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ピクシブ百科事典

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概要

現実世界の競馬では、国際競走外国で調教を受けた競走馬が参戦することはよくある話である。
そのためウマ娘の世界でも外国から参戦する選手(競走ウマ娘)がいるのではないかと言われているほか、実際に外国選手とも思われるモブウマ娘も登場している。

現在投稿イラストのほとんどが、描き手が想像して描いた非公式オリジナルウマ娘の作品が占める。
作品投稿については、ウマ娘の公式ガイドラインの内容を考慮して、絡みの描写などで公式キャラのイメージ悪化や実在馬の馬主等の心情を害しないよう心がけていただきたいところである。

海外出身又は出身と推測される直接のモデル馬のいない公式ウマ娘

アニメ

アニメ版第1期でのオリジナルキャラクターに外国選手と明言されている人物が登場。
エルコンドルパサーと凱旋門賞で鎬を削り、ジャパンカップ参戦で来日してスペシャルウィークと戦ったブロワイエがそれにあたり、史実におけるモンジューの役回りを演じている。
こちらは元ネタを反映してかなりの実力者として設定されており、ゲーム版でのモブウマ娘とは一線を画す能力を持つ。

ゲーム

2021年7月現在、レースやライブに登場するウマ娘の総数は610人である。
そのうちの以下のモブウマ娘数名はジャパンカップにのみ登場するため、外国の選手であると推測するファンもいる。

  • ステートオブアート
  • エナジェティック
  • デュークダムポピー
  • パラディンソード
  • ダイアンサスブトン
  • ダディーズブーツ
  • ラブリーパトリシア
  • メイクユーガスプ
  • バーチューマインド

モンジュー、プレイアブル化希望!


またメインストーリー最終章前編のラストにて、前述のモンジューの名前がそのままでセリフ内に登場。そして後編では、海外ウマ娘としては初となるオリジナルCGも実装されていた
キャラクターとしての本格的な実装などの見通しは不明であるが、実在の海外馬名、およびオリジナルの別名でモチーフとされるキャラが設定された後の登場はこれが初めてである。

立ち絵のない海外ウマ娘

ゲーム版では、名前も姿も明らかになっていないが、日本で活躍する競走ウマ娘の縁者が何人か声つきで登場している。

  • グラスワンダーの妹(CV不明)

ワンダーアゲイン「間違えちゃった汗」


(これはファンによる想像画のため注意。画像左。右はグラスワンダー
グラスワンダーのサポートカードで声つきで登場。アメリカで活躍しており、日本で活躍する姉に対抗意識を燃やしている。
モデルになった競走馬はワンダーアゲイン

ウマ娘シンデレラグレイ

漫画『ウマ娘シンデレラグレイ』にて、1988年のジャパンカップ出走馬がモデルとされる以下8名の海外ウマ娘が登場している(括弧内は元ネタと思われる馬)。


またオベイユアマスターの回想にて、サンシャインフォーエヴァーがモデルと思われるウマ娘が登場している(名前は不明)。

エミュオベ



二次創作

投稿されている作品はやはりというか日本にゆかりのある経歴を持つ馬がモチーフのものが多い。
つまり、

  • 来日して出走した経験あり
  • 逆に遠征してきた日本馬と戦ったことがある
  • 種牡馬繁殖牝馬になってから日本で繋養された
など、何らかの形で日本である程度知られた馬である。

元馬別投稿作品

謎のウマ娘
ウマ娘 サンデーサイレンスさん


みにくいアヒルの子」宜しく、血統や見た目で期待されないどころか馬鹿にされるも、活躍を見せた馬。
種牡馬として目立つが米国G1を6勝1989米国年度代表馬、ライバルであるイージーゴア3勝1敗、負けたレースでも3位以下を取ったことがないという歴戦の猛者であり、血統主義がモノを言う競馬界で期待されなかったその力を見せつけた。
日本に牡種馬として渡って以降も、日本のサラブレッドの血統図を塗り替えるほどの活躍を見せた。
今のところ原作でその存在は語られていないが、マンハッタンカフェの「お友達」の正体ではないか、と言われている。そのため、オリジナルウマ娘としてはマンハッタンカフェに似た容姿で描かれることが多い。
サンデーサイレンス(ウマ娘)

某世界最強の事務員さんにトレセン学園の制服を着せた結果


アメリカの競走馬。1970年生まれ。渾名はビッグ・レッド
かなりの大食らいで、性格は食っちゃ寝してばかりののんびり屋だったという。しかし2歳にしてアメリカの年度代表馬に選出され、3歳時にアメリカの三冠を全てレコード勝ちし、9頭目にして25年ぶりの三冠馬となった。しかも最後の一冠であるベルモントステークスでは後続に31馬身差をつけての圧勝。実況中継ではセクレタリアトがゴールした後、2番手以降の馬を映すために後ろへカメラを向け直さねばならなかった。その際のタイム2分24秒0の記録はあまりにも凄すぎて今後永久に更新されないのではないかとさえ言われている
体調が良くない事もあった為に無敗ではないが、生涯戦績は21戦16勝、レコード勝ち7回という凄まじい結果を残し、2年連続でアメリカ年度代表馬に選出。種牡馬としても没後ではあるものの1992年に北米リーディング・ブルードメアサイアーとなっている。また3歳時に牧場の相続税に当てるため売却されたが、その際の金額は純金に換算するとセクレタリアトの体重の約三倍に及ぶことから「黄金より高い馬」としても知られた。
1989年の秋頃に蹄葉炎を発症し、治療の甲斐なく4本の足全てが蹄葉炎に蝕まれる程に悪化。同年10月4日の正午過ぎに予後不良と判断され、安楽死の処置が取られた。享年19歳(人間に換算すると推定65歳)。生前から胸囲が非常に太く、腹帯はレースの度に新調し、鞍も特注の物を使っていた。死後の解剖の結果、心臓が普通のサラブレッドの2倍以上大きかった事が判明している(通常の馬の平均は9ポンド《約4㎏》であるのに対し、セクレタリアトは22ポンド《約10㎏弱》もあった)。怪物と称された競走馬は多いが、セクレタリアトは本物の怪物に片足突っ込んでいたのかも知れない。
後にアメリカの競馬雑誌は日本のクロフネを「白いセクレタリアト」と紹介したが、この呼び方はアメリカの競馬関係者からすれば最大級の敬意だったと思われる。

スノーフォール


出身地が日本(北海道勇払郡安平町にあるノーザンファーム)の、アイルランドで活躍している競走馬。
父親は第6代目三冠馬のディープインパクトで、生涯戦績(2021年10月3日現在)は13戦5勝。主な勝ち鞍はミュージドラステークス(GⅢ)、オークスステークス(GⅠ)、アイリッシュステークス(GⅠ)、ヨークシャーオークス(GⅠ)(いずれも2021年に優勝)。
出身地が日本であるのは本馬の母であるアイルランドの重賞1勝馬ベストインザワールド(生涯戦績は9戦2勝、主な勝ち鞍は2016年のギヴサンクスステークス《GⅢ》)が所有者のロンコン、ワイナット&チェルストンによって日本のノーザンファームに預託されていた為である。
2020年6月10日ナヴァン競馬場で行われた未勝利戦でシーミー・へファーナン騎手を背にデビューし、3着。続く未勝利戦も8着に敗れ、鞍上がウェイン・ローダン騎手に乗り替わりとなった7月19日カラ競馬場での未勝利戦で3戦目の初勝利を挙げた。次いでシルバーフラッシュステークス(愛《アイリッシュ》GⅢ)で重賞初挑戦するも4着に敗れた。中1週でデビュータントステークス(愛GⅡ)に出走するも5着、初のGⅠ挑戦となる9月のモイグレアスタッドステークスでは9着に沈んでしまう。
10月9日に行われたGⅠフィリーズマイルにてスノーフォールは同じエイダン・オブライエン厩舎所属の僚馬のマザーアースと共に出走したが、レースで両馬のゼッケンと騎乗予定騎手が入れ替わっており、スノーフォールは3位入線したかと思われていたが実際に3位入線したのはマザーアースで、スノーフォールは8位入線であった
此処までのスノーフォールは掲示板入線こそ3度果たすも3度目の未勝利戦以外は殆ど目立った活躍は出来なかった。
しかし翌2021年になってからそれまでの不振が一気に払われる事になる。
まず年明け初戦のミュージドラステークス(英GⅢ)に日本でも御馴染の騎手であるライアン・ムーア(因みにムーアは母ベストインザワールドの主戦騎手でもあった)の騎乗で出走し、勝利。重賞初制覇となった。続いて出走したオークスステークスには、ムーア同様に日本でも活躍しているランフランコ・デットーリ騎手を背に3番人気で出走。直線で馬群から抜け出し、残り400m程で先頭に立つとそのまま後続を突き放し、2着のミステリーエンジェルレース史上最大着差である16馬身もの差をつけ優勝(これまでの最大着差はサンプリンセス(※)が1983年のエプソムオークス《GⅠ》で記録した12馬身差)。鞍上のデットーリに 「私は多くのクラシックを勝ちましたが、これほど簡単だった事はありませんでした」「熱いナイフでバターを切る様な感覚になった」と言わしめた。
7月17日には再び鞍上にムーアを迎えてアイリッシュオークスに出走。単勝オッズ1.29倍の圧倒的人気を背に受け、前走と同様に最終直線で進出を開始。後続を完全に突き放し、2着のディヴァインリーにこれまた8馬身1/2差を付けて圧勝。そして初の古馬との対決となる8月19日のヨークシャーオークスでは後方2番手から約900mの直線の半ばで先頭に立っていたワンダフルトゥナイトを交わして先頭に躍り出ると、最後方から追い込んできたアルバフローラ4馬身差をつけて勝利し、ミュージドラステークスからの4連勝を達成した。勝ちタイムは2分26秒61で、前年優勝馬のラヴのタイムより4秒70、前々年優勝馬のエネイブルより3秒29も速いものであった。更には来たる凱旋門賞に於いてこの時は1番人気に推されていた。
そして9月9日、凱旋門賞と同じくパリロンシャン競馬場で行われるヴェルメイユ賞(G1芝2400メートル)の出走登録が締め切られ、最終的に9頭が出走登録を行った。
スノーフォールも同厩のジョアンオブアークデヴァインリーラジョコンダとともに出走登録。凱旋門賞の前哨戦として、ヴェルメイユ賞を選ぶ事となった。
鞍上を前述のオークスSで16馬身差の圧勝劇を演じたデットーリ騎手で迎えたヴェルメイユ賞は、現地でも1.2倍の圧倒的1番人気で迎える。レースの方は後方三番手で進み、最後の直線で仕掛けたものの、前のティオーナを差し切れず2着に敗れた。凱旋門賞と同じパリロンシャン2400mのレースの敗戦によって、凱旋門賞の制覇に暗雲が立ち込む結果となり、事前オッズでも、凱旋門賞1番人気を譲る結果になってしまった(2021年9月30日現在、タルナワアダイヤーハリケーンレーンに次ぐ4番人気に位置している)。
それでも凱旋門賞の舞台となるロンシャン競馬場で善戦を繰り広げた事には変わりは無く、父ディープインパクトが成し得なかった凱旋門賞を制覇する可能性は消えずファンから期待が寄せられたが、その凱旋門賞では近年でも最も悪い馬場に終始悩まされて6着に終わり、父ディープインパクトの雪辱を果たす事は出来なかった。
まだ伸びしろのある資質を見せていたが、翌2022年1月11日(日本時間)、馬房にて何らかの理由で骨盤を損傷し、予後不良と見做され安楽死措置が取られたことが報じられた。あまりにも突然の最期であった。
2020年のレースは全て1150~1600m台の短距離やマイル戦で中々に勝利が挙げられなかったものの、翌年の前述のミュージドラSを始めとした、2000m以上もの中距離や長距離レースで猛威を振るい始めた辺り、父ディープインパクト譲りのステイヤー気質を受け継いでいるものと云える。

(※)『音速の末脚が炸裂』と言われた、1996年の東京優駿の覇者フサイチコンコルドの母方の祖母に当たる競走馬。エプソムオークス以外にもヨークシャーオークス、セントレジャーステークス(共に1983年)を制しており、凱旋門賞にも2度(1983年、1984年)出走。1度目では2着に入線を果たしている。

オリジナルウマ娘


19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したイギリスの競走馬であり、種牡馬。父親は19世紀末に競走馬として活躍(生涯戦績は10戦10勝、うち1戦は非公式試合)した後、種牡馬としては1889年~1904年にかけて常に成績がTOP5(うち1890~1896年、1900~1901年は英国チャンピオンサイアーに輝いている)に入っている上に、後世のサラブレッドの発展に貢献した事で知られるセントサイモン(『サンシモン』と表記される事もある)である上、実兄に同じく競走馬として大活躍、種牡馬としても数多くの重賞馬や子孫拡大に貢献したパーシモンフロリゼル(共に母親がパーディタ)がいる。尚、兄弟全て馬主は後の英国の国王エドワード7世である。
生涯戦績は13戦6勝で、主な勝ち鞍は英国クラシック三冠(2000ギニーエプソムダービーセントレジャーステークス)の他、ニューマーケットステークスエクリプスステークス(全て1900年に優勝)がある。種牡馬としても南米に一時期ながら一代父系を築き上げ、また日本にも少なからず影響を及ぼしている。
また、全サラブレッド中トップ5に入る気性難でも知られているが、その詳細は本馬の項目を参照にされたし。度肝を抜かれる事請け合いである。

オリジナルウマ娘


アメリカ出身の競走馬で、1981年の記念すべき第1回ジャパンカップの覇者でもある(加えてこのジャパンカップが現役最後のレースでもあった)。生涯戦績は33戦12勝。
……初代ジャパンカップ優勝馬と聞こえは良いのだが、現行のグレード制(日本でグレード制が採用されるのは1984年から。この時点ではまだ採用されていない)と照らし合わせるとGⅠを制覇したのはこのレースのみで、後はGⅡが1勝(マッチメイカーハンデ《1981年》)、GⅢが3勝(ヤーハブエナハンデ《1980年、1981年》、ニューヨークハンデ《1980年》)、そして未勝利戦と一般競走やオープン戦が7勝という内容であった。
つまり、メアジードーツはジャパンカップを迎えるまではアメリカのGⅠレースに一度も勝利した事が無かったのである
尚、この時の日本代表の競走馬は前年の有馬記念を制し、この年の秋の天皇賞をも制したホウヨウボーイ(その後シンザンに続いて2年連続で年度代表馬にも選ばれた強豪馬でも知られている)、同じく秋の天皇賞2着のモンテプリンス(翌1982年には春の天皇賞と宝塚記念を制している)、同じく秋の天皇賞3着入線で、地方競馬で活躍した後に中央競馬入り、未勝利ながら芝の長距離でも安定した成績を残しているゴールドスペンサー、得意距離が1800m以下ではあるものの典型的な逃げ戦法に定評のあるサクラシンゲキ等といった猛者が名を連ねていた。
その為、レース前から日本の関係者及びファンからもメアジードーツを下馬評で「日本馬と比べれば(本国アメリカでGⅠ勝利が一度も無いメアジードーツは)外国の二流競走馬」と見做していた節があったという(それでも来日後軽めの調整を続けた所、最終追い切りではレース並みの時計を出して周囲を驚かす等、メアジードーツのコンディションは絶好調だった)。
勝機十分と踏んだメアジードーツの馬主であるアルノ・D・シェフラーはレース当日になって、「日本の硬い馬場では馬が故障してしまうので、馬場に水を撒いて欲しい」と要求。拒めば出走取り消しをちらつかせていた為、日本中央競馬会 (JRA) としても有力馬を直前になって回避させる訳にはいかず、要求を呑まざるを得なかった。このためレースは公式発表こそ良馬場ではあったが、メアジードーツが得意とするややソフトな馬場状態で行なわれる事となった
ジャパンカップでのメアジードーツの人気は、レース直前の体調不良が囁かれた事や、冬毛が出て見栄えのしない馬体だった事もあり離れた5番人気。1番人気は、招待馬の目玉のザベリワンで、日本馬が惨敗続きだったワシントンD.C.インターナショナルで2着という金看板が大きく影響していた。2番人気以降は、モンテプリンス、ホウヨウボーイ、ゴールドスペンサーと日本馬が続いた。
レースは後に「日の丸特攻隊」と称されるサクラシンゲキが1000mを57秒8という短距離戦並みのハイペースで逃げたが、カナダのフロストキングがこれを無理無く追走。4コーナーに差し掛かった辺りで、スタミナ切れを起こし始めたサクラシンゲキを交わし、早くも先頭に立った。速いペースへの対処に苦慮した日本馬が直線で伸びを欠く中、メアジードーツは外から鋭く伸び、フロストキングと激しく叩き合う。鞍上のキャッシュ・アスムッセンのムチに応え、最後は1馬身抜け出し、ジャパンカップ制覇を飾った。因みに1番人気のザベリワンは3着。直線一気にかけたゴールドスペンサーの5着が日本馬最高着順だった。勝ち時計は2分25秒3。芝2400メートルの当時の日本レコード(それまでは1976年に「気まぐれジョージ」ことエリモジョージ京都記念で記録した2分25秒8)を0秒5、東京競馬場のコースレコードを1秒縮めるという驚異的なタイムで、観客からは大きなどよめきが上がり、前述の通り「外国の二流馬」と見做していたメアジードーツの勝利は日本の競馬関係者やファンに大きなショックを与え、且つ「永遠に日本馬は勝てないのではないのか!?」とさえ思わせる程であったという(只、その3年後の1984年にカツラギエース10番人気乍ら日本馬として初めて制覇している)。
このジャパンカップで引退の花道を飾ったメアジードーツはその後繁殖牝馬となった。産駒の内、メアジーダンサー(父リファール)、ハイブリッジスルー(父シアトルスルー)の2頭が日本に輸出され、種牡馬となった。前者が1戦0勝、後者が不出走という競走成績にもかかわらず種牡馬となった辺りに、メアジードーツがジャパンカップで齎した衝撃の一端が窺われる

オリウマ娘「ソビエトプロブレム」
【オリジナルウマ娘】ソビエトプロブレム


国際問題になりそうな馬名を持つアメリカの馬(因みにソビエトプロブレムが生まれて1年半後の1991年8月にクーデター《8月クーデター》を経てソビエト連邦共産党は解散勧告され、その3ヶ月後の12月25日にはソビエト連邦は解体している)。
血統としては父方の祖父が名競走馬であり名種牡馬として有名なニジンスキーである為、ニジンスキーを父に持ち、「スーパーカー」の異名で知られる8戦無敗の強豪馬マルゼンスキーはソビエトプロブレムの伯父に当たる。
アメリカでは確実に実績を上げており(生涯戦績は20戦15勝。後述のスプリンターズステークスと1993年5月29日のレールパードステークスでの7着以外は全て連対を果たしている)、サクラバクシンオーの最後のレースとなった1994年12月18日のスプリンターズステークスに出走。しかし、アメリカでは一般的ではなかった右回り、芝のコースに適応できず7着と敗れた(第4コーナーで膨れた煽りをまともに受けてしまい、曲がり切れなかったのが敗因。但し、主にダートでの出走が多かったものの、芝のコースでもまた6戦出走してうち5勝《唯一の芝での敗戦がそのスプリンターズステークスだった》を挙げている為、苦手というよりかは寧ろ得意であったと云える)。
帰国後、1995年6月17日にカリフォルニア州イングルウッドのハリウッドパークで行われたワルキューレハンディキャップに出走(前年もこのレースに出走しており、勝利を果たしている。尚、このレースも芝コースである。鞍上の騎手は2戦ともクリス・マッキャロンで、彼は1988年の第8回ジャパンカップで当時勢いに乗っていたタマモクロスの連勝を8で止めた伏兵馬ペイザバトラーの騎手として知られている)。このレースがソビエトプロブレムの現役最後の出走であったが見事勝利を果たし、有終の美を飾った。

オリジナルウマ娘


ドイツ出身の競走馬(1990年1月13日生まれ。厳密には当時のドイツ連邦共和国《西ドイツ》の出だが、その9か月後の10月3日に東西ドイツが統一された)。
生涯戦績は23戦10勝(ドイツ国内17戦7勝、ドイツ国外6戦3勝)。
主な勝ち鞍はドイチェスダービー(GⅠ)(1993年。祖父のズルムーが1977年に、当時ドイツ屈指の強豪馬と謳われた父のアカテナンゴが1985年に同レースを制している為、親子三代でドイツのダービー制覇を果たしている)、バーデン大賞(GⅠ)(1993年、1994年)、ハンザ賞(GⅡ)(1994年)、ジョッキークラブ大賞(GⅠ)(1994年)、ミラノ大賞(GⅠ)、メルクフィンク銀行大賞(GⅠ)(1995年)、そしてジャパンカップ(GⅠ)(1995年)。ドイツ国内外でGⅠを7度制覇しており、1994年、1995年にはドイツ国内の年度代表馬にも選出されている。
また凱旋門賞にも2度出走(1994年、1995年)しており、1995年時には4着入線を果たしている。
尚、1995年のジャパンカップはランドにとって現役最後のレースであり、この頃は5代目三冠馬のナリタブライアンを始め、1997年に安田記念を制覇するタイキブリザードや同年の高松宮杯を制したマチカネタンホイザ(因みに翌1996年より高松宮杯はGⅠへと格上げ《距離も芝2000mから1200mに短縮》された為、最後のGⅡとしての高松宮杯の覇者でもある)、歴戦の猛者であるナイスネイチャ(此方も当時GⅡだった、1994年の高松宮杯の覇者である)、そしてメイヂヒカリ以来3年連続で年度代表馬に選出された「女傑」ヒシアマゾン等の錚々たるメンバーが揃っていた。
しかしランドはそれらの猛者と壮絶に競り合い、最後は直線で粘るタイキブリザードや鋭く追い込んで来たヒシアマゾンを交わしてゴール。有終の美を飾ると同時に史上初にして現在に至るまで唯一の、ドイツ出身馬によるジャパンカップ制覇という偉業を成し遂げた。
引退後は母国ドイツで種牡馬としてパオリニ(イタリア共和国大統領賞、ミラノ大賞《共に2001年》、ドバイデューティフリー《現・ドバイターフ。2004年》)やプリンスフローリ(2006年のバーデン大賞。ランドと共に親子2代で制覇)等、主に牡馬で重賞制覇を果たす競走馬を輩出した。
因みにランドの父方の祖先は、趣味として大の競馬好きとしても知られ、最期を迎える直前までサラブレッドの品種改良に力を入れていたナチスドイツの総統アドルフ・ヒトラーが所有する「トラケーネンファーム」という大牧場に居た軽種馬育種である事が近年証明された。
なお、ジャパンカップ勝ち馬の馬名はその後二度と使用できない規則があるが、2001年に同名の馬が日本の障害レースに参戦。これはジャパンカップ勝ち馬のランド(Lando)と障害馬のランド(Rand)はスペルが違う為に、このような事例が発生した。

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