※他の用例は「アタリ」を参照。
アメリカのゲームメーカー『Atari』のゲーム及びゲーム機のイラストに付けられるタグだが、部分一致検索で見つけるのは困難なため、検索の際は完全一致検索を推奨する。
その場合、現時点では全て大文字表記の「ATARI」が一番ヒット数が多い。
以下の文章は一部Wikipediaの記事を元として記載している。
概要
アーケードゲーム・家庭用ゲーム・ホビーパソコンの三分野で成功を収めた唯一の会社。
コンピュータゲームを一大産業に育て上げ、以降もコンピュータゲーム市場の勃興と歩みを共にしてきた。
しかし創業者追放後は利益至上主義に陥り、アメリカの家庭用ゲーム市場を崩壊させるアタリショックを招いてしまう。アタリ自身も痛手を被り『アタリゲームズ』と『アタリコープ』の二社に分割される憂き目に遭う。両社は別々の企業に売却と買収を繰り返され、最終的には他企業への吸収合併という形で消滅してしまうことになる。
現在アタリゲームズの権利はワーナーブラザーズが有している。
一方、アタリコープの権利はフランスのゲーム会社『インフォグラム』の手に渡ったが、アタリ買収後の2009年にインフォグラムは社名を『Atari SA』に改名している。
当時のインフォグラムは既にアローンインザダークやドラッケン等のゲームで有名なメーカーだったが、そのインフォグラムが2代目アタリとして生まれ変わったことは、欧米のゲーム業界において今も尚アタリブランドが浸透していることを物語っている。
歴史
前史
1971年11月、ナッチング・アソシエーツ社に所属していたノーラン・ブッシュネルとテッド・ダブニーは、世界初のSTG『スペースウォー!』の改造版である『コンピュータースペース』を開発した。
アーケードのビデオゲームとしては世界初となるゲームだったが、操作性が悪く処理速度も遅いため人気は出なかった。
しかしその後、ブッシュネルはナッチング社長の指示で世界初の家庭用ゲーム機『オデッセイ』のプライベートショーを調べに行くことになった。
ブッシュネルは社長には「そんなに面白いゲームではなかった」と報告していたが、実際はオデッセイに深く感銘を受けており、このとき独立起業を決心していた。
創業
1972年6月27日、ブッシュネルとダブニーはカリフォルニア州シリコンバレー内の小さなガレージの一室を借り、アタリを創業した。
アタリという社名は、囲碁の日本棋院初段を持つブッシュネルが好きな囲碁用語「アタリ」から取ったとされる。当初、SF好きだったブッシュネルは惑星直列を意味する「Syzygy」という社名にする予定だったが、既に他の会社が申請済で使用できなかった。
囲碁用語の「アタリ」はあと一手で相手の石を取れる状態を意味し、「積極的に敵を包囲し、自陣を広げていきたい」と言う狙いが窺える。
躍進
創業当初はディストリビューター(ピンボール等のアーケードゲームを購入し遊園地等に卸す問屋業)を始めて資金を確保した後、ブッシュネルの古巣であるアンペックス社の後輩だったアラン・アルコーンを副社長として引き抜き、彼にオデッセイを模倣したアーケードゲーム『PONG』を開発させた。
アルコーンが作ったPONGは瞬く間に大ヒットし、全米をアーケードゲームブームが圧巻した。アタリを急成長させるだけに留まらず、コンピュータゲームという新しいビジネスが生まれる切っ掛けを作った。
その人気たるや、筐体が故障したと連絡を受けたアルコーンが調べてみるとコインケースが溢れて投入口が詰まっていたという逸話すら残っている程である。
あまりの人気に生産が追い付かなかったため、アタリは9ヶ月間に3回も工場を移転し、職安に集まった人間を片っ端から連れ出して生産ラインの従業員として雇った。それでも人手不足だったため会社にやってきた入社志望者を節操なく即採用した程だった。こうして集まった従業員の大半はヒッピーであり、工場は常にマリファナの臭いとロックの大音響で満たされた。
金に困ったヒッピーが勝手に備品等を質屋に売り払うこともあったが、ゲームが売れた際は頻繁に全社員へボーナスが出るなど羽振りの良い会社でもあり、低賃金で一日12時間以上働いているにも関わらず何故か帰宅しない従業員が多かった。
しかし、共同経営者のダブニーはこの急成長に付いて行けず退社。以後のアタリはブッシュネルの単独経営となった。
今尚有名なアタリの社紋は1973年春頃に作られた。
アタリの最初のグラフィックデザイナー、ジョージ・オッパーマンがデザインしたものであり、PONGのゲーム画面を意識しつつATARIのAを図案化したものである。富士山に似たのは偶然の産物だが、今では現地でも富士山になぞらえたフジマークという愛称で親しまれている。
1973年、秘密裏にダミー会社のキーゲームズを立ち上げ、ブッシュネルの隣人だったジョセフ・キーナンを社長に据えた。当時アメリカではディストリビューターの力が強く、1つの州では1つのディストリビューターにしかゲームを売れなかったため、この制度を掻い潜って複数のディストリビューターにゲームを売るための戦略だった。
目論見通りにディストリビューターの独占契約制度を無力化させることに成功したため、翌1974年に役目を終えたキーゲームズを吸収合併、キーナンをアタリ社長に抜擢し、ブッシュネルは会長になった。
同じく1973年にはアタリジャパンという日本支社も設立しているがこちらは経営不振に陥ってしまい、翌1974年にはアタリジャパンをナムコに売却する羽目になる。
だが、これを切っ掛けにナムコとの協力関係を深め、以後アタリ製ゲームの日本販売はナムコが引き受けるようになる。
1974年初頭にはスティーブ・ジョブズが技術者として入社している(丁度40人目の社員だった)。
1975年、遂に家庭用ゲームにも参入し、家庭でPONGを楽しめる据え置きゲーム機『ホーム・ポン』を発売。大手百貨店シアーズの協力もあって年末商戦で完売する程の人気商品となる。
1976年はオデッセイのクローンゲームであるPONGに関してマグナボックスに訴訟を起こされ、高額な特許料支払いを命じられてしまったものの、
同年にはジョブズが部品節減のためにスティーブ・ウォズニアックを関わらせたことでも知られるアーケードゲーム『ブレイクアウト』(ブロック崩し)を発売し、これがPONGに続く大ヒット作となる。
ブッシュネルを初めとする初期のアタリ社員達は自らを「アタリアン」と呼び、自由な服装と雰囲気で経営や開発を楽しんでいた。新作ゲームは経営陣含めて必ずテストプレイに加わり意見を述べ、重要会議はブッシュネルの豪邸でジャグジー(噴流式泡風呂)に浸かりながらやっていた程である。
Atari2600とワーナーの悲劇
1976年、アタリにとって初となるROMカセット交換式ゲーム機『Atari2600』の構想が立ち上がった。しかしこの計画には莫大な資金が必要となり、一歩間違えれば倒産しかねない危険性すら孕んでいた。
止むを得ず、ブッシュネルは大企業に身売りして資金を安定させることを決断する。
映画『ジョーズ』で有名なユニバーサルやディズニーに声をかけたものの、アタリ買収に興味を示してはくれなかった。
しかし、映画会社ワーナーブラザーズの親会社であるワーナー・コミュニケーションズがアタリと接触し、1976年10月に2800万ドルでアタリを買収した。
これによってAtari2600の開発資金を確保したアタリだったが、ブッシュネルは後に「あと2週間あれば資金が調達できた」と語っており、ワーナーへの売却を後悔していた。
1977年5月17日、ブッシュネルはゲームセンター兼ピザ屋の『ピザタイムシアター』を開店した。
ピザやアーケードゲームだけでは無く、アニマトロニクスのショーも目玉になる店舗だった。
ゲームセンターと呼べるものが殆ど無かった当時としては画期的な店であり、好調な滑り出しを見せた。
(Five Nights at Freddy'sの舞台となるピザ屋はこの店が元ネタと言われている)
一方で、同年9月11日に発売したAtari2600は苦戦していた。発売後1年間でトップシェアに上り詰めはしたものの、高価格が足を引っ張り中々普及せず、在庫を抱えてしまっていたのだ。
親会社であるワーナーは家庭用ゲーム事業のテコ入れのため、
繊維業界の営業畑で活躍していたレイモンド・カサールを引き抜き、家庭用部門のトップに就任させた。
コスト削減のために生産拠点を香港に移すなどの試みが行われたが事業は好転せず、損失補填のためにワーナーに更なる負担を強いる有り様だった。
ブッシュネルはAtari2600事業の中止を主張したが、これに対しワーナー側が猛反発し、交渉は決裂した。
カサール達ワーナーが連れてきた重役陣はネクタイを締め、ゲームのテストプレイにも加わらず利益至上主義的な目標を掲げるばかりであり、アタリの自由な社風に否定的ですらあった。
結局、ワーナーは1978年末にブッシュネル会長を解任。Atari2600事業の継続が強行された。
(解任された後の同氏は前述のピザ屋経営に専念していたが後に破産、以後様々な事業を転々とする)
キーナン社長が会長に、カサールが社長に繰り上げ昇格したが、1979年10月にキーナン会長が辞職したことで、カサール社長が会長に昇格した。
以後はワーナーの意向でアタリの綱紀粛正が推し進められ、アタリの自由な社風が失われることになる。
社内から逮捕者も出ていたマリファナ使用の厳禁など妥当な判断が下された面もあったが、スーツ着用や入館用ICカード携行が義務付けられたほか、機密漏洩防止のために異なる部門は出入りが制限され、同じ社内でも別部門同士では連携が取れなくなるなどの弊害も大きかった。
カサール達新経営陣は家庭用ゲーム事業ばかりを重視し、アーケード部門を軽んじるようになる。そして、アタリアン達の企画したゲームを次々没にしただけで無く、アーケード部門には予算削減等の妨害を加え始めた。これによってアタリのアーケードゲームはフライヤー(チラシ)が白黒になる、年毎の新作数が半分強に減る等の苦労を強いられることになる。
だが、皮肉なことに当時のアタリは冷遇されていた筈のアーケード部門の売り上げが好調な一方、優遇されている筈の家庭用部門は苦戦を強いられる有様であった。
1979年にはエポック社経由でAtari2600を『カセットTVゲーム』の名称で日本でも発売したが、輸入品故に高価になってしまい、商業的に失敗した。
厳しい社風に一変した会社にアタリアン達は反発し、退職ないしは解雇されるアタリアンも続出した。
1979年10月1日には一部のアタリアンがアタリを去り、アクティビジョンを設立している。
隆盛、そして暗雲
しかし、一方でアタリにとって好転の兆しも見えてきていた。
1979年に発売した8ビットのホビーパソコン、『Atari800』とその廉価版の『Atari400』が人気を博していたのだ。
更に上述のエポック社の提案を聞いたカサールがタイトーの『スペースインベーダー』をAtari2600にライセンス移植することを決定。
1980年に発売されたAtari2600版スペースインベーダーは見込み通りキラーソフトとなり、Atari2600の在庫を一掃するどころかアメリカの家庭用ゲーム市場をAtari2600がほぼ独占することになる。
ワーナーグループのお荷物状態だったアタリは一転し、グループの稼ぎ頭に成長した。
一方でこの時期からアクティビジョンを初めとするソフトメーカーがAtari2600用のゲームソフトを無断で開発・販売し始めており、当然ながらアタリは裁判を起こした。だが、Atari2600にはコピープロテクトが無いことを指摘され、販売を差し止めることができなくなってしまう。
その後は各ソフトメーカーと和解し、ソフトの売り上げに応じたロイヤリティをアタリに支払う代わりにAtari2600用ゲームソフトの販売を許可した。ゲーム業界初のサードパーティー制度誕生の瞬間である。
これを見た全米各地の会社がサードパーティーとして名乗りを上げ、アタリもロイヤリティ目当てに次々と認可。Atari2600用ソフトが増えることで本体の需要も増し、Atari2600は最終的に1500万台を売り上げることになる。
しかし華々しい成長の裏、アタリは大きな問題を抱えていた。
他社が年末商戦に絞ってゲームの宣伝をしていた中、アタリのみ一年を通してゲームを宣伝していたのだ。それによって売り上げは確かに上がったのだが、広告費拡大のために開発部門はしわ寄せを食らう形になっていた。
この頃にはゲームのボリュームが増えつつあったが、未だにアタリは1つのゲームをプログラマー1人だけで開発させる業務形態を改善しておらず、完成できず発売中止になるタイトルが相次いだ。
1981年に、「PONG」を開発したアルコーン副社長が辞職。
(その後同氏は後輩であるジョブズのアップルコンピュータに一時期勤めたほか、主にコンサルタントとしてゲーム業界に関わり続けた)
1982年にはAtari800を開発したジェイ・マイナーもパソコンメーカー『Amiga』を立ち上げ、アタリを去っていった。
崩壊
好調が続いていたアタリだったが、1982年からは一転して受難の年が続くことになる。
コモドール社から発売された『コモドール64』がアタリ製ホビーパソコンのシェアを脅かし、
ゲーム機市場にもコレコ社の『コレコビジョン』という強敵が出現したのだ。
動揺したアタリは急遽Atari400をモデルにしたゲーム機『Atari5200』を後継機として発売したが、互換性が無い等の理由から人気が出ず、Atari2600からの世代交代に失敗した。
同年には親密だったナムコからライセンスを得て『パックマン』をAtari2600に移植。
Atari2600の人気を更に引き上げるキラーソフトになったものの、上述の杜撰な業務形態で作られた移植版は極めて低品質な劣化移植になってしまい、ユーザーから顰蹙を買った。その上パックマンのカートリッジは誤った需要予測により当時のAtari2600の普及台数を数百万本上回る数が生産されたため、大量の不良在庫が生じた。
それでも売れた事には変わりなかったため、「人気タイトルならAtari2600でゲームにすればなんでも売れる」と誤解したアタリ経営陣は、
大金をはたいて人気映画『E.T.』の版権を取得して開発期間6週間未満という短期間でゲームを作らせて発売するという暴挙に出る。結局、ゲーム版E.T.は版権取得代金も回収できず大赤字になった。
Atari2600に参入していた大半のサードパーティーの意識も概ね大差無く、アタリから野放しにされているのを良いことに、クソゲーや他社ゲームの丸パクリ、そして起動しない不良品等を平気で流通させた。
粗製濫造と供給過剰が深刻なユーザー離れを起こし、アタリショックが発生。以後アメリカのゲーム市場は縮小の一途を辿ることになる。
1983年には巻き返しを図って再び日本に進出、手頃な値段に抑えた「日本版Atari2600」ことAtari2800を発売したが、同年にはファミコンも発売されており、惨敗した。
この頃、任天堂からファミコンのアメリカ販売をアタリが引き受ける商談が持ち込まれていたのだが、交渉中にカサール会長がインサイダー取引疑惑で解任されたため破談になってしまった。
代わって会長に就任したジェームズ・モーガンには社内の無駄減らしが任された。
大人数に膨れ上がった社員のリストラを進め、不良在庫となったゲームソフトやハード本体を大量処分するために、一部は米国ニューメキシコ州のアラモゴードに埋め立てた。
大鉈を振るった結果、アタリの経営状況はある程度改善されたが、1984年にワーナー本社がオーストラリアのメディア王ルパート・マードックによる買収攻勢に遭い、アタリを復調させる余裕が無くなってしまった。
1984年7月にワーナーはアタリを『アタリゲームズ(アーケードゲーム部門)』と『アタリコープ(家庭用ゲーム及びパソコン部門)』の2社に分割し、アタリコープの方を売却することを決定する。
アタリゲームズ(業務用ゲーム部門)
分割されたアタリのうち、アーケードゲーム部門はワーナーグループに残されていたが、1985年にはナムコへと売却された。
元々アーケード市場では秀作ゲームを順調にリリースしていたが、
家庭用ゲーム機市場へ参入するために子会社である「テンゲン」を立ち上げた。
実際はNES(海外版ファミコン)等の各社ハードにゲームを移植していたが、
片割れとも言えるアタリコープのゲーム機には殆どソフトを供給していない(移植に当たってのライセンス許諾は与えていた)。
しかし、NES用ゲームの製造ロット数を廻り任天堂と仲違いし、テンゲンはリバースエンジニアリングでNESの海賊版対策回路を突破し独自にNES用ソフトを製造・販売し始めた。
同時に、テトリスの販売権を巡って任天堂を著作権侵害で訴えたのだが、
裁判においてそもそもアタリゲームズは家庭用にテトリスを出す権利を持っていないことが明らかになり、更に著作権局からNESチップのコードを盗用していたことも発覚し、敗訴。アタリショックから立ち直ろうとしたアタリゲームズは、これで再度傾いた。
なお、この裁判の煽りでセガはメガドライブ版テトリスを発売できなくなったとされる。
1990年にはナムコの社長交代に伴い、アタリゲームズの経営権がワーナーに返還された。
同年にワーナーは週刊誌で有名なタイム社と合併して「タイムワーナー」となり、1993年にアタリゲームズの経営権を再度取得。1994年にはタイムワーナー傘下のインタラクティブ・メディア部門再編に伴い社名を「タイムワーナー・インタラクティブ(TWI)」に改名。これにより一時的にアタリゲームズの名が消えた(但し、当時同社傘下だったころのAC作品ではブランド名扱いで存続はしていた)。
1996年3月にタイムワーナーはTWIをピンボール大手の『WMSインダストリーズ(ウィリアムス)』に売却。これによりTWIの社名も再度アタリゲームズに戻った。
同年10月にWMSはモータルコンバットで有名な子会社『ミッドウェイゲームズ』を分離独立させ、同時にWMSが有していたビデオゲーム関連の全権利をミッドウェイゲームズに移管したことでアタリゲームズの権利もミッドウェイゲームズが保有することとなった。
そして2000年2月にミッドウェイゲームズはアタリゲームズを「ミッドウェイゲームズ・ウェスト」に改名。アタリブランドは再び消失し、更に2003年には組織改編によりミッドウェイゲームズ・ウェストを解散させてしまう。
2009年2月にミッドウェイゲームズが倒産し、同社が保有していた全IPと資産を倒産前から提携していたワーナーブラザーズが買い取ったことでアタリゲームズの権利は再びワーナーの手に戻ったが、既にワーナーは自社ブランドでゲーム販売を行なっており、現時点ではアタリゲームズブランドは復活を果たしていない。
アタリコープ(家庭用ゲーム・パソコン部門)
かつてアタリと熾烈なシェア争いを演じたコモドール社の創業者ジャック・トラミエル社長は会長兼筆頭株主と対立し追放され、新会社トラメル・テクノロジーを立ち上げていた。
1984年に、トラメル・テクノロジーはワーナーからアタリの家庭用ゲーム及びパソコン部門を買収し、『アタリコープ』として生まれ変わった。
同時期にコモドールの役員や技術者達もほぼ全員が新経営陣に嫌気が差してアタリコープに合流した。
1985年に、16ビットのホビーパソコン『AtariST』を発売。
カラフル画面のGUIを搭載した世界初のPCであり、低価格でありながら動作が高速だった。そのため音楽制作やゲームの分野で大成功を収め、特に北米で広く普及した。
対するコモドール社もAmiga社を買収し、
元アタリアンのジェイ・マイナーが開発したホビーパソコン『Amigaシリーズ』を発売する。
両機種に熱烈なファンがつき、聖戦と称した貶し合いが繰り広げられた。
一方で家庭用ゲーム機の販売も同時進行で行われていたのだが、パソコン事業の好調とは裏腹にこちらは苦戦を強いられていた。
1986年に発売した『Atari7800』と1989年に発売した『Atari Lynx』はいずれも任天堂VSセガの激戦の中に埋没してしまい、ゲーム市場での存在感は薄れていくばかりであった。
絶好調だったパソコン事業も、1990年以降はビジネス用パソコン市場を席巻していた『PC/AT互換機(Windows)』と『Macintosh』がホビーパソコン市場にも侵食し始めたため、ライバルであるAmiga共々日陰に追いやられてしまっていた。
1993年には遂にパソコン市場から撤退し、同年発売した新ゲーム機『Atari Jaguar』に社運を託した。しかし、このゲーム機は仕様の一つ一つがユーザーからの反感を買う代物であり、またしても失敗に終わった。
1994年に倒産したコモドールよりは長い命脈を保ったと言えるが、
1996年に、アタリコープはハードディスクメーカーの『JTS』に吸収合併され、遂に企業としての歴史に幕を下ろすこととなった。
1998年2月に、JTS社はアタリコープの権利をアメリカの大手玩具メーカーであるハズブロに500万米ドルで売却した。その後ハズブロは少しだけアタリブランドを活用した。(一方、JTS社は権利売却からほぼ丁度1年後の1999年2月に倒産)
2001年、ハズブロのビデオゲーム部門をフランスのゲーム会社『インフォグラム』が買収し、アタリコープの権利もインフォグラムに移った。
ハズブロとは違い、インフォグラムはアタリブランドを最前面に押し出しており、
2003年からはグループ企業のほとんどを改名して「アタリ」を名乗るようにした。
2009年にはインフォグラム本社も『Atari SA』に改名している。
2010年4月には初代アタリの創業者ブッシュネルが取締役として加わることが発表され、話題を集めた。
(但し同氏は既にベンチャー企業等も手掛けていて多忙であり、お飾りの立場に留まるという見方も根強い)
2009年に欧州支社をバンダイナムコへ売却しており、2013年に北米支社が破産宣告している。それ以前からゲームタイトルの権利等の資産をバラ売りしており、経営面ではまだ苦戦が続いている。
2017年、Atari SAは新たなゲーム機『Ataribox』の開発を告知した。
2018年に、Atariboxの正式名称が『Atari VCS』になったことを発表した。
2022年11月にはアタリ創業50周年を記念したオムニバスソフト『Atari 50: The Anniversary Celebration』がWin/PS4/PS5/XboxOne(XSX)/Switchにて発売されている。
※このオムニバスに収録されているゲームはArari Inc.とAtari Corpの歴史を範疇としているため、Atari Gamesの作品は一切収録されていない。
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