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暗君の編集履歴

2024-07-23 13:08:34 バージョン

暗君

あんくん

暗君とは、君主に対する呼称・俗称の一つ。主に暗愚で統治能力が低い君主に対して用いられることが多い。

概要

暗君とは、暗愚で統治能力が低い君主のことである。


暴君とは何かと類義語にされがちだが、意味は完全に異なる。暴君は統治した内容が問われ、暗君は本人の君主としての資質の低さが問われるためである。

暴君とされる君主でも有能な統治をした者もいれば、積極的な悪政は敷かなかったがあまりにも能無しすぎたために暗君扱いされる君主もいる。また当初は名君だったのだが、次第に政治に厭いてきて暗君に堕ちた君主もいる。


「ある分野では成功したが別の分野では失敗した」「世の中を良くすることに積極的に取り組んだが裏目に出た」などのように名君か暗君かをはっきりと区別しにくい場合もある。また、後世の創作や歴史の改竄・間違った説が広まるなどによって名君だったのに暗君扱いをされてしまうことも少なくない。


また、暗君かどうかは後世の史書の評価による部分が多いため、史書を残した者の評価が強く反映されやすいことに注意を要する。

典型的なのが最後の君主の扱いであり、後継国家としては「我々が先代の国家を滅亡させたのは先代国家が不徳であったことによる当然の行動である」という形で正当性を強調する必要がある。

そのため、最後の君主はしばしば先代国家のスケープゴートとされ、後世に暗君と評価されがちになる。

秦最後の王こと子嬰、東ローマ帝国末期の皇帝マヌエル2世、東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世など、最後の君主であってもさほど悪く扱われないケースもあるが、この場合も多くは「既に国の滅亡は避けられない状況であり、最後の君主の個人的技量ではもはや立て直しきれなかった」というある種の同情的評価であり、国家そのものが真っ当であったと評されるわけではない。

滅びの原因を作った者は、滅びには立ち会わないという言葉もあり、ルイ14世は晩年には暗君とされ、ルイ16世の時代にてフランス革命が引き起こされた時には財政破綻はもはやどうしようもなかったとも言われる。


また、平安時代の日本においても、後世の史書で悪く書かれたり、暗愚であったという伝説が残されている天皇や摂関家の当主は「男系子孫が絶えるか没落し、皇統や摂関家当主の座を、いわば『分家』に移してしまった」場合が少なくない。


他方、政治を臣下に任せて自らは政治に口出ししない君主というのは一見すれば暗君のテンプレートであるが、「国王は君臨すれども統治せず」という言葉もあるように、適切な能力を持つ臣下が適切に政治を執り行っている分には理想の君主像という面もある。要はバカ殿であっても国がきちんと回っていればいいのだ。


現在の日本における象徴天皇制のもとでの議員内閣制も、天皇個人の能力に頼らず民主的に選ばれた国会議員・国務大臣が官僚の能力で統治をするもので、天皇個人の資質を問わず、政治を回すことができるシステムである。


主な暗君とされる君主

暴君を兼ねているものもあり(太字)。

日本

  • 花山天皇:わずか2年で退位した上に院政制度が出来る前の天皇だった為に、ほとんど政治に関わっておらず、さしたる功績も失政も無いが、以降の皇統が従兄弟である一条天皇の子孫に移ったせいか(要は中国における「王朝最後の皇帝は悪者扱いされる」の法則に似たようなもの)、真偽は不明ながら「即位の礼の最中に女官に最悪な事をしてやらかした」「一条天皇を即位させたがっていた公卿の罠にはまり、後先考えずに出家。『一度、出家した天皇は退位した事になる&二度と復位出来ない』と知った時は後の祭」などの伝説が残されている。
  • 平宗盛平清盛没後に家督を継ぐも、源氏との対決路線を維持しすぎて、壇ノ浦の戦いで平家の滅亡を許してしまう。そこで死にきれずに源氏側に捕虜として捕まり、斬首が決定した後も卑屈な態度や生への執着を崩さなかった。
  • 二条天皇:あの後白河天皇の息子とは思えぬ名君と評価される場合が多いが……ただ1つだけ「伯父である近衛天皇皇后を自分の皇后にする」という日本史上では前代未聞かつ当時の価値観ではかなりダメな事をやらかしている。なお、平家物語では公卿達から、この件で流石に苦言を呈された際には「天子に父母なし。我十善の戒功によって、今万乗の宝位を保つ。これほどのことなどか叡慮に任せざるべき」(私が天子となったのは父母の血筋の御蔭ではない。私は前世の善行により皇位を得たのである。なのに、この程度の事さえ好きに出来ないのか)と言い返したとされる。まぁ、父親が、あの人だったら「天子に父母なし」って言いたくもなるだろうが
  • 北条高時:14歳の若さで執権に就任するも、24歳で病気により退任。闘犬や田楽に興じて政治を顧みなかった。足利尊氏新田義貞の離反を招いて、鎌倉幕府を滅亡させてしまった。
  • 後醍醐天皇:鎌倉幕府を打ち破り建武の新政を開始するも、その政策は杜撰にも程があるもので、武士達の反発を買った。その後足利尊氏に謀反を起こされ、吉野へ逃亡。以後、60年近くも続く南北朝の内乱を引き起こすきっかけを作ってしまった。
  • 足利義政:8歳で室町幕府の将軍職に選出され、13歳の時に正式に就任。文化人としては一流の評価を残したものの、政治家としては将軍親政を志向しながらも、その定見のなさ故に却って権威失墜を招き、ひいてはこれが応仁の乱を誘発させる一因となった。さらに晩年に至るまで幕政の実権を掌握し続けようとして、息子らとの対立も引き起こしている。
  • 一条兼定:7歳で家督を相続。実はキリシタン大名。大友氏・宇都宮氏と組んで伊予への進出を試みるも失敗。その後、長曾我部元親の侵攻を止められず、忠臣を殺すなどの不行状も重なり、30歳の時に隠居を強制された。
  • 今川氏真最盛期から1代で大名としての今川家を滅ぼしてしまったために暗君という評価を受けてしまったが、高い教養を生かして徳川家に仕え、孫の直房が高家今川家を興す下地を作った。
  • 酒井忠勝:大老にまでなった小浜藩主でなく、酒井忠次の孫に当たる庄内藩主。庄内藩に入部早々重税をかけた上に三弟忠重の傀儡と化しお家乗っ取りの危機を招くが、成立寸前のところで死去したため辛くも防がれた。
  • 松倉勝家:見栄で実高4万石を面高10万石と申告し、領民に過酷な搾取を行って島原の乱の主因を作った。乱の責任を問われ、江戸時代の大名として唯一斬首に処された人物として知られる。
  • 伊達綱宗:祖父譲りのあまりの放蕩ぶりに伊達騒動を起こしてしまい、隠居を余儀なくされた。
  • 徳川家斉:15歳で将軍に就任。在任初期には松平定信寛政の改革を行っていたが、在任の後半は家斉とその側近の水野忠成が幕政をみるようになり、先人たちが苦心して立て直した財政を盛大に使い倒し、幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行。挙げ句に隠居しても贅沢を止めず、息子・家慶の執政に口を挟んで来るなど、政治面では非常に残念。

中国

  • 幽王:寵妃の褒姒を笑わせるために狼煙を上げることを濫発したせいで、本当に異民族の侵攻があったのに長年仕えた老兵僅かを率いて死出の供に駆け付けた内叔父・鄭の桓公ただ一人を除いて、どの諸侯も助けに来なかったという、狼少年を地で行く逸話がある。
  • 故亥:秦の二世皇帝。趙高の言いなりになって家臣たちを殺害。贅沢に走り土木工事を盛んに行った結果、反乱を招き最後はその趙高によって始末された。秦が短命に終わった要因の半分。
  • 霊帝:内憂外患が多発している事態にも酒と女に溺れ、張譲ら十常侍という宦官集団に専断されることとなった。黄巾の乱が勃発し何とか平定するも、乱の首謀者が急死するという形であった。その暗愚の様は『三国志演義』でも同様であった。
  • 劉禅(懐帝):彼の幼名「阿斗」が中国ではどうしようもない人物を指す言葉になるほど。しかし、意外にも暗君お決まりの名臣殺害命令とかはないため、この中ではかなり可愛い方である。
  • 恵帝(司馬衷):「穀物がないのならば、肉粥を食べればいい」と放言するとんでもない賊。皇族間の内輪もめを統御できず、八王の乱を引き起こしてしまう。ただし、下手に有力な家臣・外戚の思い通りにならないような皇帝は、いつ廃位・殺害されるか知れたものではない時代だった為、暗君を装っていた、とする説も有る
  • 南朝の皇帝、ほぼ全員:常人に理解出来るレベルの所業しかやってない暗君でさえ可愛い方というとんでもない魏晋南北朝時代の王朝(酷いレベルの奴がやった事になると、最早、常人には理解不能)。歴代皇帝の約半数が「元凶」「前廃帝」「後廃帝」という明らかに何かおかしい呼び名で歴史書に記録されている。
  • 南朝の皇帝、ほぼ全員:こちらも打倒した宋と同じ。
  • 懿宗・僖宗:宦官が権力を専横したいがために、暗愚だからこそ皇帝に担がれた存在であった。
  • 徽宗:芸術家肌の人物で、即位当初は民を思いやる面もあったようだが、思い通りにならないとたちまち興味を失い、趣味に没頭。庭園の造営など個人的な道楽のために重労働や重税を課すなど民の負担を顧みなかった。極めつけは金朝を裏切ったせいで息子の欽宗ともども金に拉致され、「昏徳公」(「昏」は暗い・愚かを意味する。要はバカ殿」を御上品に言い換えたような称号)に封じられてしまった。後世の史書での評価は「何でも卒なく出来た、君主以外は」。
  • 海陵王:金朝における徽宗のような人物。徽宗はやった事は酷くても人格的にはまとも(嗜好性格が致命的に皇帝の責に合わなかっただけ)だったが、こいつは人格的にも残忍で女好きという絵に描いたようなクズ。歴史書には「海陵という通称の帝位を廃された皇族大夫の資格さえないただの人」という意味の「廃帝海陵庶人」という名前で記録されている。
  • 明の弘治帝以降の皇帝、ほぼ全員:浪費家だったり、悪徳宦官を重用したり、猜疑心が強すぎたりと問題児ばかり。なお、この中でも一番の暗君と評されるのは下の彼である。
  • 万暦帝:当初は名臣・張居正がいたため政治は安定していたが、彼の没後は政治を放棄して後宮にこもっては贅沢に明け暮れていた。その間に官僚間の対立が深刻化し、豊臣秀吉の朝鮮出兵や後金のヌルハチの台頭などもあって明朝は一気に衰微してしまう。の時代に編纂された歴史書「明史」中の「明は万暦に滅ぶ」はつとに有名。なお、「明史」を編纂したのは次の王朝である清朝だが、明の歴代皇帝の評価は概ね激甘であり、辛口の評価がされている数少ない例外がこの万暦帝である。
  • 朱常洵:上記の万暦帝の三男。万暦帝が最も寵愛した妃の子だったので、万暦帝は朱常洵を皇太子にしようとしたが、大臣達の反対で万暦帝の長男・朱常洛(後の泰昌帝)を皇太子にする事になった。その代りとして、万暦帝は朱常洵に「福王」の称号を授け、朱常洵の結婚式には国家予算約1年分を使うほどの贅沢を許した。そして、世が乱れ民衆が貧困にあえいでいた時期に領地であった洛陽で毎日のように美男美女を集めて豪華な宴会を開いていた朱常洵は民衆の怨みを買い、李自成の乱の際に殺されてしまう。李自成は体重約180kgと言われた朱常洵の肉と鹿の肉の煮込みを民衆や部下に振舞い、これを「福禄宴」(福=朱常洵の称号である福王から。禄=鹿と同音)と称したという。
  • 咸豊帝:列強の侵略が迫っているにもかかわらず、京劇などにふけっていた。清朝の中では一番の暗君ではあったが、他の王朝(特に明朝や五胡十六国)の暗君と比較すれば小粒である。


朝鮮王朝

  • 綾陽君(仁祖):比較的善政を敷いていた叔父(光海君)をクーデターで追い出して即位したが、家臣に操られ、反乱の度に首都から逃げ出し、幾度となく後金(清)の朝鮮蹂躙を許し服属を余儀なくさせ、実の長男(昭顕世子)を毒殺した。結果、後世において「傀儡王仁祖」と称されるほど。
  • 高宗:「心優しく温和で、愛想良し、生来持った人の良さがある」と評された一方、「優柔不断かつ意志薄弱で、君主としては致命的。意思が強ければ名君になっていた」とも評される朝鮮王朝最後の王。言ってしまえば朝鮮王朝版ルイ16世である。清朝ロシア帝国大日本帝国に振り回された挙句、日韓併合という形で自国を滅ぼす事になってしまった。

ヨーロッパ

  • ヘリオガバルス女装し男性奴隷の「妻」として振る舞うなど奇矯な行動が目立ち、政治を顧みず終始姦淫に耽っていた。ローマ史上最悪の君主と評されているが、ヴェスタの巫女に手を出すなどのタブー破りのほか、男色が当たり前であった古代ローマにおいても上記の振る舞いは皇帝には相応しくないと思われていたからである。
  • ホノリウス:西ローマ帝国を実質的に滅ぼしたと言われる皇帝。彼の時代の西ローマ帝国は、ゲルマン人の一支族ヴァンダル族の血筋でありながら、後世「最後のローマ人」と言わえた名将スティリコの御蔭でかろうじて保っていたようなもので、スティリコが政敵の謀略で処刑された後は、西ローマは坂道を転げ落ちるように転落状態となっていく。もちろん、その間、彼は政治・軍事に何の関心も持たなかった。一説にはローマという名前を付けた鳩をかわいがっており「ローマが蛮族の手に落ちました」という報告が来た時「ローマなら、ここに居るぞ」と答えたと言われる。なお、後世の史書では「にわかには信じ難いが同時代の人々が『あいつならやりかねん』と思っていた事だけは確実」と書かれるのが通例。
  • ジョン欠地王:父王ヘンリー2世からリチャード1世など子供達に領土の分与が行われた際、彼だけ領地が分け与えられなかったことから、即位前から「領地の無いジョン(John the Lackland)」と呼ばれていた。しかし皮肉なことに、即位後に綽名通り大陸にあった領土を失ってしまう。そのせいか、彼以降のイギリス王室は男児に「ジョン」という名前を付けるのを憚られるほど。なお彼が暗君だったおかげで、君権と言えど制限されるという立憲君主制がイギリスで生まれ、今日まで世界の君主制に大きな影響を与えている。
  • ルイ15世:当初はフルーリー枢機卿の元で善政を敷いていた。しかし、枢機卿の没後に親政を開始すると、オーストリア継承戦争など外征を繰り返すようになり、結果として北アメリカ大陸での植民地全喪失や5回に及ぶデフォルトなどフランス王国の衰退を招いた。フランス革命ルイ16世の悲劇は、ルイ15世による失政の「後始末」としての側面も有している。
  • シャルル10世:兄のルイ18世のあとを継いだが、復古的な反動政治を行ったせいで、7月革命を起こされてイギリスへの亡命を余儀なくされる。フランス革命時にはブルターニュに集結していた王党派・立憲君主派の総大将を務める筈だったのに土壇場で敵前逃亡をやらかし、即位時点で王党派からも信望マイナス状態だった。
  • ルートヴィヒ2世 :中世ロマンに魅せられノイシュヴァンシュタイン城をはじめ建築普請に狂った「メルヘン王」。「狂王」という不名誉な二つ名で有名で、精神に異常をきたしたとされ幽閉された末不可解な死を遂げた。

架空の暗君

物語を成立させるために善良な王様が暗君にされることが多い。


  • アラバーナ皇帝「攻略本」を駆使する最強の魔法使い):極めて傲岸不遜な懐古主義者で、最終的に息子や近衛兵団によるクーデターが発生し、保身の為にに譲位した結果、新しく女帝となった娘の勅により、「帝族専用のいと尊き牢獄」とされる宮殿の西の塔の牢獄で一生飼い殺しの状態となり、物語から姿を消した。
  • エルゼ姫かいけつゾロリ):アニメ版では事あるごとに記念日を定めては別荘を建てまくり、を振り回していた。別荘の建設費はどこから出てきたのかは謎で、そのために税金を跳ね上げている描写もないのがそれに拍車をかけている(敢えて描いてないだけだけかも知れない)。しかも、『もっと!』では改心する前に子供ができてしまったのでレバンナ王国の将来が不安である。
  • デデデ大王星のカービィ):シリーズで一貫してバカ(良くてお間抜け)という性格設定をされている。ただし、統治者不在となったの平定に乗り出したり、侵略者に対して率先して防衛の指揮を執るなど、一端の君主らしい姿勢を見せることもある。
  • バカ殿志村けんのバカ殿様):とにかくバカ&スケベで、家老が真面目な話をしていても遊んでいたり、大掛かりないたずらを仕掛けたりしている。そのバカっぷりに家老からは嘆かれたり、「バカのオリンピックに出たら金メダル」と言われたりするほどである。
  • ワポルONEPIECE):先代国王から甘やかされて育った結果、間抜けで子供臭い性格かつ傍若無人な性格となった。ただ、本編再登場時では番外編での苦労もあって、品行方正とまではいかないまでも思慮に関しては多少成長している。

関連タグ

君主

暴君

バカ殿

名君

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