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リアルチート(日本)の編集履歴

2020-08-15 15:26:53 バージョン

リアルチート(日本)

りあるちーとにほん

日本において、普通じゃありえないコトを平然とやってのけてしまう、実在する(した)人物である。

日本関連のスポーツ選手人物以外の存在に関してはそれぞれの該当項目を参照のこと。


注意

本項目には自称伝説などの事実が確認できない情報、小説などの創作に由来する情報を多く含んでいます。一部には明らかなやホラ話が混入していますので、実像を知りたいならググれ


武将

大人五人でようやく引ける「五人張りの」を常用する、古今無双の弓引き。そのあまりの暴れん坊ぶりに手を焼いた父親に勘当されるが、追放先の九州で現地の豪族や武将を配下にして大暴れする。保元の乱では九州武士28騎を率いて兄の源義朝率いる関東武士200騎と対戦。激戦の末敗れた為朝は二度と弓が引けないよう腕の腱を切られて伊豆大島に流されるが、間もなく弓が引けるまで回復し、伊豆七島を支配する豪族となる。


戦国時代の剣豪。剣の試合では1度も愛刀に傷を付けることはなかった。

他にも沢山の優秀な弟子を育てており、将軍・足利義輝(後述)をはじめ、上泉信綱諸岡一羽らの剣豪、今川氏真(後述)や山本勘助成田長泰らの戦国武将に剣術を伝授している。


石見の戦国大名で「下克上の先駆」と言われる人物。

月山富田城を鉢屋衆と旧臣100人で奪取した他、中国11カ国の大大名となり、尼子家の隆盛を築いた人物。のみならず、絵筆をとって自画像を描く、『伊勢物語』を書写する等、多くの才能を持っていた。


安芸の戦国大名。

戦術面では初陣である有田中井手の戦いではわずか800の軍勢で対する安芸武田軍3000を撃破し、吉田郡山城の戦いではわずか2400の軍勢で10倍の軍勢である尼子軍30000を撃破し、更に厳島の戦いでは4000の軍勢で大内軍25000を撃破して陶晴賢を戦死させるという戦いを見せ、戦略面では安芸国内の有力国人を傘下に取り込み、吉川家と小早川家を補佐に据える、いわゆる両川体制を取り入れた。


室町幕府の幕臣で、ミスター文武両道。

武芸に至っては主君・義輝同様に塚原卜伝から剣術を学んだ他に京都の路上で暴れていた牛を掴んで投げ飛ばしたりする、文化に至っては藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流伝承者・三条西実枝から歌の奥義「古今伝授」を受けた当時唯一の伝承者でもあった他に息子・忠興の教育に和歌を取り入れるなどの文武両道っぷりを見せている。


三英傑の1人。知恵を巡らせた戦闘を得意とし、浅井長政討伐から軍功を立て続けた、戦国一の出世頭。本能寺の変後は、織田家を傘下に入れる形で日本史上極めて稀な日本統一を成し遂げている。日本史上唯一の、足軽出身の天下人としても名高い。


戦国最強、天下無双と呼ばれて久しき徳川家康の忠臣。生涯参加した57の戦(いくさ)において、全て無傷で生還したという伝説は有名。


『軍神』、『越後の龍』とも呼ばれる武将。武田信玄と五回にわたって戦った川中島の戦いは有名。生涯で二回しか負けていない(一説では無敗とも)。


梟雄・松永久秀と鎬を削り、その後石田三成の軍師となる。

その有能ぶりはすさまじく、「治部少(=三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」という、一人の武将と城を同格に例えた詩があるほど。

関ヶ原の鬼」と評される所以となった散り際の壮絶さは今なお語り草。


Mr.徳川キラー。第一次・第二次上田合戦や大坂の陣でなどで幾度に渡り煮え湯を飲まされた、家康にとってはまさにトラウマ的存在。

ちなみに、家康側に付いた信繁の兄・信之も、内政面ではある意味チート的存在。


鬼島津の異名で知られる古参の豪将。

関ヶ原の「捨て奸戦法」はまさに伝説。

ちなみに、兄貴の義久は外交・政治方面に特化したチート。弟の歳久家久は軍事方面で高い素質を誇る。

というか、この頃の島津家は得意分野の違うチートが沢山いる


マイナー武将だが、生涯79回の合戦を生き抜き、そのうち一番槍(最初に首を落とす武功)23回、組打ち(相手を素手で組み伏せて首を取る武功)34回と、凄まじい戦闘能力を有する。

また知将としての一面もあり、日本初の軍用犬の運用者ともいわれ、和歌に精通した文化人でもあった。ちなみに義理の孫に甲斐姫がいたり、娘の嫁ぎ先があの忍城だったりと、自分の周辺にも武辺に事欠かない人物でもある。


大阪夏の陣で真田信繁に並ぶほどの活躍を見せたリアル戦国無双

信繁と共に徳川家康の陣へ突っ込んでいった他、徳川方の多くの大名級の武将を撃退し、本多忠朝小笠原秀政を討ち死にさせている。

大阪の陣以前でも実績があり、朝鮮出兵では明・朝鮮連合軍を打ち破っている。


甲斐姫の母方の祖母で戦国最強の女性。77歳にして忍城防衛に参加し、豊臣の大軍勢から忍城を守った。


徳川家康や豊臣秀吉に仕えた武将で、リアル花の慶次

参加した数々の合戦での活躍ではフィクション級であり、初陣である高天神城の戦いでは信長から感状を受け取ったと同時に永楽銭の旗印を貰うほどだったり、天正壬午の乱では少ない手勢で北条と交戦した際にそれを大混乱に陥れて撃退したり、小牧長久手の戦いでは目を怪我した状態で1番槍を挙げたりするほど。

さらに75歳の時には、高齢でありながら島原の乱に参加している。


軍人

海軍

日本軍が誇る大空のサムライ

僚機の被撃墜記録がないエースパイロットは戦史上ハルトマンとこの人だけである。


日本海軍最強の零戦パイロット

日米パイロットの中で唯一撃墜数200機超えを記録した。


敵味方から恐れられた「菅野デストロイヤー」

超攻撃的な戦い方と、自身の乗機紫電改に描いた黄色のストライプから、敵にイエローファイターとも呼ばれていた。

よく乗機を壊すことでも有名で、自機の主翼を敵機にぶつけて撃墜させたこともある。


日中戦争から太平洋戦争終戦までの間、一度も被弾しなかった無傷のゼロファイターゴッド


リアルソロモンの悪夢こと駆逐艦夕立の艦長。

第三次ソロモン海戦において部下と共に米艦隊に単艦で突撃し、旗艦含む多数の艦をフルボッコにするという頭のおかしい戦果を叩き出した挙句、夕立が航行不能になっても即席の帆を作ってなおも戦闘続行を試みるという前代未聞の行動に出る。

後に駆逐艦大波の艦長として再び出撃した際に戦死、駆逐艦艦長としては異例の二階級特進を遂げた


……というか、上記三名が目立つ話であってこの頃の海軍航空隊はバケモノの巣窟だった

代表として、赤松貞明(75機ものP-51に単機突撃して無傷で一機落とした異能生存体)、江草繁隆(「艦爆の神様」と謳われた急降下爆撃の天才)、高橋赫一(江草繁隆と双璧を成す爆撃機エース)、広瀬正吾(超絶技巧の偵察機乗りで、撃墜されても31kmを泳いで空母に帰還した)、羽切松雄(9.5Gという超負荷を撥ね退ける鋼の心臓を持ったテスト飛行のヒゲ紳士)、藤田怡与蔵(一日で10機を撃墜し生涯飛行18,030時間で、のちに初代日本航空ジャンボジェット機機長)、西沢廣義(87~120機の撃墜スコアを持つ別名「ラバウルの魔王」)、白根斐夫(イケメン・高学歴・貴公子・人格者の完璧超人で、ミッドウェーの迎撃では米軍航空隊を壊滅させた)……等々

当時の日本海軍の訓練は常軌を逸したもので知られており、特に航空隊のそれは、地獄と言われた訓練をこなす戦艦乗員さえ同情を禁じえない有様だったとか。

ちなみにそんな訓練を陣頭指揮していたのが、あの山口多聞だったりする。


陸軍

日本陸軍が生んだ作戦の神様。強烈な逸話に事欠かない人物で、人を引き付ける個性や強い正義感で熱烈な信奉者を生んだが、列挙するには多すぎるのでピクシブとアンサイクロペディアの当該記事へ。戦後は国府軍の軍事アドバイザーを経て、無所属で衆議院選挙に出馬し当選、後に参議院に移籍するが、視察の名目で東南アジアに潜入し、現職議員のまま行方不明になった。戦後も政界の裏工作に余念がなかったと言われ、CIAからも「第三次世界大戦を引き起こしかねない男」と名指しされていたとか。


不死身・鬼の分隊長。驚異的な武術の才能と短期間に何度も瀕死の傷を負っても翌日には回復するなど人外レベルの新陳代謝を併せ持ち、第二次世界大戦のパラオ=マリアナ戦役最後の戦闘『アンガウルの戦い』にて米兵を200人以上殺傷したとされる。さらに戦後は、日本をアメリカのように豊かにする一心で渋谷駅前でたった一坪から始めた『大盛堂書店』をビル一つまるまる使った『本のデパート』と呼ばれる巨大書店に成長させるなどビジネスマンとしても非常に優秀である。


北清事変(義和団の乱)において目覚ましい活躍を見せ、北京市民から“神”とまで呼ばれ敬慕された日本陸軍の清国駐在武官。秘密結社『義和団』と彼らに便乗した清朝により各国の公使館が攻撃を受けた中で、見事な指揮で敵軍を撃退し自らも抜刀して敵陣に切り込む勇猛さを見せ、それだけでなく公使館に逃げ込んできた中国市民や外国人たちを手厚く看護し、戦局が優勢となり連合国側の過剰な攻撃が目立つようになってからは、犠牲者を減らすべく紫禁城に開城するよう説得し、なんとそれによって無血開城させることに成功した。更に彼の指揮する日本軍の占領地はすぐに治安が回復し、中国市民は布や紙に「大日本順民」と書いて感謝を表していた。


ユーラシア大陸を単騎で横断し走破するという前代未聞の冒険を成し遂げた日本陸軍の情報将校。諜報員として大陸で調査を行う中でロシアの情報を収集するために、「自分個人の冒険の旅」という名目でユーラシア大陸を騎馬で横断する計画を実行。零下50度というシベリアの極寒や疫病、馬賊の襲撃など数多の困難にぶつかりながらも、苦難を乗り越えて見事1万7000kmを走破し大陸の横断に成功。この苛酷な冒険で得た情報はその後の日本の発展や日露戦争において大いに役立った。


自衛隊

航空自衛隊の戦闘機パイロットであり、エアショー・パフォーマーでもあった。通称「ロック岩崎」。

日本の航空自衛隊とアメリカの米空軍とで行われた模擬飛行戦の際に、当時最新鋭だったF-15戦闘機に乗っていた米空軍チームに、性能が劣るはずの二世代前の旧型であるF-104Jで挑み、機が小型であることを活かし囮作戦を駆使した戦法で、見事に撃墜している


技術者・学者

一般には発明家としてエレキテルの復元で知られる平賀源内だが、その実態はいわば和製ダ・ヴィンチ。日本初のコピーライターにして人気劇作家・流行小説家・俳諧師であり、イラストレーター(日本における油絵画家のはしり)、イベントプランナー(日本初の博覧会を開催)、鉱山開発・焼き物製造・土木事業を手がける実業家としても活躍するなど、日本史上他に例がないほど多分野で才能を発揮した万能型の天才であった。ただし科学者としての能力には恵まれなかったらしく、エレキテルに関しても「原理はよくわからなかったけど復元に成功した」らしい。


「東洋のエジソン」とも呼ばれた発明家・実業家。後の東芝の創設者。今で言う人型ロボットの走りと言えるからくり人形や、万年自鳴鐘万年時計)などを生み出した。ちなみに万年自鳴鐘は(季節によって時間の区切りが違う当時の不定時法に対応するため)自動的に文字盤の位置を変化させる特殊な装置を内蔵しており、アラーム・月齢・カレンダーなどの表示機能を備え、さらにはCVTの走りとも言える機構までも内蔵していた。一度巻けば一年動くという機械式時計としては異常な持続時間を誇っていたが、あまりにも精巧で独創的な機構のため田中の死後は修理できる人がいなくなり、何十年も壊れたまま放置されていた。そのメカニズムの秘密は1949年に国立科学博物館で修理される過程でようやく明らかになったが、現在も完璧な復元ができないほどのレベルである。


江戸時代における盲目の国学者。生まれつき体が弱く、幼少期に病で視力を完全に失いながらも、学問の道を志して江戸に上京し、苦労しながら多くの文人に師事した。目が不自由なため人に書物を読んでもらって記憶するという手法をとり、一度聞いただけで全て覚えてしまう驚異的な記憶力を身につけ、後に貴重な古書から学んだ知識が失われないようにするため、全国を回り古書を集め編集した版本『群書類従』を完成させ、盲目な人物の社会における最高位である“総検校”に選ばれた。同じく病によって視力と聴力を失ったアメリカの教育者ヘレン・ケラーは、彼を人生の目標にしていたことを自身の講演会で語っている。


日本が誇る数学者。多変数複素関数の3つの大問題を一人で解く。どのくらい凄いかというと、欧米の数学者達が彼の名前を若い数学者集団のペンネームだと思ったほど。また、公園で急に大声で歌う、窓を向いて正座で電車に乗るなど、変人でもあった。


実業家


幕末~明治期において、日本に産業と言う概念を根付かせたと言っても過言ではない実業家。

現在のみずほ銀行の源流となる日本初の銀行を立ち上げたのを始まりとして、創業・経営に関わった企業は500を上回り、その大部分は現在も日本の一流企業として名を残している

福沢諭吉に代わり新たな一万円札の顔として俄かに知名度を上げたが、彼の地元である埼玉県では渋沢翁として全国平均以上の知名度を誇る。


石油販売を主とする日本の大手企業・出光興産の創業者。明治44年に『出光商会』を創業して石油の販売を開始し、多くの困難にぶつかりながらも事業を海外まで拡大させ、戦後の住居も食糧事情もままならない困窮した状態でも社員の首を1人も切らず、過酷な状況を何度も乗り越え再び大企業へと返り咲いた。 百田尚樹氏が手掛け大ベストセラーとなった歴史経済小説海賊とよばれた男』のモデルとなった人物で、この作品には出光氏や出光興産の一企業としてはあり得ないような武勇伝の数々が描かれている。


クリエーター

江戸時代の浮世絵師。88歳で死去するまで、『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』など今でも世界的に高く評価されている傑作を多数産み出した。春画でも活躍し、代表作「蛸と海女」は現代のエロ漫画のような筋書きで、現代の触手モノにも通じる傑作である。


政治家

第58・59・60代内閣総理大臣を歴任。政策として「所得倍増計画」を発表した。この政策により高度経済成長期が本格的に始まり、国民の生活水準は大きく向上する事となった。

端的に言えば僅か10年で日本を世界屈指の経済大国へと生まれ変わらせた人物なのである。


その他

日本犯罪史に残る「昭和の脱獄王」。26年間もの服役中に4回もの脱獄を敢行し、特に網走監獄からの脱獄のエピソードがよく知られ『ゴールデンカムイ』の白石由竹のモデルになっている。


  • 高島雄平

史上稀に見る性豪。校長を自身を表す固有名詞にした男。14~70歳の12660人の女性(公称。行為時に写真撮影も行っており、こちらは14万枚以上存在)と性的関係を持ち、レジェンド、一人ODA、660人を端数にする男、中学校校長の全国平均売春数を1.2上げた男等の異名を持つ。どんな女性が来ても拒むことはなく代金の踏み倒しもせずに抱き、上記の写真撮影も嫌がる女性には強要せず、買われた女性に彼を悪く言う者はいなかったという。


ただし、ここで留意しなければならないのは、彼は単なる犯罪者というわけでもなく、12660人の誰からも通報されたことはなく地元や海外からも好かれていた勇士であることだろう。


英雄色を好むを体現した存在である。


関連項目

奇人 変人 嘘つき 詐欺師 犯罪者 捏造 伝説...上記人物の大半はこれらの属性のどれかを持ち合わせている。

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