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海外ウマ娘

かいがいうまむすめ

『ウマ娘プリティーダービー』に登場するキャラクター「ウマ娘」のタグの一つ。海外の競走馬をモチーフとして描かれたウマ娘にこのタグが付けられる。
目次 [非表示]

※メイン画像上部は、公式に海外の競走馬をモチーフとした初のウマ娘・モンジュー


概要

現実世界の日本の競馬では、国際競走外国で調教を受けた競走馬が参戦することはよくある話である。

ウマ娘プリティーダービー』の世界でも外国から参戦する選手(競走ウマ娘)がいる。ゲーム版ではジャパンカップ限定で外国選手と思しきモブウマ娘が複数登場、アニメ版や漫画『ウマ娘シンデレラグレイ』『スターブロッサム』では外国選手が変名で多数登場している。


現在投稿イラストのほとんどが、描き手が想像して描いた非公式オリジナルウマ娘の作品が占める。

作品投稿については、『ウマ娘』の公式ガイドラインの内容を考慮して、絡みの描写などで公式キャラのイメージ悪化や実在馬の馬主等の心情を害しないよう心がけていただきたいところである。


なお、この項目では日本国外でトレーニングをしたウマ娘(競馬で言う「カク外」)を扱い、海外出身だが日本のトレセン学園に所属しているウマ娘(グラスワンダー等、いわゆる「マル外」)は扱わない。

アニメ

アニメ版第1期でのオリジナルキャラクターに外国選手と明言されている人物が登場。

エルコンドルパサー凱旋門賞で鎬を削り、ジャパンカップ参戦で来日してスペシャルウィークと戦ったブロワイエがそれにあたり、史実におけるモンジューの役回りを演じている。

元ネタを反映してかなりの実力者として設定されている。


ゲーム

実名ウマ娘

モンジュー

モンジュー、プレイアブル化希望!

メインストーリー第一部最終章では、前述のモンジュー海外ウマ娘としては初となるオリジナルCG付きで登場

実在の海外馬名、およびオリジナルの別名でモチーフとされるキャラが設定された後の登場はこれが初めてである。

第6育成シナリオ『Reach for the stars プロジェクトL’Arc』では、一定条件を満たした場合に2回目の凱旋門賞に出走する、いわゆる隠しボスとして登場。


ゲームオリジナルウマ娘

ヴェニュスパーク

ヴェニュスパークちゃん🇫🇷

フランスに愛された天才少女。

『プロジェクトL’Arc』で登場。無敗で凱旋門賞に乗り込んできた天才であり、1回目の凱旋門賞で争うことになる。

モデルになった競走馬はトレヴと考えられる。

リガントーナ

リガントーナ【ウマ娘】

“世界最強”とも謳われるレジェンドウマ娘。

一線を退いていたが、『プロジェクトL’Arc』2回目の凱旋門賞から復帰して登場する。

モデルになった競走馬はダンシングブレーヴか。


モブウマ娘

ゲーム当初から登場していたモブウマ娘の中でも以下の数名はジャパンカップにのみ登場するため、外国の選手であると推測するファンもいる。

  • エナジェティック
  • ステートオブアート
  • ソルダパシオーネ
  • ダイアンサスブトン
  • ダディーズブーツ
  • デュークダムポピー
  • バーチューマインド
  • パラディンソード
  • メイクユーガスプ
  • ラブリーパトリシア

『プロジェクトL’Arc』では交流戦およびフランスでの重賞レースに61人の海外モブウマ娘が登場することが確認されている。


日本ウマ娘の縁者

ゲーム版では、名前も姿も明らかになっていないが、日本で活躍する競走ウマ娘の縁者が何人か声つきで登場している。


  • グラスワンダーの妹

ワンダーアゲイン「間違えちゃった汗」

(これはファンによる想像画のため注意。画像左。右はグラスワンダー

グラスワンダーのサポートカードで声つきで登場。アメリカで活躍しており、日本で活躍する姉に対抗意識を燃やしている。

モデルになった競走馬はワンダーアゲイン


  • ファインモーションの姉

ゲーム内ではファインの姉と表記されている。ファインモーションの育成イベントで登場。故郷を飛び出しヨーロッパで活躍しているらしい。エアグルーヴに対して電話口で冗談混じりに「女帝陛下」と呼び関心を持っている様子が描かれている。


  • エイシンフラッシュの母

ゲーム内では「フラッシュの母」と表記されている。エイシンフラッシュのキャラストーリー等で登場。ドイツで競走ウマ娘として活躍し、引退後は菓子職人の手伝いをするようになった。その後、結婚してエイシンフラッシュを産んだらしい。

モデルになった競走馬はムーンレディ


ウマ娘シンデレラグレイ

漫画『ウマ娘シンデレラグレイ』にて、1988年および1989年のジャパンカップ出走馬がモデルとされる海外ウマ娘が多数登場している(括弧内は元ネタと思われる競走馬)。


またオベイユアマスターの回想にて、サンシャインフォーエヴァーがモデルと思われるウマ娘が登場している(名前は不明)。

エミュオベ


スターブロッサム

漫画『スターブロッサム』の冒頭のフランスの凱旋門賞で海外ウマ娘が登場。シリウスシンボリが出走していることから1986年の凱旋門賞がモデルと思われる。


二次創作

投稿されている作品はやはりというか日本にゆかりのある経歴を持つ馬がモチーフのものが多い。

つまり、

  • 来日して出走した経験あり
  • 逆に遠征してきた日本馬と戦ったことがある
  • 種牡馬繁殖牝馬になってから日本で繋養された

など、何らかの形で日本である程度知られた馬である。

元馬別投稿作品

ウマ娘 サンデーサイレンスさん

みにくいアヒルの子」宜しく、血統や見た目で期待されないどころか馬鹿にされるも、活躍を見せた馬。

種牡馬として目立つが米国G1を6勝1989米国年度代表馬、ライバルであるイージーゴア3勝1敗、負けたレースでも3位以下を取ったことがないという歴戦の猛者であり、血統主義がモノを言う競馬界で期待されなかったその力を見せつけた。

日本に種牡馬として渡って以降も、日本のサラブレッドの血統図を塗り替えるほどの活躍を見せた。

今のところ原作でその存在は語られていないが、マンハッタンカフェお友達の正体ではないか、と言われている。そのため、オリジナルウマ娘としてはマンハッタンカフェに似た容姿で描かれることが多い。

サンデーサイレンス(ウマ娘)


某世界最強の事務員さんにトレセン学園の制服を着せた結果

アメリカの競走馬。1970年生まれ。渾名はビッグ・レッド2歳にしてアメリカの年度代表馬に選出され、3歳時にアメリカの三冠を全てレコード勝ちし、9頭目にして25年ぶりの三冠馬となった。種牡馬としても没後ではあるものの1992年に北米リーディング・ブルードメアサイアーとなっている。また3歳時に牧場の相続税に当てるため売却されたが、その際の金額は純金に換算するとセクレタリアトの体重の約三倍に及ぶことから「黄金より高い馬」としても知られた。


スノーフォール

出身地が日本(北海道勇払郡安平町にあるノーザンファーム)の、アイルランドで活躍した競走馬。

父はディープインパクト、母はアイルランドの重賞馬ベストインザワールド。生涯戦績は13戦5勝。主な勝ち鞍はミュージドラステークス(GⅢ)、オークスステークス(GⅠ)、アイリッシュステークス(GⅠ)、ヨークシャーオークス(GⅠ)(いずれも2021年に優勝)。


オリジナルウマ娘

19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したイギリスの競走馬、種牡馬。父はセントサイモン(『サンシモン』と表記される事もある)、実兄にパーシモンフロリゼル(共に母がパーディタ)がいる。尚、兄弟全て馬主は英国王エドワード7世である。

生涯戦績は13戦6勝で、主な勝ち鞍は英国クラシック三冠(2000ギニーエプソムダービーセントレジャーステークス)の他、ニューマーケットステークスエクリプスステークス(全て1900年に優勝)がある。種牡馬としても南米に一時期ながら一代父系を築き上げ、また日本にも少なからず影響を及ぼしている。


オリジナルウマ娘

アメリカの競走馬で、1981年の記念すべき第1回ジャパンカップの覇者でもある(加えてこのジャパンカップが現役最後のレースでもあった)。生涯戦績は33戦12勝。

……初代ジャパンカップ優勝馬と聞こえは良いのだが、現行のグレード制(日本でグレード制が採用されるのは1984年から。この時点ではまだ採用されていない)と照らし合わせるとGⅠを制覇したのはこのレースのみで、後はGⅡが1勝(マッチメイカーハンデ《1981年》)、GⅢが3勝(ヤーハブエナハンデ《1980年、1981年》、ニューヨークハンデ《1980年》)、そして未勝利戦と一般競走やオープン戦が7勝という内容であった。

つまり、メアジードーツはジャパンカップを迎えるまではアメリカのGⅠレースに一度も勝利した事が無かったのである

尚、この時の日本代表の競走馬は前年の有馬記念を制し、この年の秋の天皇賞をも制したホウヨウボーイ(その後シンザンに続いて2年連続で年度代表馬にも選ばれた強豪馬でも知られている)、同じく秋の天皇賞2着のモンテプリンス(翌1982年には春の天皇賞と宝塚記念を制している)、同じく秋の天皇賞3着入線で、地方競馬で活躍した後に中央競馬入り、未勝利ながら芝の長距離でも安定した成績を残しているゴールドスペンサー、得意距離が1800m以下ではあるものの典型的な逃げ戦法に定評のあるサクラシンゲキ等といった猛者が名を連ねていた。

その為、レース前から日本の関係者及びファンからもメアジードーツを下馬評で「日本馬と比べれば(本国アメリカでGⅠ勝利が一度も無いメアジードーツは)外国の二流競走馬」と見做していた節があったという(それでも来日後軽めの調整を続けた所、最終追い切りではレース並みの時計を出して周囲を驚かす等、メアジードーツのコンディションは絶好調だった)。

勝機十分と踏んだメアジードーツの馬主であるアルノ・D・シェフラーはレース当日になって、「日本の硬い馬場では馬が故障してしまうので、馬場に水を撒いて欲しい」と要求。拒めば出走取り消しをちらつかせていた為、日本中央競馬会 (JRA) としても有力馬を直前になって回避させる訳にはいかず、要求を呑まざるを得なかった。このためレースは公式発表こそ良馬場ではあったが、メアジードーツが得意とするややソフトな馬場状態で行なわれる事となった

ジャパンカップでのメアジードーツの人気は、レース直前の体調不良が囁かれた事や、冬毛が出て見栄えのしない馬体だった事もあり離れた5番人気。1番人気は、招待馬の目玉のザベリワンで、日本馬が惨敗続きだったワシントンD.C.インターナショナルで2着という金看板が大きく影響していた。2番人気以降は、モンテプリンス、ホウヨウボーイ、ゴールドスペンサーと日本馬が続いた。

レースは後に「日の丸特攻隊」と称されるサクラシンゲキが1000mを57秒8という短距離戦並みのハイペースで逃げたが、カナダのフロストキングがこれを無理無く追走。4コーナーに差し掛かった辺りで、スタミナ切れを起こし始めたサクラシンゲキを交わし、早くも先頭に立った。速いペースへの対処に苦慮した日本馬が直線で伸びを欠く中、メアジードーツは外から鋭く伸び、フロストキングと激しく叩き合う。鞍上のキャッシュ・アスムッセンのムチに応え、最後は1馬身抜け出し、ジャパンカップ制覇を飾った。因みに1番人気のザベリワンは3着。直線一気にかけたゴールドスペンサーの5着が日本馬最高着順だった。勝ち時計は2分25秒3。芝2400メートルの当時の日本レコード(それまでは1976年に「気まぐれジョージ」ことエリモジョージ京都記念で記録した2分25秒8)を0秒5、東京競馬場のコースレコードを1秒縮めるという驚異的なタイムで、観客からは大きなどよめきが上がり、前述の通り「外国の二流馬」と見做していたメアジードーツの勝利は日本の競馬関係者やファンに大きなショックを与え、且つ「永遠に日本馬は勝てないのではないのか!?」とさえ思わせる程であったという(只、その3年後の1984年にカツラギエース10番人気乍ら日本馬として初めて制覇している)。

このジャパンカップで引退の花道を飾ったメアジードーツはその後繁殖牝馬となった。産駒の内、メアジーダンサー(父リファール)、ハイブリッジスルー(父シアトルスルー)の2頭が日本に輸出され、種牡馬となった。前者が1戦0勝、後者が不出走という競走成績にもかかわらず種牡馬となった辺りに、メアジードーツがジャパンカップで齎した衝撃の一端が窺われる


オリウマ娘「ソビエトプロブレム」【オリジナルウマ娘】ソビエトプロブレム

国際問題になりそうな馬名を持つアメリカの馬(因みにソビエトプロブレムが生まれて1年半後の1991年8月にクーデター《8月クーデター》を経てソビエト連邦共産党は解散勧告され、その3ヶ月後の12月25日にはソビエト連邦は解体している)。

血統としては父方の祖父が名競走馬であり名種牡馬として有名なニジンスキーである為、ニジンスキーを父に持ち、「スーパーカー」の異名で知られる8戦無敗の強豪馬マルゼンスキーはソビエトプロブレムの伯父に当たる。

アメリカでは確実に実績を上げており(生涯戦績は20戦15勝。後述のスプリンターズステークスと1993年5月29日のレールパードステークスでの7着以外は全て連対を果たしている)、サクラバクシンオーの最後のレースとなった1994年12月18日のスプリンターズステークスに出走。しかし、アメリカでは一般的ではなかった右回り、芝のコースに適応できず7着と敗れた(第4コーナーで膨れた煽りをまともに受けてしまい、曲がり切れなかったのが敗因。但し、主にダートでの出走が多かったものの、芝のコースでもまた6戦出走してうち5勝《唯一の芝での敗戦がそのスプリンターズステークスだった》を挙げている為、苦手というよりかは寧ろ得意であったと云える)。

帰国後、1995年6月17日にカリフォルニア州イングルウッドのハリウッドパークで行われたワルキューレハンディキャップに出走(前年もこのレースに出走しており、勝利を果たしている。尚、このレースも芝コースである。鞍上の騎手は2戦ともクリス・マッキャロンで、彼は1988年の第8回ジャパンカップで当時勢いに乗っていたタマモクロスの連勝を8で止めた伏兵馬ペイザバトラーの騎手として知られている)。このレースがソビエトプロブレムの現役最後の出走であったが見事勝利を果たし、有終の美を飾った。


オリジナルウマ娘

ドイツ出身の競走馬(1990年1月13日生まれ。厳密には当時のドイツ連邦共和国《西ドイツ》の出だが、その9か月後の10月3日に東西ドイツが統一された)。

生涯戦績は23戦10勝(ドイツ国内17戦7勝、ドイツ国外6戦3勝)。

主な勝ち鞍はドイチェスダービー(GⅠ)(1993年。祖父のズルムーが1977年に、当時ドイツ屈指の強豪馬と謳われた父のアカテナンゴが1985年に同レースを制している為、親子三代でドイツのダービー制覇を果たしている)、バーデン大賞(GⅠ)(1993年、1994年)、ハンザ賞(GⅡ)(1994年)、ジョッキークラブ大賞(GⅠ)(1994年)、ミラノ大賞(GⅠ)、メルクフィンク銀行大賞(GⅠ)(1995年)、そしてジャパンカップ(GⅠ)(1995年)。ドイツ国内外でGⅠを7度制覇しており、1994年、1995年にはドイツ国内の年度代表馬にも選出されている。

また凱旋門賞にも2度出走(1994年、1995年)しており、1995年時には4着入線を果たしている。

尚、1995年のジャパンカップはランドにとって現役最後のレースであり、この頃は5代目三冠馬のナリタブライアンを始め、1997年に安田記念を制覇するタイキブリザードや同年の高松宮杯を制したマチカネタンホイザ(因みに翌1996年より高松宮杯はGⅠへと格上げ《距離も芝2000mから1200mに短縮》された為、最後のGⅡとしての高松宮杯の覇者でもある)、歴戦の猛者であるナイスネイチャ(此方も当時GⅡだった、1994年の高松宮杯の覇者である)、そしてメイヂヒカリ以来3年連続で年度代表馬に選出された「女傑」ヒシアマゾン等の錚々たるメンバーが揃っていた。

しかしランドはそれらの猛者と壮絶に競り合い、最後は直線で粘るタイキブリザードや鋭く追い込んで来たヒシアマゾンを交わしてゴール。有終の美を飾ると同時に史上初にして現在に至るまで唯一の、ドイツ出身馬によるジャパンカップ制覇という偉業を成し遂げた。

引退後は母国ドイツで種牡馬としてパオリニ(イタリア共和国大統領賞、ミラノ大賞《共に2001年》、ドバイデューティフリー《現・ドバイターフ。2004年》)やプリンスフローリ(2006年のバーデン大賞。ランドと共に親子2代で制覇)等、主に牡馬で重賞制覇を果たす競走馬を輩出した。

因みにランドの父方の祖先は、趣味として大の競馬好きとしても知られ、最期を迎える直前までサラブレッドの品種改良に力を入れていたナチスドイツの総統アドルフ・ヒトラーが所有する「トラケーネンファーム」という大牧場に居た軽種馬育種である事が近年証明された。

なお、ジャパンカップ勝ち馬の馬名はその後二度と使用できない規則があるが、2001年に同名の馬が日本の障害レースに参戦。これはジャパンカップ勝ち馬のランド(Lando)と障害馬のランド(Rand)はスペルが違う為に、このような事例が発生した。


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