ベトナム戦争
べとなむせんそう
1960年~1975年にかけて、ベトナムを中心にインドシナ東部で行われた戦争。
1946年~1954年に仏連合国とベトミンとの間で発生した「インドシナ戦争」が背景にあることから、ベトナム戦争を「第二次インドシナ戦争」と呼ぶこともある。
先の第一次インドシナ戦争によって南北に分断されたベトナムの武力統一を掲げる北ベトナムおよびベトコンが、南ベトナムおよび周辺国へ侵攻したことによって勃発。当時の冷戦を背景に東西両陣営の代理戦争として泥沼化した
背景
19世紀、ベトナムはフランスの植民地になり、20世紀に第二次世界大戦で日本が仏印進駐。大東亜共栄圏に組み込み、阮朝ベトナム帝国として独立させた。1945年、日本敗北の前後にホー・チ・ミン率いるベトミン/インドシナ共産党は、共産主義国家・ベトナム民主共和国の樹立を宣言した。
これに対し、インドシナの再植民地化を目論むフランスは、イギリス軍および連合軍指揮下の日本軍と共にベトミンによる革命鎮圧『マスターダム作戦』を開始した。1946年、イギリス軍、日本軍がインドシナから撤退すると、ベトミンはフランス植民地政府への攻勢を強め第一次インドシナ戦争へと発展した。
フランスは、共産主義の拡大を恐れる米英からの軍事援助を受けてベトミン勢力の掃討を続ける一方、インドシナ諸国独立の潮流を認め、1948年にベトナム・ラオス・カンボジアをフランス連合の枠内で独立国と認めた。しかし、ベトミンはこれを独立とは認めず、中国・ソ連から膨大な軍事援助を受けてフランス連合軍を攻撃した。1954年にはベトミンの攻勢はますます強くなり、ディエンビエンフーの戦いでフランス連合軍は敗北。フランスはインドシナ連邦の維持を諦め、ベトミンとジュネーブ協定を結びベトナム国の領土の北半分をベトミン政権=ベトナム民主共和国(北ベトナム)と認める事で停戦した。またフランスは、このジュネーブ協定で将来的に南北ベトナムは選挙によって統一されると謳った。
開戦
ジュネーブ協定後、領土の北半分を失ったベトナム国では、1955年に阮朝皇帝バオダイの親仏政権が倒され、ベトナム共和国(南ベトナム)の樹立とフランス連合からの脱退が宣言された。南ベトナム政府は、「北ベトナムの独立や統一選挙はフランスがベトナム国政府を無視して勝手に進めた植民地主義の産物」だとして、北ベトナム政府の正当性を認めず、また選挙で共産側が勝利することを恐れて統一選挙の実施を拒否した。
これに反発した共産側を支持する南ベトナム国内の農民・民族主義者らは、北ベトナムからの軍事支援を受けて1960年にゲリラ組織・南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)を結成、南ベトナム政府・国民へのテロ攻撃を開始し内戦状態となった。同時に南ベトナム国内では政府による仏教徒への弾圧や軍事クーデターが立て続けに発生し、その混乱と国民の政府への失望がベトコンの拡大に拍車をかけた。
泥沼化
ベトナム戦争は当時の冷戦を背景に、南のベトナム共和国を西側のアメリカ合衆国や韓国、オーストラリアが、北のベトナム民主共和国を東側の中華人民共和国やソ連が支援し、情勢は悪化の一途を辿った。
1964年、米国は米海軍がトンキン湾公海上で北ベトナム海軍の攻撃を受けたと嘘(一回目は実際に攻撃を受けたが、二回目はアメリカ側の捏造)を発表した。
同時に北ベトナムには中ソに支援されていたが、後に中ソ対立が発生したため、北ベトナムへの支援は言わば中ソの支援競争となっていた。こうしてベトナム戦争は冷戦の代理戦争として大規模な国際紛争と化した。
米軍は戦線を拡大させ、新兵器も投入したが、北ベトナムとベトコンは中ソからの支援を受け、損害を省みない人海戦術を繰り広げた。北ベトナム軍とベトコンは南ベトナム領内では農村地帯で地下トンネルに隠れながらのゲリラ戦を行い、北ベトナム領内では民間人自らソ連製の地対空ミサイルを操作して爆撃機の迎撃に当たった。また南ベトナム側の背後を突く支援網ホーチミントレイルを確立し、南ベトナム側を悩ませた。
さらに南側に居る北と繋がるスパイや民間人にまぎれたゲリラ(軍服を着ない隠れ戦闘員)による奇襲等も南ベトナム側を悩ませることとなった。
1968年の旧正月(テト)にベトコンは南ベトナム政府に全土に渡る大攻勢(テト攻勢)を仕掛け、サイゴンの米大使館や米軍放送局すらゲリラ部隊に一時占拠された。この事態は南ベトナム・米政府に大きた衝撃を与えた。ベトコンは投入戦力6万7千人以上のうち5万8千人を越える犠牲を出すが、米軍も3千800人以上の被害が出ている。この数字からわかるようにベトコンの被害は大きく、以降はそれに代わって北ベトナムが大きく戦線に派兵することとなっていった。
1970年には、カンボジア王国で親米派のロン・ノル将軍がクーデターで政権を握った事を機に、ホーチミントレイルを寸断するため南ベトナム・米軍がカンボジア政府の黙認の下カンボジア領内の北ベトナム軍を攻撃した。さらに翌年の1971年には同様に、ラオスに侵攻する北ベトナム軍に対しても攻撃が行われ、戦線はインドシナ半島全域に拡大していった。
報道と反戦運動
これまでの戦争と違い、南ベトナム国内の戦場では、開かれた取材によって、戦闘の生々しい様子が報道された。特に1968年3月、ソンミ村の無抵抗の村民504人が米陸軍第23歩兵師団の部隊による無差別射撃で虐殺され、うち女性が183人、乳幼児含む子供が173人も含まれていたというソンミ村虐殺事件が発生する。軍上層部は事件を隠蔽したが、報道を通じてこの事件が世間に暴露され、また他にも米軍や韓国軍等による虐殺行為も明らかになり、世界中で反戦運動が巻き起こった。
この時代の米国での特色が1964年に公民権法を制定して人種差別克服に乗り出した直後だったことである。アメリカという国は白人、黒人、黄色人種を問わず平等に人権を守る国でなくてはいけなかったのである。また1961年5月のケネディによる軍事顧問団ベトナム派遣の決定にあるように、このベトナム戦争は「南ベトナムへの共産主義浸透を止める」為の戦争、つまりベトナム人を救う為の戦争でもあるという大義名分も問題となる。そして救うどころか虐殺してしまった諸々の事件の報道を通じて、とても先進国、民主主義国の旗手とは言い難い戦争の実情が知られるにつれ、米国内外で反戦運動が盛り上がっていった。1967年には福祉政策への戦争負担が増大しキング牧師ら公民権運動の指導者たちも、それまで控えていた反戦の立場を公言するようになっていった。中でも学生でも妻帯者でも徴兵されるようになり、大義が見えない戦場に行くことを強いられた若者の反発は大きかった。1968年、コロンビア大学やハーバード大学では過激化した学生運動が校舎を占拠している。
終幕
悪化の一途を辿るベトナム戦争であったが、北ベトナムを支援していた中国とソ連が対立を始めた事で、自体は大きく変化しはじめた。アメリカはソ連を孤立させるため中国に接近し、最終的に米中は国交を正常化した。この米中接近によって北ベトナムは親ソ派に傾いた。さらにアメリカ軍はベトナムから撤退を開始し、1970年代初頭には地上軍の完全撤退が完了した。そして1973年にはパリ協定(南北ベトナムの停戦・将来の統一の是非を問う選挙を約束)が結ばれ、ベトナム戦争は一旦終結した。
しかし、北ベトナムは侵攻を続け、戦闘は一層激化。アメリカは北爆を再開したが、南ベトナムへの本格的な軍事援助は再開されなかったため、ソ連・中国から供給される物量の前に、南ベトナム軍は次第に敗北を重ねていった。パリ協定後はアメリカは北爆も軍事援助もほとんど行わなくなり、パリ協定を南北ベトナムに守らせようとする姿勢も見せず、南ベトナム軍を攻撃する北ベトナムへの牽制や働きかけさえ実行しなくなることで、南ベトナムは事実上、見捨てられた。そして1975年に北ベトナムの総攻撃が始まり、ついに南ベトナムの首都サイゴンは陥落。15年間続いたベトナム戦争は北ベトナムの勝利に終わった。
影響・意義
敗戦によって南ベトナムは北ベトナムに併合される形で、現在のベトナム社会主義共和国に統一された。ベトナム共産党にとってベトナム戦争は「祖国独立と民族自決」の戦争であり、ホー・チ・ミン以来の悲願を達成した結果となった。このこともあり、サイゴンは「ホー・チ・ミン市」と改名された。
米軍は政治的目的を何ら達成できずに敗北しただけでなく、戦術面でも重い批判にさらされることになった。その代表が枯葉剤である。建前はマラリア蚊や蛭の退治を目的(実際は北ベトナム兵の隠れ場となる森林の枯死、ゲリラ勢力の生活基盤である耕作地域の破壊)として大量に散布され、散布区域には400万人に及ぶベトナム人居住地も含まれていた。この薬剤は深刻な催奇性を持つ副産物TCDDを生成する。米科学者の調査では、散布開始後異常出産が激増しサイゴンで1000人中26人、集中散布地域のタイニンでは1000人中64人にのぼる奇形出産が報告されたという(1969年全米科学振興協会年次総会報告)。米帰還兵も子供に奇形が多発する健康被害を訴えて訴訟となり、製造会社が多額の和解金を支払っている。また、人体や木材に引火すると水で消火できないナパーム弾がジャングルや村に向けて使用されたのも問題となった。
第三次インドシナ戦争
また周辺のラオス・カンボジアでも中国・北ベトナムに支援された共産軍が内戦に勝利し、インドシナ三国は北ベトナムの思惑通り全て共産主義国家となった。特にカンボジアでは親中的な民主カンプチア(ポル・ポト政権)が成立し、国民への大虐殺が行われた。さらにポル・ポト政権は領土拡大を目指しベトナムと対立、カンボジア領内のベトナム系住民をも虐殺したため、ベトナム軍はカンボジアに侵攻してポル・ポト政権を倒し、親越政権を擁立した。親ソ連に傾いていたベトナムに不信感を抱いていた中国はこれを許さずベトナムに侵攻し中越戦争が勃発したが、当時中国側は自国で起こった文化大革命の疲弊から抜け切れておらず、この戦いはまたもベトナムの勝利に終わり、中国軍は表向きは「懲罰を終えた」としつつ撤退を強いられた。以後ベトナムはカンボジアへの介入を続け、ベトナム軍及び親越政権と反越カンボジア人勢力との間で長く内戦が続く事となる。こうした立て続けに起きた戦乱によって、ベトナム戦争終結後に発生したインドシナ難民は累計144万人に上る。
国外への影響
今までの戦争にはなかった開かれた取材と報道によって、反戦運動が人々に根付く大きなきっかけとなり、アメリカにとっての撤退の要因でもあった。またアメリカにとって初めての政治的敗北となり、財政を悪化させることとなった。また帰還した兵士に対してのバッシングや戦場でのトラウマ(PTSD)が大きな社会問題ともなった。この戦争を(直接・間接にせよ)題材にした作品は非常に多い。世界各地での反戦運動は米国での黒人の公民権運動や若者の新たな文化の発生、学生運動などにも結びついた。
実戦投入された兵器
関連作品
カッコ内は、重要な登場人物
ディエンビエンフー フルメタル・ジャケット(ハートマン軍曹) 地獄の黙示録 ミス・サイゴン
関連人物
北ベトナム
- ホー・チ・ミン :国家主席
- ヴォー・グエン・ザップ:人民軍総司令官
アメリカ
- リンドン・ジョンソン:第36代大統領
- リチャード・ニクソン:第37代大統領
- カルロス・ハスコック:海兵隊の狙撃手
- ロナルド・リー・アーメイ:上記のハートマン軍曹役の俳優であるが、前職は海兵隊員。