス提督)

  • 切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」

(第3艦隊司令ウィリアム・ハルゼー提督)

  • 「大部分が特攻機から成る日本軍の攻撃で、アメリカ側は艦船の沈没36隻、破壊368隻、飛行機の喪失800機の損害を出した。これらの数字は、南太平洋艦隊がメルボルンから東京までの間に出したアメリカ側の損害の総計を超えている」

(連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥)

  • 「沖縄戦で艦船90隻が撃沈され、または甚大な損害を受けた。この作戦は、大戦の全期間を通じ、もっとも高価についた海軍作戦となった」

(アメリカの著名な歴史研究家サミュエル・モリソン少将)

などと、個々の思いこそあれその脅威が大きかった事は一様に評している。


特攻に痛撃を被った米軍は、その対策として対空打撃力強化のために艦対空ミサイルの開発を開始、またレーダーピケット艦が多大な損害を被ったので、早期警戒網を艦船ではなく航空機に担わせることにして、強力なレーダーを搭載した早期警戒機が開発された。これらは現代においても米海軍の防空戦術の要となっており、特攻が米海軍の防空戦術の近代化を促したと言っても過言ではないだろう。

また、1999年5月にまとめられたアメリカ空軍の「精密誘導兵器」に関する論文では、特攻機を「現代の対艦ミサイルに匹敵する兵器」と位置付けて、「対艦空中兵器として最大の脅威」「特攻機は比較的少数であったが、連合軍の作戦行動に大きな影響を与えており、実際の兵力以上に敵に多大な影響を及ぼす現代の対艦ミサイルのような存在であった」と結論付けている。


とは言え、その合理的な判断を尊ぶ当時のアメリカ首脳陣が、究極に安全な特攻対策として何を決断したか……

そう、核兵器の投下である。

人類の歴史で唯一変わらなかったもの。

外道には外道を。それが総力戦の末路であった。


美濃部正について

「軍上層部に反抗し命を賭して特攻を拒否した指揮官」などと高く評価されている、夜間戦闘機隊「芙蓉部隊」の指揮官。だが、後世に本人を含む多くの脚色がなされているため、ここで情報を整理しておくこととする。


人物像

まず、彼はそこまで強固な特攻反対論者ではない

上層部に対する反抗も「我々は特攻を怖れるものではないが、今の特攻は無駄死だ!特攻特攻と空念仏を唱える前にもっと有効な戦術を考えろ!!」と含みを持たせている。

硫黄島以降は明確に特攻を命じた形跡があり、出撃機が敵機に追跡されて実行前に失敗しているものの、3名が“特攻戦死者”と認定されている。

その後も沖縄戦で別れの盃を交わした特攻出撃をたびたび命じるも、幸か不幸か全部失敗で結果的に実行に移される事が無かっただけというのが実情である。また、通常戦闘下の自発的特攻で最低6人が戦死、うち4人が連合艦隊司令長官の感状を受けている

また、本土決戦に備えては、自分が直卒する特攻隊で敵空母に体当たりし、残った地上要員には航空爆弾で敵戦車に自爆攻撃をするなどの必死戦法を多数立案している。その中には(実現性はともかく)「地元住民も道連れに大爆発」というはた迷惑な計画も含まれていた。

なお、これらの作戦は美濃部単独で考案し、特攻出撃させられる予定の搭乗員や自爆させられる整備兵、巻き添えで自爆に巻き込まれる地元住民には何の話も無かったという。


芙蓉部隊は特攻編成から外されていたと言うが、一方で特攻隊員の食事が通常の搭乗員よりも御馳走であることを聞きつけると、自分たちにも同じものを食わせろと難癖つけて認めさせているというダブルスタンダードも見られる。

そうしたおかげ(?)か隊員は自分達を特攻隊の一員と思っていた模様。

そもそもそれ自体半分は自分のためであったようで、ビフテキだのコンビーフだの高級食材を食べ、デザート汁粉果物缶詰だのも用意させながら、汁粉が甘くないと主計課の兵士を罵倒し男泣きさせたなどと海原雄山のような食通エピソードさえ残っている。


この「芙蓉部隊」にまつわる問題も多い。

末期の日本軍が通常戦闘では碌な戦果を挙げられなくなっていた事は先述の通りであるが、その中にはもちろんこの部隊も含まれる。

最新型の零戦や整備が難しいとされた彗星(爆撃機)を配備させ高い稼働率を維持し続けた事は純粋な評価点であるが、だからと言って戦果には全くと言っていいほど繋がっておらず、ジリ貧に追い込まれてゆくのみであった。

報告上は「潜水艦撃沈1、戦艦1、巡洋艦1、大型輸送艦1を大破」などとしているが、米軍の損害報告には対応するものが確認できず、大本営発表を笑えないレベルの壮大な虚偽である可能性すら取り沙汰されている。

口の悪い者からは「素直に突っ込ませていればそれを現実にできたかもしれないものを」などという身も蓋も無い意見も。逆に言えば、彼がリソースを浪費し続けてくれたおかげで助かった命も幾分あるのかもしれないが。


また、

  • 日本軍が常套戦術として行っていた敵艦隊への夜襲攻撃が美濃部の独創となっている。
  • 美濃部が「猫日課」などと名づけて行っていた昼夜逆転の訓練スケジュールは当時の日本軍が普遍的に行っていたものであったが、これもなぜか美濃部の独創ということになっている。
  • 上記の彗星を、「各航空隊で見捨てられて放置されていたガラクタをかき集めた」と主張するなど、必要以上に周囲への風評被害を煽る真似をする。
  • 元々美濃部は対艦への夜襲攻撃を主任務と考えていたが、全く戦果が挙がらないので沖縄の敵飛行場攻撃に回された。しかしそれを「敵基地夜間攻撃のスペシャリスト」として喧伝。
  • ちなみに沖縄のアメリカ軍飛行場が最大の打撃を被った1945年5月24日~25日については、陸軍が「義烈空挺隊」と重爆隊、海軍が陸上攻撃機部隊を多数投入して激戦が繰り広げられたが、スペシャリストであるはずの芙蓉部隊に出撃の声はかからず、隊員たちは美濃部の発案で大宴会。観賞を酒の肴に、みんな芋焼酎で酔い痴れていたらしい。
  • 本来、地上爆撃が任務の陸軍の重爆撃機や海軍の陸上攻撃機も芙蓉部隊と同様に沖縄の敵飛行場攻撃を行い、この部隊とは段違いの打撃を与えていたのに、なぜか沖縄の飛行場を芙蓉部隊がほぼ独力で苦しめていたような扱いに。
  • 大本営の本土決戦準備の一環として特攻用の「秘匿基地」として前々から整備が決定していた「岩川基地」に移動を命じられた美濃部であったが、なぜか大本営の方針によって工事が進んでいた「岩川基地」の秘匿化が、そもそも海軍の「空地分離」方針で飛行場整備には大した権限もない美濃部の独創扱いに。
    • ちなみに「岩川基地」の秘匿化を褒めたたえる際によく持ち出される、滑走路上に草を敷いてカモフラージュするのは、「岩川基地」の半年以上前に、無能扱いされている富永恭次中将が率いた、日本陸軍の第4航空軍がフィリピンでやってたり、カモフラージュ目的で移動式小屋や植え込みなどを置いたりするのもマニュアル化されており、ほかの「秘匿基地」でも使われたりしている。

……と、部下をそこそこ厚遇した以外は見れば見るほどダメな日本軍のイメージを体現したかのような存在なのである。


美濃部は常々「指揮官先頭の日本海軍の伝統を守らない特攻隊指揮官はつまらん奴らだ」とぼやきながら、「後から続くから待っててくれ」と使い古された台詞で部下達を送り出し、100人以上を帰らぬ人にした。

結局出撃も自決することもなく生き延びた戦後は、「つまらん奴ら」の伝手を頼って自衛隊に入隊。パイロット養成などをしながら空将(≒旧軍の中将)まで栄達している。

……が、このエピソードにもオチのようなものがあり、当初は自身がパイロットになる事を志すも、当時自衛隊に深く関与していた米軍関係者と反りが合わず断念。そのため日本人が自力で養成する必要性を強く訴えていたら言いだしっぺの法則的に命じられたという経緯で、別に天職とかそういった意識は無かったらしい。

勤務態度も極めて自由で、仕事中に職場でゴルフの打ちっ放しに興じたり、定時に仕事は終わるが、毎日のように部下を誘って深夜まで麻雀したりと好き放題やっていたとのこと。


定年間際に突然自衛隊を退職すると、天下り同然にデンソーに再就職。そこの教育職のトップに付き、体制を構築したとされるが、社内施設であるために情報が少なく真偽は不明。

晩年は自讃に満ちた自伝を書いて「自分は命を賭して特攻に反対した」などと主張しているが、硫黄島の戦いのときなどに特攻を命じたことは当然ながら書いていない。

他の特攻隊員に対しては「女を抱かせてもらって士気を維持したらしい」などと根拠も無く風説を流布し、特攻の責任を取って自決した宇垣纒や大西瀧冶郎や岡村基春らに対しては、「自己正当化のための自決」「戦後の生活苦のための自決」などと批判している。

これが下手に受けてしまったために上記のような「武勇伝」が広く信じられる事となった。

そうかと思えば「戦後のヒューマニズムと敗戦という結果だけで考察し、当時の状況を全く考慮していない的外れな特攻批判が多い」などとも述べていたり、色々な意味で度し難い人物である。


また、が相当進行していたようで食が細っており、それに反比例するかのようにグルメに浮かれる平成時代の日本人に世界平和を唱える資格はない!!今の日本の若者たちは生活を50%切り下げて飢餓民族を救え!!」などという主張も増えていた。絵に描いたようなお前が言うなである。

とは言え孫に囲まれて81歳で天寿を全うしている事から、客観的にも主観的にも幸せな人生と言えるだろう。処世術の巧みさは本物であり、それと戦後日本が求めた英雄像がある意味上手く合致した結果作り出された、一種のキャラクターのようなものであったのかもしれない。


特攻批判

偵察機練習機まで特攻に投入した事は大戦末期の日本軍の戦力枯渇の典型的な事象としてよく取り上げられ、実際沖縄戦で特攻戦を指揮した宇垣纒中将すら「数あれど之に大なる期待はかけ難し」とあまり期待をしていなかった。

美濃部も「2,000機の練習機を特攻に狩り出す前に赤とんぼまで出して成算があるというなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦一機で全部、撃ち落として見せます」と並みいる海軍高官に啖呵をきったとされる。


しかし美濃部の主張とは異なり、機体に多くの木材を用いたり、米軍のレーダーピケット艦が、あまりの飛行速度の遅さに敵機となかなか認識できなかったり、「特攻機から追われている」という無線を聞いたある日本軍参謀が「特攻機を米軍艦艇が追い回してるんだろ」と聞き違えた程に劣速というローテクがかえって米海軍の探知や迎撃を困難にした。

また練習機搭乗の特攻隊員というのは言い方を変えれば練習機しか搭乗経験の無い者であり、ぶっつけ本番に近い形で「ハイテクな」機体に乗せるくらいなら多少は乗りなれた機体のまま戦地に出した方がまだマシという「合理性」もあった。


実際、大西洋方面でも複葉機で布張りの旧態依然としたイギリスのフェアリーソードフィッシュ雷撃機の低速さはドイツ空軍の戦闘機がエンジンを絞り、フラップを下げ、更に脚まで出して速度を落とさなければならない程であり、対空砲火も速度を見誤り手前で爆散する有様で、また主翼・機体に銃弾を命中させても布製で貫通するだけなので、パイロットかエンジンに命中させないと確実に撃墜できないとされるタフさでドイツ軍を梃子摺らせている。


海軍練習機(「赤とんぼ」こと「九三式中間練習機」「白菊」)は63機を失い、115名の特攻隊員が戦死したが、一方で挙げた戦果はなかなかのもの。

  • 撃沈

1.駆逐艦ドレクスラー

2.駆逐艦キャラハン

3.輸送駆逐艦(高速輸送艦)バリー

4.中型揚陸艦 LSM-59

  • 大破

駆逐艦シュブリック

駆逐艦カシンヤング

  • 撃破

駆逐艦ホラス・A・バス他

 

この7隻で米軍は273名の戦死者と280名の負傷者(死傷者合計553名)を生じている。(他にも撃破艦がある可能性もあるが詳細は不明)

対する美濃部が率いる芙蓉部隊の「戦果」は先述した通りである。


米海軍も本来なら戦力に数えない旧式の練習機に痛撃を被ったことを重く見て

  1. 木製や布製でありレーダーで探知できる距離が短い
  2. 近接信管が作動しにくい(通常の機体なら半径30mで作動するが、練習機では9m)
  3. 対空機関砲の弾丸が木や布の期待を貫通してしまうため効果が薄い
  4. 非常に機動性が高く、巧みに操縦されていた

と詳細にその要因を分析したうえで、「高速の新型機以上の警戒」を全軍に呼びかけている。

米海軍史の大家サミュエル・モリソン少将も「特攻は、複葉機やヴァル(九九式艦上爆撃機)のような固定脚の時代遅れの航空機でも作戦に使用できるという付随的な利点があった」と特攻という戦術ではどのような航空機でも戦力となると指摘している。


美濃部が主張すればするほど、かえって特攻が正当化されてゆくとさえ言える状況である。


私も一緒に

なお、この練習機による特攻にさらにオチを付けるような話が朝鮮戦争で発生している。

北朝鮮側が木造の練習機で夜間にゲリラ的空襲を行って米軍基地への爆撃に成功した。

この時爆音を消す為に、爆装練習機は爆撃の少し前に一旦エンジンを停止させ滑空、そのままレーダーにもひっかからず爆撃してのけるという思わぬ離れ業を演じ、米軍は慌ててサーチライトを手配する事態になっている。


ちなみに、「まともに育てておけば優秀なパイロットになれたものを……」といった批判もありがちなものであるが、これもまた的外れと言える。

大真面目に「一億総特攻」「一億総玉砕」などと掲げた時点でそんな未来は最早無く、国民全員が正しい意味での鉄砲玉になっていたのだから。

後は「使われる」順番が早いか遅いかだけの問題である。


その後の「特攻」

イランイラン・イラク戦争において組織的な自爆攻撃を指揮・運用・実行した。当時のイランはイラン革命の混乱からイラクに対し劣勢であり、対抗手段の一つとして自爆攻撃を採用した。


イランの特攻の特徴は、革命に勝利したのが敬虔なイスラム教の信者であるという事を最大限に利用していた点にある。

主に革命防衛隊の中から志願者を募っていたらしく、構成員の殆どは10代の若者だったという。

宗教指導者達は死後の天国行きと祖国の勝利を確約すると、「天国への鍵」と言われる金属製乃至プラスチック製の「」をシンボルとして渡し、徒歩やバイク・自動車によって実行させた。


これらの自爆歩兵と人海戦術により戦況を一時好転させるが、イラク軍がやがてソ連流の火力による突撃破砕戦術を身につけると効果を失っていった。

しかし、戦術自体はイスラム世界を中心に各地に流出して継承され、それらが現在も各地で発生する自爆テロに繋がってゆくのである。

2001年ニューヨークで起こった9.11旅客機追突や2015年11月13日に起こったパリ同時多発テロの自爆攻撃を「Kamikaze」と呼ぶ報道も多々あった。


ただし、現代の日本政府や自衛隊はもちろん、かつての特攻関係者の多くもそれらを特攻の系譜とは看做しておらず、同一視される事に不快感を覚える傾向がある。

特攻隊はあくまで正規軍による敵の正規軍に対する攻撃であって、これをテロと同一視される事に納得する者は少ない。

手法に洗脳的要素が多分に含まれる点、被害者も「加害者も」民間人が含まれる事案が多々ある点は特に嫌悪しており、彼らはむしろ本質的に異なるものである主張している。

だが、それを目の当たりにした者が抱く恐怖とその行為を理解しがたい心情は、当時、戦争とはいえここまでするのかと特攻隊の攻撃を前にしてアメリカ軍将兵が抱いたであろう諸々の感情に近いと言え、その意味ではそれらの戦術もまた成功しているのかもしれない。


軍服を着用し国籍表示をきちんと行っている正規軍によって、敵の正規軍に対して自殺攻撃を行う事は、旧軍の軍規や戦時国際法も含めて禁止事項になっておらず、これが責任者が裁かれなかった一因であると同時に、テロとの同一視を拒絶される傾向を強めている。


ちなみに現代では技術と資金さえ注ぎ込めば、標的を見つけるや否や本体ごと突っ込んで自爆する無人機などという兵器も作れてしまう。

これらはそれが本務であるので「特攻」には含まれず、「徘徊型兵器(参考)」と呼ばれる。


評価関連イラスト

桜花

特攻の零零戦


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