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判官贔屓の編集履歴

2022-10-14 13:45:07 バージョン

判官贔屓

ほうがんびいき

弱い方の肩を持つ事。第一義には人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情のことであり、さらには「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」心理現象を指す。

概要

弱いとされる側や負けゆく側に同情する・美徳を見出す形で、贔屓したくなる心理のこと。

分かり易く言えば、「力こそが正義」、「勝った方が正しい」といった勝利至上主義の真逆的な考えと言える。

ちなみに、対となるものに、勝つ側に便乗しようとする「バンドワゴン効果」があり、これらを総称して「アナウンスメント効果」と呼ぶ。


判官贔屓の第一義には、人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情のことであり、日本人に多いともされている。

なお、義経自身、歴史的敗者ではあるが弱者とは言い難く、後述の実例も多くは、単なる弱者ではなく、むしろ(主に直接戦闘において)圧倒的な実力を持ちながら、主に政治的な駆け引きで敗れた者がほとんどである。


転じて、「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしない形で、同情を寄せてしまう」心理現象を指す。

特に日本だけのものという訳でもなく、アメリカでも「アンダードッグ効果」という形で証明されている。こちらは文字通り、負け犬への同情なので、若干意味が異なる。


勧善懲悪善悪二元論滅びの美学を好んでいる者にこの傾向が非常に強いとされているが、滅びゆく悪万年やられ役悪役令嬢失恋キャラ(負けヒロイン)に同情を寄せて判官贔屓する例も多い。

判官贔屓をしてしまう主な理由とは…


  • 1.負けた側の方がカッコ良いから。
  • 2.負けた側の生き様が共感できるから。
  • 3.負けた側の生い立ちが可哀想だから。
  • 4.勝った側が個人的に気に食わない奴だから。

要するに「負けるなんて可哀想じゃねーかよ!」と思われる事が、判官贔屓にという概念において最も重要なのである。


判官贔屓の浸透

義経の死から大きく時が流れ、江戸時代に至ると、既に判官贔屓は義経だけを指すものではない程に拡大的な解釈がされるようになっており、弱い立場…もっとはっきり言ってしまえば負けた側に対し、客観的な見方や評価を意図的に行わず、同情・贔屓の対象し、勝った側を一方的に非難する事を指すようになっていった。

また、判官贔屓の感情を抱きやすい人間は、応援される側と同じく社会的等において「弱者」の立場にいる者が多いとされている。これは弱者が強者に対して抱くルサンチマン的感情が、同じ弱者に強く感情移入させて応援をしたくなる心情となり、逆に強者側に対する激しい嫉妬憎悪が、批判や攻撃意思を向けずにはいられなくなる事に理由があるとされている。


現実での現象

現代で起こり得る判官贔屓は、いずれにせよ客観的よりも主観的な感情の方が優先される故に、マイナスイメージも強くなってしまう物であるが、単独弱者側へ贔屓する心理は、世の中を良くしたり闇を暴く方向に動くこともあり、「巨大な『相手』と戦う弱者を応援する」という感情その物は決して悪い事ではない。

ここ数年の例では以下の物がある。



ただ、物事には「善悪の基準がはっきりしている事」と「善悪だけでは判断できない事」があるという事実を理解しておく事が必要なのも事実で、それによって判官贔屓の題材の価値や正否も大きく変わると言える。


実際、判官贔屓が悪い形で発揮された結果、一種のモラルハザードに発展しかねない程の行き過ぎた騒動にまで発展させた例も、近年では発生している。


  • 1984年にカリフォルニア州で起きたマクマーティン事件では、保育士のレイモンド・バッキーが数百人の児童に性的虐待を行ったと起訴され、あらゆる矛盾点や物的証拠の無さ、担当セラピストの誘導尋問等の発覚により、全てにおいて無罪評決が下されるという史上最悪の冤罪事件となっているのだが、虐待の被害者として扱われた児童達を擁護する世論によって、無罪発覚後も児童達や保護者を中心に性的虐待を行ったと罵られ続けたバッキーは、名前を変えて地元を去らざるを得なくなり、関係職員達全員も実質社会的に抹殺されてしまった。
  • 2003年に神奈川県川崎市で発生した古書店の万引き事件にて、万引きを行った中学3年生の少年は、書店の質問に一切答えず、通報されてきた警察の質問にも答えなかった結果、警察署へ連行される事になるが、隙を見て逃走した少年は、遮断機の降りている踏切を強引に突破しようとした結果、電車に撥ねられて死亡している。この事態を知った一部の者達が、「少年の死の責任が通報した店長にある」、「人殺し」と騒ぎだして数々の嫌がらせを行い、それを良い事に少年の父親に至っては「書店を閉店させて責任をとれ」とまで怒鳴った結果、ノイローゼになるまで追い込まれた店長は、書店を閉店せざるを得なくなった(ちなみに日本全国における万引きによる書店の被害総額は、年間200億にも昇るとされている)。
  • 2019~20年に金融商品取引法違反を犯した上に、裁判前に日本国外へと脱出しレバノンへ逃げ込んだカルロス・ゴーンを悲劇の英雄扱いし擁護する一部の世論(近年では薄れているが)。

最も身近に起こり得る判官贔屓は、「出来の悪い子の方が可愛い」と言って、出来の悪い子の方を積極的に気に掛けるのに対し、出来の良い子には適当な対応しかないというケースだろう。

これが家庭の兄弟間において過度に起こったりすると、出来の良い子の方は自分が愛されていないと思い込み、出来の悪い子の方に嫉妬して憎悪を抱くカインコンプレックスに発展してしまう可能性もある。

また、近年では社会的秩序や権力者に対し「捻じ曲がっている」とも言える偏った反感を抱いている人間が、社会的に批判されている人間(殺人鬼を始めとする凶悪犯罪者やテロリスト)等をダークヒーローの様に賛美して擁護しようとする特殊な事例の物も存在する。


歴史上の人物

古来では、同じ源平時代から戦国時代、幕末時代に至るまで、敗死した、あるいは戦いに敗れたままで生涯を終えた武将達が、判官贔屓の対象になっている。

一方、逆に彼らと敵対した武将や武家達は、過剰なまでに悪役として脚色された上で貶められてしまう傾向が強くなっている。


判官贔屓される日本の歴史人物・勢力一覧

擁護される側批判される側詳細
アテルイ坂上田村麻呂坂上田村麻呂はアテルイの助命を申し入れたものの、聞き入れられずに処刑されてしまった。
菅原道真藤原時平天皇の代替わりおよび政争で大宰府へと左遷されてしまう。
平敦盛源頼朝源氏との戦いである「一ノ谷の戦い」にて、17歳の若さで討ち取られた。
楠木正成足利尊氏後醍醐天皇による建武新政樹立後、新田義貞と共に尊氏と対立したが、敗戦した上で戦死している。
浅井長政織田信長古くから親交のある朝倉義景を救うべく義の為に信長と対立。しかしその結果、敗戦した上に大勢の領民を殺された末に、自害に追い込まれた。
明智光秀織田信長信長のやり方について行け亡くなった末に謀反を起こして討ち取るも、誰からの助力も得られずに秀吉に敗戦し、落ち武者狩りで死亡した。
石田三成徳川家康、小早川秀秋豊臣政権を守る為に家康に立ち向かうも、「関ヶ原の戦い」で秀秋の裏切りによって敗戦した上に、佐和山城を落城に追い込まれ、妻や兄・父も死亡。最後は斬首の刑に処せられた。
直江兼続徳川家康無二の友である三成を復権させる為に、関ヶ原の戦いで三成率いる西軍につくが、三成の敗戦によって降伏。上杉家の所要領を大幅に減らされ、上杉家家臣達の中で、半ば孤立した状態で余生を過ごした。ただし、関ヶ原に至るまでの兼続の行動にもかなりの問題はあった。
真田昌幸徳川家康三方ヶ原の戦いでの遅延が原因で、主君である信玄は上洛を果たせないまま死去。自らも関ヶ原の戦いで属していた西軍が敗戦した結果、九度山へ蟄居に追い込まれた挙句、そのまま余生を過ごす形で死去した。
真田幸村徳川家康関ヶ原の戦いで敗戦し、父・昌幸と共に九度山へ蟄居に追い込まれ、その後の大坂の陣では、死に花を咲かせる覚悟で徳川軍へ戦いを挑むも、家康を討ち取る事が叶わないまま討ち死にとなった。また、長男・真田大助も自害となった。
長宗我部盛親徳川家康関ヶ原の戦いで特に戦えないまま敗戦。更にお家騒動を起こしたのが原因で浪人に落ちぶれてしまい、家の再興の為に大坂の陣に参戦するも、またしても敗戦。逃げ回って捕獲された末に処刑に追い込まれた。
豊臣秀頼徳川家康大坂の陣」にて豊臣家を滅亡に追い込まれ、母の茶々や、息子の豊臣国松も死に追いやられる。
天草四郎徳川家光島原で苦しむ人々を救う為に武装決起するも、徳川軍との戦いで敗戦した挙句に、斬首刑に処せられ、晒し首となってしまった。
シャクシャイン松前藩アイヌ人蜂起を行ったが、騙し討ちにより殺害される。
由比正雪徳川家光家光の死後、家光の徳川政権を批判した上で幕府転覆を目指した決起を起こすも、事前に密告されてしまった事で、包囲された末に自決した。
大石内蔵助良雄徳川綱吉他の赤穂浪士達も含む。綱吉の怒りを買って切腹に追い込まれた主君・浅野長矩への忠義の為に決起し、吉良上野介を討ち取るも、他の赤穂浪士共々切腹を言い渡された。ただし、近年では一部から逆恨みとも評される。
新選組新政府軍新政府軍によって逆賊の烙印を押される。
白虎隊新政府軍15~17歳の少年で構成された部隊で、「戊辰戦争」における新政府軍との戦いにて、新政府軍に敗戦。その後、誤解とは言え会津若松城から出た煙を「落城」と思い込み、多数の人員が自害してしまった。
西郷隆盛大久保利通征韓論を巡って利通と対立し、私学校生徒と士族達と共に決起して「西南戦争」を起こすも、敗戦して自害する。
伊庭八郎新政府軍新政府軍との戦いで左腕を失い、それでも奮戦するものの、函館戦争にて胸部に銃撃を受け、最後はモルヒネを飲み干して自決した。
帝国海軍連合国軍海軍は戦後でもある程度英雄視されることが多い。
ベータマックス陣営VHS陣営ベータ敗北決定後もベータ高画質神話が長らく語り継がれていた。

上記の人間達を主役に据えた文芸作品や大河ドラマを始めとする創作物では史実以上に美化されて描かれているが、魅力的に美化される傾向のある大河ドラマ等での展開こそが正当な史実であるかのように判断するのは、客観的評価の出来る歴史学者等から見れば短絡的な評価以外の何物でもなく、結局は「勝った者が正義」と考える単純な人間と然程変わらない事になる。

その為、判官贔屓の対象となった者達の本質がどうであるのかを判断するのは、歴史に関する書物や資料等を読み、客観的な考察をした上で慎重に行うべきである。


日本以外の国でも敗北した人物や勢力に同情的、或いは再評価をする傾向は、決して皆無とは言いきれない(例:中国の項羽諸葛亮周瑜岳飛、イギリスのジョン欠地王、フランスのジャンヌ・ダルクルイ16世など)。また、選挙では敗北した方に同情が集まることはよくあり、時に暴動に至ることもしばしば。


創作作品

判官贔屓が浸透しやすい流れは何も実在世界に限らず、映画ドラマアニメ漫画ゲーム等といったフィクション・創作作品にも存在している。

特に不遇とになされる扱いを受けた、物語の中での勝負やそう取られる掛け合いで負けた、あまりにも悲惨な末路を迎えたようなキャラクター(この場合、以前から推していたキャラがそういうことになったのか、そんなキャラを好きになってしまったのかは人による)に対し、当人の性格の問題点や犯した悪行等も無視する形で視聴者達から判官贔屓的な同情が寄せられている。

どちらかと言えば、主人公よりも、ヒロインライバル悪役的ポジションのキャラクターが判官贔屓の対象となりやすい。


一方、それが原因でそのキャラクターと敵対した、そのような局面に追い込んだ相手および陣営等に対し、相手の善悪について問う事無く、過度に非難してしまう事がしばしばある(例を挙げるなら、ライバル・悪役側が判官贔屓されてしまった結果、何の落ち度も無ければ当たり前の正論や善行を行っている主人公の方が「偽善者」や「極悪人」呼ばわりされてしまう等)。

ファンサイト等でもそういった主題で激しい論争に発展する事が多く、エスカレートしていくと風評被害からキャラヘイト、更には対象を意図的に悪く描いたイラスト小説を製作するヘイト創作までが行われ、歯止めが利かなくなってしまう事もあり、pixivでも投稿の自由が認められているとはいえ、そういった作品が後を絶たない状況にある。

そして、そういった視聴者側の避難や論争が大きく影響した結果、後の公式的な続編作品等にて、180度変わる形で、非難されたキャラクターの扱いが「本当」に悪くなってしまう事も少なからずある。

最も酷いケースと言えるのは、作品制作において重要な役目を担っているシナリオのライター等までもが、「避難している人間達の発言を鵜呑みにする」、「自らの個人的主観」といった動機から鬱憤晴らしも同然で気に入らないキャラクターの印象を意図的に悪く描写しようとする展開であるのだが、以前の作品で判官贔屓していた人物達からは賛美を得るのに対し、公正な目で判断出来る人物達からは、逆に「判官贔屓している視聴者達に迎合する改悪を行った」と批判され、結局の所は「賛否両論」という結果となっている。


甲子園

甲子園で行われている高校野球大会においても、判官贔屓的な応戦を行う無責任なファン達が続出する一方となっている。

主な対象となるのは、無名で野球部の規模が小さい公立高や僻地の離島に立地している、あるいは地方の大規模災害の被災地からの出場校にこのような”肩入れ”が多いとされる。


弱いチームばかりに肩入れする形でタオルを回したり、うちわを叩いたりする熱狂的な応援をしてしまった結果、強いとされる相手チームの選手達に精神的な重圧を与えてしまう事になり、中にはそれが試合の敗退に繋がってしまったものも少なからずある。

ある強豪校が出場した試合では、球場に来ていた観客達の大多数が相手側(弱い方の高校)に肩入れする応援をされてしまい、何とか試合には勝利したものの、試合が終わった後の強豪校側の選手達は「自分達がこんなに周りから嫌われてるとは思わなかった…」と泣き崩れてしまった。


どのチームを応援するのかは、勿論個人の自由なのかもしれないが、それでも応援の仕方には懸命に試合に挑んでいる選手達を配慮して注意を払うべきである。


問題点

「弱者が強者に対して懸命に挑む」という構造は、客観的に見ると確かにドラマチックな印象を与え、弱者に対し必死に応援をして、たとえ負けても賛辞や称賛を送ろうとするのも、無理も無いのかもしれない。

しかし、いくら試合や戦争で敗北する等といった形で志半ばで果てたのが哀れに見えるからといって、判官贔屓とは感情移入による主観的価値観や私情を織り交ぜた「ただの同情」でしかなく、敵対した強者側を非難する理由にはならないのも事実である。


例えば、前述の甲子園の様に、「スポーツの試合において、名の知られていない高校の選手達(弱者側)が、スポーツに関して非常に有名となっている高校の選手達(強者側)に挑んで、懸命に戦いながらも敗れた」とする。

この光景に感動を覚えた観客達が、勝ち目のない弱者側を必死に応援するだけでなく試合終了後もその努力を称えて盛大な拍手を行うのだが、だからといって強者側が何の努力もせずここまで来て試合に勝ったというのはまず有り得ない話であると言え、勝利した強者側の中には「自分達の努力は誰からも評価されないのか」と深く傷つき、下手するとこの事態を機にスポーツへの情熱を失って止めてしまう可能性にも繋がる。


他にも極論になるが、「貧しい環境で生きた人間(弱者側)が、富裕層を妬むあまりに手製の爆弾で自らの命と引き換えにしたテロを起こし、何も悪い事をしていない富裕層の家族(強者側)の虐殺を行った」とする。

これでもし、貧しい環境で生きた人間の方に世間が同情して、さながら悲劇のヒーローの如く称えたりすれば、もはや社会秩序が崩壊したも同然であり、犠牲となった富裕層の家族達はあまりにも報われないだろう。

最悪の場合、共感を覚えるあまり同じ様な思想を持ったテロリストになってしまう者が出てくる危険性さえもあり、実際にそれに近い形で起きたのがかの有名な五・一五事件(1932年)及び二・二六事件(1936年)であったと言えるだろう(犯人は死亡していない)。


これらの様に、大多数の人間が弱者側に肩入れしてしまう判官贔屓というものは、時として客観的な評価を出来なくなる所か、不公平不平等悪平等等をもたらす可能性も秘められており、時には一個人に対して悪い影響を与えたり、誤った考え方を植え付けてしまう場合もある。

世の中には強者よりも弱者の方が圧倒的に多いのは確かであるが、その弱者の全てが決して「絶対的な「正義」」ではなく、弱者の中にもまた「」が含まれているというのも事実なのである。


何が正しく、何が間違いであるのか…誤った解釈へと発展させない為にも、「判官贔屓」といった同情や感情論によって簡単に善悪を決定してしまうのではなく、冷静な視点で観察しながら常々考えなければならないと言える。

「判官贔屓」とは、時に物事の本質を誤った方向へと導いてしまい、誰かの人生をも歪めてしまう危険な要素にもなり得るのだから。


関連タグ

贔屓

滅びの美学:近い部分もある

風評被害キャラヘイトヘイト創作…判官贔屓されると、相対的なキャラクター等を対象に起こりやすい。

永遠の二番手/もう一人の主人公/ライバルキャラ/ライバルヒロイン(もう一人のヒロイン)/美形悪役/過小評価…判官贔屓されやすい設定。

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