石ノ森章太郎
いしのもりしょうたろう
本名:小野寺章太郎/おのでら しょうたろう(1938年1月25日~1998年1月28日)
概要
宮城県登米郡石森町(現・登米市中田町石森)出身の漫画家で、1970年代以降は特撮、アニメーション番組のプロデューサー的なポジションでも成功をおさめた。
ペンネームは出身地の石森(いしのもり)から。しかし「いしもり」の読みが定着してしまい、1984年に「石ノ森」に改名した。
略歴
1938年1月25日、宮城県登米郡石森町に父・康太郎、母・カシクの長男として生まれる。子供の頃は映画監督を志望していた。
1951年、「毎日中学生新聞」の漫画投稿欄に4コマ漫画を初投稿し入選。
1953年、宮城県立佐沼高校に入学(後輩に大友克洋)。「漫画少年」の投稿仲間(赤塚不二夫など)で「東日本漫画研究会」を作り、肉筆回覧誌「墨汁一滴」を作る。
1954年5月、手塚治虫より「シゴトヲテツダッテホシイ」と電報があり、学校を休んで上京。中間テストをはさんでアシスタントを務める。12月、「二級天使」(漫画少年)でプロ・デビュー。
1956年、高校卒業と同時に上京し、西落合に下宿。5月、トキワ荘に移る。すぐに姉・由恵も上京。トキワ荘に入居し、石ノ森の身の回りの世話をする。「新漫画党」党員となる。
1958年、姉・由恵が死去。
1959年、アニメーション映画「西遊記」(東映)の企画制作に参画。東映動画に入社したいと訴えたが断られる。
1961年、集英社記者の肩書でシアトルの「SF大会」に出かける。
1962年、トキワ荘を出る。「少年同盟」を連載開始。
1963年、鈴木伸一らとアニメーション制作会社「スタジオ・ゼロ」を設立。
1964年、利子夫人と結婚。手塚治虫が仲人を務める。「サイボーグ009」を連載開始。
1965年、「マンガ家入門」を執筆。長年に亘り漫画家志望者のバイブルとなった。
1966年、「佐武と市捕物控」を連載開始。「ミュータント・サブ」、「サイボーグ009」で講談社児童まんが賞受賞。アニメ「レインボー戦隊ロビン」、「海賊王子」が放映開始。
1967年、「幻魔大戦」(原作・平井和正)を連載開始。アニメ「ドンキッコ」が放映開始。
1968年、「ジュン」、「佐武と市捕物控」で小学館漫画賞受賞。
1969年、「リュウの道」を連載開始。「東映まんがまつり」でアニメーション映画「空飛ぶゆうれい船」が公開された。
1971年、テレビドラマ「好き!すき!!魔女先生」、特撮ドラマ「仮面ライダー」、アニメ「原始少年リュウ」、「さるとびエッちゃん」が放映開始。
1972年、特撮ドラマ「人造人間キカイダー」、「変身忍者嵐」が放映開始。
1973年、特撮ドラマ「ロボット刑事」、「イナズマン」が放映開始。
1974年、アニメ「星の子チョビン」、特撮ドラマ「がんばれ!!ロボコン」が放映開始。
1975年、特撮ドラマ「秘密戦隊ゴレンジャー」、「アクマイザー3」が放映開始。「番長惑星」を連載開始。
1976年、特撮ドラマ「宇宙鉄人キョーダイン」が放映開始。バラエティ番組「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」にデンセンマン(電線マン)が登場。
1977年、特撮ドラマ「大鉄人17」、「快傑ズバット」、アニメ「氷河戦士ガイスラッガー」が放映開始。
1978年、多羅尾伴内(脚本・小池一夫)を連載開始。テレビドラマ「がんばれ!レッドビッキーズ」が放映開始。
1981年、「東映不思議コメディーシリーズ」がスタート。
1983年、アニメーション映画「幻魔大戦」(角川映画)が公開された。
1984年、特撮ドラマ「星雲仮面マシンマン」が放映開始。
1985年、特撮ドラマ「兄弟拳バイクロッサー」が放映開始。
1986年、デビュー30周年を機に、石ノ森に改名。
1987年、「マンガ日本経済入門」が日本語・流行語大賞・大衆賞を受賞。
1988年、「HOTEL」等で小学館漫画賞受賞。「マンガ日本経済入門」で日本漫画家協会賞・大賞受賞。
1989年、「マンガ日本の歴史」が刊行される。
1990年、「HOTEL」がテレビドラマ化される。
1998年1月28日、リンパ腫による心不全のため順天堂病院で逝去。享年60歳。勲四等旭日小緩章を授章。
2000年、故郷の中田町に「石ノ森章太郎ふるさと記念館」がオープン。
2008年、「石ノ森萬画大全集」(角川書店・全500冊)がギネス世界記録から「一人の著者によって出版された最多コミックの記録」として認定を受ける。
主な作品
漫画作品
コミカライズ
- 快傑ハリマオ(原作・山田克郎)
- 仮面ライダー1号
- 仮面ライダー2号
- 仮面ライダーアマゾン
- 仮面ライダーBlack(漫画)
- 幻魔大戦(原作・平井和正)
- 家畜人ヤプー(原作・沼正三)
- ゼルダの伝説神々のトライフォース(米国のゲーム雑誌「NINTENDO POWER」で連載された)
原案・キャラデザインなど
- 快傑ズバット(原案)
- ジャッカー電撃隊(原案)
- アクマイザー3(原案)
- 宇宙鉄人キョーダイン(原案)
- 大鉄人17(原案)
- 星雲仮面マシンマン(原案)
- 兄弟拳バイクロッサー(原案)
- ペットントン(原案)
- どきんちょ!ネムリン(原案)
- 魔法少女ちゅうかなぱいぱい!(原案)
- 魔法少女ちゅうかないぱねま!(原案)
- 美少女仮面ポワトリン(原案)
- 不思議少女ナイルなトトメス(原案)
- うたう!大龍宮城(原案)
- 有言実行三姉妹シュシュトリアン(原案)
- デンセンマン(キャラデザイン)
萬画宣言
1989年、「漫画」は以前と比べ多様な表現が可能になったとして、新しい呼び名として「萬画」を提唱。「萬画宣言」を行い自らを萬画家と称した。
一、萬画は万画(よろずが)です。あらゆる事象を表現できるからです。
一、萬画は万人の嗜好にあう(愛されるし、親しみやすい)メディアです。
一、萬画は一から万(無限大の意も含む)のコマによる表現です。従って萬画は、無限大の可能性を持つメディアである、とも言えるでしょう。
一、萬画を英語風に言えば…Million Art。Millionは百万ですが、日本語の万と同じく「たくさん」の意味があるからです。頭文字を継げれば、M·Aです。
一、M·Aは即ち“MA”NGAの意。
石ノ森イズム
石ノ森章太郎が手掛けるヒーロー像は直接手掛けた漫画やブレーンとして参加した作品に限らず、ヒーローに独自の哲学を持たせる事が多く、特にお約束として挙がる事が多いのは「親殺し」(同族殺し)や「人とは異なる存在になってしまった悲哀」である。(秘密戦隊ゴレンジャーなど例外はある。)
特に石ノ森ヒーロー漫画に黎明期を駆け抜けたサイボーグ009からしてかつては一般人だったゼロゼロナンバーが製造元であるブラックゴーストの野望を止める話であり、以降の作品にも引き継がれつつも、より強く意識されるようになり、ヒーローと悪者を分ける決定的な違いを模索していくようになった。(仮面ライダーであれば人間の自由と平和を守ろうとする信念、キカイダーであれば人間のように思い悩む不完全な心などがその代表格と言える。)
石ノ森の没後に製作された平成ライダーシリーズは石ノ森の「親殺し」の作風を特に受け継ぎつつも、悪者とヒーローの力が同じならば、あえてその境目を緩めて悪役ライダーを登場させてみたり、人類の敵を生み出してしまった責任を取る為に子殺しをするヒーローがいたりと別方向からのアプローチがなされている。特にこの親殺しの概念は仮面ライダーウィザードにてクロス・オブ・ファイアと呼ばれて体系化された。
また、漫画作品はテレビよりも高年齢層が読む者だと認識していた為か、テレビ版とかけ離れたハードな作風に仕上げる事が多く、ヒーロー達の関係者がバンバン死んだり、挙句の果てにヒーローを殺してしまう事も少なくなかった。(こうした描かれ方には上述のヒーロー哲学以外にも、本人の性格にも原因があったりする。詳しくは余談の項を参照。)
石ノ森スターシステム
手塚治虫先生ほどではないにしろ、石ノ森章太郎作品にも同じ顔または同じ顔のパーツを持つキャラクターが多数登場している。
例えばヒーローものの主人公は眉毛が太めで髪の毛が後ろに跳ねている(※1)、謎めいた美女は潤んだ黒目をしている(※2)、ニヒルなキャラクターは真っ白な三白眼(※3)などの特徴がある。この他にも片目を隠した儚げな表情の少年『ジュン』は『魔法世界のジュン』などで設定を変えて登場している(009も片目を隠しているが、顔の造形はほぼ別物である)。
(※1)例:『人造人間キカイダー』のジロー、『秘密戦隊ゴレンジャー』の海城剛、『イナズマン』の風田三郎など。『仮面ライダー』の本郷猛のように似た顔つきをしているが、髪の毛が後ろに跳ねていないパターンもある。
これらの顔の造形は黎明期に発表された『ミュータントサブ』の頃から見られる顔であり、これを踏襲してか、以後の石ノ森章太郎作品ではサブまたはサブロウと呼ばれるキャラクターがこの顔を持つ事がある(先述の風田三郎や、『佐武と市捕物控』の佐武などがそれ)。この他、『リュウ』という名前で登場する事も多い。
(※2)例:『サイボーグ009』のヘレナ(アニメ版ではアルテミス)、ヘレン、ビーナ、『人造人間キカイダー』の坂本千草など。この目の表現は『仮面ライダーフォーゼ』のヴァルゴ・ゾディアーツに受け継がれた。
(※3)例:『サイボーグ009』のアルベルト・ハインリヒ、『佐武と市捕物控』の市など。これらの目は「メカ目」と呼ばれる表現である。
余談
- 高校2年の時上京し手塚治虫のアシスタントを務めた。文庫版「鉄腕アトム」のエピソード「電光人間」の前説で「帰ってきた原稿を見て僕は驚いた、ここまで描いてくれるとは思わなかったのだ」などと解説されている。「二級天使」でデビューし、一旦実家に戻って高校を卒業した後、再度上京した。
- 病弱であまり外出出来なかった3歳年上の姉・由恵のために、その日の体験や出来事を絵に描いて報告していたのが漫画家を目指すきっかけとなった。石ノ森がトキワ荘に入居した後、身の回りの世話のため由恵もトキワ荘へ入居した。住人達のマドンナ的存在だったが、1958年、喘息の発作で入院中、症状を抑えるためのモルヒネの過剰投与でショック死している。
- 姉の死後は漫画に対するモチベーションを失い「男子一生の仕事ではない」と考え、連載を切られるつもりで実験的な表現をしていたが、却って後進からその斬新さをリスペクトされる破目になった。1964年に利子夫人と結婚したのを機に漫画家を一生の仕事とする決意を固め、「デビュー10年目にしてやっとプロの漫画家になった」と語っている。
- トキワ荘時代は、水野英子や赤塚不二夫とともに「U・マイア」という名でも作品を発表していた。
- 荒俣宏は、石ノ森がミュータントやサイボーグなど、当時「石森章太郎の造語」疑惑が出るほど難解な単語を少年誌漫画のタイトルにし得たのは、「少女漫画を描いていたため」と主張している。当時、実際に存在する専門用語、パロディなどは少年誌ではまずありえないものであった。
- 壮大な大風呂敷を広げておきながら「完結編」「伏線を回収した大団円」を殆ど描かない(鬱エンドも多い)ことでも知られる。飽きっぽい性格で「扉絵を描いた時点でもう飽きている」と自ら語っており、島本和彦は「あとはテレビに合わせてテキトーにやるか!」という態度だったからこそ多作だったのではないか、と推測している。
- 元アシスタントの永井豪の自伝漫画「激マン!」によると「普通の人の5倍のスピードで作品を描く天才」とのことである。一晩で50ページを書き上げた等の伝説があり、手塚治虫が「漫画の神様」と称されたのに対し、「漫画の王様」、「漫画の帝王」と称された。人並み外れたハードワークと睡眠不足が、晩年体調を崩した原因と言われている。
- 大量の仕事をこなしつつも新作映画は全てチェックしていた。収入の全てを海外旅行や遊びに使い、貯金はほとんどなかったという。
- 串田アキラは石ノ森がオーナーを務めていたクラブ「クローバー」に度々出演し、R&Bについて語り合ったりしていたが、「仮面ライダーZX」ショーに歌いに行った所、野外テントに「クローバー」のアフロ親父がいて驚く。そこで初めて、仮面ライダー原作者の石ノ森だと知った。