永倉新八
ながくらしんぱち
- 生:天保十年四月十一日(西暦1839年5月23日)
- 没:大正四年(1915年)1月5日
※年月が漢字の場合は旧暦、数字の場合は新暦を示すものとする。
※正確には本姓は「長倉」で、「永倉」は脱藩後の自称であるがこの項目では「永倉」で統一する
永倉新八、江戸に生まれる。
永倉新八は松前藩士で江戸定府(松前ではなく江戸に在勤する藩士)、福山藩取次役である長倉勘次の嫡男として生まれた。百五十石取りである武士の子として八歳の頃には既に竹刀を握り、神田猿楽町にて岡田利貞(岡田十松)が構える剣道塾、撃剣館に教えを受け、数えで十八歳の頃には神道無念流、本目録を授けられる。
が、永倉は剣技を磨いた自分の実力が如何ほどか実際に試してみたくなり、同期に入門した神道無念流の門弟も、次男三男は特に次の塾へと教示を改めて行った為、嫡男という事で藩邸に留められていた永倉は十九歳の春、堪りかねて藩邸を脱出してしまう。無論ながらこれは脱藩行為であり処罰対象なのであるが、松前藩は剣の道こそ武士の本懐であると、鷹揚に見て目こぼしした。
そうして江戸の本所亀沢町にて百合本昇三が営む神道無念流百合本塾に寄宿する事となった永倉は、四年の歳月を掛けて大いに剣術を研鑽した。二十二の歳には神道無念流の免許を得ているのだが、困った事にそうなると今度は現在の自分の実力が他の国では如何ほどのモノなのか試したくなり、同じく松前藩同門の浪人である市川宇八郎(後の靖兵隊隊長である芳賀宜道)と連んで二十五歳の春、今度こそ江戸から出奔してしまう。此処まで来るといっそ清々しい。
江戸を出て各地で武者修行をしながら渡り歩いた永倉はその年の内に江戸へと舞い戻り、伊庭秀業(伊庭軍平。伊庭八郎の父)の門弟で坪内道場を構える心形刀流門下の坪内主馬に師範代就任を依頼され、これを受けた永倉は陽が明けてから暮れるまで門弟をしごきつつ、出稽古に出ては名のある剣人と剣を交えまた出先でも門弟をしごき上げ、自然と近藤勇とも交友を暖める事となり後、永倉は近藤勇が道場主である試衛館の食客となる。また、新撰組にて後年に永倉の伍長となる島田魁は坪内道場の弟子であり、従って永倉とは師弟の関係にあった。
一方で世情としては嘉永六年(西暦1853年)、黒船でペリーが来日し、徳川幕府は恫喝に近い開国要求をソックリそのまま呑むという一国の政府としてあるまじき弱腰を晒し、いよいよ以て世間は倒幕だ勤王だ攘夷だと囂しくなってくる。
そして文久三年(西暦1863年)三月、時の天皇である孝明天皇が攘夷の意を鮮明にし将軍、徳川家茂に上洛を命じ、この上洛の途に同行する尽忠報国の士が清川八郎の発案により、板倉勝静の名で徴募された。この浪士組の前身に予てから佐幕攘夷の思想を持っていた永倉は天然理心流の面々を誘い浪士組へと参加する事となり、会津藩預かりとなって一路、京都へと上がる事になる。そして清川八郎が意見相違(幕府の命を借りて尊皇倒幕の兵、即ち浪士組を徴募し暗躍していた事が露呈した)から板倉勝静の命で佐々木只三郎によって粛正されると、折から京都在勤にて攘夷運動を行うと申し入れていた十四名は隊名を改めた壬生浪士組にて、局長に芹沢鴨、新見錦、近藤勇の三名、副長に山南敬助、土方歳三の二名を抱き、永倉はその下の副長助勤に任ぜられる事となる。屯所は京都壬生村に置かれた。
文久三年五月に十四名から始まった壬生浪士組の役職一覧は、同年六月の時点で以下の通りになる。
氏名 | 役職 | 派閥 | 合流時点 |
---|---|---|---|
芹沢鴨 | 局長 | 芹沢派頭領 | 江戸から上洛 |
新見錦 | 局長(後に副長へと降格) | 芹沢派 | 江戸から上洛 |
近藤勇 | 局長 | 近藤派頭領 | 江戸から上洛 |
山南敬助 | 副長 | 近藤派やや中道 | 江戸から上洛 |
土方歳三 | 副長 | 近藤派 | 江戸から上洛 |
沖田総司 | 副長助勤 | 近藤派 | 江戸から上洛 |
永倉新八 | 副長助勤 | 近藤派やや中道 | 江戸から上洛 |
原田左之助 | 副長助勤 | 近藤派やや中道? | 江戸から上洛 |
藤堂平助 | 副長助勤 | 近藤派やや中道 | 江戸から上洛 |
井上源三郎 | 副長助勤 | 近藤派 | 江戸から上洛 |
平山五郎 | 副長助勤 | 芹沢派 | 江戸から上洛 |
野口健司 | 副長助勤 | 芹沢派 | 江戸から上洛 |
平間重助 | 副長助勤 | 芹沢派 | 江戸から上洛 |
斉藤一 | 副長助勤 | 近藤派やや中道 | 江戸から上洛 |
尾形俊太郎 | 副長助勤 | ? | 京都で合流 |
山崎烝 | 副長助勤 | ? | 京都で合流 |
谷三十郎 | 副長助勤 | 島田魁の槍術同門 | 京都で合流 |
松原忠司 | 副長助勤 | ? | 京都で合流 |
安藤早太郎 | 副長助勤 | ? | 京都で合流 |
島田魁 | 調役 | 永倉と親しい | 京都で合流 |
川島勝司 | 調役 | ? | 京都で合流 |
林信太郎 | 調役 | ? | 京都で合流 |
岸島芳太郎 | 勘定方 | ? | 京都で合流 |
小関弥平 | 勘定方 | ? | 京都で合流 |
河井耆三郎 | 勘定方 | ? | 京都で合流 |
酒井兵庫 | 勘定方 | ? | 京都で合流 |
壬生浪士組の結成。
文久三年(西暦1863年)、京都、大阪にて続々と佐幕、勤王の志士が募りだし俄に治安が悪化し出すと、大阪奉行も壬生浪士組に取締方を依頼してくる事となり、壬生浪士組もこれを快諾し、永倉も含めた二十名ばかりを選抜すると大阪へと降る。
七月十五日、芹沢鴨の提案で大阪取締の面々は船下りによる涼みに出かけた。参加したメンバーは芹沢鴨、山南敬助、沖田総司、永倉新八、平山五郎、斉藤一、島田魁、野口健司の八名だが、船着き場で降船した芹沢鴨が現場に居合わせた大阪力士と道を譲る譲らぬから始まった口論で、最終的に脇差しによる抜き打ちにてこれを殺害するに至る(但しこの頃の大阪は武士を何かにつけて蔑視する角界の風潮というモノがあり、これは芹沢鴨が仕掛けた喧嘩とも言い難い)。更に同じ様な力士にもう一人、遭遇したが永倉らはこれを殴り捨て、一方で船下りの途中、体調を崩した斉藤一を介抱する為に遊郭、住吉屋に登楼していると夜、俄に下が騒がしくなった。昼間の一件を知った力士六十名が八角棒を持ち怒りに任せて報復に来たのである。手元には体調を崩した斉藤一が居り、そして豪放磊落な芹沢鴨の上には万に一つも逃亡はあり得ず、血の気に逸って脇差し片手に身を乗り出し階下へと飛び降りた芹沢鴨に続いて残る六名も飛び降り抜刀。即座に斬り合いになると、永倉も力士一名を切り捨て他の面々も大いに武士の面目を保つ戦い振りにて六十名の力士はたまらず潰走した。恐らくこれが永倉新八に於ける真剣での緒戦という事になるであろうか、永倉の負傷は味方である島田魁が振った脇差しの切っ先が左腕を裂いたのみの軽傷のみであった。壬生浪士組側は何れも軽傷、他方の力士側は六十名中、死者五名、重軽傷者十六名という散々な有様であった。(※筆者註:上記の船着き場にて行われた力士斬り捨ては同じ永倉の記録である浪士文久報国記事、並びに島田魁筆島田魁日記だと「両者を殴り倒した」とされており、新撰組顛末記とで若干の差異が見られる。此処では新撰組顛末記の文章を基に記した)
この顛末の後、芹沢鴨は近藤勇に相談して大阪奉行、松平信敏(松平大隅守)に「武士に対して無礼を働いた何者とも知れぬ五、六十名の集団を相手取って斬り合いになった。再び左様な事があれば今度こそ一同で根切りにする」と報告していた所、後に同じく角界の年寄りが惨状を報告して来たが、大阪奉行は「相手は会津藩預かり、京都の壬生浪士組である。武士による理不尽の無礼から切り捨てとあれば非があるのは其方である」と沙汰がおり、この一件は壬生浪士組の斬り得という事になった(しかも詫び金まで取った)。
芹沢鴨の殺害、新撰組結成される。
文久三年(西暦1863年)八月十八日、公武合体を唱える会津藩は同じくの薩摩藩と組んで、尊皇攘夷思想である長州藩の主立った公家七名を京都から追放するという事件が起きる。これを八月十八日の政変(七卿落ち)と呼ぶが、そうして壬生浪士組も下向する長州藩士が狼藉を働かぬよう蛤御門を固め、この功績より松平容保から新撰組の隊名と切り捨て御免の特権を得た。
だがこの頃、片腕であった新見錦が切腹に追いこまれると芹沢鴨はそれより隊の事なぞ一瞥もせず日がな一日、乱暴狼藉をほしいままとして、鬱憤が隊内で爆発寸前となる。朝廷からも行動が目に余ると芹沢鴨の捕縛命令が下されており、そうしてやむなく近藤勇は土方歳三、山南敬助、藤堂平助、沖田総司(※刺客については諸説有り)の四名を刺客に選び芹沢鴨を粛正するのである。文久三年九月十八日夜、芹沢鴨死去(副長助勤で芹沢派の平山五郎もこの折、同時に殺害された)。
永倉は芹沢鴨と同門(神道無念流)で芹沢とも親しかった事から刺客から外されたか、事後にその報告を聞く事になる。この時は内々で粛正された事とせず「賊(長州藩士)によって殺害された」と発表された。そうして此処に近藤勇を頭領とする一頭体制の新撰組が完成する。
池田屋事件にて永倉、最前線を戦い抜く。
同じく文久三年、新撰組の名を賜った九月二十五日、永倉は折より泳がせていた長州藩の間者である御倉伊勢武、荒木田左馬之助、越後三郎、松井竜次の四名から暗殺されそうになるも辛くも難を逃れ、翌、二十六日、近藤勇の許可を得て斉藤一、林信太郎の両名を従えて、永倉は先ず御倉伊勢武、荒木田左馬之助を殺害する。続く越後三郎、松井竜次の二名は取り逃がしたが、同じく長州の間者であった楠小十郎を捕縛の末、原田左之助が殺害した。
そうして大立ち回りを経た文久三年が過ぎ、元号が改まっての元治元年(西暦1864年)、六月の五日に島田魁、浅野藤太郎、山崎烝、川島勝司の四名が長州藩士の潜伏所を強襲し古高俊太郎を捕縛すると、土方歳三がこれを厳しい拷問の末、六月二十日、長州藩士によるクーデターの自白に成功させる。六月の中旬、強風の日を選んで京都に火を放ち、動乱に乗じて京都守護職、京都所司代と佐幕派の中川宮を斬殺し、孝明天皇を長州へと奪って倒幕の倒幕の旗印とするという過激な内容である。
その報せを受けて新撰組は即座に長州藩士の潜伏先である池田屋へと踏み込み、永倉は最前線にて近藤勇、藤堂平助、沖田総司と共に池田屋に正面から突入すると、池田屋の二階に潜伏していた長州藩士二十余名と交戦する事になる。これが世にいう池田屋事件である。
先述の通り不意を打って新撰組が強襲した池田屋の二階には三十名ばかりの長州藩士で溢れかえっており、窮鼠となった面々は死中に活を求める必死の勢いで剣を抜き新撰組との乱闘になった。藤堂平助はずれた鉢金を直す瞬間に打ち込まれて眉間を負傷、流血で視界を奪われた窮地を永倉に救われる。藤堂平助の救援として相対し切り倒した長州藩士で永倉は四名を斬った計算になるが、永倉もこの四名目を切り倒した時点で自身の大刀が折れ、長州藩士が所持していた大刀を分捕って再び応戦した。また、この時点で沖田総司が持病(肺結核?)を拗らせ戦闘不能となった為、藤堂平助と共に池田屋の外へと出して新撰組は両名を欠いての戦闘となる。
最終的に新撰組は池田屋にて投降した長州藩士八名を捕縛したが、池田屋から帰還する折に、殊に永倉などは敵を切り捨てた返り血で深紅に染まり返って、優に五日を経過してもその鬼神振りを囁かれる程であったという。また、実際に池田屋にて計画されていた八月十八日の政変の巻き返し政権簒奪は長州藩だけでなく他藩の陰謀も様々に荷担されての事象であった事が後の自白から明らかになり、この計画が明るみに出てかつ新撰組が大勝を収めなければ徳川幕府と明治維新の政局は一年、縮まっていただろうと囁かれた。
禁門の変勃発。永倉、建白書の提出。
そうして謀略による政権奪還が水泡に帰し、業を煮やしたか長州藩は遂に有形力を率いての武力行動に出る。宍戸備後、益田得右衛門介、真木和泉、福原越後など長州藩の要職にある面々が京都に藩兵三百名を率いて出陣して来たのである。蛤御門の変(禁門の変)である。それまでの新撰組の任務としては主に治安維持や逮捕といった警察活動が主であったのだが、永倉自身も含めて軍事面に於ける新撰組の行動はこれが緒戦となる。対する京都守護職の会津藩は八月十八日の政変で協力関係にあった薩摩藩と連絡を取り、会津藩が二百名の兵を、幕府見回り役が三百名の兵を拠出する。更に新撰組は会津藩の幕下に編入されて遊軍、或いは特殊部隊として活躍する事となる(この時、永倉ら副長助勤以上の役職にある人物は甲冑が用意された)。蛤御門の変にて新撰組は長州藩に破られ掛けた蛤御門を奪還、更に潰走する長州藩を追走するなどの働きを見せ、長州藩の征伐に大役を買う事となる。永倉は腿に銃弾と刀傷を受けているが戦線から脱落することなく最後まで戦い抜いた。
尚、この事変の折、薩摩藩から徴募された侍大勝に西郷吉之助が居たという事実には、後の歴史を知る者として唯々、驚かされるばかりである。最後の徳川将軍である徳川慶喜が「当初から倒幕の姿勢を顕わにしていた長州は許せるが、時勢で掌を返した薩州は許せん」と後に発言しているのはこうした理由がある。
以上の通り新撰組は八面六臂の活躍を見せるが、芹沢鴨暗殺以来から新撰組の主権を恣にしていた近藤勇の隊士への家来に当たるかのような態度に、次第に隊内でも不満の声が上がるようになってくる。殊に永倉は当初、清川八郎の浪士組に合流した意志である公武合体、並びに攘夷思想を重視していた為、現状の新撰組の、まるで幕府と近藤の走狗のような政治的立場にも眉をひそめる所であり、このままでは新撰組の存続も怪しいとして会津藩主、松平容保に建白書(非行五ヶ条)を提出する下りとなる。この建白書提出に同調の動きを見せたのは副長助勤である斉藤一、原田左之助、そして調役である尾関政一郞、島田魁、葛山武八郎の計六名で、直々に松平容保に対して、
「右五ヶ条(筆者註:建白書の記載五ヶ条)について近藤が一ヶ条でももうしひらきあいたたば、われわれ六名は切腹してあいはてる。もし近藤のもうしひらきあいたたざるにおいては、すみやかにかれに切腹おおせつけられたく、肥後候(筆者註:松平容保)にしかるべくおとりつぎありたい」
(「新撰組顛末記」P.133より抜粋)
と宣言した。この急を告げる事態は一先ず松平容保の取り成しによって和解となったが、「新撰組に集った面子は組織行動の仕来りとして役職こそ持つものの、一つの思想の元に集った同志であり其処に上下はない」という永倉の考えから次第に近藤勇との関係は隙間風が吹き込む事となった。また、度重なる激戦を経て隊士不足となった新撰組に江戸にて藤堂平助の仲介で伊東甲子太郎ら北辰一刀流の面々が合流し、殊に藤堂平助は伊東甲子太郎と謀って近藤勇を暗殺し新撰組の実権を奪取しようという動きまで出始める。此処に来て新撰組は佐幕、勤王といった思想の違いなどで割れるのである。
こうして元治元年(西暦1864年)十月二十七日、江戸にて伊東甲子太郎ら五十名の隊士を編入した新撰組は隊の構造を一新せしめる。
新撰組の太陽、山南敬助切腹。油小路事件。
だが、やはり尊皇攘夷の思想を強く持って浪士組に志願した最古参の山南敬助が諸々の理由に耐えかねて遂に脱走する。隊の法規によれば無断脱隊は切腹である為、永倉は沖田総司によって連行された山南敬助を惜しんで、自らは見ぬ振りをするからと再度の脱走を勧めるものの、その志を篤く受け止めつつ脱走は固辞し、山南は見事に切腹して相果てる。介錯人は同じく沖田総司であった。元治二年二月二十三日の事である。享年三十三歳。新撰組にあって希有な鷹揚たる太陽の如き人物を失ったこの事件については永倉も堪えたようで、新撰組顛末記では涙ながらに筆を綴っている(同じく永倉の肉筆本である「浪士文久報国記事」では山南の切腹について触れられていない)。
さて、時は前後するが嘉永七年三月三日(西暦1854年3月3日)、日米和親条約によって横浜、函館、長崎を開港する事が決定し、この決定に際して幕府側の不手際があったとして朝廷が幕府の人事権に介入するという事件が起きる。また先の蛤御門の変にて朝敵となった長州側の責任を追及する幕府の姿勢も腰砕けにて一向に定まらず徒に日々を消費するままで、徳川幕府の命も最早これまでと西郷隆盛は薩摩国に帰国して国論を倒幕に固めるのである。慶応二年七月二十日には将軍徳川家茂が崩御、同年十二月二十五日には倒幕に控え目であった孝明天皇が相次いで崩御するという時勢も追い打ちをかける。
が、依然として新撰組に名を置く永倉はというと三条橋制札の警備(慶応二年九月十二日、三条制札事件)や長州藩士の取締でやはり白刃の下を潜り抜け、身を粉にして任務に励んだ。その甲斐あってか慶応三年六月十日、新撰組は会津藩預かりから幕府直轄組織へと出世を果たし、晴れて武士の仲間入りを果たすのである。
その後、伊東甲子太郎が薩長の密偵になると偽って離脱した折に自らの息が掛かった藤堂平助、実弟である鈴木三樹三郎ら十二名を率いて高台寺へと居を移し近藤勇を暗殺しようと企んだが(「御陵衛士」の結成)、これは同行した斉藤一による密告で明るみに出る事となり、逆に伊東甲子太郎は大石鍬次郎に暗殺される。
日を同じくしたその夜、帰りが遅い伊東甲子太郎の身を心配して尋ねてきた藤堂平助らも永倉らが殺害する。慶応三年十一月十八日、油小路事件である。永倉自身は藤堂平助と相対し、しかし予てから近藤より藤堂は有意の士である事から生かしておきたいと云われていた事もあって意図的に包囲を緩め逃がすが、それと知らぬ隊士の三浦常三郎が追ってこれを相打ちの形で殺害してしまった。
そして、新撰組の働きはさておいてそれ以外の政治的動力によって徳川幕府は大政奉還によって日本国主の座から退く。慶応三年十月十四日である。こうなると佐幕派として最前線で切り捨て御免を働いていた新撰組は一転して公権力から追われる身となり、一身に怨嗟の声を受ける事となるのである。去る十一日に於いては屯所を引き払って大阪に降るよう命令が下り、永倉も身動きできぬ状況の中で、永倉と誼を通じていた島原遊郭、亀屋の芸妓である小常が永倉の長女であるお磯を出産するも、産後の肥立ちが悪く落命。永倉はこれを大変、不憫に思うが政治の大局にあって動静がつかず葬儀には参加できないまま埋葬の手当金を渡し、小常を松川通りの新勝寺に埋葬させる。が、乳母が機転を利かし生後間もないお磯を担いで永倉に面会を申し出てきたので、晴れて永倉親子は邂逅を果たした。
永倉はこの乳母に対して五十両の金を渡し江戸、松前藩藩邸の永倉嘉一郎を頼るよう申しつけている。この折、今生の別れになるだろうと、鬼と呼ばれた永倉も涙を隠せなかったと云うが、激動の幕末を生き抜いた永倉は明治二十年、京都にて女優となっていた長女、尾上小亀と再会を果たすのは後の話である(後年、動乱を生き延びた永倉が永倉嘉一郎にお磯の事を尋ねると存ぜぬという回答が出た為、手渡した五十両を着服してお磯は売られたのだろうと予想されている)。
慶応三年も四日ばかりで間もなく暮れるという年の瀬、とぐろを巻いていた怨念の頂点にある新撰組局長である近藤勇が元御陵衛士の阿部十郎、佐原太郎、内海次郎らに鉄砲にて狙撃され右肩を負傷する。以後、近藤勇は大阪城二の丸で傷の養生に専念し、局長不在の間は副長である土方歳三が指揮を任される事になった。また、この頃には一番隊隊長の沖田総司も持病の肺結核が悪化し大阪へと搬送されており、従って本来であれば副長の筈の土方歳三が隊長代行に就任し、自動的に二番隊隊長の永倉が副長代行を勤めるに至っている。
鳥羽伏見の戦い。
明けて慶応四年(明治元年、西暦1868年)、正月祝いと灘の酒樽を開いて居た所、伏見の幕府陣屋を見下ろす事が出来る御香宮神社麓に薩摩藩の藩兵が大砲を四門、引き上げ砲撃を開始した。鳥羽・伏見の戦いの開幕である。この砲撃によって誠に迷惑な事ながら京都伏見にある目立った建物は全て狙い撃ちにされ、霰玉に焼夷弾にと玉も種類に事欠かず、最早猶予無しと土方歳三は応戦の命令を下し、新撰組も自らが所持する一門の砲で応戦しながら永倉が率いる二番隊は決死隊として山の麓に陣取る敵陣へと切り込む事になる。永倉は直ちに伍長の島田魁、伊東鉄五郎に命じて軍勢を整えるとすぐさま突撃し、薩摩藩兵は三町ばかり追い立てられて後退した。しかし薩摩藩兵は撤退間際、火を放ったのでやむなく永倉らは撤退する。
尚、重い武装を纒い火に迫られ、塀まで追い詰められた永倉を、怪力の島田魁が難なく引き上げて塀の上へ登らせたというエピソードがある。
結局、野戦でこそ勝勢にあるものの依然として砲撃の手は休められず全体として敗戦色が強い新撰組と会津藩兵は淀へと撤退した。そして鳥羽・伏見の戦い本戦にて新撰組は淀堤、千本松に居陣する。これには薩摩藩兵が対陣し鉄砲にて砲撃を加えるが、対する新撰組は鉄砲の数が足りずまたもや永倉以下、甲冑を脱ぎ身軽となった状態で抜刀して決死隊を結成、薩摩藩兵に斬り込みを掛ける(淀千両松の戦い)。しかし長い距離を追撃すれば後方と連絡を絶たれる恐れがある新撰組は距離を取って常に砲撃を続ける薩摩藩兵に対して次第に劣勢となり、淀城にも入城を断られた事から幕府軍は大阪へと撤退。
無事、大阪に撤退が完了すると新撰組は副長土方歳三が五十名を率いて橋本宿を固め、永倉は斉藤一と同じく二十名を伴って八幡山に着陣する。が、坂本宿は新政府軍の手に落ち土方は撤退、連絡がつかぬ永倉と斉藤の隊は撤退が遅れ八幡山から敵中突破に等しい撤退戦を繰り広げる事になるのである(橋本の戦い)。永倉、斉藤一、土方歳三は大阪城にて再開を果たすが、再度の戦端は開かれず初めから隠居の身を決めていた徳川慶喜が主な幕臣をあれやこれやと口八丁で纏め上げ軍艦、富士山丸と順動丸にて離脱、一路、江戸へと出向してしまう。一月十日の事である。
敗戦色が強くなった上に薩摩藩陣地に燦然と錦の旗が翻ったことで幕府軍の士気も地へと落ち、こうなると新撰組も大将不在のままで大阪に駐留する訳にはいかず、やむなく富士山丸と順動丸に同乗して東下する事となり、こうして鳥羽・伏見の戦いは幕府軍の敗戦という形で幕を閉じる。尚、鳥羽・伏見の戦い緒戦から淀千両松の戦い、橋本の戦いにて六番隊隊長、井上源三郎や永倉自らの伍長である伊東鉄五郎ら隊士十四名が戦死している。
新撰組、江戸に東下し甲府鎮撫隊へ。
徳川慶喜に随行して江戸に戻った新撰組は暫しの暇を与えられ、永倉ら隊士一同も深川の品川楼で豪遊に耽るが、ふと静寂を求める気分になって品川楼から出でて小径をぶらついていると三人連れの侍と行き当たり、永倉は酔っていたので「これは失礼仕った」と頭を下げそのまま通り過ぎようとしたが、相手方が「失礼で済むか!」と食って掛かったものだから永倉も「なにをっ」と刀に手を股立ちになり掛け応じると、相手はそのまま歩き去っていく。そうして永倉も刀から手を離し何事もなくぶらぶらとしていると先程、通り過ぎた筈の奴輩が抜刀して油断した永倉の背から大上段で斬りかかってくるのを、(恐らくは品川楼の)若い衆が気が付き「や、旦那様!?」と叫んだので永倉は後ろも振り返らず抜刀して相手の刀を半身で受け止め流すと、返す刃で相手の横面を斬り込み絶命させた。永倉は目の下を浅く切ったのみで、残りも来いと叫んでみれば残された二人の侍は肝を潰してそのまま遁走する。
永倉は気にすることなく洲本品川楼に戻ると隊士一同が永倉の目の下にある傷を目に止め、永倉が事の経緯を説明すると土方歳三から「かるい身体でござらぬ。自重さっしゃい」と一言の叱責を受けるに至った。
さてその頃の日本の政情はと云うと尾張徳川家が勤王として当初から立場を鮮明としていた為、薩長土の倒幕隊が早くも東海道を江戸に向けて出立していた。この時、フランスは幕府に対して同情的で、対してイギリスは薩長を後援するという体勢を取っていた為、長く外国の干渉を受けると後の新政府成立後、要らぬ茶々が入りかねないと新政府軍の西郷隆盛と幕府軍の勝海舟が内々で示し合わせて可能な限り外国の干渉を除外した上での早期の江戸城無血開城を試みていた。そしてその頃の新撰組と云えば、甲府城を奪還した上で徳川慶喜を其方に移すという案を近藤勇が提出し、幕府側は賛成の意を表明し新撰組に対して隊士の補充、並びに軍備と軍資金の下付を行うが、その実は江戸の無血開城に向けてその意向に対して相反する断固とした抗戦思想を持った近藤勇の、体の良い厄介払いであった。
そうして永倉を含めた新撰組は新たに甲府鎮撫隊という役目と名を持って明治元年三月一日、甲州街道を進んだが、新政府軍の進軍は新撰組のそれを優に上回っており、甲府城は戦わずして新政府軍の手に落ちる事となる。小さな衝突として甲州勝沼の戦いがあったが、この戦いは新撰組側の脱走兵が後を絶たず、幕府旗本が来援するという虚報で脱走者を食い止めるも勝敗は火を見るより明らかであった。
更にこの甲府への進軍に自軍への虚報でもって隊士を欺いた事が知れ、斥候に出た永倉が帰参した時には兵糧すら十分でなかった事から他の隊士は既に陣払いの末、自らの判断で小仏峠の方角へ撤退していた。永倉と原田左之助は大いに驚き即座に馬を駆ってようやっと吉野宿にて撤退した隊士に追い付き説得を試みたがこれが上手く行かない。更に局長の近藤勇が追い付くが、この頃には信望が地に堕ちていた近藤の言に耳を傾ける人間は一人として居らず、永倉と原田も八王子まで出向き説得に尽力するが一同は新撰組への復帰の意志が皆無で、会津藩に身を預け徳川の為に奉公しようというので、では最後にその旨と改めた暇乞いを近藤勇に告げるよう説得し、遂に近藤も首を縦に振り、隊士の扱いは永倉と原田に任せた上で江戸にて合流する事で解散するのである。
近藤勇の信望、地に着き新撰組瓦解。靖兵隊の旗揚げへ。
前述、近藤勇と江戸にて落ち合うと定めたものの、待てども近藤は現れず、隊士も新撰組を見限って三々五々に散り散りとなり、最後に残ったのは永倉、原田左之助、島田魁、矢田賢之助など十名ばかりであったという。これらの残党は会津藩に投じようと決議し、永倉の発案で松本良順から三百両の軍資金を借り入れ、この資金でもって近藤勇も含めた新撰組隊員を今一度、招集して集団で会津に向かう事となった。
かくして永倉の説得は功を奏し、新集団を結成して会津へと向かう段になって今度は近藤勇が合流に対して首を縦に振らない。それどころか「我カ家来ニ相成ルナラ同志イタスヘク左様ナケレハゼヒナク断リ申」という始末である。
結局、近藤勇は会津への合流を突っぱねるばかりで説得に赴いた永倉らとは遂に物別れとなり、一方で近藤勇は土方歳三に励まされて再度の決起を思い立ち「大久保大和」の偽名を使用して流山にて脱走した幕府兵を糾合するも、官軍に加わっていた伊東甲子太郎一派の残党である加納鵰雄によって偽名である事を看破されてしまい、最終的には新政府軍へと投降する事となる。が、しかし慶応四年四月二十五日、長州藩士を数多く斬った怨嗟を受けてか早々に板橋にて斬首される。以後、この時に流山で徴募した人員を率いて新撰組は土方歳三を部隊長と抱く部隊となるが、土方は最後まで自身を「副長」と称し貫いた。
一方、近藤勇と決別した永倉は期する所あって深川冬木町の弁天社内に居住する剣士、芳賀宜道を訪ねる。彼こそは永倉が若かりし頃、共に諸国を巡って剣術の研鑽に励んだ市川宇八郎であり、市川は強烈な攘夷論者で藩論とソリが合わず暇を出され、芳賀家の養子になっていたのである。永倉は再び芳賀宜道と一隊を築き会津を枕に戦死を遂げようと、靖兵隊を成立する。靖兵隊には永倉と共に新撰組を脱退した原田左之助、林信太郎、前野五郎、中条常八郎、松本喜三郎、矢田賢之助らが合流し、其処に諸藩の脱走兵や旗本など五十名ばかりがたちどころに集い、再び一つの組織として動き出すに足る人員が揃うのである。
靖兵隊、戊辰戦争に参戦。
慶応四年四月一日、遂に江戸城が無血開城すると靖兵隊もその前日、会津へと奔走するが、原田左之助だけは妻子への愛着に翻意し職を辞した上で江戸へと帰参。彰義隊に参加した上で、上野にて戦死する(※但し生存説有り)。
永倉が属する靖兵隊は岩井宿を経て室宿へと進み、小山で新政府軍を破り鹿沼宿に到着する。其処で幕府兵を率いる大鳥圭介(土方歳三とその麾下の新撰組はこの時、大鳥圭介の幕内にあった。故に此処で靖兵隊は新撰組と共闘している)、並びに会津藩兵を率いる秋月悌次郎と合流し宇都宮を攻めた。(戊辰戦争、宇都宮の戦い)。此処でも永倉は鳥羽・伏見の戦いの如く抜刀隊の先頭に立って塀を乗り越え敵陣へと斬り込むと、宇都宮城の城兵は総崩れとなって壬生へと撤退するに至る。永倉の戦い振りは此処まで着ると最早、鬼神である。
宇都宮城から撤退した新政府軍は壬生にて土佐藩の藩兵と合流して体勢を整え、逆に宇都宮を得た幕府軍は宇都宮より出でて幕田ヶ原に着陣した。矢田賢之助の斥候で情報を得つつ四月二十四日、折からの雨をついて幕府軍は壬生城を攻めるが、幕府軍は弾薬を湿らせて鉄砲が使い物にならず、そう来ると永倉は十八番の抜刀隊を結成してまたも先頭に立ち敵の銃弾をかいくぐって攻め入る。しかし今度の新政府軍は兵力も勝り士気も高く、兵数で以て周到に戦を仕掛け圧迫してきた為、劣勢に陥った幕府軍は幕田ヶ原を放棄して宇都宮城に撤退したが、此処でも堪えきれず宇都宮を破棄。日光街道を走って今市宿に寄りて負傷者を手当てすると(重傷者が存外と多かったが永倉は此処でも軽傷であった)、早急に会津の城内へと入った。
会津に入った靖兵隊は幕府軍の直轄組織として扱われ、永倉は日光街道の茶臼山に陣取った新政府軍を追い払うよう命を受けると、間道から忍び寄り抜刀して新政府軍へと斬り込み、逃げる兵士は随伴した臨時徴募の漁師五十名に狙撃させるという戦法を採って緒戦で勝利を収める(壬生の戦い)。
そうして戦機は熟し慶応四年四月二十一日、遂に新政府軍と幕府軍が正面衝突と相成る。永倉は靖兵隊を率いて今川宿の新政府軍を攻めたが、敵の砲火にて新撰組時代からの盟友である矢田賢之助が顔面に銃弾を受けて死亡。永倉は戦友の首を取られまいと銃弾が飛び交う中を這って矢田の首を切り取り、その首を抱きかかえながら指揮をとったが、その日は勝敗がつかず日暮れと共に戦闘は終了。精兵揃いの靖兵隊もこの日の戦闘で戦死者二十名、負傷者三十名を数えるまでに至った。永倉は隊を纏め上げ引き上げると高徳宿まで撤退し、戦友の亡骸を高徳寺に埋葬した。
また、散発的な戦闘でも永倉は胸壁(防塁)に潜伏した上で大刀にて兵に登った新幕府軍の兵士を刺し殺し、慌てて撤退する小隊を靖兵隊の隊士と共に抜刀して鬼怒川まで追い上げ多数を溺死させるなど、全く以て明治の世に刀一本による大活躍を成し遂げている。
四月二十一日、幕府軍総督の命により即刻、日光東照宮を新政府軍から奪還せよと命令が靖兵隊に下り、この命に対して永倉と芳賀宜道は、靖兵隊は主力として残し指揮を林信太郎、前野五郎の両名に託して、日光東照宮奪還は会津藩兵を借りて行う事とする。そして両名は会津若松城下に入り一泊すると翌朝、新政府軍の砲声にて新政府軍が既に会津若松城下へと迫っている事を知る。城下は既に大混乱で会津若松城の兵備も厳重に固められて出入り不可能になっていた為、両名は原隊へと踵を返す事となった。
高徳宿に引き返す途上、永倉らは幕府軍の総督らと偶然、落ち合い此処で雲居竜雄に、共に米沢藩へと赴き救援の兵を挙げてそれを指揮して欲しいと嘆願され、永倉ら両名もこれを快諾して雲居竜雄を含めた三名は一路、白石路を走って米沢へと急ぐ。
米沢藩の関所では厳しい警備が敷かれていたが、関所を警備している鉄砲隊の中に新撰組で共に戦線を駆け抜けた近藤芳助を発見し、共に同行したいという近藤芳助も加えて四名で米原藩に到着する。しかし、米原では佐幕派と勤王派が甲論乙駁を未だに繰り返しており一向に藩論が纏まらず徒に日々を過ごし、同年九月に会津若松城は遂に落城するのである。
これによって永倉、芳賀は最早、米原に留まる意義はないと、雲居竜雄から百石取りで上杉家に仕官の伝手を造るという話を丁重に断って、町人や百姓などに化けて苦労の末、失意の元に江戸へと帰参する事になった。
尚、永倉らが残した靖兵隊は一部を除き近藤隼雄が率いる新遊撃隊に編入されて十月一日、水戸城を攻める弘道館戦争に従軍するが一日で敗退。敗走先の銚子にて高崎藩に降伏してその役割を終えている。
永倉、江戸に帰還し松前藩に帰順。
その後、芳賀宜道は江戸にて妻の実兄で官軍の脱走兵取締を行っていた藤野亦八郎と酒の末に口論となり切り捨てられ、遺体は菰に巻かれた上で河に投げ捨てられるという憂き目に遭い、実の兄ながらこれは余りの所業であるとの妻の懇願で、芳賀宜道の仇討ちに肩入れするも身の危険を感じた藤野亦八郎は函館への転勤を願い出て、この赴任の途中に病没したので仇討ちは沙汰止みとなった。
とまれ、永倉も江戸で身分を偽って潜伏するには気苦労絶えず危険も多いと十分に悟り、実家である松前藩への帰参を願い出て、明治二年二月、松前崇広の家老である下国東七郎の計らいでこれが聞き入れられ、百五十石で歩兵のフランス式練兵を担当する事になった。
だが永倉が休養で江戸をふらついていると伊東甲子太郎の実弟である鈴木三樹三郎と運悪く出逢い、その場でこそ剣の腕はさほどでもない伊東三樹三郎は永倉に適わぬと思ってか何事もなく別れたものの、その日以来、永倉の身辺をつけ回す人間が現れ、そしてある日、雲居竜雄が斬首の上で梟首に処されていると聞き連れそれを見て、いよ以て幕府の命運は尽きたと血涙を流し、鈴木三樹三郎の一件から藩に迷惑を掛ける訳にはいかぬと暇乞いを願い出る。
が、それを聞いた松前藩は永倉に同情的な姿勢を示し、下国東七郎が松前藩の藩医である杉村松柏が婿養子を一人、欲しているという斡旋を仲介する。鈴木三樹三郎も杉村松柏がいる函館までは流石に追えぬだろうという配慮を永倉は有り難く頂戴し、杉村家への婿入りを決めるのである。
永倉新八、杉村家の婿養子に。
明治三年3月、永倉は江戸(当時は既に東京)を出て杉村松柏の養子、杉村新八(治備)となり、4月1日からはフランス伝習隊の調練を担当(箱館戦争は明治二年5月18日に終戦している)。明治八年には杉村家の家督を継いで名を杉村義衛(よしえ)と改め、明治十五年10月に樺戸監獄の剣術師範に招聘され同十九年まで当職を勤め上げた後に辞職。同年に上京の途上、函館にて戦死した土方歳三、伊庭八郎の剣友を弔い、米沢では雲居竜雄の妻女を訪ね、上京してからは牛込に居を構え剣道場を開いて剣術指導に励んだ。
明治の世になってからは過去の事を語る事も殆ど無くなり、友と呼べるような存在も持たず密やかに暮らしたという。かと思えば島田魁によると彼が明治二十年秋、西本願寺の夜勤中にヒョッコリと訪ねてきたとも云い、かつて駆け抜けた戦場の模様を来訪したりもしていた模様。明治三十二年になると妻子が小樽にて薬局を営んでいた為、再度、小樽に転居。以後、小樽にて人生を尽くす。
「新撰組」の永倉新八
数多の戦場を駆け抜けた新撰組の隊長就任者では、斎藤一、鈴木三樹三郎と共に幕末を生存して生き抜いた人物であり、晩年には自らの手によって著書「新撰組顛末記」を纏め、新撰組の名誉挽回、並びに現代へと続く人気を築き上げる大役を買う。近藤勇と袂を分かちながらも新撰組を敗軍の一組織に終わらせなかった大の恩人でもあり、自らの手で近藤勇、土方歳三両名を筆頭とした新撰組の慰霊碑を板橋の寿徳寺に建立した一途な人間でもある。同時に「新撰組顛末記」と自らの日記である「浪士文久報告記事」は幕末の史料として織田信長に対しての信長公記に比する第一級史料となった。
同じく新撰組から離脱した元隊士である阿部十郎(但し上記の通り阿部十郎は伊東甲子太郎と共に御陵衛士として新撰組から離脱している為、立場は永倉と大きく異なる)の言では、剣の腕について「一に永倉、二に沖田、三に斎藤の順」としている。
自らをして「自分に剣以外の才能はない」「竹刀の音を聞かないと朝食が喉を通らない」と明治開国後も各地で剣術指導に励んだ。大正二年、東北帝国大学農科大学(現北海道大学)の剣道部部員が永倉の話を聞きつれ指導を依頼したが、御年七十三を数える永倉の高齢を慮って固辞を薦めた家族に対して「型を教えるだけだから」と出向いた所、道場の熱気に当てられたのかやはり家族の心配通り自ら竹刀を取り、逆に身体を痛めて学生に介抱されて帰ってきたという話が残っている。
墓所は北海道小樽市入船町の量徳寺だが現在、一般参拝者の墓参は禁じられている。妻は杉村松柏の娘であるおきねで一男一女に恵まれ子孫は現代に名を連ねており、平成十六年には永倉新八、九十回忌が量徳寺にて行われ、永倉新八の孫と曾孫の手にて九十回忌の石碑が除幕された。
余談
・和月伸宏の漫画『るろうに剣心』では、新撰組の生き残りの一人である斎藤一が登場していたが、実は永倉も登場させる予定であったことがインタビューで明らかにされている。その『るろうに剣心』の新作が2012年に連載されることが決定したため、もしかすると永倉が登場するのかもしれない。
・上記の通り永倉を含めた新撰組の面々は悉くの長州藩士を手に掛けており、後に薩長同盟から政権与党へと返り咲いた長州藩士から蛇蝎の如く嫌われた新撰組が今日、この様な評価を受けるというのは全国的にも椿事である。近藤勇が流山にて新政府軍に投降(自首)するも斬首刑に処されたのは、それまで長州藩士を数多く切り捨てて来た為と云われている。
・上記、池田屋事件では多くの長州藩士が死したが、かの有名な坂本龍馬が殉死したのは近江屋事件であり、また永倉の手記である浪士文久報国記事や新撰組顛末記でも坂本龍馬についての記載は全く見受けられない(唯一、新撰組顛末記P.34に「(前略)佐々木只三郎はのちに坂本龍馬を斬った男で(後略)」とある)。坂本龍馬と新撰組の関係は今日も闇の中である。
・上記、慶応三年に近藤勇が鉄砲にて襲撃されその療養の為、大阪に下ると新撰組隊長の役割は副長である土方歳三に委ねられるが、土方が所用などで不在の折には副長代行として永倉が土方の任務を担当していた(慶応三年の時点で一番隊隊長である沖田総司は療養の為、新撰組から離脱している)。非行五ヶ条の提出にて近藤勇との仲は冷え込んでいた永倉ではあるが、新撰組の万人がそうであるように土方歳三とは終始、親しかった様子である。
・永倉新八の死因は「虫歯を原因とする骨膜炎、敗血症」であり、有名人としては極めて稀な虫歯を起因とした死亡である。歯はよく磨こう。
・勤王派でありながら属していた藩が佐幕派で政争の末、利用された挙げ句に斬首された河上彦斎という存在もあり、佐幕派の筆頭であった永倉が長寿を得た点と対比するだに、げに運命とは残酷なモノかとも思う。
・著書を精査するだに、数多の戦場を潜り抜けた永倉が最も肝を冷やしたのは鳥羽・伏見の戦いの後半戦、橋本宿に陣取った土方歳三の本体と連絡が切れ斉藤一と共に孤立する中、八幡山からの敵中突破であった様子である。
・何事に対してもがむしゃらな性格をしていた為、「がむしん」という渾名を付けられていた。勝てば官軍の東京で近藤勇、土方歳三両名からなる新撰組隊士の供養塔を建立するなど、その渾名は如何にもである。
・若い頃は坪内道場の師範代として稽古や出稽古にと頻繁に剣道の面を付けては外してを繰り返していた為、自然と髪が後ろに流れ総髪気味になっていたという。
・池田屋事件にて池田屋に先陣を切って斬り込んだ面子の中では唯一の生存者として明治の世を生き抜いた。この永倉とその伍長を勤め、同じく池田屋で奮戦した島田魁が共に生存したのも縁というものであろうか。