解説
日本史上において有名な剣豪の一角。
本名は新免武蔵藤原玄信(しんめんむさしふじわらはるのぶ)、もしくは宮本武蔵藤原玄信(みやもとむさしふじわらはるのぶ)とされている。
天正12年(1584年)生まれ、正保2年(1645年)没。戦国時代末期から江戸初期までを生きた人物。円明流や、そこから発展させた二天一流の開祖。
非常に高い知名度を誇る剣豪である事に議論の余地はないが、一方でその経歴には創作や虚構が入り混じっており、実在性が疑われる伝承も多い。
そのため「最強の剣豪」であったかについては現代では疑問符が残る。
一方で「近世の二大兵法思想書」と称される『五輪書』の著者として剣道界からの評価はすこぶる高く、全日本剣道連盟が剣道の普及と発展に貢献した人物を顕彰するために設けた剣道殿堂において、もう一方の二大兵法思想書『兵法家伝書』の著者柳生宗矩と共に、数多いる歴史上の剣豪・剣道家の中でただ二人の別格顕彰に選出されている。
詳細
出身地
出身地について、武蔵は著作と伝えられる『五輪書』の中で播磨国(現在の兵庫県南部)と自ら語っており、養子の伊織も『小倉碑文』で播州(播磨)と述べている。地誌『播磨鑑』にも「揖東郡鵤ノ邊宮本村ノ産也」とある。一方で、江戸時代後期の地誌『東作誌』には美作国(現在の岡山県)宮本村で生まれたという説が記載されており、この説では武蔵の姓の宮本は出身地に因んだものとされている。現在では、武蔵本人や養子の伊織の記述である播磨説が有力視されてはいるが、美作国説を採用した吉川英治の小説『宮本武蔵』の影響等もあり、創作物では美作国説が採用されることも多い。
姓
武蔵の自筆とされる有馬直純宛書状・長岡佐渡守宛書状では「宮本武蔵玄信」との名がある一方で武蔵の著作とされる『五輪書』や、武蔵の養子である伊織が建てた『小倉碑文』では「新免」を使用している。「新免」姓と「宮本」姓の関係について、伊織は泊神社に奉納した棟札において、前述の通り「武蔵が神免某の養子となって新免姓を継ぎ、その後に宮本姓に改めた」と述べている。ただし武蔵が死去する直前に書かれたとされる『五輪書』や、武蔵の死後に建てられた『小倉碑文』でも「新免」となっている事から、宮本を名乗る用になった後も、公的な場では新免を使い続けていたのではないかとする意見もある。
戦場での武蔵
関ヶ原の戦いでは宇喜多秀家に従い西軍として敗れて浪人し、大坂の陣でも豊臣についてふたび敗軍となったとされ、生涯仕官しなかった理由にされることもあった。
しかし近年では関ヶ原の際には黒田官兵衛に仕えて石垣原の戦いを戦ったと見直され、また大坂の陣でも水野勝成の陣備えを記録した「大坂御陣之御供」の名簿に宮本武蔵の名が見つかったことから、大坂の陣最激戦区となった勝成隊で、徳川方として戦っていたことがほぼ確実視されている。
ちなみに「大坂御陣之御供」の名簿は、正規軍ではなく自費での参加となっている浪人には「牢人」という但し書きがあり、武蔵の名前にはその表記がないことから、いわゆる陣借りではなく正式な客将として招かれていたと考えられる。
一武芸者である武蔵が、なぜ徳川きっての猛将鬼日向水野勝成から客将として招かれたかは定かではないものの、後年武蔵は水野家の武者奉行を務めていた中川志摩之助から最初の養子三木之助を貰い受けており、水野家中との交流は続いたらしい。
後半生
武蔵が武芸者として過ごした時期は意外にも短く、後半生は静かなものであった。
1637年に武蔵は小倉藩に仕える養子の伊織とともに島原の乱に参戦したが、活躍は無く、有馬直純宛の手紙によると「石に当たって立つ事も出来ないほどの怪我を負った」という。しかし、軍忠状や手負い注文には宮本武蔵の名はなく、
負傷の報告は虚偽だったという説がある(合戦で負傷することは恥ではなく、前線で戦った証とみなされ、一種の武功として扱われた。特に飛び道具による負傷は好意的に見られやすかった。)。
どちらにせよ伊織はこの戦いで大活躍し、勲功により1500石加増され、4000石になったうえ小笠原家の筆頭家老に出世した。
3年後の1640年、細川家に客分として迎えられ、滞在費として年間に米三百石を支給された。この三百石は知行(奉公にかかる必要経費も含む)でなく手取りであり、仮に知行に換算した場合四公免として750石(細川家の三八免なら790石)分に相当する。これは当時の武芸者の収入としては、幕府の中枢に上り詰めた柳生宗矩の一万二千石や、武将としても活躍した富田越後守の一万三千石よりは低いが、柳生と並んで将軍家の指南役を務めた小野忠明の六百石や御三家尾張徳川家に五百石で仕えた柳生兵庫助、紀州徳川家に七百石で仕えた木村助九郎等当時の一流武芸者と比べても遜色が無いものである。
武蔵はこの地でも二天一流を伝承しており、弟子や孫弟子が細川藩や熊本藩に仕えている。武蔵の後継者達は幕末に至るまで各地で二天一流を広め、二天一流野田派等のように現在でも伝承を行っているものもある。
他流派の武芸者との逸話
武蔵の戦歴は生涯無敗とされており、彼のライバルとされた佐々木小次郎、吉岡清十郎・吉岡伝七郎(吉岡又七郎直重)、宍戸某(宍戸梅喧)、夢想権之助などの武芸家たちも有名である。
吉岡一門との決闘
- 『五輪書』によると、武蔵は21歳の時(1604年)に上京した。養子伊織による1654年の『小倉手向山武蔵顕彰碑(小倉碑文)』によると、ここで代々足利将軍家の剣術指南役だった“扶桑第一の兵術”といわれる吉岡一門と戦った。まず洛外の蓮台野で清十郎と戦って勝利し、敗北した清十郎は出家する。その後弟の伝七郎が武蔵に挑むも撲殺される。これに怨恨を抱いた門弟ら数百人が兵仗弓箭で武装し、一乗寺下り松で武蔵を襲おうとしたが、武蔵ただ一人に蹴散らされてしまう。もし事実なら京で大きな話題になろう筈のものだが、武蔵側史料の他に記録がなく、創作の可能性が高い。この戦いが元で吉岡一族が滅んだとあり、吉川版小説でも漫画「バガボンド」でも似たような展開となっている。
- 1684年に福住道祐が記した吉岡側の史料『吉岡伝』によると、宮本武蔵は蓮台寺野ではなく、所司代を検分役として、越前小将忠直の御前で吉岡憲法の長子・源左衛門直綱と戦い敗北、武蔵は再試合を申し込んだが、自分で申し込んだ日に来る事なく逃走している。ただし『吉岡伝』における武蔵は松平忠直の家臣で無敵流を号し二刀の名手で北陸奥羽で有名であるとされており、二刀流の名手であること以外は、他の資料に見える武蔵の経歴との離が激しい。
- 1714年の『本朝武芸小伝』では引き分け1740年代の『古老茶話』では武蔵は遅刻してやってきたものの、結局勝てなかったとある。
- 『守貞漫稿』によるとその後吉岡一門は、武蔵と無関係の1614年の禁裡での事件を元に看板を下ろし、染物を家業として暮らした。二天一流関係者が書いた『小倉碑文』『兵法大祖武州玄信公伝来』『武公伝』では武蔵との果し合いの結果吉岡が滅んだ事になっているが、『駿河故事録』その他の史料を見る限り吉岡家はその後も続いており、現在もなお吉岡染が受け継がれている事から、これらが誤りである事は明らかである。
巌流島の決闘
詳細については佐々木小次郎の記事も参照。
- 巌流島の戦いについて書かれた最も古い記録は1654年の『小倉碑文』で、武蔵は舟嶋で、木刀を用いて岩流という者と戦ったとあり、ここには小次郎の名は無い。
- 次に古い資料は1672年に編集された『沼田家記』で、「小次郎」という人物が登場し、立ち合い自体は一対一で行われ武蔵が勝利したものの、その後息を吹き返した小次郎を、隠れ潜んでいた武蔵の弟子たちが袋叩きにして殺した旨。その後小次郎の弟子に追われ門司城に逃げ込み匿われた後、鉄砲隊で警護され豊後の無二のもとまで送り届けられたとある。
- 1714年の『本朝武芸小伝』でも武蔵は多くの弟子を連れて島に乗り込み、一人でやってきた巌流を殺した事になっている。1783年の『西遊雑記』では、岩龍が事前の約束通り一人で島に渡ろうとしたところ、浦の者たちが「武蔵は門人を大勢連れている。一人では敵わないので今日は島には渡らないようにしてください」と止めに入った。しかし岩龍は、「武士は言葉を違えはしない。固く約束をしたことであるから、今日島へ渡らないのは武士の恥である。もし貴方がたの言うように、武蔵が大勢で私を討ったりすれば、かえって武蔵の恥になるだろう」と言って島に渡った。その結果試合中に武蔵の門弟が四人襲い掛かってきて、岩龍は殺されてしまったのだという
- 1727年、二天流師範の立花峯均が著した『丹治峯均筆記』では、巌流島の決闘時の武蔵の年齢が19歳に設定された。
- 1775年に細川藩の二天一流兵法師範豊田景英は宮本武蔵の新伝記『二天記』を著した。ここで小次郎に「佐々木」という姓が新たに追加され、巌流島決戦時の小次郎の年齢は18歳に設定されている。
- 晩年の武蔵が滞在した細川藩では、彼の死後1755年に筆頭家老・松井家の二天一流兵法師範の豊田正脩が、武蔵の伝記を集めた『武公伝』を著した。中でもここに記された''巌流島の決闘''に関するエピソードは、後世の武蔵伝に多大な影響を与えた。当時の武蔵の年齢が29歳だったとか、小次郎の出自や、小次郎が鞘を捨てた事に関して武蔵が「小次郎敗れたり!」と言い放つ有名なエピソード群はここに由来する。ただし『武公伝』は、『小倉碑文』に記載された巌流との戦いを元に創作された可能性が高いとされ、決闘の内容をはじめ年月や対戦相手の氏名・経歴を含めて信憑性がほとんど無いとされている。にもかかわらず、現在の巌流島の決戦の一般的なイメージはこの『武公伝』を元にしている。
- 1704年に書かれた『江海風帆草』では、武蔵と戦った巌流剣士は「上田宗入」という名前で、1727年の『兵法大祖武州玄信公伝来』や1782年の『兵法先師伝記』では「津田小次郎」、『西遊雑記』では「岩龍」という名前になっており、武蔵の父無二斎と深い因縁があったり、冨田勢源の弟子だったりと(事実なら50~70代の老人という事になる)、それぞれ出自や設定が大きく異なっている。
宝蔵院流槍術との戦い
前述の『二天記』によると、武蔵は初代・胤栄に手合わせを願ったものの、胤栄は80歳を超える老体のため、弟子の奥蔵院という者が相手をした。武蔵は短い木剣一本のみでこれに圧勝。技量に感服した奥蔵院は、武蔵を泊めてもてなし、武術談議に花を咲かせて一夜を明かしたのだという。小説では武蔵が高弟の阿含を殺し、胤栄の跡を継いだ胤舜が10人ほどを率いて武蔵を襲う話になっている。
柳生新陰流との戦い
- 吉川英治の小説では武蔵は柳生庄を訪れ、「バガボンド」では柳生四高弟と死闘を繰り広げた末、石舟斎(柳生宗厳)との邂逅を果たす。これもフィクションで、武蔵が宗厳と会った事を示す史料はない。
- 柳生と武蔵の関係について残された資料としては、二天流師範が書いた『丹治峯均筆記』では「柳生が将軍家の剣術指南役になれたのに、武蔵がならかったのは、将軍家から誘いは来たものの先に将軍指南役を務めていた柳生宗矩(宗厳の息子)の下につくのを嫌ったからだ」という、信憑性の定かならぬものがある。この『丹治峯均筆記』にある逸話では武蔵は仕官を望んでおらず、また宗矩も武蔵の仕官に干渉していない。しかし武蔵の死からおよそ100年後に書かれた『二天記』では、「武蔵自身は将軍家への仕官を渇望していたが、宗矩から妨害されたために将軍家に仕官できなかった」という逸話が紹介されており、この『二天記』の記述が元で、近年のフィクションでは「武蔵は高録での仕官を望むも適わなかった不遇の人物」とされたり、一方の柳生宗矩も既得権益を守る事に必死な陰険な性格で武蔵とも仲が悪かった人物として描かれる事がある。ただし、『二天記』の成立前に書かれた『丹治峯均筆記』からの内容の変化もあり、『二天記』の逸話は『丹治峯均筆記』の逸話を元にした創作であるとする見方が強い。
- この他、宗厳の息子宗矩が武蔵に勝負を挑まれるも断ったり、あるいは宗矩が武蔵を師匠と仰いだり、江戸で宗矩の高弟二人を倒したり、細川藩で氏井弥四郎(宗矩の高弟で新当流の達人でもある雲林院弥四郎がモデルとされる)を打ち負かしたりする逸話などもあるが、これはずっと後、寛政年間(18世紀末期~19世紀初頭)頃の文献が初出のため、現在では創作されたものと考えられている。
尾張柳生との関わり
吉川英治の小説では柳生兵庫助(柳生石舟斎の孫で尾張柳生の祖)が廻国修行中に武蔵と邂逅している様子が描かれているが、これは吉川英治によるフィクションであり、この時期に両者が出あった事を示す資料は無い。
- ただし兵庫助が「尾張藩に仕官した後に」両者が出あったとする逸話は、寛政二年(1790年)に神武流開祖・安建正寛が著した『兵術要訓』に記されている。この逸話では武蔵が尾張を訪れた折りに、当時尾張藩主の指南役を務めた柳生兵庫とすれちがい、武蔵が「あなたは柳生兵庫殿ではないか」と問うと兵庫が「そういうあなたは宮本武蔵殿ではないか」と答えて、互いに「久しぶりに活きた人の出あった」と語りあった後に、武蔵はしばらく兵庫の屋敷に滞在したとされている。武蔵の死の150年近く後の資料が初出という事もあって、逸話の真偽は定かではないが、尾張藩には武蔵が創始した円明流が普及しており、武蔵が尾張藩を訪れたこと自体は確かではないかとする意見もある。
- 柳生兵庫の息子でやはり名人として名高い柳生連也には、高弟が円明流に移籍してしまった記録がある。
- 柳生連也の跡を継いだ厳延(連也の甥)が書いた『新陰流縁起』には唐突に武蔵の名前が出てくる。
- 尾張柳生中興の名人と言われる長岡房成が武蔵の創始した円明流の出身であることや、現在伝承されている円名流と尾張柳生の技に一部共通点が見られることから、房成の時代に尾張柳生に円明流の技法が取り入れられたのではないかと考える研究者もいる。
高田又兵衛との戦い
小倉に滞在していた折りに、小倉城主小笠原忠真の命で宝蔵院流槍術の達人高田又兵衛と戦ったという伝説がある。
- この試合について、武蔵側の伝記である『丹治峯均筆記』では、武蔵が「三本迄入込ル」(槍の懐に入り込んだ、つまり武蔵が三本続けて取った)が、三本目の勝負については武蔵から「あなたの槍が先に私の足に当たった」として又兵衛の勝ちだと申し出たという。しかし見物人の目には槍が当たったようには見えず、又兵衛自身も「當時ノ挨拶タルベシ」(きっと社交辞令であろう)と認め、「至極ノ達人、言語ニワタラズ」と武蔵を賞賛したとされる。
- この話とほぼ同様の逸話は、別の武蔵の伝記である『兵法先師伝記』にもあり、こちらでは中段に構えた武蔵が「二度同ジ位ニテ勝」った後の三本目の勝負で、又兵衛が武蔵の股間(脚と脚の間)に槍を突き入れたため、武蔵は自分の負けを認めたが、又兵衛の方も「武蔵は私の面子を保つために勝ちを譲ってくれたのだろう」と述べたとある。
- 武蔵と又兵衛の戦いは、又兵衛側の伝記にも記されており、『崇白先生伝』(崇白は又兵衛の隠居後に名乗った号)では、又兵衛と武蔵は三度立ち合ったものの勝負がつかず、最後には又兵衛が「自分は刀より有利な武器である槍を用いても勝てなかったのだから、あなたの勝ちだ」と述べて武蔵に勝ちを譲ったとする逸話になっている。
夢想権之助との戦い
1614年、神道夢想流杖術の夢想権之助と試合を行ったという伝説がある。
- 1775年に記された『二天記』では江戸で試合を行った事になっているが、1666年の『海上記』では明石で戦った事になっており、共に武蔵が勝利した事になっている。
- 夢想流杖術側の口伝によると、最初剣術で勝負して武蔵に敗れたものの、次に杖術で試合したところ武蔵に勝利したという。
『最強』への疑問符
『宮本武蔵=最強』というイメージについては、近年の研究で雲行きの怪しい部分が出てきており、宮本武蔵の実態に迫れば迫るほど、その多くが創作や虚構、怪しい伝聞からなっている事が分かっている。
織田信長や坂本龍馬などもそうだが、史実とは別物として分けて考えることが大事である。
ただし現代で知られている経歴の多くが創作や虚構、怪しい伝聞からなってるというのは宮本武蔵に限った話ではない。
一例をあげると現代のネット上で最強クラスの剣豪として扱われている塚原卜伝の戦歴について「真剣勝負は19回、また37の戦に出て、矢傷6ヵ所のみで勝ち抜いた」「立ち合いでは212人を討ち取った」という物がある。
これは卜伝の弟子であった加藤信俊の孫(本名不詳)が記した『卜伝遺訓抄』の後書が初出であり「伝え聞く所によると、俺のお爺さんの師匠はこれくらい凄い人だったらしいよ」(意訳)というニュアンスで記されている。
そしてそれ以前の資料には一切記載がない。
文化
五輪書
五輪の書とも。武蔵が著したとされる兵法書。
五輪になぞらえて地・水・火・風・空の全5巻に分かれている。
芸術家としての武蔵
晩年細川藩での武蔵は文化人としても活動し、鍔などの刀装具を手ずから制作したり、書や水墨画を嗜んだという。なお、武蔵の死後20年程たった寛文6年(1666年)の『海上物語』には既に「画筆の名人」と評する記述がある。
一方で現在武蔵の書とされているものの多くが本人の筆とされる手紙と筆跡が異なっており、画についても武蔵作と伝わる作品の多くはそれぞれ作風がまったく異なる。落款(印)も統一されておらず、後入された可能性が濃厚である。
沢庵和尚との関係
吉川英治「宮本武蔵」では、非常にフレンドリーな性格として描かれた臨済宗の僧である沢庵宗彭と武蔵は交流を持っているが、実際にはこの2人の接触を示す史料は一切存在しない。
吉川英治も『随筆宮本武蔵』という本の中で「武蔵と沢庵和尚の出会いは自分の創作で元となる文献はない」と明言している。
英雄として
武蔵は江戸時代に講談や歌舞伎、浄瑠璃などの題材に多く取り上げられた流れを汲み、1935~39年に吉川英治が著した朝日新聞の連載小説『宮本武蔵』によって『最強の剣豪』という地位が世間に広く流布されるに至った。
知名度の高さから彼をモチーフとした様々な作品が生み出されている。
余談ではあるが、彼の振り回していた大小揃えの刀は彼の堂々たる体格(身の丈6尺余りといわれる)に見合った長大なものである。これを片手で軽々と、しかも自在に振り回せる膂力の持ち主がそう存在するわけもなく、その意味では二天一流の真の使い手は武蔵一人であったと言われる。
ただし武蔵の身長に関して言及されたのは武蔵の死後80年ほど経過してから記された『兵法大祖武州玄信公伝来』が初出である。
「武蔵が人並み外れた剛力の持ち主で、片手で刀剣を使いこなすことができた。これが後に二刀流の技術を生み出すに至った」という広く知られている設定は、ソースとなる資料が存在しない伝説に過ぎない。事実、中条流(冨田流)、念流、堤宝山流、香取神道流や心形刀流など、二天一流以外にも二刀の技法を伝える流派はいくつか存在する。
また柳生宗矩も柳生十兵衛の伝書『月之抄』にて二刀で戦う際の心得を説いており、新選組の服部武雄や桜田門外の変で戦った彦根藩士の永田太郎兵衛や河西忠左衛門が二刀流で奮戦したと伝えられている。
なお『五輪書』の『地の巻』に「両手に物を持つ事、左右共に自由には叶ひがたし」とあるように、二天一流の二刀流は片手で刀を扱うための修行法に過ぎないとされる事もあるが、『五輪書』の『火の巻』に「惣而、太刀にても、手にても、ゐつくといふ事をきらふ。ゐつくは、しぬる手也。ゐつかざるは、いきる手也」とある様に実際は特定の技にこだわらずに状況に応じて自由に戦えと主張している。
また宮本武蔵の青年期の伝書『兵道鏡』には二刀対二刀の対戦方法が「真位之位」として書かれている。
至言
- 「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」
- 「我、神仏を尊んで 神仏を恃まず(頼らず)」
- 「我、いつも後悔せず」
フィクションでの武蔵
大抵の場合「二刀流の剣士」として描かれており、性格は全体的に野性的(ワイルド)な人物が多い。(幼少期の場合は)活発な少年として描かれている場合もある。
また、ライバルとして前述の佐々木小次郎とセットで登場することが多い。
バガボンド
吉川英治「宮本武蔵」を元にした漫画。
詳細は当該項目を参照。
戦国無双
CV:金子英彦 武器:双剣
戦国無双2にて初登場。
詳細は宮本武蔵(戦国無双)を参照。
戦国BASARA
初登場は戦国BASARA2で、隠しキャラとして登場。
詳細は宮本武蔵(戦国BASARA)を参照。
武蔵伝
※イラストの右がⅠのムサシで左がⅡのムサシ。
1作目「ブレイヴフェンサー武蔵伝」と2作目「武蔵伝Ⅱブレイドマスター」では設定が異なる(というか別人)。
1作目ではヒロインのフィーレ姫がヤクイニック王国を救うために異世界から召喚した英雄。
しかし、フィーレ姫の腕が未熟だったため肉体・精神共に子供の姿となってしまっている(本来は大人)。
ゲットイン能力を持った日本刀「雷光丸」と魔人を倒した伝説の大剣「レイガンド」の二本を使う。
2作目では宮本武蔵の少年時代の姿であるとされており、召喚の影響で子供の姿になったわけではない様子。
からくり剣豪伝ムサシロード
CV:野沢雅子
ジパング国チューゴク山地オカヤマーナのミナモト村に住んでいたからくり人のガキ大将。
一人称は「おいら」で語尾に「~ダス」とつける。
食いしん坊で怠け者だが、ここ一番で実力を発揮するタイプ。
良くも悪くも純情な性格で敵に何度も騙されてしまった事もある。
オツルちゃん一筋。
MUSASHI -GUN道-
CV:浪川大輔
剣の腕も立つが二刀流ではなく二丁拳銃でアヤカシと戦う少年。本業は城盗り(城専門の盗人)。
本人いわくGUN道は「おいら流」だが非常に高い実力を持つ。
「うおっまぶしっ!」「新しい登場人物出し過ぎじゃねぇの!?」といった迷台詞が非常に多い。
『ガン鬼の銃』、『封印魂』にまつわる争いに関わり、凄腕剣士のロウニン、伊賀流忍者の少年ニンジャ太郎、謎の少女夢姫達と共に旅に出る。
佐々木小次郎を非常に嫌っており、名前を聞いただけで怒り出すほど。
YAIBA
CV:佐藤正治
史実上の人物で、「YAIBA」では400年を生きる二頭身のがめついスケベジジイ(若い頃は小次郎同様に美形であり、生き返った小次郎から「なんといたわしい」と憐れまれていた)。
雷神剣を使いこなせる伝説のサムライを待ち望んでいた。剣を譲ってからはヤイバの師匠となる。
二刀流や兵法の知識、剣の腕はいまだ健在だが、たまに張り切りすぎてぎっくり腰になる。
あらすじも武蔵(の声優)の担当で、「しかぁ~し!」や「そして!」から本編に移るのがお約束。
刃牙道(グラップラー刃牙シリーズ)
当たり前だが既に故人であり、熊本県に土葬されたミイラの背骨の中に残ったDNAからクローンが作られ、魂も降霊術で肉体に降ろされて現代に蘇った。
生き返った武蔵についてはクローン武蔵を参照。
ガンリュウ
主人公である小次郎の最大最強のライバル。通称「日本最強の剣士」。
本名は宮本武蔵(みやもと・たけぞう)で、ムサシは通称(主人公も本名は小次郎だが通称は流派の継承者ということでガンリュウを名乗っている)。他流派滅亡を目論む柳生一門に狙われる。
養子である伊織は彼に敗れ死んだ剣豪の実子と言う設定で、伊織自身は父親を殺した「ムサシ」なる人物がタケゾウであることを知らずついてきている。
仮面ライダーゴースト(仮面ライダーシリーズ)
演:唐橋充(生前の姿)
声:関智一(パーカーゴースト時)
平成仮面ライダーシリーズ第17作である『仮面ライダーゴースト』より。
今作では過去の偉人の魂を憑依させて変身するシステムであり、そのうちの一つに宮本武蔵の魂を憑依させた『ムサシ魂』という形態が登場する。
フォームチェンジの際に用いられるパーカー「パーカーゴースト」に憑依する事で主人公タケルと会話もできる。
Fateシリーズ
CV:佐倉綾音
『Fate/GrandOrder』第1.5部『Epic of Remnant』より登場。
クラスは剣士(セイバー)で、レアリティは☆5。
本作では女性となっているが本来の歴史では男性で、彼女は別の世界から迷い込んだ漂流者である。
詳細は宮本武蔵(Fate)を参照。
また、亜種特異点『屍山血河舞台下総国』や『Fate/Samurai Remnant』では男の武蔵(cv:伊藤栄次)も登場した。
『屍山血河舞台下総国』では老衰し余命幾ばくもない身で、生涯出会わなかった宿敵の来訪を待ち続けている。
『Fate/Samurai Remnant』では回想で登場し、主人公の養父であり剣の師匠。
ラヴヘブン
乙女パズルゲームの攻略キャラクター。初期レアリティはSRでの登場。
異世界の危機を救うため、主人公により召喚された。
伊藤勢作品
羅睺伝
主人公・羅睺丸と行動を共にする謎のおぢさん。常にハエがたかっており、丸いサングラスと咥えた煙管が特徴。
荒野に獣 慟哭す(原作:夢枕獏)
傭兵部隊の隊長・薬師丸法山は宮本武蔵の遠い子孫という設定であり、それが解説されたページでの武蔵の外見は羅睺伝のものと同一である。
また、『モンスター・コレクション 魔獣使いの少女』では武蔵本人こそ登場しないものの、丸サングラス&咥え煙管で二刀流を操るリザードマンのシン・メーン・アルティエンが登場している。
魔界転生
演者:緒形拳(1981年の映画)
田中浩(1981年の舞台)
宮内洋(1996年のVシネマ)
阪脩(1998年のOVA)
長塚京三(2003年の映画)
藤本隆宏(2018年の舞台)
渡辺大(2021年の舞台)
山田風太郎の忍法帖シリーズにて登場。
島原の乱の後、秘術「魔界転生」により死んだはずの天草四郎が甦るのを目撃する。
正保2年に熊本の霊巌洞で最期を迎えようとするが、死の間際に己の中の未練を悟り、かつて想いを寄せたお通と瓜二つの女と交わり転生した。
魔界転生(石川賢版)
石川賢によるコミカライズでは頭部に角を備えた鬼の如き姿に転生している。
身体から人体を破壊する威力の光弾を飛ばし、岩石の怪物と化した宝蔵院胤舜を一刀のもとに斬り捨てるなど、魔界衆の中でも群を抜いた戦闘能力の持ち主。
十~忍法魔界転生~
せがわまさきによるコミカライズでは転生後、頭にリボンを着けるという奇抜なファッションセンスを見せる。しかし胤舜の三つ編みや宗矩のツインテールよりはまだ衝撃は少ない。
外見はせがわが過去に手掛けた山田作品のコミカライズ『剣鬼喇嘛仏』の武蔵と共通している。
(本コミカライズでは『喇嘛仏』の主人公が老齢の姿でゲスト出演しており、2作品は同一の世界観であることが示唆される)
陸奥圓明流外伝 修羅の刻
CV:松山鷹志
第一巻『宮本武蔵編』におけるラスボス。
鬼神の如き剣の腕を持つ武芸者。わずかな動作から主人公陸奥八雲の実力を見抜くなど洞察力にも優れる。
八雲との戦いでは激闘の末、奥義『無空波』に敗れた。しかし防御のためとはいえ無手の武術である陸奥圓明流に刀を使わせており、八雲にとっての勝敗は「引き分け」。
陸奥圓明流の歴史の中で刀を抜かせたのも引き分けたのも彼が唯一である。
へうげもの
西軍・宇喜多秀家の軍の雑兵「新免武蔵(しんめんたけぞう)」として4コマのみ登場。
遅れて参戦しながら投石機で爆弾を投げて戦果を挙げる古田織部の軍勢の「遅れてきたのに強い」戦法に感銘を受ける。
ライブアライブ 幕末編
CV:柴田秀勝(リメイク版)
尾手院王により召喚された亡霊。強者を求めおぼろ丸の前に立ち塞がる。
キャラクターデザインはYAIBAと同じく青山剛昌が手掛けているが外見は異なる。
関連タグ
国井善弥:『昭和の武蔵』『今武蔵』と呼ばれた近現代の剣豪。
登場作品関連
覇王丸:元々は宮本武蔵をイメージして作られたキャラ。
メガトン級ムサシ:二刀流で主人公機のパイロットが深く関わった人物に小次郎という名前のキャラが居るなど、要所要所で意識されている。