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鎌倉幕府の編集履歴

2023-09-02 12:43:50 バージョン

鎌倉幕府

かまくらばくふ

かつて日本に存在した武家政権。

概要

鎌倉幕府とは、かつて日本に存在した武家政権のことである。その存続期間を鎌倉時代と称する。源頼朝相模鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市中心部)を拠点として創始した政権。武家政権としては平清盛が興した平家政権につぐ2番目、朝廷から完全に独立したものとして初めてのものとされる。なお、「幕府」と呼ぶのは江戸時代以降であり、当時の武士たちは将軍あるいは幕府全体を「鎌倉殿」と呼んだ。朝廷・公家からは、漠然と「関東」あるいは「武家」と呼ばれた。


日本史上類を見ないほどの内ゲバ内部抗争・親族闘争だらけであり、血生臭さを常に匂わす時代である。これは当時の鎌倉武士たちには後世の武士の倫理規範となった武士道儒教に代表される道徳教育すら確立していなかった事と、創始者たる頼朝が平家政権を反面教師とし過ぎた結果、身内に対しては敵よりも容赦の無い行動を取りまくったということも考慮されなければならない。


江戸幕府は鎌倉幕府のような粛清劇は少なくなっているのは、『吾妻鏡』(北条得宗家が頼朝から宗尊親王まで6代の鎌倉幕府の事績をまとめた歴史書)を愛読していた徳川家康が教訓としたためであろうか。実際、家康の前の天下人であった豊臣秀吉は頼朝に勝るとも劣らないレベルで粛清を繰り返している。


鎌倉幕府の仕組み

鎌倉幕府の特徴は、頼朝は武士たちの先祖伝来の土地の権利を保証する保護者(これを鎌倉殿と呼ぶ)となり、その代り武士たちは頼朝に命懸けで仕える個人的な従者すなわち御家人になる、という御恩と奉公の契約の仕組みにあった。従来の朝廷の仕組みでは、武士の生活基盤たる土地の権利は重税に脅かされ、しばしば自己負担で上京して宮中の警護を強いられ、挙句にはその上京中に近隣の武士たち(親族である場合も多い)に土地を奪われるという不安定な有様であった。このような武士の権利を守ることが頼朝に期待されたのであった(本郷和人『武力による政治の誕生』)。木曾義仲平家源義経等の追討宣旨が出される度に、頼朝は各地に大軍を送り込んで、敵軍を破った上で占領地行政を進めた。これら謀反人の領有していた荘園や公領に置かれたのが地頭であり、そして彼らを指揮する守護が国別に置かれた。御家人たちは守護や地頭に任じられることで、頼朝から所領支配の正当性を保証されたわけである。これを朝廷が事後承諾することによって、頼朝が守護・地頭を通じて全国を支配する鎌倉幕府の仕組みが出来上がった(入間田宣夫『武者の世に』)。


以下に鎌倉幕府の主な機構を掲げる。

将軍鎌倉殿。最高権力者であり、御家人に御恩を授け奉公を受ける役目。
政所将軍の名で本領安堵や新恩給与を定める幕府の心臓部。一般政務や財政も担当。長官は政所別当。
問注所裁判を担当、長官は執事
侍所軍事・警察・刑事裁判、御家人の統率を担当。長官は侍所別当。
京都守護朝廷との交渉や京都御家人の統率、京都の警察・裁判を担当。
鎮西奉行九州の御家人を統率する。
守護諸国に設置。大犯三箇条(京都警備の催促、謀反人・殺害人の逮捕)を担当
地頭荘園・公領に設置。年貢の徴収や軽犯罪取締りを担当

頼朝の死後まもなく、権力闘争も絡んだ親族間の争いや暗殺の結果、源氏将軍は絶えてしまう。つまり武士たちの所領を保証できる鎌倉殿という権威が消えてしまったことになる。しかし、同時期に権力闘争によってライバルの御家人たちを次々と打倒した北条氏が、御家人の最高合議機関たる評定衆を率いる執権という職について実権を握った。執権は、摂関家から九条頼経・頼嗣親子を迎えたのち、滅亡に至るまで皇族から名目上の将軍を鎌倉殿に迎えて、その意向による命令という形式を踏むことによって幕府を維持した。その仕組みの基盤となったのが御成敗式目と大田文であった。御成敗式目とは、その後の武家政権の模範となった法令である。すなわち「御家人の合議によって決定を下すこと」「当時の武家社会における正義の基準であった『道理』に従った公平な裁定の理念」「御家人の所領問題に関しては道理に従って公平に裁き、鎌倉殿といえど軽々しい対処は許されない」「武家の裁判権の境界を明示し、その範囲外での公家や国司の裁判権を尊重する」等々。これによって御恩と奉公のシステムは鎌倉殿個人の権威から法律による保護へと変化し、幕府の統治は安定することになった。また大田文とは荘園や公領の面積と領有者を確定させた帳簿である。これによって土地の所有関係は明確になり、土地問題に関して裁定を下す基礎資料として御成敗式目の実施を支えた。これらを策定した執権の北条泰時は、理想の統治者として後世に讃えられることになる(入間田宣夫『武者の世に』)。


ただし、泰時の理念も尊重はされたものの、その通りに実態が動いたわけではない。例えば泰時の後、執権・北条時頼の頃には幕府の機構も以下のように大きく変化している。どう見ても北条氏専制です。本当にありがとうございました


将軍源頼朝、頼家実朝の三代は最高権力者であったが、摂関家、天皇家から将軍に迎える頃には実権を失い、ただの象徴となった。
得宗北条氏嫡流の家長のこと。幕府公式の職務ではないが、北条時頼が実権を掌握したまま執権職を北条氏庶流に譲ってから、実質幕府最高権力者となる。
執権政所別当の別名であったが、侍所別当の権限を吸収し幕府の実質最高権力者となる。ただし、得宗が執権と別に存在する場合は、得宗の指示に従った。北条氏が就任。
連署執権と連名で署判をする役職をいい、執権の次席として政務を補佐する重職。2代執権・北条義時の死後、義時の弟・時房が任じられたのが始まり。得宗に忠実な北条氏庶流の中から選ばれるが、北条重時は執権よりも大きな権力を持っていたとの説もある。得宗・北条時頼の嫡男・時宗が執権職に就くまで連署に就任した例もある。また、必ずしも常設された職責ではなく、施政下において空席となったこともあった。
内管領得宗家の使用人たる御内人の筆頭のこと。得宗家の家政を行うが、得宗権限の強化に伴って幕政全体の実権を握っていった。
評定衆3代執権北条泰時が設置した幕府、政治の最高評議機関。4代執権・北条経時が病に倒れた後は自邸において得宗家身内の会議(深秘の御沙汰)が行われ、以後歴代執権に引き継がれて実権を奪われる。
引付衆5代執権・時頼の頃に設置、評定衆の下で頻発する御家人の所領裁判を担当した。
政所将軍の名で本領安堵や新恩給与を定める幕府の心臓部。一般政務や財政も担当。
侍所軍事・警察・刑事裁判、御家人の統率を担当。侍所別当は執権が兼ねたので、次官で得宗家の御内人が務める侍所所司が指揮。
問注所裁判一般を担当。御家人の所領訴訟があまりに多いので引付衆に権限を分け、それ以外の民事訴訟を担当。
六波羅探題承久の乱以後に京都守護を六波羅探題と改称し、朝廷監視と尾張以西の行政・軍事全般担当に権限を拡大した。北方と南方の二名制で全て北条氏が就任。一般に北方が上席とされるが、初代南方・北条時房は執権・北条義時からの文書を初代北方・北条泰時よりも先に読み、政治的判断も時房にゆだねられていたといわれている。
鎮西奉行九州の御家人を統率する。元寇の後は、鎮西探題と呼ばれ九州の軍事・行政・訴訟全般を担当する要職に強化され(かつ北条氏が独占し)た
守護諸国に設置。大犯三箇条(京都警備の催促、謀反人・殺害人の逮捕)を担当。多くを北条氏が独占するようになった
地頭荘園・公領に設置。年貢の徴収や軽犯罪取締りを担当。

歴史

鎌倉幕府の歴史を語るには、まず幕府の始まりはいつかという問題を避けて通れない。なぜかといえば、そもそも「鎌倉幕府」という概念自体が後世になってできたものであり、当時の人々の誰一人として「今日から幕府はじめまーす」と言ってくれなかったからである。

従来は頼朝が征夷大将軍に任命された建久3年(1192年)が始期とされていた(「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」の語呂合わせが割と有名である)。しかし、近年では治承4年(1180年)に頼朝が鎌倉に拠点を定めてから徐々に政権の実態を構成していったことが明らかとなってきている。こうして先述のように、文治元年(1185年)に畿内以東の各国において守護・地頭を置くことが朝廷から認められた時点を一応の始期とするようになってきている(いい箱(1185)作ろう鎌倉幕府である)。

ちなみに、日本の歴史学者の間では1980年代には既に「頼朝の将軍就任をもって鎌倉幕府成立と見做すのは、江戸時代の史観を無批判に受け入れているだけ」という考えが一般的になっていた。

つまり、学校で「いい国作ろう鎌倉幕府」と習った世代の中には、歴史学会では、とっくの昔に定説でなくなっていた事を学校の歴史の授業で習っていた人達も少なからず居る事になる。


1185作ろう鎌倉幕府


鎌倉幕府の制度的起源は、公家の家政機関に求められる。「政所」とは本来公家が文書を発給したり所領の管理を司ったりするいわば公家の使用人たちの組織である。「侍所」とは使用人たちの出仕と主従関係を管理する組織であった。これらを整備したのは院政期の摂関家であり、実は鎌倉幕府とはこのような摂関家の家政機関の機能を継承して成立している(元木泰雄「院政と武士政権の成立」『院政と平氏、鎌倉政権』)。源頼朝は、軍事貴族すなわち公家の一員としての立場から政所や侍所を設け、将軍家の家政機関を全国支配の機関へと発展させていったということになる。


頼朝の挙兵

直接の鎌倉幕府の歴史は、伊豆の流人であった源頼朝が治承4年(1180年)8月に北条時政らを率いて挙兵し、伊豆国目代・山木兼隆を討ち取ったことから開始する。その後の経過の詳細は源平合戦記事に詳しい。幕府の成立において重要なのはその年10月、頼朝が緒戦の敗北を乗り越えて南関東の武士たちを従え、鎌倉に本拠を定めたことであろう。この頃から既に頼朝は武士たちの昔からの所領を認め保護する約束(本領安堵)、貢献に応じた新たな所領の提供(新恩給与)といったいわゆる御恩と奉公のシステムを成立させている。本郷は、鎌倉幕府とは後世の官庁オフィス街のようなものではなく、朝廷の権威で成立したものでもなく、武士を守る鎌倉殿と御家人たちの仲間意識から成立したという(本郷和人『武力による政治の誕生』)。


その頃、都の後白河法皇は、平家を破って上洛してきた源義仲(木曾義仲)の軍勢の兵糧徴収と称した乱暴狼藉に悩まされていた。それ以上に法皇が許せなかったのは、平家が連れ去った安徳天皇に代わる新天皇の選定に、上洛で奉じた北陸宮(以仁王の遺児)を擁して義仲が口を出したことである。こうして法皇は寿永2年(1183年)10月、東海道と東山道の年貢・官物進上について頼朝の指揮権と背く者への取締りを認めた宣旨を出す(寿永二年十月宣旨)。山本幸司はこのそれまでの頼朝自身の武力による関東支配と宣旨の効果によって東国の武士たちが配下に下ったこの時こそ鎌倉幕府の成立だとみている(山本幸司『頼朝の天下草創』)。


守護・地頭の成立

そして木曾義仲、続いて平家も源義経らが率いた東国武士の前に滅亡する。次の鎌倉幕府成立における重要な事件は、この平家滅亡後における義経と頼朝の対立である。平家打倒の最大の貢献者の一人であった義経は、頼朝がつけた軍目付を軽んじ、戦況について鎌倉への報告も怠り、頼朝の許可を得ず検非違使に任官する等の所業を咎められ、頼朝によって鎌倉への凱旋を拒否されてしまう。頼朝からすれば、命令に従わず勝手に朝廷の高位を占める弟は保元の乱のごとき一族内紛の原因であり、また後白河法皇も頼朝の強大化を恐れてこの兄弟対立を煽ったとされる(山本幸司『頼朝の天下草創』)。義経は叔父・源行家と共に頼朝追討の院宣を得るが、従う武士は少なく、奥州へと落ち延びていった。自らを追討する院宣について耳にした頼朝は、文治元年(1185年)11月に北条時政率いる大軍を上洛させて朝廷に迫り、義経捕縛の為に諸国に総追捕使(後の守護)と地頭を置くことを認めさせた。つまり幕府が全国の警察権を占有することが認められたのである。これが近年の教科書で増えている鎌倉幕府の成立時期である。


源頼朝


逃亡した義経を匿った奥州藤原氏は、頼朝が起こした奥州合戦で滅亡する。この翌年の建久元年(1190年)11月、頼朝は上洛して後白河法皇と直接今後の政治について交渉する。頼朝は権大納言・右近衛大将に任ぜられるが、鎌倉に戻る前に辞任している。しかし前右大将家として政所を御家人の所領給与機関に位置づける権威づけに、この官位は利用されたらしい(上横手雅敬「公武関係の展開」『院政と平氏、鎌倉政権』)。上横手は、この上洛で頼朝は日本国総追捕使・総地頭の地位を認められ全国の警察権を朝廷に公認された、つまりこの時こそ鎌倉幕府の成立であるとしている。


その後、建久3年(1192年)に朝廷から使者が鎌倉を訪れ、頼朝は征夷大将軍の地位を認められる。江戸幕府の考え方に合わせるならば、頼朝が将軍となったこの時こそ幕府の成立である。しかし『頼朝の天下草創』を著述した歴史学者・山本幸司は、先述の治承7年(1183年)あるいは文治元年(1185年)が近年における一般的な幕府成立時期であろうと述べている。入間田宣夫も著書『武者の世に』において鎌倉時代を通じて頼朝の称号は「初代将軍」ではなく「前右大将家」であり、御成敗式目が頼朝の功績を称える際も同様であったという。また当時の御家人が広く読んだ『曾我物語』から頼朝は1190年の上洛で日本将軍に任命されたという伝説も引用する。入間田はこれらに比べて建久3年(1192年)の頼朝征夷大将軍宣下の同時代人へのインパクトは薄く、当時の実情を離れた徳川幕府の流儀をもとにした考え方であるとしている。なお、征夷大将軍職が鎌倉時代の人々に軽んじられた理由としては、同職が当時朝廷に逆らった蝦夷(えみし)や反乱軍を追討するために設けられた臨時職であり、反乱鎮圧とともに職を朝廷に返上するからであろうと思われる。


治承6年(1184年)、頼朝は公文所(後に政所と改称)を鎌倉に設置、京より下向していた大江広元を初代別当に任命する。広元は朝廷との交渉役として、また、有能な実務家として長きにわたって幕府に仕え、後述する承久の乱にも北条政子の補佐役として彼女を支え続けた。他に頼朝時代の幕府の重臣としては、初代執権の北条時政、初代侍所別当の和田義盛、母が頼朝の乳母であり最も古くから頼朝に仕えていた安達盛長、幕府がある相模国の有力御家人三浦義澄、武蔵国の在庁筆頭の豪族である畠山重忠、嫡男頼家の乳母父で外戚に当たる比企能員、頼朝「一ノ郎党」と呼ばれた側近で二代目侍所別当となった梶原景時等がいる。秋田城介を世襲した安達氏を除く彼らの一族の多くは、後に北条氏を始めとした他の御家人との内乱で滅亡している。


頼家・実朝の政治

正治元年(1199年)正月、頼朝が急死すると長男・頼家が18歳の若さで家督を相続した。頼家は『吾妻鏡』によれば放蕩・遊興に耽ったと書かれ、1月に家督相続した直後の4月には裁断権を停止されて御家人たちの集団指導に移行した。建仁3年(1203年)8月に重病を得た頼家は将軍後継を巡って北条氏と対立を深める。外戚の比企能員等と北条氏打倒を企てるも失敗し、伊豆の修善寺に幽閉されて間もなく暗殺される。しかし実際は、将軍専制化を進めようとして北条氏に限らず御家人達と対立し、また武勇には優れていたが頼朝や弟の実朝に比べて政治的力量に欠け、貴重な腹心の梶原景時を見殺しに死なせたせいで破滅したともいう(山本幸司『頼朝の天下草創』)。


頼家の後を継いだのが頼朝の次男であり、頼家の弟である実朝であった。実朝は政務をとることに熱心ではなく、京風の文化、特に和歌に熱心な人物だったと伝えられており、藤原定家に師事し後世に「金槐和歌集」を残している。実朝の歌に対する愛着はみずからの治世にも影響し、『吾妻鏡』にも「武士の本文は武芸ではなく歌になってしまった」といった内容が書かれるありさまとなった。武家にあるまじき実朝の行動に失望した祖父・時政は将軍就任後すぐに実朝を廃し、新たな人物を将軍に立てようと計画したが、この陰謀には実朝の生母である北条政子と叔父である2代執権・北条義時が反対、時政は隠居に追い込まれることになった(榎本秋『歴代征夷大将軍総覧』)。もっとも実朝は政治家としては有能だったともいわれる(山本幸司『頼朝の天下草創』)。山本によれば、実朝には新調の鎧を損なって護衛に遅れた兵士を叱責し、見かけの華美さより常の乱れへの備えを誇れと諭した、という武家の棟梁らしい挿話がある。この件も含め『吾妻鏡』等には、寺社や朝廷に対して御家人の保護者としての幕府の立場を守りつつ巧みに調停する姿が描かれ、時には北条義時の要求すら却下していたという(山本、同書)。


雪の幕府


幕府内部の権力争いはこの間も続いた。建保元年(1213年)には侍所別当の和田義盛と北条氏の対立が表面化、武力衝突を起こし義盛は討ち取られている(和田合戦)。実朝は兄・頼家の忘れ形見・公暁を猶子にしていたが、承久元年(1219年)、公暁は実朝を鶴岡八幡宮で襲い、実朝を暗殺した。公暁の「実朝暗殺」の動機はわかっていない。父・頼家の仇を討ったとも、公家化し政務をないがしろにする実朝を北条氏が見限り、何らかの恩賞を公暁に与えることを約束したとも言われているが、直後に公暁が殺害されているので現在も歴史の謎として研究家の想像をかきたてている(榎本秋『歴代征夷大将軍総覧』)。山本は、実朝が妻を北条一族から迎えず後鳥羽上皇の叔父(母の弟)・坊門信清の娘を娶ったこと、また実朝に子孫を残す生理能力が欠けていた事で政子との対立が生じ、公暁の行動は政子の支持を当てにしていたとする(山本幸司『頼朝の天下草創』)。


承久の乱

実朝の死は、当時朝廷で治天の君として全権を手中に収めつつあった後鳥羽上皇にとっては幕府との交渉窓口を失うことになった。実朝は御家人の所領問題に関しては必ずしも上皇に従順ではなかったが、後鳥羽上皇にとっては頼れる交渉相手であったらしい(山本幸司『頼朝の天下草創』上横手雅敬「公武関係の展開」『院政と平氏、鎌倉政権』)。かくして承久三年(1221年)上皇は北条義時討伐の宣旨を下した。承久の乱である。これは従来、鎌倉幕府を滅ぼす意図として解釈されてきたが、上皇の目的はあくまで北条家の排除である。その後、空位となっている将軍の座に親王を送り、幕府を朝廷の管理下に置くことを想定していた。北条家に反感を持つ御家人も少なくなく、上皇としては祖父の後白河法皇に倣い、武士たちの同士討ちによって漁夫の利を得ようとしたのだろう。京方には畿内・美濃・尾張・但馬など14ヶ国から軍勢が集まり(『承久記』)、幕府の京都守護・大江親広は京方に寝返り、伊賀光季は自殺した。鎌倉の諸将にも京方につくべく使者が送られた。

だが、上皇より北条家のほうが一枚上手であった。この危機を救ったのは、北条政子の演説であり、前述の大江広元(大江親広の父)も政子に同調したという。政子によれば、「右大将軍(頼朝)の恩は山より高く海よりも深い、名を惜しむなら讒言をなした逆臣どもを討ち取れ」というのである。上皇の標的を自分たち北条家から、幕府全体へとさりげなくすり替え、武士たちの危機感をあおったのである。

この演説は御家人たちの心を結束させたようで、東国15ヶ国の軍勢が攻め上り、その総数は(誇張もあろうが)19万騎というから半端ではない。義時に味方するものは千人もいないであろうと呑気に構えていた後鳥羽上皇は動揺してなすすべもなかった。このとき幕府からの使者が、上皇に述べた言葉が以下の通りである。

「これより東国の武士を上洛させますので、ぜひ西国の武士と戦わせ、その様子をご覧になって下さい」


乱の後、極めて苛烈な処置が、幕府によって行われた。首謀者である後鳥羽上皇だけでなく、ほか二人の上皇まで「連帯責任」で流罪に処された。これらはまだいいほうで、朝廷側についた貴族や武家は、軒並み処刑された。ここまでやるか、と当時の人々は思ったであろう。源氏のような西国に基盤を持つ武士は、やはりそれなりに天皇家や朝廷に遠慮があったが、東国出身の北条家はそんな遠慮など毛ほども持ち合わせていなかった。

これ以後の幕府は右大将こと頼朝のカリスマを利用し、実際は北条氏が次第に実権を握っていくことになる。元は伊豆の小豪族に過ぎなかった北条氏であるが逆にそれゆえ頼朝の猜疑を避けて勢力を伸ばすことができたようだ(山本幸司『頼朝の天下草創』)。頼家を強制的に引退させた頃には、北条氏は既に御家人の筆頭として最重要機関・政所のトップ(別当)すなわち執権となっていた。侍所を治めていた和田氏の滅亡後は侍所の別当も兼ねて、他の御家人を引き離す権力を得ていたらしい。義時・政子は承久の乱終結後数年で世を去り、執権の地位は義時の嫡男・泰時が継ぎ、その補佐役として連署が新たに設けられ義時・政子の弟・時房がその職に就いた。


得宗独裁の確立

泰時は謹厳実直で謙虚な人であったという。『吾妻鏡』には、幼いころ泰時に無礼を働いて頼朝に叱責された武士を庇ったり、承久の乱で泰時に免罪された公家のお礼を断ったりといった挿話が残っている。評定衆を作って有力御家人の合議による政治を進めたり、先述の御成敗式目のように頼朝の偉大さを称え道理に従った法治主義的な政治を行ったりといった治世にその性格が表れている。御家人たちとの摩擦を避けて調整に努めた泰時の政治は執権政治の全盛期とされ、将軍独裁の鎌倉前期と得宗(北条氏嫡流家長のこと)独裁の鎌倉後期との過渡期の政治であったという(上横手雅敬「公武関係の展開」『院政と平氏、鎌倉政権』)。

泰時の後は嫡孫・経時が継いだ。就任当時、経時は19歳、最大の政敵となったのは、承久元年(1219年)、わずか2歳で京より下向し、嘉禄2年(1226年)、9歳で将軍に据えられた九条頼経であった。頼経は長じるに及んで権力を物にしたいという野心にとらわれ、事実、彼の元には後述の名越光時や、三浦氏、千葉氏などが集まり、ある種の派閥を形成していた。北条氏がこのような動きを看過するはずもなく、寛元2年(1244年)、経時は強引に頼経を将軍から退かせ、代わってわずか6歳の頼経の子・頼嗣を将軍に据えている。

頼経は将軍から追われてもあきらめず、それからも頼嗣の後見人として鎌倉にとどまり、京に追い返されることになっても地位回復に動き続けた。(榎本秋『征夷大将軍総覧』)

そうこうするうち、寛元4年(1246年)、経時が23歳の若さで亡くなり、次の執権となった経時の弟・北条時頼の代から北条氏の独裁化が進んでいくのである


時頼の政治は二つの大きな内乱から始まる。まずは宮騒動、経時が病に倒れた隙に前将軍の九条頼経が北条一門の名越光時や有力御家人の千葉秀胤と共に時頼を討とうとしたというのである。その結果、権力争いに敗れた光時は伊豆に流され、前将軍・頼経は京に追い返されることとなった。続いて宝治元年(1247年)に宝治合戦が勃発。頼朝以来の北条家に次ぐ御家人の三浦泰村と時頼との間で騒乱が起き、泰村とその一族は敗れ滅亡する。これら政敵を討った時頼は将軍とその側近勢力を一掃する。また評定衆やその補佐のために新設した引付衆に北条一門が増加し、守護職も北条一門に集中していく。さらに評定衆が形骸化していき、得宗の私邸での会議(深秘の沙汰と呼ばれた)がこれに代わる。得宗家の使用人筆頭である内管領が侍所所司(次官)として実質侍所を支配する。こうして時頼は得宗家の権力を確立していったとされる(山本幸司『頼朝の天下草創』入間田宣夫『武者の世に』)。京都の九条家や天皇家から招いた将軍(摂家将軍・宮将軍)は若年の少年に限られ、彼らが権力をふるえるだけの年齢に達すると罷免し、京都に送り返すいわば使い捨ての将軍として利用されるようになる。時頼が引退すると、時宗成人までのつなぎとして北条氏傍流の長時政村が相次いで執権となる。しかし実権は得宗の時頼が握り続け、執権すらも形だけの役職となる。得宗・内管領・深秘の沙汰といった得宗家の非公式な地位が以後の幕府を動かし、泰時が理想とした御家人の合議制は消え去ってしまった。一方で時頼は建長五年(1253年)に、領民の生活を保護すべしすなわち「撫民」という政策を地頭の代官らに示しており、彼個人は仁君として後世に至るまで評価されている。


幕府の衰退、滅亡

こうして得宗専制のもとで幕府権力は安定する。その一方で武士の生活は困窮を極めていった。大きな原因としては当時の武士は後世の江戸時代の嫡子相続とちがい、家産となる田畑を等分に相続する(分割相続)の習慣をもっていたことがある。当然、時と代を経るたびに武士の家産は少なくなり、生活は苦しくなっていく。幕府はその窮状を打破すべく、借金を踏み倒してもいいという徳政令を幾度も発布した(この悪法は後醍醐天皇の建武政権と室町幕府も踏襲している)。この法令は根本的な解決法ではないため、当然ながら一時しのぎしかならない。


そうこうするうちに8代執権兼得宗・北条時宗の治世、二度にわたる元軍襲来(元寇)が生じた。一度目の襲来で苦戦した時宗は九州沿岸の各地の防衛線として石築地を築き、十分な準備の上で二度目の元軍襲来を撃退した。この時元軍にとどめを刺した台風が「神風」と呼ばれて寺社の異国調伏祈祷の成果とされたのが、後に問題となる。時宗は戦勝後ほどなく世を去り、戦後処理は安達盛長の子孫であって時宗の外戚として重臣を務めていた安達泰盛に委ねられた。まず元寇は防衛戦であった為に、奮戦した地方の武士の奉公に対して御恩として与えるべき敵から奪った所領が存在しない。泰盛は先陣の功を主張した竹崎季長等数人には十分な恩賞を与えたが、大部分の御家人には恩賞への不満が残った。また、いつ来るか知れぬ三度目の元の襲来に備えるため、鎮西探題が置かれて御家人たちは九州警備の重い負担がのしかかった。さらには神風をもたらした寺社に対する恩賞として神領興行法によって「他人に売却された寺社領地を審査のうえ寺社に返納すべし」という政策が施行され、これによって土地を奪われた御家人や一般武士たちから体制に反抗する集団「悪党」が出現していった。


こうして泰盛に対して各地で不満が高まり、弘安8年(1285年)11月、得宗家内管領・平頼綱は泰盛を滅ぼして実権を奪った(霜月騒動)。泰盛・頼綱の政権は幼い9代執権兼得宗・北条貞時を擁してのものであったが、貞時が成長すると頼綱は貞時にとって邪魔な存在となり、永仁元年(1293年)4月、頼綱は貞時に討たれてしまう(平禅門の乱)。幕府上層部の内紛はさらに続いた。嘉元3年(1305年)4月には、連署の職にあった北条時村が自邸で襲われて殺され、首謀者とされる内管領・北条宗方が執権・北条師時邸において討たれるという不可解な事件が起きている(嘉元の乱)。この事件は、政敵の有力な北条家一門を除こうとした貞時により企図されたものと当時から思われ、これに失敗し、腹心の宗方を失った貞時は急速に政治に意欲を失って、次期得宗・高時の時代に内管領・長崎高綱、秋田城介・安達時顕らの専横を許す素地となった。こうして、もはや将軍・執権だけでなく得宗すらも形骸化し、北条家一門や御内人が政治的・経済的地位を独占し、先例主義・形式主義的な政治が横行するようになる。こうした幕府上層部の内紛と権力の空洞化をよそに、恩賞もなく負担だけが増えていく武士たちの不満に幕府は有効な対処ができず、より幕府に対する不満が強まるという悪循環となった。


一方、この頃の朝廷では後嵯峨天皇の後継者の座を巡って持明院統と大覚寺統が対立し、抗争の調停が幕府に持ち込まれて交互に即位するという取り決め(両統送立)が成立する。もちろん両皇統とそれを支える公家たちは単純な交互の即位など認めず、理由をつけては自統にできるだけ皇位が渡るように幕府へと圧力をかけた。逆に言えば、幕府の調停が失敗すればその恨みも幕府に向くわけである。


かくして大覚寺統の傍流であった後醍醐天皇は父の後宇多上皇によって、兄後二条天皇から甥の邦良親王という大覚寺統嫡流に皇位が継承されるまでの中継ぎとしての天皇即位を強いられる。また持明院統とその意向を受けた幕府からも皇位を渡すように迫られていた。後醍醐天皇は、この事態を討幕による「天皇が全国を支配する政権の成立」で打開しようとした(小林一岳『元寇と南北朝の動乱』)。後醍醐帝の密使は幕府への不満高まる各地の御家人・武士・悪党へと説得を重ねていった。対する当時の北条家得宗は第14代執権・北条高時であった。高時は政治に興味がなく闘犬田楽に耽溺する暗君と批判されていたが、むしろ平頼綱の一族である長崎高綱長崎円喜)や安達泰盛の一族である安達時顕等の重臣が実権を握って高時に政治を行わせなかったともいう(小林一岳、同書)。正中元年(1324年)、醍醐天皇による天皇親政を理想としていた後醍醐天皇は日野俊基日野資朝ら側近と倒幕の謀議をめぐらすが、幕府にもれ俊基は罰を免れるが日野資朝は佐渡に配流、天皇も謝罪の誓書を提出を余儀なくされるという事件が起きた(正中の変)。しかし、天皇は討幕の意思を捨てていなかった。元弘元年(1331年)、討幕計画が再び発覚し、俊基は鎌倉で、資朝は佐渡で処刑、天皇も京都を脱して笠置山に入るが、結局は捕らえられ隠岐国に配流となる。元弘3年(1333年)、河内の悪党・楠木正成、後醍醐帝の皇子・護良親王らの蜂起に呼応した後醍醐天皇は隠岐を脱出し伯耆の豪族・名和長年のもとに身を寄せる。倒幕軍は当初幕府軍に圧倒されていたが足利高氏(後の足利尊氏)が討幕側に立つことで形勢が逆転、高氏と赤松氏は幕府の京都の出先である六波羅探題を攻め落としてしまう。続いて幕府側は高氏の嫡男・千寿王を旗頭とした新田義貞率いる軍に本拠地の鎌倉を、少弐貞経大友貞宗島津貞久らに九州を統括する鎮西探題を攻略され北条一族は自刃、鎌倉幕府は滅亡した(元弘の変)。


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