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平清盛(大河ドラマ)の編集履歴

2013-02-04 01:13:48 バージョン

平清盛(大河ドラマ)

たいがどらまたいらのきよもり

2012年(平成24年)放送のNHK大河ドラマ。

概要

NHKが制作・放映する大河ドラマ(第51作)。2012年(平成24年)1月8日より放映開始。平清盛を主役とする大河ドラマは40年ぶりとなる。

序盤は平氏でありながら白河法皇の落胤という出生に悩みながらも、武士が朝廷の犬に成り下がる「つまらぬ世」を武士の力を世に示す「面白き世」に変えるため、様々な困難と立ち向かいながら成長していく。

特に、この時代の日本より先進的な海外(中華、当時の宋朝)への憧憬から、このような台詞を言い放ち、視聴者に衝撃を与えた。

海賊王におれはなる!

本気でこんな感じだから困る。


またこのドラマを応援する企画pixivに多い。


ストーリー

運命の子の誕生

平安朝末期。摂関政治を退いて院政を敷いた白河法皇。世を思いのままに操り、権勢を振るっていた。その繁栄の裏に武士の一団、平氏源氏は朝廷・貴族の犬として汚れ仕事を背負わされていた。

そんな中、法皇の妾・舞子が身篭ったまま宮廷から逃亡。陰陽師の不吉な予言により白河院は舞子たちを殺そうと仕向けていたのだ。

だが偶然にその舞子を平氏の棟梁の息子・平忠盛が偶然見つけ、忠盛は舞子たちを匿おうとしたが源氏の武士・源為義に知られてしまい、院に連れて行かれてしまう。必死に親子を助命嘆願するも、舞子は法皇に刃を向け、殺されることで子供の命を助けた。忠盛は舞子の遺志を受け継ぎ、この子供・平太を守り育てる事を誓う。

成長した平太は京で「無頼の高平太」と呼ばれる荒くれ者となり、平氏一門の中で浮いていた。それは自身の出生や朝廷に取り入る忠盛に強い憤りと苦しみを持つ裏返しでもあったからだ。

だが、悪鬼の如く立ちはだかる実父・白河法皇、漁師の子でありながら利発な青年・鱸丸(後の平盛国)、大学者と自称する下級役人・高階通憲(後の信西)、才色兼備の武士・佐藤義清(後の西行)そして、宿命のライバルとなる源氏の若き御曹司・源義朝たちとの出会いを通じながら、次第に平家の御曹司、この国の武士としての意識を高めていく。

ある時平氏に海賊討伐が命じられ、清盛の初陣となるが海賊に捕らえられ、その海賊の長・兎丸から「海賊の王になって国を変える」という途方もない理想を聞き、海への憧れを抱くようになる。だが、兎丸の父・朧月夜は平忠盛によって打ち取られており、清盛はいわば仇の子であった。縛り上げられた清盛は、見捨てられたと思っていた平氏の一門の救援によって助けられ、兎丸一党を拿捕に成功。京に連行した後平氏の配下としたのであった。


平氏の棟梁に、俺はなる!

兎丸たちを家来に従えた後、平氏の地位を高めるために清盛と上流階級の娘との婚姻を考える忠盛であったが、清盛は突然出会った下級貴族の娘・明子に一目惚れし、一族の総意を捻じ曲げて勝手に結婚してしまう。同時期に、市井の娘に恋をしていた清盛の義弟・家盛はその恋を諦めて、父の意志に従って、別の女性と結婚してしまう。

それでも明子の人柄の良さが清盛と一門を明るく照らしていたが、二人の子を残して疫病で早世してしまう。突然の死に清盛は打ちひしがれるも、明子の知り合いであった平時子と再婚する。

その後も清盛は強訴の神輿に矢を放つなど、当時の武士としてのあるまじき問題行動ばかりを起こしていた。そんな中で、佐藤義清が待賢門院との色沙汰で出家して西行と名乗り、そして清盛最大のライバルとなる放蕩皇子・雅仁親王と運命的な出会いを果たす。

さらに、摂関政治の復権を図る藤原摂関家の悪左府と畏れられた藤原頼長が平家に妨害を仕掛けようと、家盛に接近。清盛との対立を招こうとするが、頼長に操られたと気づいた家盛は、事故死を遂げる。

清盛も実の弟のように慕っていた家盛の死によりその動揺は一門に広がるが、清盛は必死に一門の団結と発展に努め、ついに父・忠盛から正式に次期棟梁として認められる。程なくして忠盛はこの世を去った。


保元の乱、そして…

一方、朝廷では亡き白河院の孫・鳥羽法皇とその息子・崇徳上皇の対立が激しくなっていき、政治情勢も不安定に。清盛は両者の仲を取り持とうと奔走するも、近衛帝と鳥羽法皇が相次いで死去。次期帝として雅仁親王が擁立され後白河帝が誕生した。出世を諦め、俗世を捨てた高階通憲、信西の画策によるもので、信西は一気に政治の実権を握った。

後白河帝即位を快く思わない崇徳院は、信西台頭で窮地に陥った頼長にそそのかされて後白河派の一掃を図り、後白河帝派対崇徳院派の「保元の乱」が勃発。

為義は院方に、息子・義朝は帝方につき、一方の平氏では清盛は帝方に、家盛の弟の頼盛の身代わりに叔父の忠正が院方について、平氏も源氏も分裂したまま相見える事となる。

合戦は義朝と清盛の夜襲の成果で後白河帝側の勝利となった。重傷を負った頼長は父・忠実に助けを乞うも拒絶され、自ら命を絶った。

勝利に沸く二人だったが、信西は敗者・崇徳院を流刑にし、忠正と為義の処刑を二人の棟梁に申し付けた。非情な命令に苦しむ二人だったが、清盛は涙を呑んで叔父を斬った。義朝はついに斬ることができず、家人の鎌田正清により為義は斬られた。


平治の乱

戦功で清盛は播磨守となり、一度は憎んだ信西を国一番の改革者と認識し、互いに協力して国家の変革に努めていくようになる。しかし一方の義朝は、左馬頭という清盛よりも低い地位を与えられていた。信西の台頭を快く思わない後白河帝側近、藤原信頼は今の地位に不満を募らせる義朝に接近し、信西と平氏を討つようにしむける。

信西は税制改革により遣唐使再開実現の目途に喜び、清盛を熊野詣へ向わせたが、その機を突いて義朝が決起。二条帝と後白河上皇らを幽閉し、信西邸に討ち入った。

信西は山に逃げ延び、穴を掘って身を隠して清盛の助けを待つも源氏方に発見され、自害。義朝謀反を知った清盛だったが、京へ到着するや信西の首が晒されていた。怒りに震える清盛は源氏を滅ぼすことを決意。

だが平氏は源氏に闘おうとせず、信頼派に恭順姿勢を示した。そのため油断した源氏・信頼一派の隙を窺って、平氏は帝と上皇を救出に成功。官軍となった平氏は御所に立てこもる源氏を追討する。

圧倒された源氏は平氏に敗北し、一騎打ちにも敗れた義朝は敗北を認め、源氏伝来の名刀である「髭切」を残して逃亡する。そして、逃避行の中で頼朝や義平と別れ、鎌田正清の縁者の下へ行き着くも裏切りを見通し、義朝は正清と刺し違えて絶命する。

乱が終結すると藤原信頼や義平ら源氏側は処刑されされるが、義朝の嫡男・頼朝はあえて流罪とし、平氏の繁栄を見ていろと突き放す形で命を救った。また義朝の側室、常盤御前も身を投げ出して我が子を救おうとする姿を、実の母と重ね合わせて側室とし、藤原成親は重盛の助命嘆願もあり免職だけの処分となった。

平治の乱は、武士の双璧である源氏を崩壊させ、平氏は事実上武士の頂点となった。

しかし清盛は義朝の志を引き継ぐ事を心に決め、武士として初めて公卿として君臨することになる。


平家興隆へ

乱鎮圧の功績で公卿となれた清盛は、国の繁栄の構想を練っていた。二条帝と後白河院の対立が増す中で時子の妹・滋子が後白河院と結婚すると言い出し慌てる清盛だったが、精一杯の着飾りで滋子を送ることができた。さらに、藤原忠通の息子基実が清盛の娘盛子に嫁ぎ摂関家と縁戚関係を作る。

貿易による可能性を見出していた清盛だったが、次男の基盛が不慮の事故で亡くなり、西行の言葉から配流されている崇徳院の怨念ではないかと述べ、平家一門は厳島社に納経することを決めた。一方、経典を送り返され、息子重仁親王も死なれた崇徳院は、生きて日本国の大魔王になろうと呪いの言葉を唱え、経典を持って荒れる海を行く羽目になった平家たちだったが、何とか厳島に辿り着き納経ができた。また、崇徳院も朝日の中で穏やかに息を引き取った。

清盛は一族の出世や瀬戸内航路の開発、二条帝と後白河院のとりなしに躍起になっていたが、二条帝が崩御し後白河院の癇癪に頭を痛めた。相次いで基実も若くして死去し清盛は有力な後ろ盾をなくしてしまった。清盛は大納言や内大臣にまで出世したが、次なる太政大臣が実権なき官職であり、就任目途が後白河院の策略と知るや百日で太政大臣を辞職した。

50歳を向かえ、宴を開いた清盛だったが、直後に熱病で倒れた。動揺が各方面に広がる中、清盛は夢の中で母の記憶、白河院との対峙で苦しんでいた。病を脱すると清盛は出家し、福原へ隠遁するも、それは新たな計画への布石であった。

一方、流人の頼朝はその日その日を過ごし、伊東祐親の娘・八重姫と恋仲になり子も授かったが、平家からの信頼を考える祐親によって子を殺されてしまい、贔屓にしてくれる北条時政が見守る中、落胆していた。そんな時に野生児のような時政の娘・政子と運命的な出会いを果たす。


清盛の光と影

福原開発が着々と進み、平家の棟梁が重盛に譲られた。寺社勢力も取り込もうとした後白河院も出家して法皇となるが、法皇の出家を比叡山で行わなかったために延暦寺は強訴で抗議。事態収拾のために藤原成親や、時子の弟の時忠が巻き込まれ、重盛は兵を招集するも、各方面の板挟みで出陣できずに苦しんでいた。そこへ上洛した清盛が法皇をとりなし、事態を治めてしまう。隠居しても隠然たる影響力を持つ清盛の存在感を示すこととなった。しかし、重盛の悩みと成親の恨みは残ることとなった。

福原中心の日宋貿易を推し進めるため清盛は後白河院との関係改善を図り、さらに交易に必要な黄金を入手するため奥州の藤原秀衡の出世を働きかけ、ついに宋国使者と後白河院との対面を実現させた。そんな中、重盛の子・資盛の輿の一行は平家を敵視する摂政・藤原基房の一行と鉢合わせ、因縁をつけられて喧嘩沙汰が起こる。一門は基房への報復を主張するも、重盛は一門を説き伏せて報復せず穏便にしようとしたが後日、基房の一行が謎の集団に襲われ従者達の髷が切られる事件が起きた。公家達は重盛の報復であると慄いて重盛に従順になり、話を聞いた一門は重盛に感嘆し褒め称えた。しかし実際は、時忠が部下に命じた策略であり、真実を察した重盛は自身の思いと現実、清盛の存在に板挟みとなり、妻・経子の前で苦しみを露にした。


時を同じくして、都に赤装束の少年の一団・禿が現れ、時忠の指揮の下に平家を悪く言う者達を取り締まるようになった。

兎丸の創意工夫で大輪田泊の堤防建設の目途が立ち、大型船入港も可能とわかると清盛はさらなる計画として、娘の徳子高倉天皇の皇后にしようと考え、後白河院にあれこれ工作を続けついに徳子の入内を実現した。しかし、時忠は禿たちを使った取り締まりが厳しさを増し、兎丸もこれには不満を漏らすが時忠は「平家にあらずんば平家にあらず」と言うだけで、兎丸の諌める言葉を耳にしなかった。

その頃、鞍馬寺で稚児となっていた常盤の子・遮那王(後の源義経)は、使いの途中で五条大橋を渡っているとその眼前に鬼若あらため武蔵坊弁慶が立ちふさがった。弁慶は遮那王を禿と勘違いして斬りかかるが、遮那王は巧みにかわして弁慶の脛を一打。しかし、弁慶はこの少年がかつて助けた常盤の子・牛若と気づき、大喜びして抱き上げてしまう。


大輪田の泊改修が着々と進み、清盛の力の勢いは増すばかりだったが、旧友である西行はそんな清盛に不安を覚えていた。

やがて、宋国皇帝の名代として皇帝の兄である明州(寧波)長官から親書が届き、福原訪問の知らせとわかる。しかし、その迎えのために清盛は兎丸たちに改修を急ぐよう命じたが、事故が相次ぎ、それでも命令を変えず、前から禿の活動とそれを黙認する清盛に不満を持っていた兎丸は反発。すれ違いにより兎丸と手下たちは離反してしまう。都で自棄酒を喰らっていた兎丸の前に、時忠が放った禿たちが現れ襲いかかった。後日、骸と化した兎丸に清盛は己の焦りが招いたことと痛感し、禿の始末を時忠に命じる。だがそれでも修羅の道を進むことを改めて覚悟し、経文を書いた石を泊に沈め、兎丸の遺志と共に泊の礎とした。


反平家機運

大輪田泊が完成して宋との貿易も本格化。清盛は滋子と後白河院を荘厳な社殿となった厳島神社に招き、平家と院の一層の関係を誓い合った。清盛の勧めで貨幣の流通を促そうと協力的だった西光だったが、成親とともに次第に清盛への反感を強めていた。そんな院の近臣や院と平家を滋子はとりなし、両者の関係を支えていた。後白河院も今様の唱を纏めた「梁塵秘抄」の編纂に取り組みながら滋子を心のより所としていた。清盛も後白河院もお互いにお互いが支えあうことを誓い、滋子もその関係を支えていた。しかし、滋子は突然の病でこの世を去った。これが平家と院の関係に暗雲をもたらす危機が迫ることとなった。

一方、東国の武士たちは武家である平家が天下の実権を握っても、自分達の暮らしは良くならないと不満に思い、反平家の火種が燻りだしていた。そして、頼朝は少しずつ武士である自分に目覚め始め、そんな彼を興味津々の政子は見守っていた。ついには落ち込み気味の頼朝に喝を入れるまでに。

滋子亡き後の院と平家にはつなぎ役がいなくなったため、両者に間に軋みが目立ってきた。そんな時、西光の息子・師経が目代赴任先の加賀で延暦寺の末寺と衝突したため、叡山の僧兵達が強訴を起こし、師経流罪を要求した。世に言う白山事件である。強訴鎮圧に重盛たちが出動し、叡山を配慮してあくまで威嚇として部隊を内裏に配置したが、神輿に矢が当たり、神罰を恐れた公卿達の判断で要求を受け入れることとなった。しかし、全ては仕組まれたことであった。清盛は盟友関係にあった天台座主・明雲と図って加賀での事件を引き起こし、西光の息子達を流罪にすることで院の力を削ごうと企てたことだった。後白河院もこの策謀には気づいており、真実を知った西光は清盛への憎悪の念を燃え上がらせた。

後白河院を始め、成親、西光、俊寛、平康頼、多田行綱などが鹿ヶ谷の山荘に集結し、平家打倒の決起集会を開いた。まず、清盛の盟友である明雲を捕縛し、流罪されようとした明雲が叡山の僧兵に奪還されると、院は叡山攻撃を重盛に命じ、ことの事態に清盛が上洛した。計画では御所を訪ねた清盛を拘束して平家本陣を攻撃するというものだったが、行綱は頼政に計画を持ちかけるも、計画の甘さと平家の強さを忠告され断られてしまう。清盛が御所を訪ねる前夜、行綱は裏切りを決意して清盛の屋敷を訪ね、院の平家打倒の陰謀を密告。翌朝、成親や西光を捕らえ、後白河院も計画の失敗を知った。清盛の前に引き出された西光は清盛に罵詈雑言を浴びせ、清盛の国作りは志ではなく皇家への復讐だと叫ぶと、激昂した清盛は西光を何度も踏みつけ、斬首を命じた。清盛は、明日を見失いかけていた。

一方、伊豆の政子は父時政の計らいで山木兼隆への嫁入りが決まったが、政子は頼朝のことが忘れずにいた。雨の降る輿入れの日、政子は頼朝の元へ向かい父の形見の太刀を頼朝にかざし、武士の心を忘れるなという清盛からの意味が太刀に篭っているのではと叫び、檄を入れられ心を動かされた頼朝は政子を抱きしめ、共に明日へ行こうとと決心を見せた。頼朝は政子とともに明日を見つけた。

遮那王は弁慶から出生の真実と平家打倒を聞かされ、出家を悩んでいた。

が、遮那王と弁慶は京で暮らす常盤のもとに訪れ、平家を打倒すると宣言する。そして常盤の反対を押し切り、ふたりは平泉へと向かう。その途中、遮那王は父・義朝最期の地である尾張で自ら元服の儀式を行う。そこで弁慶は常盤からあずかった名前を伝えた。こうして「義経」が誕生した。源氏の魂は着々とよみがえろうとしていたのである。


安徳帝誕生、そして重盛の苦難

1178年6月、清盛の娘であり、高倉天皇の后である徳子が懐妊したという待望の知らせが福原の清盛に届いた。清盛は喜び勇んで京にはいり、平家一門に安産祈願をさせる。そして11月、願いどおり皇子、言仁親王(のちの後安天皇)が生まれた。六波羅で平家一門をあげて催された祝宴には源頼政も招かれていた。清盛は頼政を三位に出世させたと伝えると、頼政は涙ながらに礼を述べた。その後も祝宴はつづけられ、清盛も一門も上機嫌だったが、重盛は思いつめたように清盛を見つめていた。

明けて1179年2月、清盛は緊急に一門を集め、重大な決意を伝えた。皇子の外祖父となった今、誰かがまた平家を陥れるために鹿ヶ谷の陰謀のような企てをする可能性があるため、後白河法皇を平家の館に連れてくるということだった。

そのころ、後白河法皇は病床に伏す乙前を見舞っていた。乙前は後白河法皇と清盛の双六遊びの行く末が気がかりだと伝えると、法皇はまだ自分には手駒があると不敵につぶやいた。

やがて武装して法皇の御所に向かおうとする清盛や一門の前に、病に伏していた重盛があらわれた。清盛の意図を聞くと、自分は御所を守ると宣言した。清盛は自分の国づくりを子である重盛が阻もうとするのかと責め立てると、重盛は「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と叫び、もし法皇を攻め入るのならば、自分の首をはねろと泣いて訴え続けた。重盛の命がけの懇願に、清盛も折れざるを得なかった。だがこの重盛の一途な忠義、孝行こそが、後白河法皇のつけいる隙でもあった。


平家の嫡男、重盛死す

1179年、伊豆の源頼朝は妻・政子と前年生まれた娘とともに幸福な日々を過ごしていた。東国武士たちは、頼朝の義父となることは清盛の怒りにふれるのではと北条時政を心配するが、時政は平家の世は長くは続かないという予言めいたことを口にする。

平重盛はわが身をていして、父・清盛が後白河法皇を幽閉する計画を阻止するが、その後心労がたたり病に伏す。一方、清盛のたくらみに感づいた後白河法皇は、平家の力をそごうと画策。藤原基房と手を組み、清盛が嚴島詣でに行くようにしむける。清盛の留守中、その娘・盛子が病死すると、後白河法皇は彼女が管理する藤原摂関家の所領を強引に没収した。嚴島でそのことを知った清盛は怒りにかられた。

ばく大な財産を失った平家一門は、棟梁・重盛の病状を心配し、棟梁の代理を立てるべきではないかと話し合う。時忠は重盛の弟であり、正妻・時子の子である宗盛を推すが、重盛の子・平維盛(これもり)を推す声もあり、なかなか結論が出ない。重盛は宗盛ら弟たちや維盛ら子たちを呼び、そう遠くない自分の死後、清盛の国造りと一門の将来を支えるため力をあわせるよう諭した。

清盛を苦しめるためには、清盛の子がねらい目だと見抜いた後白河法皇は、病床の重盛を訪ねた。重盛に、清盛と自分との間を取り持ってくれたことに感謝しつつ、これからも平家との友好関係を望むなら、これに勝ってみよと重盛に無理やりに双六勝負をしかけた。息も絶え絶えに賽を振る重盛。そこに清盛が現れ、2人の勝負をやめさせ、重盛を苦しめようとする後白河法皇に怒りをぶつける。すると法皇は清盛にある思い出を語り始める。

40年も前のこと、清盛に双六勝負を挑み、勝ったら清盛の子・重盛をもらうという賭けをした。結果は幼き重盛が自ら賽を振り、良い目が出て、たまたま清盛は負けをのがれた。詰まるところ重盛は、わが身を自ら守る運命であり、母や弟に先立たれ父は修羅の道を生きるもののけ、一人で生き一人で死んでいくしかないのだと後白河法皇は語る。清盛がどう喝すると、後白河法皇は40年前と同じ笑い声を残して去っていた。衰弱した重盛はすっかり生きる力を失い、一か月後に42歳の若さで亡くなった。


平家絶体絶命とそこからの眺め

悲しみにくれる平家一門に、さらに後白河法皇は追い打ちをかけた。盛子の養子・藤原基通を権中納言にするという平家の推挙が無視され、基房の子が権中納言となった。それは後白河法皇が取り上げた盛子の所領が将来的には、基房の子に奪われることを意味していた。さらに亡き重盛の所領・越前を後白河法皇が召し上げてしまう。とうとう清盛は怒りが頂点に達し、数千騎の兵を率いて上洛した。

清盛はまずは関白・基房を左遷、反平家勢力を一掃して、彼らの知行地をわがものにするという暴挙にでた。そして、後白河法皇を鳥羽離宮に幽閉。ついに清盛は治天の君を退け、武士が頂点に立つという悲願を成し遂げた。世にいう「治承三年の政変」である。

清盛は内裏に行き、娘であり高倉天皇の后である徳子に謁見する。妹・盛子や兄・重盛に対する後白河法皇の所業を憂いていた徳子は、清盛を激励した。その帰りに清盛は祇園女御に会う。祇園女御はついに頂にのぼった清盛に、そこからの眺めはいかがかと問う。上機嫌に答える清盛に、二度と会うことはないと言い祇園女御は去った。

12月、徳子と高倉天皇の子である言仁が、清盛の西八条の別邸に行啓した。うれしくてたまらない清盛は赤子である言仁を抱きかかえ、言仁がいたずらで穴をあけてしまった障子を大切に保管せよと言いつける。幸福絶頂にいる清盛は、その穴を満足げにのぞき込みながら、祇園女御の言葉を思い出していた。「いかがにございますか、そこからの眺めは」


此処はわしの世じゃ。そして似仁王の伝令

後白河法皇を鳥羽離宮に幽閉し、清盛は武士として初めて天下の頂に君臨する。清盛は福原にいながら朝廷の人事権を掌握し、1180年、高倉天皇に譲位を迫り、孫の東宮・言仁を即位させようとする。

一方、今回の政変で長年の所領を奪われてしまったのは、後白河法皇の子・以仁王(もちひとおう)。ふさぎ込む彼の様子を見かねた猶母の八条院暲子(あきこ)は、源頼政を呼びだし、武力決起して平家討伐をせよとたきつける。しかし老いた頼政は、平家に逆らうなど愚の骨頂と言って断る。

東宮・言仁の即位に際し、朝廷で何かと物入りになると、伊豆には早速増税の命が下る。国のためのはずの租税が、平家のためにばかり使われている現実に、北条時政は、いよいよ平家への不満が爆発するときがくると源頼に示唆した。頼朝には徐々に武士としての心構えがよみがえりつつあった。

そのころ、義経と弁慶は奥州平泉で藤原秀衡のもとにいた。秀衡は、近頃の清盛の動きを警戒し、もし今後平家が平泉に押し寄せることがあれば、平泉の武力と財力を好きに使って応戦するがよいと、義経に言い含める。

各地で反平家の動きがさかんになる中、言仁が正式に即位して安徳天皇となった。清盛は慣例をやぶり、新院となった高倉上皇の嚴島神社への参詣計画を進める。しかし、寺社勢力は猛反発。日頃は仲悪しき寺同士も手を組み、結束を強めていく。

重盛が亡き後、平家の棟梁となったのは清盛の三男・宗盛だったが、この事態に狼狽し、弟の知盛や重衡に対処を任せるのみだった。結局、平家の武力を恐れた寺社勢力は兵を挙げることはなかったが、高倉上皇の嚴島参詣は遅れ、清盛の不満は募った。清盛は、新しき帝が誕生するとともに福原へ遷都することを画策するが、思うように進まないことにいらだっていた。そこへ美しい白拍子の姉妹・祇王と祇女が目通りを願い、優美な舞を披露した。清盛は現実逃避するかのように祇王にひきつけられた。

京では宗盛が宴三昧の日々を送っていた。母・時子は叱るが、宗盛は兄・重盛の冥福を祈る宴だといい時子をあきれさせる。また、源頼政の子・仲綱の愛馬を奪ったうえ、馬の名を仲綱と呼んで辱めた。仲綱は頼政に怒りをぶつけるが、頼政はこらえるよう諭す。しかし頼政も心の葛藤が強くなっていた。

そして、以仁王と八条院暲子のもとへ、反平家への決意を固めた頼政と仲綱が訪れた。そこで八条院は源義朝の弟・源行家を引き合わせた。行家は平治の乱に敗れた後、熊野で身をひそめていたと言う。八条院はこのように諸国に潜む源氏に向けて、平家打倒の令旨をだすよう以仁王に迫った。そして、不当に権勢をふるう平家を追討せよという以仁王の令旨は、行家の手により伊豆の頼朝に届けられた。驚きながら令旨を読みあげる頼朝を時政や政子が見つめていた。再び源氏が立ち上がる時が迫っていた。

4月、内裏では安徳天皇の即位の儀が行われた。福原で浮かれて舞い踊る清盛の前に新たな白拍子があらわれた。その白拍子の美しさに清盛はたちまち虜になり、祇王らを置き去りにして彼女を抱きかかえて連れて行った。寝所で清盛は「仏」と名乗るその女性に向かい福原への遷都の夢を語り、「ここはわしの世じゃ」と告げる。清盛はたったひとりで暗闇の中にいた。


頼政と以仁王、死す・・・

不遇の皇子・以仁王が諸国の源氏に宛てた平家打倒の令旨が、伊豆の源頼朝にも届いた。頼朝は源氏が再び立ち上がり、平家を攻めるときが迫っていると感じつつも、戸惑いを隠せない。そんな中、使者の源行家は、この挙兵には頼政も参じていると伝える。時政らに鼓舞され、頼朝はついに戦支度を始める。

そのころ清盛は、福原の新都建設計画に没頭していた。そのかたわらにはいつも、仏御前がいた。それまでちょう愛をうけていた祇王と祇女はすっかり取り残されていた。その姿を見ていた亡き兎丸の子・小兎丸は、清盛の目指す国づくりに疑念を抱く。

5月、以仁王の館にいた源頼政は、上洛した清盛から呼び出される。よもやたくらみが露見したかとおののく頼政に、清盛は楽しげに福原遷都の計画を聞かせる。そして、亡き源義朝とともに目指した武士の世をつくるため、協力を請うのだった。

その後、清盛は体調を崩した息子・知盛を見舞う。病床に伏していた知盛は、近ごろ馬が駆け回る音がよく聞こえると告げる。そのひと言が発端となり、清盛は以仁王のたくらみを知ることになる。露見したことを知った以仁王はすぐさま園城寺に難を避け、頼政もあとを追った。頼政までが以仁王側についたことを知った清盛は激怒する。平家側の厳しい追討から逃れ続け疲労困ぱいする以仁王と頼政。頼政は宇治川で奮戦するが敗走。やがて頼政は自害、以仁王も討ち死にし、全国に拡大する前に以仁王の乱はあっけなく終わった。


清盛、福原遷都に成功!だが・・・

頼朝は神妙な面持ちでその知らせを聞きながら、己の初陣・平治の乱のことを生々しく思い出していた。そして、心の中で何かが騒ぐのを感じるのだった。

乱が鎮まった後、清盛は遷都計画をさらに急ぐ。誰もが反対するなか、内裏が出来上がらぬうちに遷都を強行。安徳天皇や高倉上皇、徳子らは福原にうつった。本当に遷都する必要があったのかと疑問をぶつける高倉上皇に、清盛はすべてを任せるよう諭す。

評判の悪い遷都のうわさは伊豆にも届いた。頼朝は東国武士たちの不満の声が高まっていることも聞き、清盛の目指した武士の世とは何なのかと、ふつふつと疑念がわきあがってくる。福原の清盛を西行が訪れると、清盛は仏御前のために祇王と祇女を踊らせる座興を行った。そのむごい仕打ちを見た西行は、昔の清盛や義朝と将来を語り合った思い出を話し、おもしろき世をつくりたいと願った清盛の世とはこれかと問い詰める。そこへ頼盛が急報として、高倉上皇の政治を摂政・基通に託したいという願いと、都を京へ戻したいという声が高まっていることを告げた。逆上し自分を見失った清盛はすべてを自分の思いどおりにするのだとわめき散らし、恐怖からその場を逃げ出そうとする仏御前を、射殺させようとする。それはかつて清盛の母が殺された姿に重なる光景だった。清盛はうなされたように自分が暗闇の中にいることを告げて助けを求めた。さらにそこへ、忠清が頼朝の挙兵を知らせにとびこんできた。清盛は自らの剣を握りしめ、武士らしい闘志を込めた表情に一変した。頼朝の挙兵こそ、清盛が暗闇を抜け出すきっかけになったのである。清盛の体に流れる武士の血が、久方ぶりに騒ぎ始めていた。


平氏軍、まさかの宿命の敗北

1180年、源頼朝が打倒平家を掲げて挙兵。武士の心を取り戻した清盛は、すぐに孫の維盛を総大将、忠清を軍師に任命し、頼朝追討を命じる。

頼朝たちは石橋山に陣を構えて援軍を待っていたが、平家の追討軍である大庭景親と伊東祐親から攻撃を受け大敗を喫する。逃亡した頼朝たちは洞窟に身をひそめ、隠れていると、敵方の武将・梶原景時はあえて頼朝たちを見逃し、九死に一生を得る。

頼朝挙兵の知らせは奥州平泉の義経へも届いた。義経は義兄・頼朝のもとへはせ参じたいと藤原秀衡に願い出るが、その身を案ずる秀衡は猛反対。そのとき、弁慶が自身の頭上の的を射よと義経に命じ、自分たちの運と度胸を試してみよと言いだす。そして義経は見事に的を射ぬき、ついに秀衡が折れることになった。

各地でも次々に源氏武士が決起。平家一門も追討の準備をすすめ、福原の清盛の前に集まった。清盛は戦のかたわら福原の内裏建築も進めていたが、一門の誰もが、未だ遷都に疑問を感じていた。しかし、清盛は国づくりを成し遂げることこそが真の勝利だと言い放つ。

下総(今の千葉県)で態勢を立て直していた頼朝のもとへ、二千騎という大軍を率いた上総広常が参じた。しかし頼朝を侮るような高飛車な態度の広常に、頼朝は去るよう命じる。その毅然とした態度に広常は感服し、こうして頼朝は東国の名だたる武士たちの心を捉えていった。そして父・義朝(の悲願であった武士の世をつくるため、義朝が居をかまえた鎌倉を源氏の本拠地とし、平家軍に備えよと一同に話す。

京の六波羅では平家軍の総大将・維盛と忠清が出陣をめぐって口論していた。日柄が悪いため出陣を延期しようとする忠清を押し切り、維盛は強引に出陣をした。

鎌倉に入った頼朝のもとを政子が訪ねてくる。すると平家軍が駿河へ入ったという報が届き、くつろぐ暇もなく頼朝は出陣を命じる。

富士川をはさんで頼朝の源氏軍と維盛の平家軍が対峙した。甲斐源氏の二千騎と合流し、数を増した源氏軍とは対照的に、平家軍は兵糧不足に悩み、四千騎の大軍が半分に減っていた。また平家軍に合流するはずの軍勢たちは源氏に阻まれていた。追いつめられた維盛は兵の士気をあげるため、遊女を連れてこいと命じる。

一方、清盛は内裏の速やかな完成を祈願するために、厳島神社を訪れていた。戦況を心配する佐伯景弘に清盛は、自分は父の悲願である武士の世をつくらねばならないと告げる。そして福原に内裏をつくり、自分の血を引く帝をたてて政をおこなうことを、友である義朝の子に見せてやるという思いを語った。

一方、富士川では酒宴に興じていた平家軍は、水鳥が飛び立つ音を敵襲と間違え慌てふためき、総崩れとなってしまう。圧倒的勝利を手にした頼朝は逆に平家のあまりの弱さに失望するものの、清盛と対峙すべく京に兵を進めるように命ずる。だが、時政たち重臣から、鎌倉に戻り、足元を固めることが先決であると進言を受け、聞き入れる。そこへ義経が奥州から参上、頼朝は運命の対面を果たす。


武門でなくなった平家、そして心の軸を無くした清盛

六波羅に逃げ帰った維盛と忠清の前に現れた清盛は激怒した。維盛を殴りつける清盛に、忠清は自らの死をもって責任をとりたいと言う。そして首をはねられる覚悟で忠清は、「平家はもはや武門ではござりませぬ。殿ご自身が、もはや武士ではありませぬ」と痛烈に清盛を批判する。忠清の言葉に衝撃をうける一門と清盛。激情にかられた清盛は宋剣で忠清を斬ろうとするが、剣の重さに振り回され尻餅をついてしまう。一門が絶句して見つめる中、清盛の心の中には父・忠盛のある言葉がよみがえっていた。「おのれにとって生きるとは何かを見つけたとき、心の軸ができる。心の軸が体を支え、心を支えるのだ」清盛は今、心の軸を失っていた。


天に見放された清盛、福原を去る

富士川の戦いで平家軍は大敗した。平家はすでに武門ではないという忠清の言葉は、清盛や一門の心に強く刻まれた。ぼう然と部屋にたたずむ清盛に盛国は声もかけられない。そして介錯を願う忠清に、盛国は平家の危機である今、忠清がいかに重要かを説き、思いとどまらせた。

一方、富士川の戦いから無事帰還し、鎌倉に入った源頼朝は、戦で手柄を立てた者に領地を与えるなどして、着々と東国武士を配下につけていた。

すでに、各地で源氏が蜂起。寺社勢力にも謀反の兆しが見えていた。福原では病に倒れた高倉上皇が快方に向かう様子がなく、清盛が見舞いに訪れると、徳子が高倉上皇の心労を告げ、上皇の病の理由が遷都にあるのではと訴えた。

公卿たちも不安にかられていた。藤原兼実は、都を京に戻すべきと強く主張。ほかの公卿たちも重盛存命の折は秩序が保たれていたと愚痴を言いだす始末。それを平家の棟梁・宗盛は黙って耐えながら聞いていた。

後日、宗盛は一門を集め、清盛に還都を申し出る。当然のごとく拒否する清盛だったが、いつになく宗盛も一歩も引かない。そして、ふがいない自らの半生を省みながら、自分の役目は、今父上をお諫めすることだと涙ながらに訴える。さすがの清盛も返す言葉がなく、ついに京への還都を決めるのだった。

幼き安徳天皇のために清盛が建てた福原の新内裏では、五節の舞が安徳天皇に献上された。華やかな宴の中、さまざまな思いを胸にひとり涙する清盛。本拠として10年あまりを過ごした福原を、ついに清盛は後にする。清盛が夢みた福原の都はわずか半年で幻となった。

六波羅で各地の反乱への対応を自ら指図していた清盛は、ある日自分がしてきたことや武士の世とは何だったのかを思い返していた。一方、鎌倉では頼朝も清盛が目指した武士の世とは何だったのかをはかりかねていた。

そんな頼朝と政子のもとへ義経と弁慶が訪ねてきた。義経は頼朝に今回の挙兵の理由を尋ねると、頼朝は父・義朝の武勇を知らしめるためだと答えた。そして義朝と清盛が切磋琢磨(せっさたくま)してきたいきさつを語り、敗れてしまった父に代わり、力で平家を倒して真の武士の世をつくるという決意を打ち明けた。それを聞いた弁慶は激しく同意した。弁慶は源氏と少なからぬ因縁があり、義朝や清盛の若き日を知っていたのだ。そして清盛が若き日、故意に神輿に向けて矢を射た祇園闘乱事件の真相を語ると一同は驚がく。そして、清盛のすさまじい生きざまを知り、その志を理解した頼朝は、自らの進むべき道を改めて定めるのだった。

そのころ、大事件が起こっていた。南都(今の奈良県)の僧兵の反乱を鎮圧するために向かった清盛の五男・重衡が、あやまって東大寺の大仏を含めた南都の寺たちを炎上させてしまったのだ。

平家一門が緊張した面持ちで集まり、清盛も「天は平家を見放した」と気弱な発言をした。そこへ鎧兜姿で帰ってきた重衡は悪びれもせず自分の戦果を語った。事態の深刻さと屈託のない重衡の笑顔に清盛は困惑しつつ、「重衡。ようやった」とほほ笑んだ。


双六が終わるとき

清盛の五男・重衡が南都(現在の奈良)を焼き打ちにしたことにより、天下の人心はもはや平家からまったく離れていた。各地で謀反が相次ぎ、平家は次第に四面楚歌となっていく。さらに不幸なことに、病床にふしていた高倉上皇が世を去ってしまう。高倉上皇は最期まで后である徳子の行く末を案じながら、21歳の若さでの崩御だった。

高倉上皇の崩御は、上皇の父・後白河法皇の院政が、約1年半ぶりに復活することを意味していた。鳥羽離宮での幽閉を解かれ、久方ぶりに清盛と対面した後白河法皇は、清盛がおこしたクーデター、「治承三年の政変」も自分のシナリオどおりだったことをにおわせ、清盛をがく然とさせる。平家一門も、法皇は幽閉されながら世を操っておられたのだとぞっとする。

清盛は、高倉上皇をなくしたばかりの娘・徳子のもとへ時子を行かせ、法皇の後宮に入るよう説得させる。しかし、徳子はかたくなに拒否。それでもあきらめず、「また別の手を打つ」という清盛を、時子はやさしくとりなし、励ますのだった。

一方、鎌倉の頼朝のもとには、梶原景時をはじめ、続々と武士たちが集まる。頼朝は彼らを御家人(ごけにん)と呼び、新たな「武士の世」の政治体制を作り始めていた。

京の上西門院統子の館では高倉上皇をしのぶ歌会が催された。上西門院は後白河法皇の姉であり、高倉上皇は甥にあたる。その歌会には西行の姿もあった。西行は戦乱で多数の人が亡くなったことを詠み、それこそが高倉上皇の心労のもとであったことを嘆いた。そして歌会の後、かつて待賢門院に仕えていた堀河局(と、久方ぶりに再会する。昔は恋の歌をかわした二人だった。世の行く末を嘆く堀河局に西行は今宵を楽しもうと誘う。

ある日、西行は清盛をたずね、鎌倉での頼朝の町づくりを語った。頼朝は源氏の守り神である鶴岡八幡宮の参道沿いを中心に、次々と住いや道が整えられ、そこに御家人たちを住まわせ、新しい仕組みのもと統率していた。そのことを聞いた清盛は、貴族の世が終わりを告げ、武士が覇を争う世が到来したことを実感。ある決意をもとに後白河法皇をたずね、双六の勝負を申し込む。負けた者が勝った者の願いを聞き届けるという約束ごとで。双六をしながら二人はこれまでのお互いを振り返った。若き日から二人はまさに双六のようにお互いが賽をふりながら数々の勝負を続けてきたのだ。そして今宵の一戦で勝ちをおさめ清盛は、勝者として望みを語った。それは後白河法皇との双六勝負はこれで最後にしたいということだった。「これより先は、すでに朝廷に力はなく、武士同士が覇権を争う世である。武士はもう王家の犬ではない」と告げると、後白河法皇は寂しげな表情で現実をうけとめた。


さらば、平清盛と平家一門

その後、清盛は頼朝への闘志を燃やし、源氏討伐の準備を整えていた。そんな折、清盛は突然の熱病に倒れ、危篤状態に陥る。同じ頃、伊勢にある西行の庵にある男が訪ねてきていた。それは清盛の生霊だった。

突然の熱病に倒れた清盛は生き霊となって、遠く伊勢・二見浦にいる西行の目の前に姿を現す。はじめはひどく驚く西行だったが、話を聞くうちに事態を理解し、清盛の霊に死期が近いことを説く。京では高熱にうなされている清盛を、平家一門が祈るように見守っていたが、手の施しようもなかった。

一方、後白河法皇は清盛危篤の報に接し、思いつめたように今様を歌い、踊り続ける。

「♪遊びをせんとや生まれけむ。戯れせんとや生まれけん♪」

生に執着する清盛の様子を見かねた西行は、思いやりあふれる言葉で諭す。そして西行の言葉でようやく自分の寿命を受け入れた清盛は一門の前でむくっと立ち上がり、「―きっと、わが墓前に、頼朝が首を供えよ!」と言い遺し、1181年の春、絶命する。64年の生涯だった。

西行は京の平家一門を訪れ、清盛の遺言を伝える。二見浦の庵で清盛と交わした最後の会話がみんなへの遺言だったのだ。西行の姿はいつしか清盛そのものとなり、それぞれに遺言が伝えられた。

その後も、平家は一連托生の強い絆のもとにそれぞれ戦った。源氏軍の侵攻により、都落ちを余儀なくされたのは1183年。この都落ちはそれぞれの行く末に多大は影響をもたらした。頼盛(西島隆弘)は清盛の遺言を受けて、平家の血を守ろうと考え鎌倉の頼朝を頼った。侍大将の忠清は伊勢で戦ったが捕縛され、斬首となった。その後、態勢を立て直した平家だが、一の谷で重衡は捕らえられて斬首となり、逃亡した維盛は後に入水して果てた。

壇ノ浦でも多くものが西海に散った。総大将の知盛(小柳友)は勇猛果敢に戦い、最後は錨を体に巻きつけて海に沈み、宗盛は死にきれずに海でもがいているところを捕縛され、のちに斬首された。建礼門院徳子は捕らえられ、のちに出家して一門の菩提を弔う生涯を送った。時忠は配流された能登国で生涯を終えた。そして時子は安徳天皇を抱き、「海の底にも都はござりましょう」と言って海に身を投じた。鎌倉のとある館では捕縛された盛国の姿があった。盛国はひと言も発せず、飲食を断ち、餓死による自害を選んだ。亡くなった盛国を弔う琵琶法師はかつて禿の長として京を震撼させた羅刹だった。


さらば、弁慶と義経。そして武士の世の幕が開く

平家を滅ぼした頼朝が、次に退けねばならなかったのは、弟・義経だった。身内同士で殺し合う苦しみをよく知る頼朝は、幾度もしゅん巡するが、最後には弟の追討を決意する。

1186年、頼朝のもとへ西行が訪ねてきた。西行は頼朝にも清盛の遺言を伝える。「まことの武士とはいかなるものか見せてみよ」という言葉をうけ、頼朝は自分の進むべき道を定めた。

1189年、奥州藤原氏を頼ろうとした義経は衣川で兵に襲われ、孤軍奮闘するも、弁慶は多数の矢を受け立ち往生し、義経は自害して果てた。

1190年、頼朝は上京し、後白河法皇と対面した。後白河法皇は老いを感じさせるうつろな目で頼朝を迎えた。その一年あまりの後、後白河法皇は亡くなり、頼朝もその7年後に死んだ。そして頼朝が開いた幕府が滅んだ後の足利の世となって清盛が目指した国と国との交易が行われるようになった。


遊びをせんとやうまれけむ

そして、海の中を落ちていく宋剣がある。その剣をつかんだのは、若き日の清盛だった。清盛は兎丸の声に導かれ、海の中にある館に入っていった。すると清盛の前に平家一門が笑顔で待っていた。「海の底にも都はありまする」、時子の声に振り向いた清盛は、夢中で遊ぶ子どものような笑みをたたえていた。

<完>


主要キャスト

注※歴史上・物語上の人物を分かりやす~く説明しています。

平家

朝廷や源氏と比べると実に和やか。しかし、清盛の死後は…

  • 平清盛:松山ケンイチ - 主人公海賊王。青年期はDQN。それでも回を重ねるごと成長し、父・忠盛を凌ぐ勢いで平氏を背負いたつ武士の棟梁。しかし平家興隆後は着実にダークサイドに堕ちつつある。
  • 平忠盛中井貴一 - 前世では甲斐源氏の子孫征夷大将軍だった。平家繁栄の基礎を築いた棟梁。父より優れた息子など(ry
  • 平忠正豊原功補 - 反清盛の急先鋒。だがそれは一門の事を思っての事であり、一方で清盛の息子たちには愛情をもって接し、清盛が棟梁になった後は次第に彼の才覚を認めるようになる。保元の乱での頼盛の反逆未遂を庇って、あえて敵となり…。

清盛の兄弟

  • 平家盛大東駿介 - 清盛の異母弟。血はつながらなくとも本当の兄弟のように仲は良かった。しかし悪左府の魔の手にかかり…
  • 平頼盛西島隆弘 - 清盛の異母弟。青年期は頼りなさげだったが、成人後は威厳を発揮し出す。一門の中では各方面との繫がりでパイプ役になり清盛から頼られるも、微妙な立場として浮いた存在になる。
  • 平経盛駿河太郎 - 清盛の異母弟。明るい性格のくせに発言が悲観的。彼の息子があの平敦盛である。
  • 平教盛鈴之介 - 清盛の異母弟。熱血系。
  • 平忠度ムロツヨシ - 清盛の異母弟。熊みたいな髭面で歌詠みの才人。宴で藤原兼実と歌詠みで戦い、僅差で勝利する。しかし、初登場時は一門の誰も面識がなかった。
  • 平時忠森田剛 - 時子の弟。飄々としていながらも、策士。「禿(かむろ)」というスパイキッズを京に放ち、平家の反乱分子を取り締まるなど陰の面が強い。姉が生んだ宗盛を溺愛している。平氏にあらずんば人にあらずという平家の繁栄を象徴する名台詞を作ったとされる。

清盛の子

  • 平重盛窪田正孝 - 清盛の長男。可哀想な人その1。父親とは似つかないほどの真面目な人。真面目すぎてどこか威圧的な印象を見る者に与える。要は苦労人である。忠正曰く「真面目すぎる」
  • 平基盛渡辺豪太 - 清盛の次男。お調子者。忠正曰く「要領が良い」。崇徳院の呪詛によって死亡。もし生きていれば平家の、かつ重盛の運命は大きく変わったはず…。
  • 平宗盛石黒英雄 - ヘタレで有名な清盛の三男。少年時代からチキンっぷりを披露。時忠に乗せられて後継者の椅子を巡って重盛と争う。つまり平家没落フラグを持つ男
  • 平知盛小林友 - 清盛の四男。苦労人の重盛とチキンの宗盛に囲まれて影が薄い。
  • 平重衡辻本祐樹 - 清盛の五男。何気に演じている俳優は兄弟で一番年上。ってか松ケンと同じ年で生まれた月はこっちのが早い。重衡はイケメンで勇猛で教養があり性格もよく、女にモテる。何この完璧超人?
  • 平徳子→建礼門院:二階堂ふみ - 清盛の長女。満16歳満10歳の天皇に嫁がされることになる。カオス。

清盛の家来

  • 鱸丸平盛国上川隆也 - 清盛の家人で、元は漁師の子。曲者揃いの平氏の中でで屈指の秀才にして常識人。…と思いきや酒癖が悪い。
  • 兎丸加藤浩次 - 本作のオリジナルキャラクター。盗賊の子で海賊王を目指すも、清盛お手つき後は貿易王を目指す。だが、方針と巡って清盛と対立し、時忠の放った禿によって謀殺されてしまう。何気に最終回まで生き残りそうなキャラだと思われたが、大河作品には珍しくオリキャラの名が入ったサブタイトルで死を宣告されてしまった。「兎丸無念」
  • 平家貞中村梅雀 - 平氏譜代の家人。清盛を陰から支える。唐菓子ウマー。
  • 平貞能田口浩正 - 家貞の息子。史実では勇猛な武人だがそんな感じはドラマでは全くない。
  • 伊藤忠清藤本隆宏 - 平家の郎党。ガタイ系。
  • 伊藤忠直土平ドンペイ - 忠清の弟。2話限りの脇役。平安のモビルスーツの直撃をくらい戦死。

平家の女たち

  • 高階明子加藤あい - 荒くれ者の清盛が一目惚れした最初の奥さん。重盛・基盛の実母。おとなしい性格だが芯は強い。しかし疫病に罹り死去。琵琶の名手で時子は彼女のレッスンを受けていた。
  • 平時子深田恭子 - 源氏物語ヲタで清盛の二番目の奥さん。意外としっかり者で誰よりも清盛の事を思っている賢妻。しかし子育てに関してはイマイチの評価アリ。
  • 藤原経子高橋愛 - 重盛の奥さんで成親の妹。彼女が出演するとOPで重盛のキャスティングが連名に落ちる。
  • 藤原宗子池禅尼和久井映見 - 清盛の義母。温和だが何気にヒステリックな面も。平氏滅亡の一因を作ってしまっている

源氏

荒んでいる。というより武家の暮らしぶりを忠実に再現しているのだが…。

  • 源頼朝岡田将生 - 本作の語り手でもある。清盛からバカにされたりぶん殴られたりするが、清盛を敵の大将としてではなく武士の世を築いた人物として一種の畏敬の念を感じている。だが愛する息子を殺され、意気消沈としてしまうが、北条政子との出会いで武士としての自覚を蘇らせる。
  • 源義朝玉木宏 - 平安版関東のヤンキー。清盛の前ではツンデレ。登場当初は明らかに清盛の上を行っていたがいつの間にか先を越されてた。平治の乱で某北斗の敵キャラみたいな感じに変貌し、清盛との対決に挑む。だが最後は清盛にぶん殴られて(本当は正清と刺し違えて)この世を去る。
  • 北条政子 - 頼朝の妻。馬に乗ったりイノシシを射止めたりとやたらはっちゃけている。初登場(時系列)した時は藤九郎よりもめっちゃ汚い格好だったが、頼朝を意識し始めると服装や身なりを気にし始める。
  • 源為義小日向文世 - 俗称、ダメ義おそらく本作で最も可哀想な人。源氏を盛り立てようと必死に頑張るけど、いつも上手くいかない。ダメ義さんは何やってもダメ義さんなの…(´;ω;`)ブワッ
  • 源義平波岡一喜 - 鎌倉悪源太の異名を持つ義朝の子で頼朝の従弟。好戦的な笑顔が素敵。
  • 源頼政宇梶剛士 - 源氏だが平氏に寝返ったり、源氏に寝返ったりする。欲望が強いんだろう。素晴らしいッ!
  • 源為朝(鎮西八郎):橋本さとし - 崇徳上皇側の最終兵器である平安時代のモビルスーツ。その矢の威力はもはやビームライフル級。
  • 鎌田通清金田明夫 - ダメ義の家人。保元の乱で平安のモビルスーツのビームライフルを受けて戦死。
  • 鎌田正清趙珉和 - 義朝の家人。苦労人だが義朝に絶対的な忠誠を誓う。
  • 由良御前田中麗奈 - 登場初期はツンデレだったが、頼朝に源氏の未来を託すあまり次第にヤンデレ化。最後の最後でツンデレに戻った。
  • 常盤御前武井咲 - 牛若、後の源義経の生母。武家の娘であった由良を尊敬していた。清盛の側室となるが、それ(や)らしい描写は劇中殆ど語られず何時の間にやら別居していた。
  • 藤九郎→安達盛長塚本高史 - 後に頼朝の最も重要な家臣の一人となるが、元は身分が低いためやたら汚らしい。
  • 北条時政遠藤憲一 - 伊豆国の豪族。頼朝を色々贔屓し、娘のやんちゃ振りに頭を痛める。
  • 鬼若→武蔵坊弁慶青木崇高 - 何でか保元の乱前からしゃしゃり出て、源氏にあれこれ関わり、常盤御前を助け出した。平家の世では禿退治+打倒平家のために刀を集めていたが、謎の少年こと遮那王にやられたかと思うと、彼が牛若と気づいて再会に喜んで抱き上げる。
  • 牛若遮那王源義経神木隆之介 - 後に平氏を滅亡に追いやり、兄に追われる、悲劇の天才貴公子スペックホルダー中の人にとっては2度目の「義経」でもある。

皇家

ドロドロしているアレの方面から苦情殺到だとか。

  • 雅仁親王後白河天皇後白河上皇後白河法皇松田翔太 - 鳥羽院の息子。今様双六大好きの日本一の大天狗。設定上では清盛の甥に当たる。終生のライバル、清盛と楽しく双六したいがために国政を意のままに操ろうとする。8(゜∀゜ )8<アハハハハハハハ!けれども34話で清盛の前に姿を現した後白河はまさにツンデレだった。 。゚(゚`Д´ ゚)゚。<この死に損ないが!!
  • 白河法皇伊東四朗 - 幕末新選組に家を貸すか貸さないかでおどおどしていた人も、この時代ではタフマンとして君臨。おっかないラスボスキャラなのに2~3話で退場。清盛が死の淵に瀕すると精神世界で復活。すごくおっかない。
  • 鳥羽天皇→鳥羽上皇→鳥羽法皇:三上博史 - 可哀想な人その3。待賢門院を白河法皇に寝取られるも、やっぱり待賢門院の事が好きだというヘタレ
  • 顕仁親王→崇徳天皇(崇徳帝)→崇徳上皇井浦新 - 鳥羽院の息子かもしれない人。可哀想な人その4。後に日本で最もおっかない怨霊となる。ドラマでは「生霊」として表現され、放送コードぎりぎりの異形と1時間もの放送延長をもたらした確かな怨霊っぷりで日本中の視聴者を震撼させる。無敵の呪文「遊びをせんとや~」と、降り注ぐ太陽の光と子供達の声により魂が浄化された(役者曰く後者が最も大きな理由とか)。
  • 守仁親王→二条天皇冨浦智嗣 - 後白河の息子だが、父とは大違いな常識人かつ賢帝。だが声と姿がマッチしていない。
  • 憲仁親王→高倉天皇千葉雄大 - 後白河と滋子の息子。満6歳で、満4歳ちょっとの甥から皇位を譲られる。
  • 祇園女御→乙前:松田聖子 - 清盛の生母・舞子とは旧知の仲。雅仁親王を覚醒させる今様の名手。京を出奔した後はすごい格好になってる。
  • 舞子:吹石一恵 - 清盛の生母。幼き我が子を守るために、最期のシーンでは正に漢女
  • 平滋子建春門院成海璃子 - 平安天然パーマ。意地っ張りだが、後白河院と馬が合って皇后になる。皇后になった後は平家と皇室の仲を取り持つが、突如として病死。結果、後白河院と清盛の対立を深めることとなる。
  • 藤原璋子待賢門院壇れい - 鳥羽院の后。マグロ。天然にも限度がある。
  • 堀河局りょう - 西行と肉体関係を持ったが、璋子に手を出すのを止めさせようとする。昼ドラかよ。西行との絡みで終盤でも活躍。
  • 藤原得子美福門院松雪泰子 - 鳥羽院の側室。見た目に反して策略を好む、昼ドラ女。
  • 統子内親王→上西門院愛原実花 - 白河の姉。当時の女性としては結構長生きだが、平治の乱以降めっきり出番が減った。
  • 藤原朝子→紀伊局浅香唯 - 信西の妻。出番は多かったが西光の再登場と入れ替わりになるように姿を消した。
  • 八条院暲子佐藤仁美 - 鳥羽院の皇女。鳥羽院の遺産によるものすごい財力で、以仁王の養母として擁立に暗躍する。家ではかなり散らかしてたとか。
  • 以仁王柿澤勇人 - 後白河院の第三皇子。皇位継承をスルーされたことで平家を恨み、皇位の野心を燃やしている。

朝廷公家貴族

麻呂。とりあえず役立たずと腐敗した保守派が多い。

  • 高階通憲信西阿部サダヲ - 「誰でもよーい!」穴から始まり穴に終わる男。宋国に強い憧れを持つ下級役人で、渡航を目指すが失敗。出世を諦め出家するが、雅仁親王のシンパとなり形勢逆転。宋のような国づくりをめざし独裁政治を行なうが貴族たちの反感を買い、義朝の叛旗によって不遇の最期を遂げる。ちなみに40年程前の大河では視聴者から「早く殺せ」と嘆願が来ていた。
  • 藤原頼長山本耕史 - 悪左府と畏れられる藤原ァッー摂関家のいい男よかったのか?ホイホイついてきて。俺は従四位下だって構わないで食っちまう朝臣なんだぜ?…このように後世に遺された記述のおかげでネタ扱いされがち。だが信西と同じ様に国を建てなおそうとしていた…のだが、保元の乱ではやたらビビっていた。やっぱりネt(ry。数年前に鬼の副長を演じていた人とは思えない位の怪演である。可哀想な人その5とも言えるが、ドラマの描写では自業自得っぽく見える。ちなみにダメ義から賄賂としてもらったオウムを可愛がっている。
  • オウム:ココデコウタコトハナイミツニナ!→シュクセイ!シュクセイ!→チチウエ…チチウエ…
  • 藤原忠通堀部圭亮 - 頼長の兄。お歯黒まっくろ。鳥羽法皇死後、崇徳院・頼長失脚後も朝廷の有力者として生き残るしぶとい男。
  • 藤原忠実國村隼 - 頼長・忠通の父親。白粉まっしろ。頼長と対立し、保元の乱で敗北した頼長が助けを乞うても無視した…が、頼長の死を知るとやはり人の親であったためか、号泣する。
  • 藤原信頼塚地武雅 - 後白河帝の側近。ドラマでは無能に描かれているが実際はそこまで無能ではなく、有能だったとの考えもある。おもしろくないのう。
  • 藤原成親吉沢悠 - 後白河帝の側近。清盛の親戚。どっちつかずの陰謀メーカー。その割に小物。
  • 藤原師光西光加藤虎ノ介 - 清盛の親戚。信西を生き仏として崇め、後白河院側近となる。亡き信西を貶めた敵将の息子、頼朝を生かした清盛を許さないでいる。
  • 藤原家成:佐藤二朗 - 鳥羽院の側近。良い人。貴族にしては珍しく平家に友好的。
  • 藤原(松殿)基房>細川茂樹 - 内大臣。松殿家の祖。平家を敵視するが、ろくな目にあわない。一見策士だが実際はアホ数年前は、立派(?)な平家の一員だったのにね。
  • 藤原(九条)兼実>相島一之 - 平家を敵視する(一方で認めている部分もある)世渡り上手で記録好きの九条家の祖。兄とは違いキレ者。
  • 藤原(近衛)基実>村杉蝉之介 - 摂政・関白。美男子設定は生かされなかった。新平家派として平盛子(幼女)を娶った、近衛家の祖。↑の二人にも言えるが明らかに役者の年齢がおかしい。
  • 秦公春富岡一人 - 頼長の随臣でアレのお相手。家盛を話題に出す頼長に嫉妬の視線を送ってもいた。ウホッ。
  • 藤原教長矢島健一 - 崇徳院の近臣で、最後まで崇徳院を支え続けた忠臣。この人もかわいそう。

その他

  • 佐藤義清西行藤木直人 - 平安朝のプレイボーイ。待賢門院に手を出して、未練たらたらの彼女を締め上げて、自分の娘を蹴り倒した挙句、出家する。登場初期は清盛・義朝と並ぶ若き武士の一人として良く登場していたが、出家後は殆ど出る幕が無くなってしまった。
  • 明雲腹筋善之介 - 天台座主。強訴(坊主のデモ)の度に山から下りて京にしゃしゃり出てくるエキサイティング座主。強訴を阻止してきた清盛を目障りに思っていたが、協力態勢を持ちかけられると一転して平家と仲良しになる。当時の腐敗しきった既成宗教を代表する人物。眉毛
  • 佐伯景弘温水洋一 - 厳島神社の頼りない感じのする社司。
  • 伊東祐親峰竜太 - 伊豆国の豪族。平家の家人として張りきるが、清盛に声を掛けられると変にビビってしまう、いわゆるネタ+チョイ役要因。……と思われたが自身の娘と罪人の息子の間に生まれた孫を、保身のために手を掛けた外道。(仕方がないとは言え…)
  • 八重姫福田沙紀 - 祐親の娘。流刑の身の頼朝と恋仲になり、子を儲けるが…
  • 藤原秀衡京本政樹 - 黄金で清盛と対等関係を築き奥州の王者となったゴージャス豪族。

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