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足利尊氏

あしかがたかうじ

鎌倉時代末期 - 南北朝時代に活躍した日本の武将・政治家。室町幕府初代将軍。
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概要編集

プロフィール

生没嘉元3年(1305年7月 - 1358年
通称又太
高氏→尊氏

室町幕府初代将軍


略歴編集

生い立ちと置文伝説編集

生誕地は下野国足利荘または丹波国綾部とされる。貞氏の次男であったが、兄・高義が早世したため世子となる。北条氏得宗高時(14代執権)から「」のを授かり、赤橋守時や英時の妹である登子と結婚する。


ちなみに、足利義康に始まる足利家の名字の由来となった足利荘は、本家(最上位の領主)が皇室関係の寺院(実質的には皇室領)で、当時は大覚寺統が相続していた。つまり、後醍醐天皇は当初から尊氏の主君(の1人)であったというこごとなる。


『難太平記』によれば、足利家先祖・源義家(義康の祖父)は「7代後の子孫に生まれ変わって天下を取る」という置文を残したという。そして数えての足利家7代目当主・家時は源氏出身者では義経以来となる伊予守に叙任されるなど若くしてエリート街道を歩んでいた。しかし、時宗死後、佐介時国時房の曾孫)失脚または安達泰盛滅亡(霜月騒動)に連座し28歳の若さで自害に追込まれてしまう。


家時は死の間際、「八幡大菩薩に3代までの子孫に天下を取らしめよ」と願った置文を残したとされる。足利一族で『難太平記』の著者・今川貞世了俊)もこの置文を見たとのこと。この家時の孫が尊氏である。


ただしこの置文、実際に存在して尊氏らを感動させたことは他史料からも間違いないようであるが、天下取りとまで書かれていたかは不明であり、貞世による内容誇張若しくは捏造説が疑われている。また尊氏がこれを読んだのは天下を取って随分立った後のことと見られ、内容に奮起して天下を取りに行ったという訳ではない様である。


討幕への道編集

貞氏が逝去し、高氏が足利家当主となっていた元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府を打倒するために挙兵、これに呼応して天皇の息子・護良親王大塔宮)や楠木正成なども蜂起、高氏は父・貞氏の喪中に鎮圧に加勢することを幕府(を実質的に支配する北条家家臣(御内人)達)から強要されたという(『太平記』)。この際、高氏は軍勢を率いて上洛し反乱を鎮圧、天皇は捕らえられ隠岐に配流されることとなった。


しかし、元弘3年(1333年)、天皇が隠岐から脱出することに成功、伯耆の豪族・名和長年の本拠・船上山に入り各地の武将に討幕を号令すると、正成や護良親王らも再度蜂起、高氏は幕府の軍勢を率いて弟・高国(直義)らと鎮圧のため上洛するが、もう1人の指揮官・名越高家があっさり討ち死にしたこととそれまでの幕府との関係悪化もあり、守護職を務め一族の第2根拠地でもある三河で(吉良氏などの一族にも押されて)天皇の勧誘に従い倒幕を決意、所領がある丹波で挙兵する。


そのまま佐々木道誉赤松円心らと共に六波羅探題を滅ぼして、天皇を京都に迎え入れた。この際、鎌倉にいた正室・登子と嫡男・千寿王(後の2代将軍・義詮)は脱出に成功し、千寿王は旗頭として鎌倉を攻める軍勢に参加している。しかし、脱出に失敗した庶長子・竹若丸は殺害、妻の長兄である義兄・赤橋守時新田義貞と戦い洲崎、四兄で九州探題・赤橋英時は少弐貞経らに攻められ、博多でそれぞれ自刃している。


鎌倉幕府を討った理由について編集

当時の尊氏は16代執権・守時の妹婿であり北条氏の信頼も厚く、それ故上洛軍大将に任ぜられていた幕府要人である。そんな尊氏が後醍醐帝方に寝返り、幕府に叛いた理由については諸説ある。『難太平記』によれば『太平記』の古本には「(尊氏が上洛して山陰に進軍する最中に)上洛軍のもう1人の大将であった高家が討死したので、尊氏は後醍醐帝に降伏した」とあり、難太平記作者の了俊は「宮方深重の者にて、無案内にて、押してかくのごとく書きたるにや(南朝びいき、若しくは南朝の事情しか知らない太平記作者が、良く知らずにこんなことを書いたのだであう)」と批判している。新田義貞が後醍醐帝に提出した尊氏誅伐の奏上も古太平記と同様な解釈である。


北朝関係者が執筆したとされる『梅松論』では、代々北条氏誅伐を考えていた尊氏が、北条氏から父・貞氏の葬儀も終えぬ間に上洛しての戦を命じられたことで深く憎み、遂には上洛途上に討幕綸旨を受取って挙兵に踏み切ったという。現行の『太平記』では、元より源氏の家臣に過ぎない北条氏の専横に尊氏が憤っていたのに重ねて北条氏が父・貞氏の喪を弔うことも許さず病床にあった尊氏に上洛軍を率いることを命じたため、鎌倉出立前から寝返りを決めていたとしている。そして篠村八幡宮に奉納した挙兵の願文として、北条氏の非道不忠を批判し、尊氏が身命を投げ打って挙兵して、八幡神の公正な加護を求めるといった文章が引用され、諸将の士気が大いに高まった旨が記されている(しかし、尊氏の父・貞氏が亡くなったのは1331年10月であり、それから2年経ってから寝返っていることに現在では疑義を呈する歴史学者も少なくない)。


太平記古本や義貞の主張通りなら4月27日の高家討死という鎌倉方敗勢を見て衝動的・打算的に寝返ったということとなる。しかし、『太平記』・『梅松論』とも上洛中の三河国で尊氏は後醍醐帝の討幕綸旨を受取ったとしている。また、高家討死より五日も前の4月22日付で新田方岩松氏に北条高時討伐への軍勢催促状を送っていることからして、5月8日の関東での義貞挙兵もこの催促状を受取ってからと考えられる。即ち、高家討死前から尊氏と義貞は連絡を取って挙兵していたとはいえるであろう(峰岸純夫『足利尊氏と直義』)。


建武政権編集

幕府滅亡後、後醍醐天皇からは、官位・官職や所領を与えられただけでなく、高時から1字拝領を受けていた上に佐々木道誉(佐々木高氏。宇多源氏の出。本姓で名乗ると同じく「源高氏」となる。)とも紛らわしい諱の「高氏」を、天皇の御名「尊治」より1字拝領され「尊氏」になる。しかし自身は要職には就かず、高師直などの家臣を送り込むだけであった(天皇と尊氏のどちらから(Orどちらからも)距離を置こうとしていたのかは不明)。しかし、成良親王が鎌倉に駐屯する際には弟の直義を同行させているし、護良親王が尊氏を敵視した際に天皇は尊氏の肩を持ち、護良親王を直義管理下で幽閉させているので、関係が悪かった訳ではない(護良親王は中先代の乱の折北条時行(高時の遺児)が攻め込んで来る混乱の最中、直義に殺害されている)。


室町幕府の成立編集

しかし、高時の次男・北条時行が蜂起して鎌倉を占拠(中先代の乱)して、直義とその配下を救援するために尊氏が出陣する際将軍の地位を望んだにもかかわらず、征東将軍の地位を与えられた時点から、尊氏と後醍醐天皇の関係は悪化して行く。鎌倉を奪回してからも尊氏は朝廷の命に逆らって帰京しろうとせず、(主に直義の意向で)恩賞を与えだしたために、天皇は尊氏を討伐させようとして、新田義貞らの大軍が東海道を攻め下って来る。


尊氏は直義や師直ら一族・家臣を救うべく反旗を翻すことを余儀なくされ、箱根・竹ノ下の戦いでこれを撃破。一度は京都を占領するが東北から攻め上って来た朝廷方北畠顕家によって再度追出され、西国に敗走。


一時は九州まで落ち延びるが、赤松円心が義貞を喰い止めている間に勢力を立直し、多々良浜の戦いで朝廷方菊池武敏率いる大軍を激戦の末破り再上洛。持明院統・光厳上皇の支持を得ることにも成功して院宣を得、逆襲して湊川の戦いで楠木正成・正時兄弟は戦死、義貞は敗退、京都を制圧して光厳上皇の弟・豊仁親王を光明天皇として擁立する。しかし、後醍醐天皇は京から吉野に脱出し、南朝を樹立。これに対して京都にある光厳上皇・光明天皇の朝廷は北朝と呼ばれることになる。


観応の擾乱と晩年編集

こうして新たな武家政権である幕府を京に樹立した尊氏は北朝・光明天皇から征夷大将軍に任命され、10年程は弱体化した南朝(吉野に籠った後醍醐天皇側の勢力)を追撃するだけの平穏な日々が続く。しかし、法秩序を重んじる実務家・直義とバサラな武人でもある執事・師直に政務を任せている間に双方の派閥が対立を起こしてしまう。やむなく尊氏は直義を失脚させて鎌倉から次男・義詮を呼寄せるが、南朝に鞍替えしてまで抵抗を続ける直義らの勢力は衰えず、観応2年2月(1351年)には逆に師直一族が殺害されてしまう(観応の擾乱)。


尊氏は直義と南朝との不協和音に付け込んで南朝と和睦、というか自らが設立した北朝を廃してまでの全面降伏をして取り敢えずの和平に漕ぎ着け、鎌倉に逃れて抵抗する直義を同12月の薩埵峠の戦いで破って降した。直義は尊氏と和睦、共に鎌倉に入ったが翌年2月に急死する。当時から尊氏に毒殺されたとの噂が流れていたらしい。しかし、峰岸純夫『足利尊氏と直義』の様にあれ程に弟思いな尊氏による毒殺を否定する歴史学者もいる。


だが、南朝に和睦を継続するつもりはなかった。尊氏が不在の間に軍を起こした南朝によって攻撃を受けた義詮は京都から追い出された上、三種の神器を奪取された上に、光厳上皇・光明上皇・崇光天皇と持明院統皇族がほぼ全員南朝に連行されるという大失態を犯してしまう。義詮は八幡の戦いで南朝方を破って京都を奪還、南朝・後村上天皇は吉野に逃れる。だが、京都には天皇を即位させる正統性の根拠となる治天の君も三種の神器もなく、北朝の正統性は危機に瀕した。


義詮・道誉らは、光厳上皇の生母である広義門院(渋るのを説き伏せて)を治天の君とした。また、仏の道を歩む予定であった上皇の第2皇子・弥彦親王を後光厳天皇として擁立、辛うじて北朝崩壊(=室町幕府の正統性消滅)という最悪の結果は免れた。崇光天皇の孫でありこの武家の争いによって皇位を逃した貞成親王は「この後光厳天皇は(三種の神器がなく、また同じく神器を持たない後鳥羽天皇が即位した際の根拠であった)父帝からの指名もなく、武将が取り計らって即位した(『椿葉記』)」とその正統性の欠如を批判している。


直義軍を破って京都に凱旋した尊氏が義詮の不甲斐なさに呆れたか、弟と争ってこの様な事態を招いた己の不甲斐なさに呆れたかは定かではないが、その後は政務を義詮にほぼ委ねる。しかし、尊氏の庶子であり直義の養子で石見に在った直冬が南朝に帰服、旧直義党・桃井直常に斯波高経・山名時氏・大内弘世らにも推戴され石見から上洛を開始、さらに楠木正儀(正成の3男)ら南朝方の武将に度々京都を脅かされる。直冬は京に誘き寄せることで近江・播磨から挟撃することで打ち破ることに成功したが、九州には征西大将軍・壊良親王と菊池氏勢力がいまだ健在であった。正平13年・延文3年(1358年)、混迷した状況の中、尊氏は九州征伐に向かうことを決意したが、以前直冬との戦いで受けた矢傷が悪化して腫れ物となり、出陣することなくこの世を去った。この記述が正しいのであれば、死因は破傷風ではないかと思われる。


人物編集

カリスマ性はあったが、総じて受け身な生き方が目立つ人物である。その行動原理は一貫性に欠け、良くいえば豪放磊落で柔軟、悪くいえば考えなしで優柔不断な性格であった。

そのため、多くの歴史研究家をして「日本史上、最も解釈に紛糾する天下人」といわしめ、人物像を取り纏めることに大変苦労させられている。


北条時行追討時は、後醍醐天皇からの尊氏討伐令が出ると、各地で足利勢が新田義貞らに破られて最早足利氏は滅亡も間近というのに、後天皇への謀反を避けるがためだけに鎌倉で出家してしまう。まあ、お人好しもここに極まれりである。それを見兼ねた弟・直義が「後醍醐天皇は出家しても助かると思うなといってるぞ」と綸旨をでっち上げてようやくやる気を取り戻させた(その結果どうなったかは後述)。


北畠顕家らに追われて敗走した九州で菊池武敏の大軍に襲われたという、まさに絶体絶命な筑前多々良浜の戦いではどうであったか。


『梅松論』では尊氏曰く「遥か九州まで逃れたのは不本意であるが、進むも退くもいくさ人なら当たり前のこと。大敵との最後の決戦とは僥倖なり。命を惜しんで足利代々の名を汚すな。九州に武門の誉れを貶めるな


一方『太平記』では「この手勢で大敵に挑むのはカマキリが車に挑むようなもの。卑しい敵に討たれるよりも、ここに腹を切ろう(この後、直義が諌めて奇跡の勝利へと続く)。」


史料によって随分と発言内容が異なるが、どちらが真相であったかは神のみぞ知る。「歴史書」扱いの『梅松論』と「軍記物語」扱いの『太平記』では『梅松論』の方が一般論としては信憑性が高いとされるが、他方で『梅松論』は足利氏に好意的であり『太平記』は批判的であるともされる。してみると案外、どちらも尊氏の発言であったのかもしれない。


さて最後に、湊川の合戦で最大の敵楠木正成を討ち取って新田義貞を敗走させ、幕府を開く直前というまさに得意の絶頂たる尊氏が、清水寺に奉納した願文を見てみよう。


「この世は夢みたいなものです。私は出家遁世したく思います。この世で私が受けるべき幸運を返上するので、あの世にて私をお救い下さい。この世にて私が受けるべき幸運は、直義にお与え下さい。直義をどうか安穏にお守り下さい(『建武三年八月十七日足利尊氏書状』)」


この通り、ちっとも喜んでいないのである。実際、政務のほとんどを直義に押しけ、自分は半隠居状態となってしまう。良くいえば、権力欲・出世欲がないともいえるであろうか。


この辺り後述にもあるが、尊氏は後醍醐天皇との対立がずっと心残りであった様で、光明天皇即位後も後醍醐天皇を京都に留め置き、さらに次期天皇に後醍醐天皇の子を確約するという出血大サービスを見せている(本来であれば島流し確定)。しかし、後醍醐天皇が逃走したので全て台無しとなった(ろくな監視もつけてなかったらしい)。それを知った尊氏の言葉が、またふるっている。


しょうがないなあ。運命という奴は人間にはどうにも出来ないというからなあ

とんでもなく大らかというべきか。とんでもなく適当というべきか。


何というか、色々と甘いのである。総じてヘタレな部分が目立ち、戦況悪化であれ状況改善であれ、ことあるごとに切腹出家を言い出す困ったちゃん。直義という兄思いの政治の天才が直ぐ傍で支えることがなかったら覇業が成ったとはとても思えない。峰岸純夫『足利尊氏と直義』のように、この尊氏の落差が激しい性格を躁鬱病で解釈する学者もいる様である。


意外にも楠木正成とは非常に気が合っていた様で、正成は「自分が直に説得すれば確実に尊氏を帰順させられます」と後醍醐天皇に諫言しており、尊氏も彼が戦死した湊川の合戦後に「この様な顛末になってしまったが、公私共に親しくしていた友人」と首級を正成夫人に最大限の礼を尽くして丁重に返却している。

足利氏自体が東西交通要衝である三河地方を抑えていた上に、当主が従五位下に自動的に任官を受ける貴族待遇であり、近畿地方以西にも領地を持っていた関係で全国的に顔が広く、各地のマナーや伝統に精通していたので現地人の協力を得易かったのではないかとも指摘されている。

正成にしてみたら、近畿地方の武士の状況に理解があり、寺社との付き合いも上手い尊氏は「まだしも話が分かる人物」に感じられたのかもしれない。


しかし、軍人としても政治家としてもいざとなると有能であった。政治家としては、京都周辺の有力者である正成や有力貴族・北畠親房等を擁する護良親王に対して、一兵も動かさずに失脚に追い込んでいる。さらに、軍事的には尊氏を圧倒していた直義と師直双方に良い顔をした挙句にどちらも滅ぼしてしまう辺りは、最早有能を斜め上に突破してしまっている。突破し過ぎて、危うく幕府が崩壊するところであったが


戦場でも斜め上突破振りは折り紙付である。

箱根・竹ノ下の戦いにおいては、先述の通り鎌倉で出家するするとダダをこねているうちに、官軍として東海道を進んで来た新田義貞の大軍が遂に箱根まで制圧してしまった。

これを見兼ねて僅か手勢3千騎で出撃し、巧みな奇襲で新田軍を撃破して瞬く間に京都まで攻め上った。ついさっきまでウジウジしていたのが嘘の様に、やる気になったらこれである。全く斜め上の強さである。

また、九州・多々良浜の戦いでは、敗残兵2千騎を率いて2万騎(10倍の差がある)ともいう菊池武敏ら南朝方を潰走させている。先述の通り「もうダメだ…おしまいだぁ…」とヘタレて腹を切る切るいっていた人が直後にこれである。


その他にも六波羅探題攻略、中先代の乱、湊川の合戦と天下分け目の戦いに勝ち続け、自らの武力で幕府を成立させている。『太平記』に残された言動も、戦場では実に果敢である。六波羅攻めでは、軍勢の前に現れた(鳩は石清水八幡宮の使いとされる)を見て、「これは八幡大菩薩が舞い降りて加護なさる証に違いない。あの鳩が飛び去るのに任せて攻め上るべし。」と軍勢に下知して六波羅軍を打ち破った。湊川の合戦の後、追い込まれた新田義貞が尊氏に一騎打ちを申し込んできたことがある。これには尊氏本人も「鎌倉を出て以来、この戦は後醍醐帝に叛くためではなく義貞を討つためのものであった。実に喜ばしき挑戦ぞ。はよう木戸を開け、討ち取ってくれる!」と完全にヤル気マンマンで戦うつもりであった(注:この時は家臣の上杉重能が全力で止めた)。


別に完全無欠というわけでもなく、南朝方との決戦(豊島河原の戦い)に敗れたり、直義の反乱軍に名将・高師直を擁して敗れたり(打出浜の戦い)、肝心なところで結構負けるのだが、なぜか最終的に生き残るのは尊氏なのである。


物惜しみせず、味方には気前よく恩賞をばらまいたため、多くの武士から絶大な支持を得る事に成功。貴族からの蔑視のせいで多くの武士からは嫌われていた南朝をたやすく圧倒したが、子孫は室町幕府の直轄領(御料所)の少なさに悩まされる結果になる。

尊氏が恩賞をばらまいたのには時代的な背景もある。一所懸命という言葉がある通り、当時の武士は土地からの収入が基本であり、それだけ直接的な収入源といえる土地に対する執着心が強い。


武田信玄の様に金塊(甲州金)を恩賞として与えた武将もいないではなかったが、ほとんどの武将は多くの武士の支持を得るため多くの土地をばらまかねばならなかった。事実、元寇の折り、恩賞を与えることのできなかった鎌倉幕府への御家人の支持は著しく減退して幕府滅亡の原因の一つとなり、後醍醐天皇の建武の新政が失敗した原因の1つも鎌倉幕府打倒に貢献した武士たちにまともな恩賞を与えなかったにもかかわらず、貴族や寺院に対しては荘園を復活させるなど優遇したからであった。


文化面では連歌に優れ、准勅撰連歌集『菟玖波集』への採用数では武家で道誉に次ぐ。また田楽芝居を大変好み、庶民達に交じって田楽見物に勤しんだ。余りに頻繁なので直義が苦言を呈したところ、あっさりと「政治のことはそなたと師直に任せよう」との返事。直義が重ねて「田楽は日を決めてご覧下さい。大事な案件は兄上の決裁が必要なのです」と諌めるとこれに従ったという。直義と死別して以降の晩年は、地蔵菩薩を描くことに没頭した。その素朴な画には、後醍醐帝そして直義と心ならずも争った彼の心境が現れているのかもしれない。


ただし、最後の宿敵となった庶子・直冬とは互いに憎悪を剥き出しにしていた。直冬に対しては認知すらせず、子がいなかった弟・直義が養子として引取った後も面会すらろくにせず、結果として自らの没後まで反逆・抵抗を続ける大勢力の頭目にしてしまっている。後始末を押し付けられた義詮も良い迷惑であったであろう。何故に尊氏がここまで我が子を疎んだかについては無論伝わってはいないが、想像を逞しくさせるところである。




評価編集

他者からの評価は、足利家自体が持つ家臣団込みの政治力を別としても高く、後醍醐天皇は天皇としては極めて異例のことに、尊氏に諱の1字を与える程であった。尊氏と後醍醐天皇は最終的には敵対してしまったが、尊氏の側からは心残りが強かった様で、天皇没後に菩提を弔うために当時から名声のあった高僧・夢窓疎石を招いて天龍寺を建立するほどであった。楠木正成も、尊氏と新田義貞が対立した際に、「義貞を切り捨てて尊氏と和睦するべき」と発言したという話が伝わっている。武士を強く蔑視していた北畠親房は勿論尊氏を嫌っており、「神皇正統記」では後醍醐天皇からの1字拝領を無視して、「尊氏」とあるべき所を「高氏」と書いている。


尊氏の禅宗の師であったという先述の夢窓疎石は、尊氏には3つの美点があったと評している(村井章介『分裂する王権と社会』)。第1に、生死をかけた戦場における、悠然として勝敗生死に執着しない態度。第2に、天性慈悲の心が強くて人を憎むことを知らず、敵をも我が子のように許したこと。第3に、非常に気前がよく、金銀も武具馬も皆に土くれ同様に分け与えたこと。八朔という当時の贈答の行事に際して、尊氏の下には進物が山の如く積まれたが、全て来客に与えたので夕方には何も残らなかったという。また、夢窓礎石は「どんな時でも、工夫を凝らすことを怠らなかった」とも評しており、それが的確な決断を下すことで大きな業績を残した尊氏の長所だとも言える(榎本秋『歴代征夷大将軍総覧』)。


後醍醐天皇と敵対してしまったせいで、南朝正統派には逆賊呼ばわりされてとことん蔑視され、家系はともかく政治的にも軍事的にも格下であった義貞が過大評価されていたため、後世には子孫(足利子爵家など)は色々と辛い目に遭っていたらしい(…後世の皇室は北朝の末裔なのであるが、尊氏にあっさり見捨てられて南朝に連行された前科があっては、まあかばう気もしないと思うが)。徳川家康が高位の華族複数の子孫と莫大な人数の家臣の子孫がいたためもあり、ネガティブキャンペーンに限度があったのとは正反対であった(ちなみに家康は義貞の子孫をさがしだし、厚遇していたらしい)。


尊氏の評判が悪いのには水戸藩2代目藩主・徳川光圀水戸黄門)が編纂を命じた『大日本史』の影響も大きい。この歴史書は神武創世記から時代を追って行くものでもあることから、自然な流れとして勤王思想を取ることとなり、南朝・正統論を代表するものとなった。当然、後醍醐天皇と敵対した尊氏は逆賊として『大日本史』に書かれることになり、それは皇国史観に覆われた明治 - 昭和を通じて踏襲されることになった。そのため尊氏は新皇を名乗り朝廷に叛旗を翻した平将門、皇位簒奪を目論んだとされる僧侶・道鏡と共に日本三大悪人の1人に数えられていた。また、尊王思想が高まった幕末期に、尊皇攘夷論者によって等持院の尊氏・義詮・義満3代の木像が梟首される事件も発生した。


勿論現在の評価ではそんな理不尽なことはなく、尊氏の長所も短所も込みで良く知られてはいる。ただ源頼朝や家康と比べると、南北朝時代戦国時代と比べて政情も所領の領有も複雑を極めていたため、小説・ゲームさらには美少女イケメン化など各方面で扱われることが少なく、源平合戦の武将や戦国武将ほどの人気は持ててはいない。ミスター金閣寺足利義満の方が有名という状況にある。

吉川英治『私本太平記』で主人公を務める他、杉本苑子の『風の群像』を初めとして尊氏を主役とする小説は意外に多い様である。戦国時代・江戸時代が研究され尽くした今日、南北朝時代の面白さも見直され、尊氏・直義兄弟を主人公とするガイド本が少しずつであるが出版されている。


専門家や歴史小説家には、幕府創始者として頼朝・家康と比較されることが多く、(頼朝や家康と比べて)「組織運営は自らのカリスマに頼っており、甘さが残る」「人柄が良く、戦には強いが政治的センスはない」と評され、政治家としては寧ろ弟・直義が上とまで言い切られる有様である。ただ、頼朝や家康は政治家として日本史上最高レベルの人物であり、彼らと比較されてしまうのが可哀相な気がしなくもない。



肖像編集

古くから尊氏像として知られるのは、守屋家旧蔵騎馬武者像である。

武者絵の模写絵

佐藤進一『南北朝の動乱』では、箱根竹下決戦に際して、出家のために髻を切り落とした尊氏が出撃する姿とした。しかし、藤本正行「守屋家所蔵武装騎馬画像の一考察」など、太刀馬具に高氏の家紋(輪違)があるとして、高師直らの肖像とみなす説がある。…といわれてはいるものの、実のところ不明であり、現在の教科書では「馬上の武士」という表現で掲載されている。


一方、従来は平重盛像とされて来た神護寺三像の1枚こそ尊氏像という説が、米倉迪夫『源頼朝――沈黙の肖像画』等で唱えられている。論争は衣装様式や画法を巡って継続しており、決着は付いていない様である。


血縁編集

父:貞氏

母:上杉清子

兄:高義

弟:直義

妻:赤橋登子など

長男:竹若丸(早世)

次男:直冬(直義の養子)

3男:義詮(嫡子・2代将軍)

4男:基氏(初代関東公方)


関連イラスト編集

腐【足利尊氏】命燃え尽きるまで 君を憶ふ【楠木正成】【徒花】8月22日新刊♪

白菊足利尊氏


創作の足利尊氏編集

大河ドラマの演者編集


コーエーテクモの歴史ゲーム編集

蒼き狼と白き牝鹿Ⅳ後半で登場。戦力でこそ正成に劣るが政治と智謀、多彩な特技で彼を上回り、義貞に至っては歯牙にもかけない…が、顔グラが例の騎馬武者像の目付きを悪くしたものであり、割とイケメンで描かれる義貞&正成と比べるとビジュアル面でやや不利。信長の野望では孫の義満と一緒に出演し、情けない義昭の尻を叩いてハッパをかけていた。


学研の歴史漫画編集

人物日本史シリーズで伊藤章夫氏がイラストを担当。情け深いが、悪徳政治家や盗賊など悪人は絶対に許さない正義感を持つ源氏の御曹司として登場。後醍醐天皇や正成との対立に苦悩しつつも、弟の直義や小説家の小島法師、盗賊・太郎丸(オリジナルキャラ)と共に乱世を戦い、室町幕府を開く。子供向けの作品であるためか、切腹や出家を巡る騒動は省かれている。


逃げ上手の若君』の尊氏編集

松井優征作『逃げ上手の若君』において主人公・北条時行の敵役でありラスボス(暫定)として登場。「南北朝時代の絶対的主人公」と評され、非の打ちどころがない武将として描かれる。第1話は彼の手による鎌倉幕府滅亡から物語が動き出す。

アクが強いキャラ造型をすることで知られる松井優征氏の作風故に、尊氏にどの様な脚色が成されるのか歴史通ファン達からは興味を持たれていたが、中先代の乱編で満を持して宿敵として立ちはだかった際に見せた姿は読者の度肝を抜くモノであった。そこに現れたのは、”史上最も訳が分からぬ天下人”としか形容のしようがない、史実通りの尊氏であった。松井氏曰く「最も実像に近い足利尊氏像を目指している」とのこと。


バンデットの足利尊氏編集

駄目です。私が継いでは駄目なのです」と、控え目な性格。その後のことを思えば継がない方が良かったのかもしれない……



外部リンク編集

Wikipedia「足利尊氏」


関連タグ編集

南北朝時代(日本) 室町時代 室町幕府 足利 征夷大将軍

足利直義 足利義明 高師直 佐々木道誉 赤松円心 赤松則祐

後醍醐天皇 楠木正成 北条高時

太平記 梅松論 皇国史観 吉川英治 新太平記


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