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天狗党の編集履歴

2025-01-10 19:36:28 バージョン

天狗党

てんぐとう

「天狗党」とは幕末水戸藩で挙兵した尊王攘夷派による軍勢の総称。「天狗党の乱」を引き起こした。またはそこから派生した創作集団や創作作品の事も指す。

曖昧さ回避

  1. 江戸時代幕末水戸藩革新派であった尊王攘夷派に名付けられた名称。
  2. 藤田東湖の四男・藤田小四郎筑波山で挙兵した一派から膨れ上がった武装集団。この一団が水戸藩の門閥派(保守派)であった佐幕派の「諸生党」と激しい藩政抗争の末に北関東北陸を巻き込んで拡大した大争乱は「天狗党の乱」と呼ばれている。

現在はこの「天狗党」から派生した創作集団や創作作品が存在する。他の天狗党と区別するために水戸天狗党の呼称がタグとして使われる事もある。


概要

水戸藩の改革派・尊王攘夷派として

水戸藩8代藩主徳川治紀の三男・松平紀教は長兄の9代藩主・徳川斉脩の死後、中下士層の支持を受け10代藩主になる。紀教は徳川姓を名乗り、諱も11代将軍徳川家斉の偏諱を授かり斉昭と改め徳川斉昭となった。斉昭は幼少期の教育係だった会沢正志斎や「水戸の三」と呼ばれた藤田東湖・戸田忠太夫・武田耕雲斎らの中士層を側近とし藩政改革を行った。これに対し上士層は徳川将軍家との関係強化のため家斉の庶子を養子を迎えることを唱えていたこともあり斉昭とは距離を置いたが、斉昭が中下士層から幅広く用いたためにますます反発した。やがて「天狗党」と呼ばれるようなった尊王攘夷を唱える改革派と斉昭に距離を置く上士層でのちに「諸生党」を結成する佐幕志向の門閥派と派閥抗争を繰り広げた。


ちなみに天狗党の「天狗」とはぶっちゃけ蔑称「学問を鼻に掛け威張る成り上がり者」という意味から来ているとされている。


安政の大地震で東湖と忠太夫が死亡し、幕閣でも斉昭と仲が良かった老中首座の福山藩主・阿部正弘が病死し、斉昭と非常に仲が悪い彦根藩主・井伊直弼大老に就任したことは水戸藩内の動向にも大きな影響を与えた。安政の大獄で水戸藩の尊王攘夷派が多く罰せられ門閥派などの尊王攘夷鎮派が強くなった。桜田門外の変で直弼は水戸藩の尊王攘夷派に殺害、三ヶ月後に斉昭が急病死した。このため門閥派が強くなり変に関与した尊王攘夷派の藩士の多くが死罪となった。


天狗党の乱

斉昭という後ろ盾を失ったのみならず正志斎も尊王攘夷鎮派かつ開国派に転向していたため耕雲斎が尊王攘夷派の重鎮になっていた。上方以西でも1862年の文久三年の政変天誅組の変、土佐勤王党への弾圧、池田屋事件や禁門の変が発生したことで諸国の尊王攘夷派の力が弱まることになった。この状況の打開を狙った天狗党の藤田小四郎は武装蜂起による尊王攘夷を目指そうとし筑波山で蜂起したが、武装軍資金がないので周辺の町や村から略奪行為を行った。水戸藩では門閥派の首魁の市川三左衛門が幕府の援助を受け諸生党を結成して天狗党を攻撃した。耕雲斎は武力行使には反対していたが諸生党打倒のため天狗党に加入して党首となった。そして江戸幕府から追討令が発せられ若年寄遠江相良藩主・田沼意尊(田沼意次の曾孫)を総大将とし諸生党を中核とする追討軍を差し向けられてしまう。耕雲斎や小四郎は北陸道を西進し京を目指したが、さらに在京中だった斉昭の七男・一橋慶喜会津藩桑名藩の兵を率い討伐に向かったことを知り福井藩領の敦賀で投降、軒並み捕縛されてしまう。


加賀藩のように天狗党に同情的な藩もあったが、天狗党の略奪行為に激怒した意尊は捕縛した残党をニシン小屋に拘留したため、その劣悪な環境で多数の党員が衰弱死していた。そして天狗党の壊滅を狙う諸生党や水戸藩の尊王攘夷派に直弼を斬殺された彦根藩の報復で、耕雲斎をはじめとした首謀者は軒並み処刑された。ただし若年なのを理由に武田金次郎相楽総三遠島処分にされ助命された。


その後、三左衛門が水戸藩執政となり幕府の後ろ盾もあり水戸藩政を壟断し天狗党の親類縁者にも過酷な処罰が言い渡され、女子や幼児も数多く処刑されてしまう。


一方、金次郎や総三らと共に預け先の若狭小浜藩のはからいで遠島にならず謹慎しており、金次郎は准藩士になっていた(総三については当人の項目を参照)。

王政復古の大号令後、金次郎は小浜から水戸への帰藩を命じられた。帰藩した金次郎ら「さいみ党(天狗党と本圀寺党の合併後の通称)」は諸生党討伐の勅旨をもらい報復を開始。

これにより賊軍となって討幕軍の標的にされた三左衛門ら諸生党は会津藩主の松平容保を頼るべく水戸藩から離脱し会津へ向かった。以降、諸生党は「市川勢」と呼ばれることになる。そして水戸藩庁を掌握したさいみ党は憎悪の赴くままに暴走し権力をかさに報復を開始。今度は諸生党やその家族がことごとく処刑され、密告やいちゃもんによる私刑が横行した。その後、奥羽越列藩同盟に加わり越後長岡藩会津藩と共に新政府軍相手に戦うも敗退した市川勢が水戸城奪還のために水戸に攻め入りさいみ党など新政府軍と戦うも敗北し下総で壊滅。その後もさいみ党による市川勢とその家族への弾圧は続いた。また、さいみ党にはごろつきならず者も加わっていたとされる。金次郎と三左衛門が互いに大暴れした結果、常陸は荒廃して発展が遅れてしまった。


結局、幕末の一思想として水戸学による尊王攘夷思想を抱き一時は主導権を握っていた水戸藩は率いるトップ不在の内ゲバによる抗争により人材のことごとくを失い、生き残った者達も度量や見識に欠け感情の赴くままに暴走する輩ばかりで失脚し零落する者たちが続出。新政府に有用な人材を送り込む機会を喪い旧水戸藩士で重要な地位を獲得できたものはほとんどいなかった。元幕臣では勝海舟山岡鉄舟榎本武揚大鳥圭介らは明治政府でも活躍し、福沢諭吉栗本鋤雲高松凌雲渋沢成一郎らは民間で活躍している。


「天狗党の乱」の最後の勝者など何処にもいなかったと言っていいだろう。


天狗党の構成員

水戸の儒学者藤田東湖の四男。

筑波山で挙兵し天狗党の乱を引き起こした武装集団「筑波勢」の実質的な首謀者。

那珂湊の戦いで敗れて大子町の山中に逃れた後、中山道を進軍するが福井藩領の敦賀で投降し、加賀藩に捕縛される。敦賀の来迎寺で斬首された。享年25。

何かとあざとい逸話の持ち主であり、乙女ゲームのキャラクターのモデルになったこともある。

→「遙かなる時空の中で5」マコト(マコト(遙かなる時空の中で5)

マコトさんハピバ!


医師の息子で「筑波勢」の最初期からの参戦者だったが「愿蔵火事」と呼ばれた大火などの数々の暴挙により北関東を荒らしまくり「筑波勢」に対する鎮圧の大義名分を与えてしまった張本人。

後に陸奥棚倉藩福島県)によって斬首された。

「美青年であった」との伝承が残っている。


武田勝頼と運命を共にした跡部勝資の子孫。初名は跡部正生。斉昭から許され跡部から武田へ改姓した。斉昭からは友人の東湖や会沢正志斎・戸田忠太夫と共に用いられた。斉昭死後は水戸藩革新派の長老格として天狗党の代表格となる。

耕雲斎自身は武装蜂起に反対で小四郎から首領就任を懇願されるもこれを拒絶……したはずなのに、諸生党との政争の果てに「大発勢」として争乱に巻き込まれ筑波勢と那珂湊で合流。

結局「天狗党の首領」を引き受ける羽目になってしまい、那珂湊の戦いで敗れた一団を北陸まで牽引。最後は敦賀で斬首された。


武田金次郎

耕雲斎の孫の一人。東湖の甥(妹の子)で小四郎の従兄弟。

耕雲斎や小四郎に付き従い「天狗党の乱」に参戦。

「敦賀の処刑」時に他の若年者達と供に遠島扱いとなり生き残ったが、水戸藩における「諸生党」による天狗党家族親族に対する残虐な刑罰に対し激怒した末に復讐者となり、大政奉還後に天狗党生き残り一派で徒党を組み水戸藩に帰還。「諸生党なら誰でも構わぬ残虐な仕返し」を果たす暴虐者と化してしまう。

この一派は「さいみ党」と呼ばれ、白昼堂々と襲撃と暗殺を繰り返し、これによって大混乱に陥った水戸藩は事実上、止めを刺されてしまう。

「諸生党壊滅の要因はこの男を激昂させたこと」とも言われている。


廃藩置県後しばらくは茨城県の参事に就くなど職を持っていたが、祖父や外伯父と違って学もなく器も小さかったことから政務をこなすことができず次第に疎まれ始め明治政府からもまるで顧みられなくなり、経済的に困窮した。「ニシン蔵」に幽閉された時の後遺症からきた持病が悪化、やがて行方不明となる。1895年前後、那須塩原温泉に湯治に来た香川敬三と偶然再会する。敬三によると温泉宿で乞食同然で過ごしており敬三からの施しに大いに感謝したとされる。その後は敬三に保護され水戸に戻されたが約3ヶ月後に、48歳で逝去したという。明治生まれで大正から昭和期の評論家である山川菊栄は金次郎を「無知、幼稚。空虚な名門の思い上がりと、まるで復讐をあおるような朝廷からの甚だふさわしからぬ御言葉だけに支配されていた。五カ条の御誓文など読めもせず、読んで聞かされても、解りはしなかったろうともいわれた」と酷評している。


江戸出身。のちの赤報隊隊長。北陸道を西進する天狗党の軍に加わったが金次郎らと共に助命された。


天狗党ゆかりの人物

小四郎の父で「水戸の三田」の一人。水戸藩の著名な儒学者であり尊王攘夷思想家だった。

耕雲斎共々斉昭に重用されていたが「安政の大地震」により死亡。東湖が生きていれば「天狗党の乱」は起こらなかった、とさえ言われる事も。

ちなみに子煩悩母親思いかつ飲んだくれだったとされる。


「水戸の三田」の一人。東湖と共に「水戸の両田」と言われた文化人。東湖・耕雲斎や共々斉昭に重用されていたが彼も「安政の大地震」により死亡。このため斉昭の政治力が低下した。安政の大獄で直弼に切腹を命じられた安島帯刀は実弟。


東湖の父・藤田幽谷の門下生。治紀に命じられ幼少の斉脩や斉昭の教育係を務めたことがある。斉昭の藩主就任後は東湖・忠太夫・耕雲斎と共に斉昭の側近となる。東湖と同じく尊王攘夷思想家だったものの、最晩年は過激過ぎる尊王攘夷派から距離を置き尊王攘夷鎮派もなり最終的には開国派(ただし斉昭も本音では開国やむなしという考えだったが)に転じたため激派から糾弾された。彼の死の翌年に天狗党の乱が発生する。


薩摩藩士。のちの桐野利秋。敦賀で耕雲斎や小四郎と会見したとされる。彼の上司で西南戦争で運命を共にした西郷隆盛は東湖を心の師と仰いでいた。ちなみに西郷とこれまた縁の深い勝海舟は東湖を嫌っていた。


その他、水戸藩の諸勢力

諸生党(→市川勢)

「天狗党」の敵対勢力で佐幕派。元々斉昭と対立しており、安政年間は井伊直弼と連携していた。王政復古後、朝敵にされたことで水戸藩から離脱。戊辰戦争では「市川勢」として奥羽越列藩同盟に参加し、会津藩桑名藩長岡藩庄内藩兵と共に北越戦争や会津戦争を戦い新政府軍を苦しめた。薩摩藩長州藩に対する憎悪も激しく近藤勇を狙撃した元御陵衛士で薩摩藩士の富山弥兵衛を捕らえ処刑している。会津藩の敗北後、市川勢の残党は旧幕臣の一部と合流し水戸へ攻め入りさいみ党に大打撃を与えたりしたが敗北。その後、下総銚子を目指しそこから蝦夷共和国へ向かい榎本武揚らと合流するつもりだったとされるが八日市場で全滅した。同盟に参加した諸勢力では唯一全滅している。

途中から加勢した会津戦争では娘子隊を救出したり鶴ヶ城籠城戦でも力戦したことから新撰組と共に会津での評判は良く、白虎隊記念館内に諸生党の鎮魂碑がある。


諱は朝道。下総結城氏または白河結城氏出身。斉昭の宿敵の一人で門閥派の領袖。元々斉昭や天狗党との関係は悪くなかったものの対立。斉昭が徳川家慶に強制隠居させられ斉昭の長男・徳川慶篤が継いでからは専権を振るったが老中・阿部正弘の命で強制隠居。その後も反斉昭を貫き正弘死後、直弼とも関係が近い水戸支藩の讃岐高松藩主・松平頼胤を水戸藩主に擁立しようとしたため後見役として政務復帰していた斉昭に処刑された。


諱は弘美。寅寿が斉昭に処刑されたあとの門閥派の中心人物で諸生党を結成した。

天狗党の乱の鎮圧後、その親族に対する過酷な処分を主導して猛反発を招く。

王政復古後、会津藩松平容保を頼るため諸生党を率いて水戸を脱出。奥羽越列藩同盟に加勢し越後会津で新政府軍と戦った。会津藩が敗戦した後も新政府軍への徹底抗戦を貫き水戸へ戻り弘道館を占拠し水戸城奪還を狙うも新政府方に阻まれ失敗。


諸生党壊滅後は江戸に潜伏しフランスへ亡命するためにフランス語ドイツ語を学んだとされる。しかし「東京遷都」が行われた1869年5月、フランスへの出航直前に水戸藩の捕吏に捕らえられて水戸へ連行。最後は謀反人として「正に晒し者」として「逆さ磔の刑」に処せられた。


玉造勢

天狗党とは別の水戸藩革新派の一派。

新撰組の初代局長。

「天狗党の一員だった」と言われているが、実際はこちらの一員だった可能性が高く、史実的には「天狗党の一員ではなかった」と考えられている。


本圀寺党

徳川慶篤の上洛に従い皇室や徳川慶喜の警固に当たった尊王攘夷派のこと。本圀寺勢とも。

天狗党と同じ尊王攘夷派で1864年の平岡円四郎の暗殺に関与しているとされる。慶喜の一橋家の兵力に組み込まれた者は天狗党の乱では慶喜に従い天狗党討伐に従軍している。菊池平八郎ら6人は1867年の徳川昭武の渡欧に随行している。

尊王色が薄まっていったことに不満を持ち離脱して中岡慎太郎率いる陸援隊に加わった隊士も結構いた模様。

王政復古後、天狗党の生き残りと合併し「さいみ党」となる。


東湖の弟子。慶篤のち慶喜にも仕えたが過激さゆえに罷免され本圀寺党(諸説あり)に加入し京都で活動していた。のち岩倉具視や中岡慎太郎と知り合い、陸援隊の副隊長格となった。

水戸藩出身の尊王派の志士の中で唯一爵位を受けたが、その後も長く宮内庁に奉職し明治天皇昭憲皇太后を支え大正年間まで生きた。水戸学を学んだ尊王攘夷派だったが、行き過ぎた正義感による過激な思考に走りがちな水戸学から冷静に距離を置きのち開国派に転じ岩倉使節団に自費参加するなどしている。かつての主である慶喜のみならず金次郎をはじめとした零落した志士の名誉回復や救済に努めているが日露戦争時、昭憲皇太后の夢から明治天皇に坂本龍馬の事を語ったことでも知られる。


「天狗党」の派生集団や派生作品

派生集団

黒天狗党

飛べ!イサミ」に登場する「黒天狗」こと「芹沢鴨之丞に率いられた太古の日本から存在していた敵組織。

飛べ!イサミ


BASARA」の「天狗党」

紀州熊野で「那智」と「」により率いられている青年団。

タタラ(更紗)に出会い、革命軍に参加する事になる。

なお他の天狗党と区別するために「熊野天狗党」タグも使用されている。


ぬらりひょんの孫」の「高尾山天狗党

奴良組お目付役「鴉天狗:鴉天狗(ぬら孫)」に率いられる奴良家の一党。

…もう


派生作品

がんばれゴエモン天狗党の逆襲

がんばれゴエモン」シリーズのゲーム。

こちらの「天狗党」は主人公の敵対組織である。

クラマンダ・クラマリア


大日本天狗党絵詞

黒田硫黄によるマンガ作品。

天狗を再興させる為に「天狗党」を作る天狗たちの物語。

空とぶシノブ


逃げ上手の若君

ジャンプで連載中の松井優征氏の漫画作品。南北朝での中先代の乱を描いた作品で、今作では足利尊氏の配下の諜報集団、つまり忍者として描かれている。

その名の通り皆天狗の面を被っている。


関連リンク

天狗党の乱 - Wikipedia

DL新八~水戸天狗党の跡を追う~


関連動画


関連タグ

江戸幕府 幕末 水戸藩

尊王攘夷諸隊 幕末諸隊

天狗


青天を衝け


南北朝

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