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大日本帝国の編集履歴

2014-03-13 21:52:06 バージョン

大日本帝国

だいにっぽんていこくまたはだいにほんていこく

日本国のこと。また昭和10年以降の日本の正式な国号。

概要

日本国の別称。

帝室(皇室)を推戴する日本という名の国家ということで、「大」を美称として接頭に付したもの。

特に近代に用いられたが、当時における意味・用法は現在の「日本国」と全く同様であり、神武天皇建国以来の日本のことを指した。より正確には神武天皇以前の神代から始まって、建国以来の大和時代奈良時代平安時代鎌倉時代吉野朝時代室町時代安土桃山時代江戸時代幕末時代現代明治大正昭和時代、今ならば平成時代も加わる〉のいずれの時代も問わず、日本という君主制国家を指したのである。


またに現在では俗に、近代の日本やその旧体制のことを指す限定的な用い方もされる。その場合、明治維新から大東亜戦争太平洋戦争)敗戦までという認識が多いが、中には明治23年に大日本帝国憲法が施行されて正式な国号として称されたとする見方もある。しかし正式な国号が「大日本帝国」に統一されたのは、昭和11年になってからのことであり、外交文書にも「日本国」「大日本国」「日本帝国」などのざまざまな表記が用いられ、それ以降も憲法によって名称が統一されていたとは考えられていなかった

英語表示では「Empire of Japan」「Great Japan」「Empire of Great Japan」「Great Japanese Empire」など。


古代の帝国

大日本帝国の歴史は、九州から大和への東征譚で知られる神武天皇に始まる。すなわち初代天皇の即位(建国)以来、皇室を推戴する国家であることこそ、日本が帝国にカテゴライズされてきた所以である。神武天皇即位の実年代は弥生中期(西暦1世紀)と推定されるが、古代の史実に属するために文献以外の史料が少ない。神武天皇以降、大和朝廷は三輪山麓の磯城地方を中心に、原住勢力の氏族と広範な結縁協力関係を結んで、次第に畿内に地盤を固めてきた。そしてやがて第9代開化天皇の前後には、畿外への四道将軍の派遣となった(第7代孝霊天皇の吉備派遣最初とする説あり)。

現時点で実在が確かな最初の天皇といわれるのが3世紀の列島内に君臨された第10代崇神天皇である。この頃には恐らくは九州地方の豪族と思しき者が外国との交流していたことが中国の典籍に記載され、女王卑弥呼(ヒヤコ/ヒミコ/ヒメコ)から使いを遣わしたことが『魏志』倭人伝などの史籍に見られる。

その後も崇神天皇の皇統を継いだ歴代天皇により大和朝廷が発展していき、第15代応神天皇以降の時代にも、中国や朝鮮との国交は活発であったようである。第29代欽明天皇の時代に仏教が伝来し、蘇我氏と物部氏の対立が激しさを増し、ついに蘇我氏が勝利。しかし、その蘇我氏の専横を阻止するために中大兄皇子(天智天皇)が立ち上がられ、大化の改新が始まった。

日本古代最大の内乱である壬申の乱の後、第40代天武天皇は国際的な危機意識と自身の卓越したリーダーシップにより、天皇を中心とした強力な統治体制の確立がめざされた。その方針は持統天皇にも受け継がれ、国号も「日本」に改められた。東大寺大仏の造営で知られるように、第45代聖武天皇をはじめこの時代は仏教への帰依が深く、全国に寺院が建てられた。

桓武天皇は都を平安京に遷され、平安時代の幕が開けられた。第56代清和天皇は幼帝であり、外祖父の藤原良房摂政として全権を握った。人臣摂政の始まりである。こうして藤原氏の摂関政治が始まり、藤原道長の時代に全盛期を迎える。第59代宇多天皇藤原基経と対立され、菅原道真を重用して律令国家の再編のために親政を行われた。宇多天皇は譲位後、出家されて最初の「法皇」となられた。第71代後三条天皇のときに宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇が即位された。


中世の帝国

第72代白河天皇は、譲位後も上皇、法皇として院政を行われた。院政は鳥羽上皇後白河上皇と続き、その後も断続的に江戸時代まで行われた。その権力は朝廷も摂関家もしのぐ強大なものであったが、台頭してきた源平の武家政権と対立することになった。武士が力を伸ばしてきたのに伴い、保元・平治の乱をはじめ源平合戦など戦乱が続いた。

源頼朝により鎌倉幕府が開かれたが、やがて実験は北条氏に移り、後鳥羽天皇は倒幕のために立ち上がられた(承久の乱)。この戦乱に勝利した幕府もやがて衰退し、公家勢力の反撃が始まった。

天皇政治の復活をめざされた第96代後醍醐天皇は、鎌倉幕府と対立し、ついに倒幕を果たして建武新政を行われた。しかし、新体制を己の利害でしか見ない地方豪族の反抗と足利尊氏の反乱により、新政権はわずか2年半ほどで幕を閉じ、室町幕府が開かれた。またその前半、京都の朝廷(北朝)と吉野の朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まり、緊迫した情勢を迎えた。


近世の帝国

その後、南北朝は合体されたものの、騒乱は続き、応仁の乱や群雄割拠の戦国時代へと進み、ついに室町幕府も滅亡した。時の権力は織田信長から豊臣秀吉徳川家康の手に移り、家康によって江戸幕府が開かれた。

以後徳川三百年、将軍家は代々儒学を奨励し、朱子学を官学とした。儒学は武士道と結びつき、実践倫理として浸透していった。学芸が大いに発展したこの時代、国文学は町人階層の手によって興隆し、漢文学は儒学者の手になるものが中心となった。

一方で幕府は強力に社会を安定状態に保つ諸政策を執り、身動きも出来ない程厳格な階層的身分制度が社会の隅々にまで及んで自由な行動を拘束した。久しきにわたった泰平に伴い、商業の発展は目覚ましく、富裕な都市町人は元禄の庶民文化の花を咲かせるに至ったが、これにはきびしい封建体制下の統制があり、海外貿易等も鎖国によって禁止されていた。

その長期政権も数百年の時を経て、嘉永6年、黒船の来航を期に時代は徐々に混迷を深めてゆき、欧米列強の侵略を起因として、時代は幕府倒壊へと向かった。激動の中で志士たちは国事のために奔走し、慶応3年10月、慶喜将軍は大政を朝廷に奉還した。


近代の帝国

明治維新が実現し、新政府は、庶政神武創業の始に基づいた。第122代明治天皇東京にお奠めになったので、東京は「帝都」と称された。

統治機関は天皇を明確な国家元首・立憲君主とし、その下に内閣貴族院衆議院の二院制による帝国議会が置かれ、行政や法制定などの政治運営がされた。

日本国民は日本本土の日本人アイヌを始めとする内地人、統治下の海外領土の台湾人や朝鮮人などの外地人とし、外地人には内地人とは違う適用法律、戸籍、地方行政組織が当てられた。

軍事組織である日本軍は天皇に統帥権があり、統帥部には大日本帝国陸軍の参謀本部と大日本帝国海軍の軍令部が置かれ、各軍を指揮。戦時には大本営が設置された。

教育制度の確立、国民教育の普及などが図られ、官・私立の大学が各地に発祥した。明治の新政府は欧米の学問・文化を重視して教育に次々と導入した。

国内的には君民一体の近代国家が形成されると共に、日清戦争日露戦争を経て国際的にも日本は地位を向上し、20世紀前半ではアジアにおける列強として欧米に肩を並べた。大正の世となり、第一次世界大戦後の国際連盟では常任理事国になり、パリ講和会議では非白人国唯一の大国として「人種差別撤廃案」を提出し、当時では画期的な国際的人種平等を唱えた。


近代における領土・統治地域

内地 ‐ 南樺太から南西諸島までの日本列島小笠原諸島

外地 ‐ 台湾朝鮮半島

租借地 ‐ 関東州(満州の遼東半島の一部)

委任統治区域 ‐ 南洋諸島


日本領に戻りたかった国

敗戦後、沖縄が当初アメリカ統治領とされ、その後独立国とするロードマップが敷かれていたにもかかわらず、現地の強い本土復帰運動によって日本に復帰したのは有名な史実である。


が、沖縄・奄美諸島以外にも日本復帰運動が行われたことはあまり知られていない。


台湾では、中華民国への帰属が決まったが、現地人の多くは自分達を日本人と意識しており、終戦直後からGHQの占領が解けるまでの間、台湾の日本復帰運動が少なからず行われていたという。これは日本国憲法の制定で日本の領土が列島と沖縄と確定すると下火になっていった。

しかし、その後の国共内戦に伴い中国本土からの流入者(外省人)ともともとの台湾人(本省人)の間で軋轢が生じたこと、中華民国が中華人民共和国との内戦に実質的に敗北し台湾以外の領土を失い、台湾にとって中華人民共和国が脅威となったこともあり、草の根レベルではあるが未だに台日再合邦を主張する人たちがいる。彼らは非公式の日本名を名乗り、日本語のWebサイトを立ち上げてたりする。また、李登輝元総統の発言にもそれを肯定するものが少なくない。


パラオでは、西暦1994年にアメリカの信託委任統治が失効したが、これに先駆けて、当時のパラオ行政府から日本政府に対し日本統治復帰の要請があった。この際、日本は丁重に断った。


いずれにせよ、多くの旧植民地国家が植民地支配を百パーセント否定していないことは多いが、統治下に戻りたがった国・地域が存在するというのは前代未聞である。


また、これはジョークの類だが、北方領土のロシア住民が「我々が幸福になる方法」として、

  1. 「まず、ロシアから独立を宣言する」
  2. 「次に、日本に宣戦を布告する」
  3. たちどころに降伏して我々は日本国民になる

……という冗談がソ連時代からある。


現代の帝国

第124代昭和天皇は、大東亜戦争のために腐心され、最後は終戦という聖断を下されるにいたった。昭和20年8月15日の戦争終結とともに日本本来の制度は崩壊し、新しい制度がこれにとって代わった。9月2日には東京湾頭ミズリー艦上で降伏文書に調印、9月3日には天皇が宮中三殿に戦争終結御親告の祭儀を執りおこなわれ、勅使を神宮ならびに各山陵に参向せしめられ、戦争終結をご奉告になった。

終戦後、日本はいつしか「大日本帝国」を名乗らず「日本国」と称するようになった。昭和22年に制定された「日本国憲法」や当時の首脳見解によって国号は「日本国」に統一されたとする見解もあるが、正式に国号を定めた法令は未だに存在しない。

現在において日本は敢えて「帝国」を名乗ってはいないが、天皇は国際的に国家元首として世界唯一・最後の「皇帝」であり、すなわち国家のカテゴリーとしては、日本は神武天皇以来の現存最古にして最後の「帝国」である。

事実、国家的祭祀である平成大嘗祭は、皇室の公的行事として古来の伝統のままにおこなわれた。そうして先帝の御心を継がれた第125代今上天皇は、現在も精力的に諸外国を訪問され国際親善、世界平和に務められている。


国歌

「君が代」(フェントン作曲)

イギリス人のウィリアム・フェントンにより明治3年に作曲された。

歌詞は現在のものと同じだが、メロディーに日本らしさがどこにもなく、大不評であった。


代わって明治9年、宮内省雅楽部で日本人の手によって作曲し直された。

すなわち林廣守らが作曲し、ドイツ人のエッケルトによって曲調補正されたこの「君が代」は、メロディ・歌詞・オーケストラ編成共に日本式に完成したため、その後も長く国歌の地位を守っている。

「君が代」

作詞:読人知らず(延喜5年『古今和歌集』)

作曲:林廣守(明治13年 撰)

曲調補整:エッケルト


pixivでの大日本帝国

pixivでは大日本帝国という呼称が特に頻繁に用いられた期間(近代)の日本をモチーフとした作品に、よくタグとして付される。そのため、ミリタリーレトロ関係のイラストが多い。


ヘタリア日本本田菊)の絵でこのタグが使用されることもあるが、日本とは別の二次創作設定キャラの場合が多いので注意が必要である


関連タグ

日本 日の丸 日章旗 旭日旗 帝国 日本軍大日本帝国陸軍大日本帝国海軍) 大東亜戦争第二次世界大戦太平洋戦争

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