概要
「軍上層部に反抗し命を賭して特攻を拒否した指揮官」などと高く評価されている、美濃部正少佐に率いられた夜間戦闘機隊である。だが、後世に美濃部本人を含む多くの脚色がなされている。
部隊の編制と戦術
大日本帝国海軍航空隊戦闘804飛行隊、戦闘812飛行隊、戦闘901飛行隊の3飛行隊により編成されている。編成当初は第3航空艦隊の関東海軍航空隊の所属であり『関東空部隊』と称されていたが、沖縄戦開戦によって九州に進出し第5航空艦隊の所属となってからは『芙蓉部隊』(もしくは芙蓉隊)と称するようになった。
『芙蓉』とは、芙蓉部隊が訓練をしていた藤枝基地から富士山が見えるため、富士山の別名である『芙蓉峰』に因んでいる。
部隊の司令官は『関東空部隊』のときは関東海軍航空隊司令官、『芙蓉部隊』になってからは所属する第131海軍航空隊の司令官であったが形式的なもので、実態は3飛行隊の飛行隊長で現場の指揮官であった美濃部正少佐が指揮をしていた。
『芙蓉部隊』は彗星(爆撃機)と零式艦上戦闘機合計約70機で編成されていた。他に藤枝基地(現在の航空自衛隊静浜基地)に訓練用の予備部隊として約40機を保有している。
彗星については斜銃を搭載した夜間戦闘機型彗星一二型戊、零戦についても、重武装重装甲で空戦重視型の52型丙が優先して配備されているが、これは芙蓉部隊が“一応”夜間戦闘機隊扱いであったからである。
彗星は日本の航空機としては数少ない液冷エンジン『アツタ』を搭載していたが、特殊資材の不足などによって『アツタ』の生産が滞っており、大量のエンジンなしの彗星の機体が生じることとなったので、生産が順調であった空冷『金星』エンジンを搭載した空冷型三三型が、『アツタ』エンジン彗星と並行して生産されることとなった。
しかし、『金星』エンジン彗星は空気抵抗の増大によって上昇能力や加速性能の低下が見られたので(航続距離だけが燃費向上により延伸している)、優先度の高い航空隊には引き続き高性能の『アツタ』エンジン彗星を配備することとし、特に本土防空の任務にあたる夜間戦闘機隊には、液冷エンジンゆえに高高度性能が通常の日本軍機よりは高い夜間戦闘機型彗星一二型戊が優先的に配備されたものであった。
のちに美濃部が自分の著書などで、彗星を「殺人機」とか「各航空隊で見捨てられて放置されていたガラクタをかき集めた」などと回想しているが、これは美濃部が、彗星の事実無根の難癖を広めたことによる完全な風評被害である。
芙蓉部隊は“一応”夜間戦闘機隊扱いであったので、上記の通り高性能の彗星一二型戊が優先的に配備されているが、美濃部はせっかくの斜銃を取り外させ、通常の爆撃機として運用していた。(のちに米軍の夜間戦闘機に一方的に撃墜される機が増えたことから、夜間戦闘機対策として一部の機に再装備させている。)また重武装重装甲の空戦能力重視型零戦52型丙についても、敵戦闘機との制空戦闘は一切させず、敵艦船や飛行場への機銃掃射や偵察任務を行わせており、夜間戦闘機隊とは名ばかりであった。
それに夜間戦闘機隊と標榜しても、別に機体に特別な夜間装備があったわけでもなく、単に「夜間に作戦行動する」というだけのなんちゃって夜間戦闘機隊でもあった。
それでも“一応”戦闘機隊扱いであった芙蓉部隊に、海上特攻を行う戦艦大和の護衛任務が命じられたことがあったが、美濃部はこれを「夜間戦闘機隊に護衛任務は不可能」といって拒否している。諸説あるものの、結局大和には同じ海軍からまとまった数の護衛機が付くことはなく、芙蓉部隊ら同じ海軍から見捨てられた大和を不憫に感じたのか、陸軍の第6航空軍の菅原道大司令官が四式戦闘機約40機を付近の制空権確保のために出撃させているが、圧倒的な数の米軍艦載機によって大和は沈められた。
戦術
指揮官の美濃部はラバウルにいたときに、戦闘で精神を病んでしまったかつての教え子から水上機で敵基地を夜襲したいと申し出られたのをヒントにして、比較的に消耗が少なくて熟練搭乗員が多く生き残っている水上機の搭乗員を零戦に乗せて敵の空母を夜襲するという作戦を思い立った。
しかし、細かい戦術というのは特に考えておらず、敵空母が油断している(はずの)寝込みを襲って甲板上に並んでいる艦載機を発艦前に攻撃して誘爆させて、最後は機体もろとも敵空母の飛行甲板に滑り込んで(つまり特攻して)大火災をおこさせて、友軍の攻撃を呼び込むといった行き当たりばったりで、最後は他力本願の特攻戦法であった。
しかしながら、大戦後期の米海軍機動部隊は、各艦に高性能レーダーを装備し、その情報を集約する艦隊旗艦のCIC(戦闘指揮所)で常時集中管理されており、夜間だろうが寝込みだろうが油断している時間帯など存在しなかった。また、各空母には夜間戦闘機隊(芙蓉部隊機の様ななんちゃって夜間戦闘機ではなく、機上レーダーも装備したガチの夜間戦闘機)が配備されていた上、夜間戦闘機隊だけを搭載している夜間戦闘専門の空母群もあって、万全の夜間対策を講じており、美濃部の構想は、米軍の夜間戦闘力を知らずに妄想しただけの絵に描いた餅に過ぎなかった。
また、一部で美濃部が少数機によるゲリラ戦法をとっていたと言われることがあるが、美濃部の理想は「敵が迎撃できないほどの多くの機数による飽和攻撃」であり、実際に偵察任務(敵を発見したら攻撃するといった索敵攻撃任務も含む)は別として進攻作戦においては可能な限り可動機全機を出撃させている。
のちに命令によって敵飛行場も攻撃するようになったが、当初美濃部が敵飛行場を目標としていなかったのは明らかで、芙蓉部隊を編成する前の第301海軍航空隊、第302海軍航空隊、第153海軍航空隊の飛行長であったときにいずれも敵空母を目標とした訓練を行っており、302空と153空のときには実際に敵空母を目標として出撃も行っている。終戦時に美濃部がまとめた芙蓉部隊の作戦報告書『芙蓉部隊天号作戦々史』には芙蓉部隊の対敵飛行場戦術として、「敵戦闘機隊が飛行準備ができていない夜間特に黎明期に襲撃して銃爆撃により殲滅する」とか記述しているが、これは後付け設定である。
レイテ島の戦いのときには、富永恭次司令官率いる陸軍の第4航空軍が、海軍の機動部隊程は夜間対策を整えておらず、且つ上陸直後で警戒体制不十分で「飛行準備ができていない」状態の米軍飛行場を、主力の四式戦闘機などで連日夜間爆撃し、大量の航空機や燃料を爆砕したうえ、最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が寝泊まりしていた軍司令部兼宿舎の邸宅を何度も爆撃して命の危険に曝し、さらには揚陸したばかりの大量の弾薬や軍需品も爆散させ、一時期はレイテ作戦の先行きを不安視させるほどマッカーサーを追い込んでいる。(富永の人物面での悪評に引っ張られて、この第4航空軍の善戦は無かったことににされてしまっているが)
海軍の他の航空隊も陸軍航空隊と同様に敵飛行場の夜襲を行っていたが、そのときの153空は、同じ飛行場の他の海軍航空隊が敵飛行場夜襲に出撃しているなか、指揮官の美濃部が敵飛行場攻撃にまったく関心を示すことなく、敵空母への夜間攻撃や魚雷艇狩りを行っている(いずれも戦果はなし)。
芙蓉部隊編成後には、今まで温めてきた敵空母への特攻戦術を具現化すべく、新兵器を積極的に採用している。なかでもロケット弾や、目標に着弾する寸前に弾頭の光電管が反応して爆発し、目標に破片をまき散らして殺傷効果を増大させる光電管信管爆弾がこの部隊の特色として挙げられているが、新兵器だけに信頼性が低く事故が多発し、またのちには損害の続出によって殆ど使用できなくなっている。(詳細後述)
沖縄戦開戦当初、芙蓉部隊は敵空母を目標としながらも接触することすらできず、やむなく敵輸送艦隊なども目標としたが戦果を上げることができなかった。
そんなとき、米軍が確保した沖縄の飛行場に戦闘機を多数配備して特攻機への迎撃が激烈化すると、艦船攻撃ばかりに集中している海軍が陸軍から「もっと飛行場も攻撃してくれ」と苦言を呈されるようになった。
陸軍からのクレームもあってやむなく海軍は、艦船攻撃では戦果が上がっていない芙蓉部隊を敵飛行場攻撃に回すこととしている。(「陸軍としては海軍の提案に反対である」などとネットではいじられキャラ的な立ち位置の日本陸軍だが、こと沖縄の航空戦に関しては、第6航空軍司令官の菅原道大中将が航空の専門家だったこともあって陸軍の方が現実的な対応であったりする)
これ以降、芙蓉部隊は海軍の命令によって(つまり自発的な意志ではなく)特攻作戦である『菊水作戦』の支援のため、陸軍の重爆撃機と共に敵飛行場攻撃を主任務することとなった。
しかし、敵空母夜襲想定の訓練を行ってきた芙蓉部隊員にとって、突然に攻撃目標が変更されたことになり、戸惑いも大きかった。これは全く逆の立場とはなるが、地上攻撃の訓練を積んできた陸軍航空隊搭乗員が、『万朶隊』や『富嶽隊』といった対艦特攻隊に任じられながら、慣れない対艦特攻で戦果を挙げられないまま壊滅していった状況と酷似している。(『万朶隊』の『不死身の特攻兵』こと佐々木友次伍長が特攻を拒否し、通常攻撃で敵艦を撃沈したとか主張しているが、米軍に該当の損害なし)
さらに、フィリピンで陸軍の第4航空軍が米軍飛行場の夜襲で大戦果を挙げていた時より米軍の夜間戦闘力は各段に向上しており、芙蓉部隊は大苦戦を強いられていくことになる。(詳細後述)
特攻拒否について
特攻を拒否して通常攻撃での夜襲に拘ったとされているが、まず、美濃部はそこまで強固な特攻反対論者ではない。
上層部に対する反抗も「我々は特攻を怖れるものではないが、今の特攻は無駄死だ!特攻特攻と空念仏を唱える前にもっと有効な戦術を考えろ!!」と含みを持たせており、上記の通り芙蓉部隊の敵空母への戦術は特攻作戦であった。
美濃部が反対していたのは、特攻を常用の作戦として行うことであって、戦機を見て特攻隊を編成することはむしろ率先して行うべきと考えていた。
その考えに基づき特攻作戦の準備をおこなっていたが、硫黄島の戦いのときには明確に特攻を命じており、別れの盃を交わして、なぜか今までさんざん訓練してきた夜間出撃ではなく、敵空母に白昼に到着するような朝遅い時間に出撃させている。
結局、出撃機は敵艦隊を発見できずに特攻は失敗し出撃機は藤枝基地に引き返したが、敵艦載機に追尾されており、着陸後を狙いすまされて攻撃され出撃全機が撃破されてしまった。
美濃部は敵機を見ると素早く防空壕に逃げ込んで無事であったが、逃げる暇もなかった搭乗員と整備兵4人が戦死している。
その後も沖縄戦で別れの盃を交わした特攻出撃をたびたび命じるも、幸せか不幸か全て失敗している。それでも、自発的特攻などで4名が特攻戦死者として認定されて連合艦隊司令長官の感状を受けている。
また、芙蓉部隊は特攻編成から外されていたと言うが、一方で美濃部は特攻隊員の食事が通常の搭乗員よりも御馳走であることを聞きつけると、自分たちにも同じものを食わせろと難癖つけて認めさせているというダブルスタンダードも見られる。
そうしたおかげ(?)か隊員は自分達を特攻隊の一員と思っていた模様。
さらに芙蓉部隊は官給の豪勢な食料に加えて、周囲にあった農地や牧場から大量の肉や卵や野菜などの提供を受けており、食事内容は当時の日本軍人の中でも最高級のものであった。
指揮官の美濃部も、主計課の兵士がなけなしの砂糖をかき集めて、芙蓉部隊隊員の慰労のためにわざわざ作った汁粉を、甘くないと罵倒しその主計課の兵士を男泣きさせたなどと海原雄山のような食通エピソードも残しており、食通の指揮官のおかげで、芙蓉部隊隊員はビフテキだのコンビーフだの卵料理など戦争時においては高級食材を食べ、デザートに汁粉や果物缶詰だのも用意させるなど特攻隊員以上の豪華な食生活を送っていた。
本土決戦に備えては、美濃部自身が直卒する特攻隊で敵空母に体当たりし、残った地上要員には航空爆弾で敵戦車に自爆攻撃をするなどの特攻戦法を多数立案している。
その中には「作戦機の主翼にたっぷりと爆薬を詰め込んで飛行爆弾にする
(そもそも飛べないだろ)」「上から爆弾を吊り下げて敵戦車が近付いたら自爆(美濃部は空雷とか名付けていたが、当然原神とは関係ない)」「最後は大量の爆薬を準備して地元住民も道連れに大爆発(はた迷惑すぎだろ)」
というアイデアマン?の美濃部らしい、(当然に悪い意味で)独創性に溢れ、ツッコミどころ満載の特攻戦術もあった。
命をかけて特攻に反対した( ー`дー´)キリッ!!とは一体何の冗談だ?
なお、これらの作戦は美濃部単独で考案し、特攻出撃させられる予定の搭乗員や自爆させられる整備兵、巻き添えで自爆に巻き込まれる地元住民には何の話も無かったという。
なお、美濃部が軍上層部に特攻反対を主張したと言われる会議については、美濃部の著書を含めこのエピソードが登場する資料によって、会議の開催者や会議のあった日や美濃部の主張内容や美濃部が反論した人物などかなり相違している上(美濃部が終戦直後に作成した芙蓉部隊の報告書『芙蓉部隊天号作戦々史』には特攻に反対したという記述はないなど)、そもそもこの会議自体、美濃部の回想(とそれを引用した書籍等)以外にソースがない。
また、多くの芙蓉部隊隊員は、戦時中にはこの美濃部の特攻拒否の方針など聞いておらず、戦後に「自分たちが特攻隊ではないと言われたことはない。もし戦時中にそんなことを言えば大変なことになってたはず」とか「自分たちは特攻隊員として毎日過ごしていた」とも話しており、本当にこの会議があったのかなどの詳細は不明である。
戦果について
太平洋戦争末期の日本軍航空機が通常戦闘では碌な戦果を挙げられなくなっており、有効率の高い特攻で戦局の挽回を図っていたが、通常戦闘で戦果を挙げられなかったのはもちろんこの部隊も同じである。
あらゆるコネを活用し、口八丁手八丁で相応の規模の航空部隊を維持して、終戦まで作戦行動を継続できたことは純粋に評価できるが、だからと言って戦果には全くと言っていいほど繋がっておらず、ジリ貧に追い込まれてゆくのみであった。
報告上は「潜水艦撃沈1、戦艦1、巡洋艦1、大型輸送艦1を大破」などとしているが、米軍の損害報告には対応するものは全く確認できない。
美濃部は著書などで、現場の過大戦果報告に基づく大本営発表を小馬鹿にしていたが、芙蓉部隊隊員から報告されてくる戦果報告については「うちの隊員は(根拠はないが)優秀だから戦果報告は正確だ( ー`дー´)キリッ!!」「いや、うちの隊員は謙虚だから、実際はもっと戦果があがっているはず(希望的観測)」とただでさえ過大な部下の戦果報告を、さらに美濃部の妄想で膨らませて軍司令部に報告していた(失笑)。正に絵に描いた大ブーメランが美濃部に突き刺さっており、大本営発表を笑えないレベルの壮大な虚偽である可能性すら取り沙汰されている。
同様に芙蓉部隊が猛攻したとされる沖縄の米軍飛行場攻撃についても、陸軍の重爆撃機隊が、サイパン島の米軍飛行場を爆撃し、B-29多数を撃破するなどの輝かしい戦勲を誇る歴戦搭乗員も作戦に投入し、出撃するたびに確実な戦果を報告していたのに対し、まともに対地攻撃の訓練を受けておらず、またそのような運用はあまり想定されていない彗星やら零戦やらが主力の芙蓉部隊では、所詮は素人の付け刃的な運用であって、戦果報告は曖昧なものが多く、米軍側の記録でも芙蓉部隊が挙げたとされる戦果は全く確認できない。(美濃部が戦後になってから、米軍の公式報告書で、彗星たった1機の爆撃で600機!?の米軍作戦機が地上で撃破されたことを確認した。などと主張していたが、さすがに超兵器でも使わなきゃ無理だろう)
また、芙蓉部隊の戦歴で有名なのは、米陸軍の夜間戦闘機P-61「ブラックウィドウ」を撃墜したというものであるが、米陸軍の記録上では敵戦闘機によって撃墜されたP-61は1機も存在せず、また、芙蓉部隊が撃墜したと主張する日には非戦闘要因でもP-61の損失はあっておらず、艦船のときと同様に過大戦果報告に過ぎない。
「特攻は無駄死だ!特攻特攻と空念仏を唱える前にもっと有効な戦術を考えろ!!」などと大口をたたいたと自称している上、「無駄」とこき下ろしたはずの特攻まで命じておきながら、このざまというのは正直寂しいと言いざるを得ない。
具体的な戦果はなくとも、芙蓉部隊機が夜間に飛行場攻撃を続けることによって米軍を疲労させるといったハラスメント効果が大きかったとの擁護も見られるが、義烈空挺隊の攻撃成功で、最大限の夜間厳戒態勢を続けていた沖縄の米軍飛行場も、沖縄戦に見切りをつけた陸軍重爆撃機や海軍陸上攻撃機が沖縄飛行場攻撃から順次撤退していき、この部隊が攻撃の主力となってからは厳戒態勢を解除しており、米軍飛行場は夜中であろうが灯火管制などどこ吹く風で、照明を煌々と照らすなど全く警戒しておらず、残念ながらこの部隊にそのような“縁の下の力持ち”的な貢献すらできていなかった。(詳細後述)
一方で芙蓉部隊は戦闘行動により、彗星37機と零戦16機の合計53機損失、また戦闘行動によらない故障や事故や地上撃破でも約同数の作戦機を失い、総損失は100機以上と多大な損害を被っており、搭乗員の戦死者も100人を超えている(なぜか、美濃部の著書やそれを引用した芙蓉部隊礼賛本などでは、非戦闘要因や地上撃破は損失機数に含まれておらずノーカン扱いだが)。
ときには「特攻を凌駕する戦果を挙げた」などと紹介されることもあるこの部隊ではあるが、4000人の特攻隊員が散華した代わりに、約20,000人の連合軍将兵を死傷させ、70隻以上の艦艇を撃沈もしくはスクラップにし、300隻以上の艦艇を撃破した特攻の戦果のどこを凌駕しているかは不明である。
しかし、美濃部の本領は戦果ではなく、それを軍上層部や上官に膨らまして報告し、それを真実として信じ込ませる天才的なプレゼン力と、常に自分や部隊をアピールし続ける優れた自己アピール力にあった。
フィリピン戦での第153空時代には、並み居る上官を前にして、夜間戦闘機月光に自ら搭乗し、戦闘訓練の旗振りをやってみせて褒められたり、敵空母や魚雷艇狩りの夜襲では全く戦果が無かったのにもかかわらず、直属の上官を飛び越えて海軍省功績調査部(部隊の戦功を評価する部署)に「夜間戦闘機での夜襲で大戦果を挙げた。これで新しい戦術を確立できた【からもっと評価して頂戴】。」という報告書を送り付けたり、寺岡謹平中将、大西滝次郎中将、有馬正文中将、宇垣纒中将などといった将官にもまめに接触して、積極的な意見進言をするなど上司とのコミュニケーションも欠かさなかった。(美濃部が現在のリーマンであれば、上司からの飲み会やゴルフの誘いは絶対に断らなかっただろう)
そのおかげで、美濃部や芙蓉部隊はその寂しい実績と反比例し、軍内での存在感を高めていくこととなり、補充や補給で異常とも言える厚遇を受けることになる。
『芙蓉部隊伝説』と実像との乖離
芙蓉部隊については、指揮官の美濃部がマスコミやジャーナリストなどに協力的であり、その主張にはどう見ても矛盾があったり無茶なのも多見されるが、あまり検証されることもなく、あたかも事実のように取り上げられている。特に航空戦に多数の著作を持つ戦記作家渡辺洋二と親しく、その著作に何度となく登場し、最後には“芙蓉部隊伝説”のバイブルでもある『彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団』という芙蓉部隊単独本まで出版されている。
今日一般的に広まっている芙蓉部隊の印象はこの『彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団』の記述によるところが大きいが、他公式資料等と比較するとその印象は実像とはかなりかけ離れている。
- 敵艦隊や敵基地への夜襲攻撃がこの部隊の独創と扱いされているが、むしろ芙蓉部隊が編制されたときには、夜襲攻撃は日本軍航空部隊の常套戦術として行われており、上記本文の通り、実際に多大な戦果を挙げている部隊もあった。
- この部隊が美濃部の“独創”でやってたという夜戦特殊訓練というのは、「猫日課」と称した昼夜逆転生活であったが(あとは、なるべく暗いところで生活して夜目を鍛えるという訓練?もしていたが、逆に眼が悪くなるだけだろ)、これは夜間攻撃を重視していた当時の日本軍が、別に特殊訓練なんて畏まらず普遍的に行っていたものであって、この部隊の独創でもなんでもない。昼夜逆転生活が特殊訓練なら、徹夜常習のネトゲ廃人の俺らやコミケの徹夜組の俺らも夜戦のスペシャリストになれそうである。あと、猫は夜行性じゃないんですが…
- 『夜襲』と言ったところで、レーダーを装備した米軍には丸見えであって、同時に的確なレーダー対策を行わないと夜襲の意味がないことは、大規模な夜間攻撃が行われた台湾沖航空戦の惨敗を見ても明らかであった。そのため夜間に出撃する特攻機は、海面すれすれを飛行したり、巧みに島影を利用するなどのレーダー対策で敵艦隊への接近に成功していたのに対し、この部隊は夜襲でありながら、航法の負担軽減や燃料節約として高度4,000m前後というレーダーにもっとも美味しい高度の飛行を基本としており、見つけてくれと言わんばかりであった。そのため、夜間戦闘機の配備が進んだ沖縄戦後半には米軍の夜間戦闘機に待ち伏せされて撃墜される機が続出している。
- 整備能力に長けて、難物『アツタ』エンジンをよく整備し、高い可動率を誇ったとされているが、この部隊の作戦報告書から所属機機数と可動機機数の推移を追っていくと、彗星の可動率は50%前後であった。(美濃部は70%~80%を主張)一方で、機材も部品もない南方最前線の基地では非常に低かった彗星の可動率であったが、この部隊と同じ日本内地の基地配属の彗星の可動率は60%前後と言われており(なかには100%を維持していた航空隊もあり)、この部隊の彗星の可動率が突出していたということはない。さらにこの部隊では、可動と認定されて出撃した機でも、機体やエンジンの不調で引き返したり時には墜落する機体も多かった。
- この部隊が指揮官美濃部の方針によって例外的に特攻を免除されたと紹介されることがあるが、全くの事実誤認であって、沖縄戦における海軍航空隊出撃機の延べ機数は、特攻機1,868機に対し、制空戦闘機3,118機、偵察機1,013機、通常攻撃機3,747機、通常作戦機合計7,878機と、特攻をしない一般作戦機の方が遥かに多く、この部隊もその一部にしか過ぎなかった。芙蓉部隊が第5航空艦隊から特攻を命じられなかったのは、実際の部隊運用は別として“一応”書類上は「夜間戦闘機隊」扱いであり、ほかの多くの制空戦闘機隊と同様の扱いであったためと思われる。
- 元々この部隊は対艦への夜襲攻撃を主任務であったが、全く戦果が挙がらないので沖縄の敵飛行場攻撃に回された。しかしそれを「敵基地夜間攻撃のスペシャリスト」として喧伝。それで先述の通り戦果と言える戦果は無かったが、逆に敵の空襲で10機以上の作戦機を地上撃破されるといったオチまでついている。
- 本来、地上爆撃が任務の陸軍の重爆撃機や海軍の陸上攻撃機もこの部隊と同様に沖縄の敵飛行場攻撃を行い、この部隊とは段違いの打撃を与えていたのに対して、対地攻撃には不慣れで有効なレーダー対策すらないこの部隊は損害ばかりが積み重なり、まともな戦果を上がることもできなかったのに、なぜかこの部隊が単独で米軍飛行場を悩ませていた様な扱いに。
- ちなみに沖縄のアメリカ軍飛行場が最大の打撃を被った1945年5月24日~25日については、陸軍が「義烈空挺隊」と重爆隊、海軍が陸上攻撃機部隊を多数投入して激戦が繰り広げられ、読谷飛行場では多数の航空機が破壊されて、航空燃料が大量に焼失して飛行場も一時使用不能になるほどの打撃を与えているが、スペシャリストであるはずの芙蓉部隊には出撃の声はかからず、隊員たちは美濃部の発案で大宴会。蛍観賞を酒の肴に、みんな芋焼酎で酔い痴れていたらしい。
- ロケット弾や光電管信管爆弾などの新兵器を率先して使用したとされるが、特にロケット弾については、低空飛行しなければ攻撃することができなかったので、米軍の濃密な対空砲火で撃墜される機が激増し、一時は作戦続行が困難になる水準まで兵力が減少している。それに懲りた美濃部はロケット弾による攻撃を諦めて、中高度からの当てずっぽうの爆撃と射程距離外から“嫌がらせ(笑)”の機銃掃射に作戦を改めており、対空砲火に撃墜される機は減少したが、こんなもので戦果があがるはずもなく、隊員からの戦果報告も曖昧なものが多くなって、美濃部の戦果膨らまし報告も常態化することになった。
- 九州各基地への米軍の空襲が激化したことから、第5航空艦隊が戦力の分散を企画し、その計画に従って、本土決戦準備の一環として特攻用の「秘匿基地」として前々から整備が進んでいた「岩川基地」に移動を命じられたこの部隊であったが、なぜか、第5航空艦隊の命令で移動しただけの「岩川基地」を、美濃部が探し回ってようやく見つけたことになっていたり、大本営の方針によって工事が進んでいた「岩川基地」であるのに、不時着用の飛行場として放置されていたとか、飛行場秘匿の工事についても、そもそも海軍の「空地分離」方針で飛行場整備には大した権限もない実績部隊指揮官の美濃部が独創で指示したことになっている。
- ちなみに「岩川基地」の秘匿化を褒めたたえる際によく持ち出される、滑走路上に草を敷いてカモフラージュするのは、「岩川基地」の半年以上も前に、日本陸軍の第4航空軍がフィリピンでやってたり、カモフラージュ目的で移動式小屋や植え込みなどを置いたりするのもマニュアル化されており、ほかの「秘匿基地」でも使われたりしている。
- 美濃部は岩川基地を牧場にカモフラージュしていたつもりだったが、実際には全く隠れてはおらず、米軍は飛行場造成中から偵察飛行を繰り返し、飛行場施設や機体を隠すバンカーなどどの位置も詳細に分析し、目標番号までナンバリングしていた。そもそも滑走路を小細工で隠しても、芙蓉部隊隊員や飛行場を造成している設営隊員合計4000人以上が生活する施設を全部隠すなど初めから無理であり、他の「秘匿基地」と同様に米軍からは丸見えであったことが戦後に判明している。
……と、実像はずいぶんと寂しいものになっている。
実際の戦闘に於いては殆ど存在感がなかった部隊であったのに、「芙蓉部隊はアメリカ軍を悩ませた神出鬼没の精鋭夜襲部隊」などという“都市伝説”を信じて、悲惨な結末となった日本海軍航空隊に一筋の光明を見出そうとするのは、太平洋戦争中に現れた未来兵器やら超兵器の活躍を描く“架空戦記”や“なろう系小説や漫画”を現実として受け入れているのに等しいものかも知れない。
所詮は、芙蓉部隊と指揮官の美濃部は巧みな処世術と時代時代が求めた英雄像が上手く合致してきた結果作り出された、一種のキャラクターのようなものであったと言える。
ではあるが、“一応”夜間戦闘機隊であったこの部隊に、軍上層からの特攻出撃の命令は出ていなかったとは言え、指揮官であった美濃部には硫黄島の戦いのときのようにいつでも特攻出撃を命じることができたわけで、それを“積極的”にはしなかったというのは、美濃部の『特攻は常用の作戦とすべきではなく、戦機に応じて必死部隊を編成すべき』という信念を貫いたとも言えるだろう。
部隊の顛末
他の陸海軍航空部隊が本土決戦準備で出撃を抑制するなか、芙蓉部隊が最後まで沖縄に全力出撃し続けた。しかし、その頃にはアメリカ軍もオリンピック作戦の準備で、沖縄よりむしろ九州への空襲や制空戦闘を重視しており、芙蓉部隊の微々たる攻撃などはアウトオブ眼中で、飛行場は夜中なのに灯火管制すらしておらず、どうにか夜間戦闘機をくぐりぬけた芙蓉部隊機が飛行場を爆撃しても、対空射撃はおろか消灯すらしない有様の舐めプであった。
そんな中でいよいよ終戦が決まり、日本軍将兵は玉音放送を聞くように命じられたが、よくも悪くも自由なこの部隊はその命令すら徹底されておらず、一部の隊員が命令通り放送を聞いていたのに対し肝心の美濃部は作戦会議と称して放送を聞いていなかった。
後に通信兵から終戦の事実を聞いた美濃部は、これまで「指揮官先頭の日本海軍の伝統を守らない特攻隊指揮官はつまらん奴らだ」とか「後から続くから待っててくれ」とかと使い古された台詞で部下達を送り出し100人以上を死なせた手前、簡単には終戦を受け入れられなかったようで、かつて仕えた海軍第302航空隊司令官小園安名大佐が主張していた「昭和天皇は周囲の重臣に騙されて終戦を決めた」などという陰謀論を信じて、部下を集めると徹底抗戦を命じた。
しかし、よくも悪くも自由なこの部隊(二回目)は、その美濃部の方針すらも全員には伝わらず、さらに「徹底抗戦」などとカッコいいことを言った美濃部であったが、やっぱり組織人として不安であったのかヘタレてしまい、零戦や彗星の武装を外したり、機体番号などを塗りつぶすなどの武装放棄の準備も命じており、隊員たちは「徹底抗戦とか言ってたのに丸裸で突っ込めとか言う気か?」などと口々に美濃部を批判し、部隊の混乱は深まってしまった。
一方で藤枝基地で訓練にあたっていた芙蓉部隊の分遣隊については、指揮官の座光寺一好少佐がしっかりと統率していた。座光寺は一部の将兵が動揺しているのを見るや、全員を集合させて、おもむろに拳銃を抜いて空に向けて発砲「きさまたちが海軍の伝統をけがすような行動に出たら、即刻射殺するぞ!」と一喝し、まるで映画の一場面でも見ているような鮮やかさで混乱を収拾している。
やがて第5航空艦隊司令部から指揮下の全部隊の指揮官に集合の命令があり、美濃部も意気込んで出かけたが、そこで司令官の草鹿龍之介中将から「(抗戦する気なら)まずこのわたしを血祭りにあげて、しかるのちことをあげよ。いけないと思ったら即座にやれ」と剣豪でもあった草鹿の身を挺したド迫力の一喝を受けると、他の指揮官同様にあっさりと徹底抗戦を諦め、全員で日本酒で乾杯したのち、美濃部はそそくさと引き上げた。
美濃部は岩川基地に帰ってくると隊員を集めて、「戦争は終わった。負けた!」と徹底抗戦断念を告げたが、よくも悪くも自由なこの部隊(三回目)は、一部の隊員が美濃部に焚きつけられて徹底抗戦を決心しており、「なんでそんな“コロッ”と態度が変わるんだ」「今さらそんなこと言われても」と嚙みついた。
対応に困った美濃部は泣きながら草鹿のマネで「戦おうという奴はオレを斬ってからいけ」と身を挺して説き伏せ、ようやく一部の隊員も抗戦を諦めた。
でもまだ美濃部本人に抗戦の未練があったのか、勤労奉仕で部隊で働いていた地元農家に頼み込んで、その農家の離れに食糧やら武器やらを運び込んで「進駐軍が乱暴をはたらいたらここを拠点に徹底抗戦する」とぶち上げたが、翌日に第5航空艦隊司令部にバレて叱責されたため、あっさりと撤収している。先生何やってんですか。
最後のドタバタはあったが、結局は芙蓉部隊も他の部隊と同様に整正と終戦を受け入れた。
指揮官の美濃部は「後から続くから待っててくれ」の約束も虚しく、結局出撃も自決することもなく生き延びた。戦後は「つまらん奴ら」と批判した旧軍人の伝手を頼って自衛隊に入隊。パイロット養成などをしながら空将(≒旧軍の中将)まで栄達している。
……が、このエピソードにもオチのようなものがあり、当初は自身がパイロットになる事を志すも、当時自衛隊に深く関与していた米軍関係者と反りが合わず断念。そのため日本人が自力で養成する必要性を強く訴えていたら言いだしっぺの法則的に命じられたという経緯で、別に天職とかそういった意識は無かったらしい。
晩年に美濃部は自讃に満ちた自伝を書いて「自分は命を賭して特攻に反対した」などと主張しているが、硫黄島の戦いのときなどに特攻を命じたことは当然ながら書いていない。
他にも特攻に対してはケチをつけまくり、「(特攻隊員は)女を抱かせてもらって士気を維持したらしい」などと根拠も無く風説の流布をし、特攻の責任を取って自決した宇垣纒や大西瀧冶郎や岡村基春らの特攻指揮官に対しては、「自己正当化のための自決」「戦後の生活苦のための自決」などと批判している。
これが下手に受けてしまったために上記のような「武勇伝」が広く信じられる事となった。
そうかと思えば「戦後のヒューマニズムと敗戦という結果だけで考察し、当時の状況を全く考慮していない的外れな特攻批判が多い」などとも述べていたりする。
晩年には、「グルメに浮かれる平成時代の日本人に世界平和を唱える資格はない!!今の日本の若者たちは生活を50%切り下げて飢餓民族を救え!!」などという主張も増えていた。戦時中は飢える国民をよそに芙蓉部隊隊員が美食にふけっていたことを考えれば、絵に描いたようなお前が言うなである。
遺稿を遺した後は、孫に囲まれて81歳で天寿を全うし、幸せな人生を送っている。
評価
戦後になって美濃部は、他の多くの旧軍人が「敗将兵を語らず」と戦争に対して口をつむぐなかで、積極的に発言を行った。
自衛官として昇進していく中でその発言力も増し、自衛隊内の広報誌や戦友会誌などに寄稿した他、戦史叢書などの戦史編纂にも関わり、自費出版で回顧録も出版した。さらに自衛隊を退職すると、その動きはさらに活発化し、マスコミやジャーナリストに加えて、渡辺洋二、豊田譲、保阪正康、御田重宝 などの戦記作家や歴史研究家の取材もウエルカムで迎えた。
それら著書や取材などで、美濃部は旧日本軍と、戦時中に散々可愛がってくれた軍高官に対して高速手のひら返しで徹底的に批判や糾弾し続け、晩年には「侵略戦争を行った日本民族は反省すべき」などと、左翼的なスタンスのマスコミ等に対してはリップサービス的なポジショントークも行ったが、その主張内容と旧軍人で且つ高級自衛官という肩書が持て囃され、その反戦・反軍的な発言がうまく利用されていくこととなった。
そうして、事実とはかなり異なる形で高く評価されることとなった美濃部は、さらにサービス精神を発揮して、旧日本軍への糾弾を激化していった。
従って、美濃部の著作や主張などを見ていると、戦時中にこの人が戦っていた敵は、アメリカ軍ではなくて日本軍だったのではと錯覚(笑)するほどである。(この旧日本軍叩きの情熱の半分でも、戦時中に本当の敵のアメリカ軍に向けてればもう少し活躍できたんでは?)
一方で、戦記作家渡辺洋二らの著作によって、日本海軍の伝統“指揮官先頭”を実践する有能な前線指揮官という印象(かなりファンタジー要素が入っているが)が定着すると、旧日本軍を評価する保守派や、ミリタリーものが好きな軍ヲタからも評価されるようになった。そのため美濃部は、disられることの多い旧日本軍高級軍人のなかで、かなり稀な左右両方から評価されている旧軍人と言えよう。
特に美濃部が戦後になって自著等で、事実とは異なる「自分は戦時中も強硬に特攻に反対した」「自分が反対したおかげで“例外的”に芙蓉部隊は特攻を免れた」などと主張したため、特攻という作戦への嫌悪感にもうまく乗って、近年になっても様々な媒体でよいしょされている。
また、上記の通り全くの事実誤認ではあるが、なぜか「芙蓉部隊は特攻を凌駕するような大戦果」を挙げたなどとする事実無根の都市伝説が定着すると、特攻がいかに無駄で非合理的な作戦であったのかを証明する(実際は違うが)『特攻専用叩き棒』として、マスコミなどに愛用されるようになれ、担ぎ出されれるようになった。
戦後日本においては、価値観の劇的な変化もあって、特攻が否定的に捉えられるようになって『特攻を拒否した』というだけ(自称も含む)で、その活躍談がろくに検証されず無条件で受け入れられてきた。その象徴がこの部隊や、9回特攻に出撃して生還したとされる『不死身の特攻兵』こと佐々木友次伍長や、新鋭戦闘機『紫電改』を運用した第343海軍航空隊『剣部隊』などである。それだけ特攻という作戦が、多くの人から日本史上の悲劇として捉えられ、何とかして救いを求めたいという意識の現れであったのだろう。
このように美濃部は非常に自己アピールと、時代の流れを見極め時流に乗る能力に長けた人物ではあったが、しかし、それらは事実誤認に基づくものも多く、また美濃部の主張も時期や出典によっては変遷している。
それに、美濃部が「旧日本軍は侵略戦争を行った」と批判したところで、美濃部や芙蓉部隊もその片棒を担いだことには変わりなく、正に天に唾するブーメラン的な批判に過ぎない。
『芙蓉部隊伝説』の一番の問題点は、自己アピールがうまく声が大きい指揮官が喧伝する“幻の戦果”を、軍上層部がまともに検証することなく妄信して高く評価し、あからさまなえこひいきで、作戦機と搭乗員の補充や食糧の補給などで異常なほど優遇し続けたことであろう。(美濃部への上官によるえこひいきの判りやすい実例としては、美濃部が持病で寝込むことが多く、作戦指揮に支障をきたしていることを問題視していた第5航空艦隊の参謀が、美濃部を更迭するため、後輩の座光寺を後任に据えようと芙蓉部隊に転任させたが、焦った美濃部が掟破りで、参謀をすっ飛ばして司令官宇垣纒中将へ直接泣きつき、美濃部を可愛がっていた宇垣の判断で美濃部の更迭が撤回されたこともあった。)
芙蓉部隊のアンチテーゼである特攻が、ネガティブな日本面(軍事面・1868-1945)の象徴として語られることがあるが、芙蓉部隊も同様に、自己アピールが上手で上官に可愛がられた美濃部が高く評価されるといった「情実(情意)評価優先」や、その上官の情実評価に基づく誤った判断に現場が盲目的に従って、芙蓉部隊に異常な優遇を続けた「権力者に従順」というネガティブな日本面の発露であったとも言える。
また、その伝説が近年に至るまで全く検証されることもなく妄信され続けたところに、特攻に対する嫌悪感を上手く利用した美濃部の卓越したプレゼン力と自己アピール力の凄さが実感できる。
とは言え、美濃部が積極的に発言していたひと昔前であれば、国内外の詳細な情報を調査するのも困難で、いわゆる“言ったもん勝ち”なご時世でもあり、自己申告の活躍談で多数のヒーローが誕生したが、情報公開が進み、ネットも発達して、国立公文書館アジア歴史資料センターなどで詳細な戦史資料を気軽に閲覧できたり、海外の資料や情報も、現地に行かずとも比較的容易に調査できる時代になって“言ったもん勝ち”時代のヒーローたちが検証されており、美濃部や芙蓉部隊もその洗練を受けている最中である。
美濃部や芙蓉部隊を褒めるにしてもdisるにしても美濃部本人の主張やそれを根拠にした出典を鵜呑みにするのではなく、もっと客観的な事実に基づく評価が必要であろう。
練習機特攻について
美濃部は、その武勇伝として有名な(真偽はともかく)上記の特攻拒否宣言において「2,000機の練習機を特攻に狩り出す前に赤とんぼまで出して成算があるというなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦一機で全部、撃ち落として見せます」と味噌糞に練習機をdisってコケにしている
美濃部のdisりを真に受けて、偵察機や練習機まで特攻に投入した事は大戦末期の日本軍の戦力枯渇の典型的な事象としてよく取り上げられて批判されることも多く、戦争当時においても、沖縄戦で特攻戦を指揮した宇垣纒中将が「数あれど之に大なる期待はかけ難し」などとあまり期待をしていなかった。
しかし、練習機は機体に多くの木材を用いていたため、米軍のレーダーに探知されにくかったり、米軍の新兵器近接信管がまともに作動しなかったり、またレーダーで探知されても、「特攻機から追われている」という無線を聞いたある日本軍参謀が「特攻機を米軍艦艇が追い回してるんだろ」と聞き違えた程の飛行速度の遅さに、米軍が敵機となかなか認識できなかったなどというローテクがかえって米海軍の探知や迎撃を困難にし、美濃部の主張とは違って戦果を挙げることができた。
美濃部をフォローするのであれば、練習機が実戦で通用するなんて当の日本海軍も期待はしていなかったので、美濃部がその“活躍”を予想していなかったのも仕方ないと言える。
…………がこの部分は美濃部のビッグマウスだったかどうか。というのも、日本の戦闘機は欧米機に比べて翼面荷重が低く失速速度が異常に低いため(日本の搭乗員が高い高いと言っていた雷電や鍾馗で米艦上機のF6Fと同じぐらい)低速機の迎撃が容易なわけで……米軍にしてみりゃ「ゼロの感覚で言うな」と言ったところはある。
また練習機搭乗の特攻隊員というのは言い方を変えれば練習機しか搭乗経験の無い者であり、ぶっつけ本番に近い形で「ハイテクな」機体に乗せるくらいなら多少は乗りなれた機体のまま戦地に出した方がまだマシという「合理性」もあった。
実際、大西洋方面でも複葉機で布張りの旧態依然としたイギリスのフェアリーソードフィッシュ雷撃機の低速さはドイツ空軍の戦闘機がエンジンを絞り、フラップを下げ、更に脚まで出して速度を落とさなければならない程であり、対空砲火も速度を見誤り手前で爆散する有様で、また主翼・機体に銃弾を命中させても布製で貫通するだけなので、パイロットかエンジンに命中させないと確実に撃墜できないとされるタフさでドイツ軍を梃子摺らせている。
海軍練習機(「赤とんぼ」こと「九三式中間練習機」「白菊」)は63機を失い、115名の特攻隊員が戦死したが、一方で挙げた戦果はなかなかのもの。
- 撃沈
1.駆逐艦ドレクスラー
2.駆逐艦キャラハン
3.輸送駆逐艦(高速輸送艦)バリー
4.中型揚陸艦 LSM-59
- 大破
駆逐艦シュブリック
駆逐艦カシンヤング
- 撃破
駆逐艦ホラス・A・バス他
この7隻で米軍は273名の戦死者と280名の負傷者(死傷者合計553名)を生じている。(他にも撃破艦がある可能性もあるが詳細は不明)
米海軍も本来なら戦力に数えない旧式の練習機に痛撃を被ったことを重く見て
- 木製や布製でありレーダーで探知できる距離が短い
- 近接信管が作動しにくい(通常の機体なら半径30mで作動するが、練習機では9m)
- 対空機関砲の弾丸が木や布の期待を貫通してしまうため効果が薄い
- 非常に機動性が高く、巧みに操縦されていた
と詳細にその要因を分析したうえで、「高速の新型機以上の警戒」を全軍に呼びかけている。
米海軍史の大家サミュエル・モリソン少将も「特攻は、複葉機やヴァル(九九式艦上爆撃機)のような固定脚の時代遅れの航空機でも作戦に使用できるという付随的な利点があった」と特攻という戦術ではどのような航空機でも戦力となると指摘している。
対する美濃部が率いる芙蓉部隊の「戦果」は先述した通り、艦船に対する戦果は絶無である。
主張すればするほど、かえって特攻が正当化されてゆくとさえ言えかねない状況である。
なお、この練習機による特攻にさらにオチを付けるような話が朝鮮戦争で発生している。
北朝鮮側が木造の練習機で夜間にゲリラ的空襲を行って米軍基地への爆撃に成功した。
この時爆音を消す為に、爆装練習機は爆撃の少し前に一旦エンジンを停止させ滑空、そのままレーダーにもひっかからず爆撃してのけるという思わぬ離れ業を演じ、米軍は慌ててサーチライトを手配する事態になっている。
ちなみに、「まともに育てておけば優秀なパイロットになれたものを……」といった批判もありがちなものであるが、これもまた的外れと言える。
大真面目に「一億総特攻」「一億総玉砕」などと掲げた時点でそんな未来は潰えており、国民全員が正しい意味での鉄砲玉になっていたのだから。
後は「使われる」順番が早いか遅いかだけの問題である。
それに芙蓉部隊の戦死率もかなり高く、特攻隊ともあまり変わらず(特攻隊は出撃しても会敵せずに帰還することが多く、意外と戦死率は高くなかったりする)「優秀なパイロット」になれないのはこの部隊も特攻隊もあまり変わらないというつらい現実もある。