尾張国
尾張国とは東海道の西端にある国家で延喜式では上国、近国と定められていた。「(西国の)おわり」から国名が当て嵌められたという説が有力である。
北端は内津峠で美濃国と隣接し、そのまま入鹿池北側の山脈を国境として犬山と美濃国可児まで至り、西端は木曽川に沿って下る。が、この木曽川に始まる木曽三川は度重なる氾濫で知られる暴れ川であり(現在も輪中地域が多数、存在する)、暴雨の折には度々、流れを変えたので美濃国との国境紛争が絶えなかった地域でもある。
木曽川が伊勢湾に流入すると西端は終わり、知多半島をぐるりと一周して境川近辺から瀬戸に至るまでが三河国の国境となる。
古代の尾張国
尾張国は文明が成立しやすいとされる巨大な河川(木曽三川)と肥沃な平野(濃尾平野)を併せ持っていた影響で、華南から稲作が伝わると瞬く間に尾張国へと稲作文化が伝播して早くから弥生時代に足を踏み入れていた。片や東の三河国は美濃三河高原からなる中山間地が多く豊富な水量も平野も十分に存在しなかった為に、これが原因で稲作への食料転換が発生せず、隣国ながら中々、縄文時代から足抜け出来ぬ故に、尾張が「終わり」の当て字から国名とされた由来は信憑性が高いともいえる。弥生式土器も尾張国からは多数、発掘されるが美濃国や三河国に入るとこれが全く発掘されなくなり、稲の品種改良が完成する百五十年間、弥生人の勢力拡大は尾張国を東端とするのである。
やがて弥生時代が終了し古墳時代に突入すると、尾張国は畿内より凡そ百年、遅れて古墳を建設するようになる。これは尾張国にも中央政権に従属する大規模な政治組織が導入された証左でもあり、大和政権の支配力が及んだ証拠といえる。中でも代表例は愛知県春日井市にある二子山古墳や愛知県犬山市の青塚古墳が著名であるが、最大規模を誇るのは愛知県名古屋市熱田区の断夫山古墳であり、同時にこの断夫山古墳が東海地方でも最大規模の古墳となる。
断夫山古墳に埋葬されたのは日本武尊の后となりながら伊吹山で死亡した日本武尊に操を立てて生涯、独身を貫いた宮簀媛と記紀神話では伝えられていたが、年代調査からして古墳が設立された時期と記紀神話の間で齟齬が生じており、現代では尾張国の権力者である尾張国造(おわりくにのみやつこ)、尾張連草香(おわりむらじくさか)の墓ではないかとされており、特に尾張連草香は継体天皇の后である目子媛の父であり、この目子媛が産んだ二人の皇子が後、安閑天皇と宣化天皇として即位しているので、尾張連草香は天皇の祖父に当たるのである。
従って尾張国は日本武尊と宮簀媛の逸話から始まり後の二人の天皇を即位させた点から見ても、当時、畿内を指して日本としていた点からすれば東端の国家として、例外ともいえる早さで六世紀頃から大和王朝とかなり深い繋がりがあったと見る事が出来る。
続いて古代日本の最大の内乱である壬申の乱では近江朝廷の大友皇子に対して吉野側の大海人皇子が僅かな供回りを連れて美濃国へ脱出し現地で兵力を徴募するが満足な兵数が得られず尾張国に下向、ここで尾張国の国主である小子部連鉏鈎(ちいさこべのむらじさひち)が万単位の兵力で加勢する。この兵力によって小子部連鉏鈎は美濃国から近江国大津に攻め入り勝利を収めるが、戦後間もなくして小子部連鉏鈎は山に籠もり一人、自殺してしまう。これは元々、小子部連鉏鈎が実は近江派の人間で頃合いを見て離反するつもりであったが、兵力を分散されて離反する時機を逸した結果、自らの兵で近江朝廷を滅ぼしてしまった事による自責の念とされている。
とまれ、即位して天武天皇となった大海人皇子は小子部連鉏鈎の働きを賞賛しており、大化の改新で国家制度が大きく見直されて地元豪族に頼らず中央から国司を派遣する仕組みとなると、尾張国造、尾張連は新たに派遣された国司の元で郡を管掌する郡司となった。
同時に尾張国では米に続く莫大な財源として五世紀頃、愛知県猿投山の広域(猿投山西南麓古窯跡郡。猿投窯)で大量かつ良質の陶器を生産し資源が枯渇した畿内方面へと売り捌く事で莫大な富を得た。猿投窯はそれから室町時代の十五世紀、隣接する瀬戸窯や三河湾側の常滑窯、隣国の美濃窯が出現するまで約九百年の間、日本の陶器生産を支える事になる。
平安時代、鎌倉時代の尾張国
平安時代においては先述の通り皇室の外戚となる一族を生むものの、次第に畿内の中央集権内で藤原氏を筆頭とする公家衆が権力を掌握していき、その一方で権力拠点からの距離として遠く離れた尾張では中央権力へと接触する機会も少なくなり、文化水準こそそれなりのレベルを保つが政治的影響力そのものは低下していく。これは平安時代が暮れて公家政権が衰退し武家政権が台頭してきたときも同様であったが、公家政権時と武家政権時とで異なりを見せたのは、平氏棟梁である平清盛が後白河天皇を擁立して源義朝を敗走させた平治の乱で戦後、尾張に敗走してきた源義朝をかくまう動きを見せながら最終的に知多、野間大坊で源義朝の舅である長田忠致と、その子の長田景致が離反し源義朝を謀殺。そして後年、源義朝の子である源頼朝が京を脱出して関東(相模国鎌倉)へと逃亡し関東武士を纏めるに至ると、前者はまさに当事者、後者は尾張が西国を拠点とする平氏と関東に地盤を得た源氏の軍事境界線になってしまった点にある。尾張の誰しもが望む望まざるに関わらず中央政界の騒動に巻き込まれる形となり、自らの旗幟を鮮明にする必要に迫られたのである。
そうした中で平安末期の尾張、三河は守護職に平氏を頂いていた事から旧来より朝廷からの影響力が強かったのだが、治承の乱、寿永の乱(治承・寿永の乱。=源平の戦い)で後白河法皇と平氏棟梁、平清盛との対立が決定的になると、後白河法皇の皇子である以仁王が源頼政の後援を受けて平氏に対して挙兵し、尾張の諸勢力は平氏に反旗を翻す事となる(平氏の強大な支柱であった平清盛は治承・寿永の乱の最中に熱病で逝去)。が、積極的に政権打倒へと動いたかといえばそうでもなく、源氏棟梁である源頼朝には全面的に協力せず、源行家や木曾義仲といった傍流の勢力に多くが荷担する、やや日和見的な行動に終始する。
平清盛亡き後、尾張では治承五年(西暦1181年)、盤石となった関東を討伐する為に中央より派遣されてきた平重衡、平維盛の軍勢と源行家、援軍である源義円の連合軍が墨俣川(現、長良川)で激突する。これが墨俣川の戦いであるが、この戦いに源氏軍は敗戦。源行家の次男、源行頼が捕虜となり、源義円、源重光、源頼元、源頼康が戦死、源氏軍六百九十余名が討ち取られるという手痛い敗戦を喫する事になった。こうして平氏は尾張以西の支配を回復するのだが、全国的な飢饉で兵站の不安が発生すると源頼朝本隊への警戒も重なって平氏軍は折角の戦勝も虚しく戦線を確保できない為に京への撤退を余儀なくされ、結局は東国の鎮定に失敗。これがそのまま壇ノ浦の戦いで平氏政権は滅ぼされるのである。
平氏が討伐されると純粋な武家政権の鎌倉幕府が樹立するのだが、源頼朝の実子は三代の歴史を重ねる間に次々と暗殺され、源頼朝の正室である北条政子が鎌倉殿の政務を代行し、北条執権である北条義時がこれを補佐する北条執権体制へと移行する。
北条政子は新たなる鎌倉殿として雅成親王を迎えたいと後鳥羽上皇に願い出るが、鎌倉幕府が成立してから新たに設けられた荘園への地頭制度が税の滞納をたびたび起こす事もあって両者は微妙な関係にあった為に結局、後鳥羽上皇は近臣である藤原忠綱を鎌倉に送り、雅成親王を送るにあたって様々な条件を付けた。
この条件に対して北条義時は幕府の根幹を揺るがしかねぬと拒絶し、最終的に鎌倉幕府は皇族将軍の擁立をあきらめて摂関家から将軍を迎える事とし、承久元年(西暦1219年)六月に九条道家の子である九条頼経を鎌倉殿として迎えた。が、この将軍後継問題は後鳥羽上皇と北条義時の双方にしこりを残した。
後、後鳥羽上皇が鎌倉調伏の祈祷を行っていた事が内裏守護の源頼茂に露呈すると後鳥羽上皇は西面武士にこれを攻め滅ぼさせ、幕府と朝廷の緊張は高まっていく。結局、後鳥羽上皇は鎌倉倒幕の意志を固め源義時調伏の加持祈祷を大々的に行いながら挙兵する。承久の乱の開戦である。後鳥羽上皇は諸国の御家人、守護、地頭らに北条義時追討の院宣を発するのである。
この院宣に尾張、三河の国人衆は多くが朝廷側に与した。これは源頼朝に対する恩顧、これを傀儡とした北条家への不満、加えて尾張、三河地域に多く存在した天皇家や摂関家、寺社領の関係から、これらの荘園の地頭は幕府の御家人であると同時に、本家である朝廷や藤原氏と主従関係を結んでおり、京側にシンパシーを持つ者が多かったからである。
こうした点から朝廷側は院宣の絶対的な効果を確信しきっており、各地の武士達は自らに従うであろうと楽観していた。院宣が下された以上、幕府には碌な兵力も集まらないであろうと早くも戦勝ムードが漂っていたのだが、鎌倉では動揺する武士達に北条政子が一世一代の大演説を行うと結束力は最大に高まり、行軍先で次々と武士達が幕府側に参戦し、最終的に十九万という兵力が幕府軍に与した。
院宣が下されながらそういった状況に陥ると朝廷側は慌てふためき、早急に藤原秀康を総大将として二万名程の兵力を持たせ美濃に派遣し幕府軍を迎え撃つこととした。幕府軍と朝廷軍が最初に激突したのも実のところ尾張(美濃と尾張の国境)であり、先手を打って京へと電撃的に攻め込む作戦をとった幕府軍は朝廷側の予想を無残にも打ち砕く十九万という兵力を東海道、東山道、北陸道の三手に分け西進。六月五日、尾張一宮に主力の東海道軍は鵜沼、池瀬、板橋、魔免戸、墨俣など木曽川、墨俣川(現、長良川)各所の渡河地点に軍勢を集結させ橋頭堡を確保した。
対して朝廷側は東海道方面の大将、藤原秀澄の作戦より一万二千の兵を十数カ所に分散配置して持久策を取った。この戦術に異論を唱えたのが尾張山田庄の地頭である山田重忠であり、山田重忠は軍勢を一点集結して墨俣川を強行突破し、尾張の国府を打ち破って幕府軍の主力を強襲し一気に鎌倉まで攻め入ろうという積極策を進言した。が、臆病な上、戦術に疎い藤原秀澄は幕府軍の東山道、北陸道を進む軍勢に背後を突かれるのを恐れ、この献策を退けた。その結果、唯でさえ少ない兵力を分散配置してしまった朝廷軍は虱潰しに各個撃破され、墨俣の防衛戦は幕府軍の勝利としてあっけなく片付いてしまったのである。
朝廷軍の藤原秀康と三浦胤義は美濃、尾張の戦線を支えきれないと判断し、京の宇治、近江の瀬田で京を守るとして早々に退却を決める。六日に幕府軍の北条泰時、北条時房の率いる主力の東海道軍十万騎が渡河を開始し、墨俣の陣に攻めかかった時には既に朝廷軍は撤退してもぬけの殻であった。幕府軍は難なく渡河を成功させ進軍を続け、山田重忠のみが僅か三百名余りの兵力で美濃国杭瀬川にて奮闘するが結局、朝廷方は総崩れになり大敗を喫する事となる。
敗走した朝廷方の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は最後の一戦を試みようと御所に駆けつけるが、後鳥羽上皇は門を固く閉じて彼らを文字通り門前払いしてしまい、山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨した。
こうして朝廷軍の敗戦が決定的になると後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして北条義時追討の院宣を取り消し、掌を返して恥も外聞もなく藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を下す。後鳥羽上皇に見捨てられた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠ら朝廷方の武士は東寺に立て篭もって抗戦するが、三浦義村の軍勢がこれを攻め、山田重忠は自ら剣を振るい敵兵を十五名、討つ働きを見せるが結局、藤原秀康と共に敗走。三浦胤義は奮戦して東寺で自害した。その後、山田重忠も落ち延びた先の嵯峨般若寺山で自害、藤原秀康は河内国において幕府軍の捕虜となった。
この承久の乱の敗戦より朝廷は織田信長、豊臣秀吉が権力を立て直すまで暗黒時代に突入し、催事一つ催すにしても幕府に一筆を送って裁可を仰がねばならぬ程に凋落するのである。
鎌倉時代、南北朝時代、室町時代の尾張国
平安時代末以降、尾張は流通の進歩に伴って陶器の全国シェアを伸ばし、渥美半島で興った渥美窯、知多半島全域に広く分布する常滑窯、猿投窯から派生する形で猿投山西麓に移動した瀬戸窯が市場を席巻した。尾張の窯業が市場に多く受け入れられたのはその先進的な釉薬技術にあり、この当時から既に鉄釉、木灰釉といった施釉陶器が他の地域に先駆けて生産されていたのである。
鎌倉幕府が成立すると京と鎌倉を結ぶ街道も整備される。当時の土木技術で特に課題となったのは大型河川への架橋であり、木曽三川を抱える尾張では鎌倉時代中期、墨俣川を渡河するには渡し船を利用するしか手段がなかったが、弘安二年(西暦1279年)に至ると、小舟を連ねた浮き橋による徒歩の渡河が可能となっており、大量の交通に耐えるだけのインフラが整備されるようになった。人の往来が増加すると当然、宿場も整備され市が催されるようになり、経済も活発化する。この当時、隣国である三河の守護は足利氏であり、当時の守護職を務めていた足利義氏の邸宅は三河の中心都市であった矢作にあった。この足利義氏の守護所には鎌倉幕府第四代将軍である藤原頼経も宿泊しており、経済の発達具合が良く見て取れる。
また、当時の主な移動手段はやはり陸路が主であったが、少ないながらも渥美半島、知多半島から紀伊半島を経由して畿内や九州、鎌倉を経由して東北に販路を持っていた事は陸奥平泉や鎌倉から大量の渥美、常滑産陶器が出土している点から明らかになっている。木曽川、墨俣川に伊勢湾の海運力は以降も江戸時代に至るまで活躍する事になる。
弘安六年(西暦1283年)には元寇の脅威が冷めやらぬ中で鎌倉仏教の一つである時宗の教祖、一遍上人が、尾張四観音の甚目寺で七日間の行法を執り行っている。
弘安八年(西暦1285年)、後に鎌倉幕府を倒し南北朝時代の初代南朝天皇に即位した後醍醐天皇の時代、第九代北条執権である北条貞時の頃より北条宗家の専横化が進み、本来であれば武士の権益を保護する為に組閣された鎌倉幕府がその権勢に押され、不遇を託つ武士も多くなってきた。そういった武士が決起した鎌倉幕府有力御家人の安達泰盛と、北条宗家(得宗家)の被官である平頼綱が争った霜月騒動にて安達泰盛に与し敗戦、尾張の領土を召し上げられ三河の本領も北条宗家領とされた武士、足助重範がいた。足助重範は後醍醐天皇の倒幕計画に一貫して荷担し、六波羅探題に計画が露呈して後醍醐天皇が京を脱出し山城国笠置山に籠城した折にも籠城軍の総大将を務め、「六波羅殿へのおもてなしに、大和鍛冶が鍛えた矢じりを少々試していただこう」と、三人張りの強弓に長大な矢をつがえ軽々と引き放った。放たれた矢は谷を飛び越え二百メートルほど先に控えていた幕府軍の荒尾九郎という武士に命中し、鎧の胸板を射通して絶命させる。続く二の矢は荒尾九郎の弟である荒尾弥五郎の兜を真正面から捉え、兄弟もろとも即死させたという。
が、足助重範の奮闘も虚しく笠置山は陥落、後醍醐天皇は隠岐に配流され、足助重範は六畳河原で斬首された。
元弘三年(西暦1333年)に鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇による建武政権(建武の新政)が発足したが、鎌倉時代末期から問題になっていた武士への恩賞の不備や拙速に過ぎる急進的改革で武士の不満は高まるばかりであり、自然と後醍醐天皇より鎌倉幕府倒幕の最大の功労者にして、清和源氏の名門である足利尊氏へと期待が募っていった。
建武二年(西暦1335年)、信濃で北条高時の遺児である北条時行が挙兵し、足利尊氏の弟である足利直義を撃破して鎌倉を占拠した。これが中先代の乱である。在京していた足利尊氏は後醍醐天皇に東下の許可と征夷大将軍への任官を求めたが後醍醐天皇はこれを拒否、尊氏はやむなく勅許を待たずして京を出立。三河国矢作宿で足利直義と合流し、北条軍を破って鎌倉を奪還した。そして後醍醐天皇の帰京命令を無視して鎌倉に居座り、後醍醐天皇への敵対姿勢を露わにする。
この動きに対して後醍醐天皇は同じ源氏の名門で清和源氏の一流、河内源氏の棟梁で足利尊氏のライバルでもあった新田義貞の軍勢を差し向けた。対する足利尊氏は側近の高師泰を最前線に派遣し、ここに南北朝時代の戦乱が幕を開ける。
高師泰と新田貞義は尾張の隣国、三河の矢作川近辺で激突。これが矢作川の戦いであるが、この戦に高師泰は敗走し新田貞義の軍勢は東進、駿河にて駿河手越河原の戦いでも足利義直を破って軍を進めるが、箱根で箱根・竹ノ下の戦いに敗れ敗走。足利尊氏と後醍醐天皇の戦は勢いを増していくのである。
建武三年(西暦1336年/延喜元年)には足利尊氏が光明天皇(北朝二代目天皇)を践祚して京に権勢を復帰、後醍醐天皇は大和吉野に逃れ、南朝を築く。この皇室分裂状態は表面上、明徳三年(西暦1392年)に両皇室を和解させた明徳の和約まで続く事となる。こうして政権は正式に足利尊氏が興した室町幕府の元で運営される事となるのである。
さて、そうして室町幕府が発足して室町時代が幕を開けると、尾張と三河は室町幕府直属の軍事組織である奉公衆に多く人材を送る事になる。中心となったのは熱田大宮司家や承久の乱では京側に与し、承久の乱以前から土着してた鎌倉御家人の経歴を引く反守護勢力である。その鎌倉御家人は次々と尾張の地頭として着任し、他国の守護が在地武士勢力を自己の支配下に組み込んで権力の肥大化に走る事もあった時代に、室町幕府の権力を支える有力な勢力となる。
時代が下り室町将軍第八代、足利義政の時代に尾張守護代の織田郷広が推挙した織田郷広の被官である坂井広道が公卿、万里小路時房の代官として織田郷広の推挙で登用されるが、坂井広道は止められて尚、時房の領地を横領し続けた為に時房は管領細川持之に陳情し嘉吉元年(西暦1441年)、織田郷広は責任を逃れる為に蓄電する。足利義政は自らの権益の為に織田郷広の守護代再任を図り乳母、今参局に働きかけ、今参局の進言で足利義政は赦免内諾を取り付ける事になる。しかし、尾張、越前、遠江の守護である管領斯波氏棟梁、斯波義健と越前並びに遠江の守護代である甲斐常治の意を受け足利義政の生母、日野重子がこれに反対し、困惑した義政が赦免を反故にして断念した。
また享徳元年(西暦1452年)、尾張守護家、三管領家の一つである斯波氏総領、斯波義建が十八才の若さで嗣子がないまま没すると、一族傍流の斯波義敏が新たなる守護として迎えられた。が、傍流故に家臣団の統率がままならない義敏は特に斯波氏の重臣で越前、並びに遠江の守護代を務める甲斐常治と深く対立し、義敏は幕府の許可を得ないまま強引に常治討伐の兵を挙げ(長禄合戦)、しかし義敏本人は幕府から関東出兵を命ぜられて近江小野に着陣しており、長禄三年(西暦1459年)になると足利義政は甲斐常治に肩入れするようになってくる。そして義敏本人が関東出兵の命令に背いて甲斐常治方の金ヶ崎城を攻めて大敗すると、これを激しく足利義政に非難され逆に幕府から斯波義敏討伐の兵を向けられてしまう。斯波義敏は周防の大内教弘を頼って出奔すると、室町幕府は尾張守護職の後釜に足利一門の出身で斯波氏に血縁が近い渋川氏の渋川義廉を着任させた。尚、長禄合戦は長禄三年八月十一日、守護代(甲斐常治)側の勝利となるが、甲斐常治は勝利の一報を耳にしないまま翌十二日夜、京で病没した。
さて、しかし出奔した斯波義敏もこれを黙って傍観せず、渋川義廉の父である渋川義鏡を斯波家当主の父という扱いで斯波氏の軍勢動員を図ったのだが、その渋川義鏡は関東で上杉氏と対立、失脚してしまった。この為、足利義政は幕府政所執事である伊勢貞親を通しての働きかけもあった事から、渋川義廉から斯波義敏に当主を再び交代させ、改めて関東政策を実行しようとして、文正元年(西暦1466年)、斯波氏の総領家に復帰を認めさせてしまうのである。
この措置に怒髪天を衝いたのが渋川義廉の岳父で、半将軍とまで呼ばれた細川政元の子である細川勝元とも肩を並べる幕府内権力者、山名宗全(山名持豊)である。宗全は義政と一戦も辞さぬ覚悟で一軍を率い京へと上り、義廉も尾張守護代家の織田一族を始め、各分国から自らの支配下にある勢力を京へと収集して気勢を上げると、この軍事的圧力に屈した足利義政は山名宗全の要求通り管領の畠山長政を罷免させ、その後継者に渋川義廉を擁立させる。一方、義敏は斯波氏総領家への復帰から僅か十日ばかりで再び家督を逐われ、京を出奔して越前に逃れたのである(※当時の守護職は全て京住まいが原則である)。
しかし禍福はあざなえる縄のごとし、この騒動で管領を罷免された畠山長政が京で挙兵したのは義敏が逐われた直後の事であり、この軍勢に畠山義就と斯波義廉の被官であった朝倉孝景の連合軍が上御霊神社にて交戦して、これに足利将軍家の継嗣問題や、畠山氏の家督争いなどが複雑に関係して、遂に進退窮まり応仁の乱が幕を開けるのである。渋川義廉は山名宗全が率いる西軍に、斯波義敏は細川勝元が率いる東軍に属して戦ったが、一族の内紛によって斯波氏は次第に勢力を失い、在地で権力を握る尾張守護代の織田氏に台頭を許す事となる。
この通り、戦国時代の幕開けとなる応仁の乱、並びに文明の乱は尾張の守護職争いが一端となっている辺り、やや全国的に申し訳ない気持ちになる。そして余談ではあるが、織田家の台頭と同じくしてやはり同じ斯波氏が守護職を務めた越前は、前出の朝倉孝景が応仁の乱で守護職座を約束され西軍から東軍に寝返り、越前国主の座をかすめ取るのである。
室町時代末(戦国時代)から安土・桃山時代の尾張国
さて、前述の応仁の乱にて管領、斯波氏の内訌があり斯波義敏と渋川義廉が東西に分かれて相争ったのであるが、尾張国で守護代を務めていた織田敏広と織田一族は一貫して渋川義廉に味方した。しかし応仁の乱の戦火が収まった文明八年(西暦1476年)十一月、尾張にて一国を揺るがす守護代家の騒動が幕を開ける。
初動は織田敏広の拠点である下津城(愛知県稲沢市)を、斯波義敏の命で一族の織田敏定が焼き討ちした事から始まる。切っ掛けは単純で、織田敏定は織田敏広が属した渋川義廉の東軍ではなく、斯波義敏に味方して西軍に属したからである。
この合戦自体は織田敏定の敗北に終わるが、突如の奇襲で為す術無く下津城を焼け野原にされた織田敏広は本拠地を岩倉に移す。一方の敗北した織田敏定は京に引いたが、文明十年(西暦1478年)、幕府から新たに尾張国守護代へと任じられて帰国。清洲の清洲城を起点とし度々、出兵しては岩倉城の織田敏広を圧迫した。織田敏広も敏広で、自身の岳父である隣国、美濃国守護代、斎藤妙椿の後援も受けて同じく出兵し敏定の清洲城を攻めた。
織田敏広と斎藤妙椿は幕府の停戦命令を無視して織田敏定と争い続けたが、敏定の抵抗が思いの外、強行であった為に幕府と双方を敵に回すのは得策でないと判断し、双方の織田氏は斎藤妙椿の仲介で織田敏広の岩倉方が尾張下二郡を斎藤敏定の清洲方に割譲する事で和睦した。
これから織田敏広の出身家である岩倉織田家(織田伊勢守家)が尾張八郡の内、上四郡を、織田敏定の出身家である清洲織田家(織田大和守家)が尾張下四郡(愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡)を支配する体制へと変化していくのであるが、後に織田敏広が没すると、養子で岩倉織田家の嗣子であった織田寛広は尾張守護職である斯波義寛(斯波義良)に帰順し、守護代家の抗争は一端、完全に収束する。が、この結果として守護代としての地位を盤石にしたのは織田敏定であった。
具体的には、文明十三年(西暦1481年)に岩倉織田家と清洲織田家との戦火が再燃し、まず緒戦で織田敏定が勝利。この間に敏広が逝去すると織田寛広が斯波義寛に帰順し、文明十四年(西暦1482年)には熱心な日蓮宗信者であった敏定が当時、織田家を巻き込んで尾張国内で久遠寺派と本國寺派とに分かれて争っていた日蓮宗の闘争を、清洲織田家の本拠地である清洲城内で放論させ、これに織田敏定の後援する本國寺派が勝利する。これより敏定は久遠寺方に帰順の起請を提示させ以後、日蓮宗の実成寺を庇護するなど日蓮宗の振興に務めたが、尾張全体の宗旨を自らの居城で決定させたという事実は敏定が尾張全体の宗教統制を担っていた事を意味するものであり、ここから敏定の権勢を伺う事が出来る。