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神仏習合

24

しんぶつしゅうごう

日本の信仰体形の一つ。日本にもともとあった神の信仰(神道)と、外来の仏教信仰とを融合・調和するために唱えられた教説。神と仏とを調和させ、同一視する思想で、神道と仏教の同化を示すもの。

詳細

日本固有の信仰である日本神話神道の神々とインド伝来の如来菩薩明王、および仏典に説かれるインド神話由来の天部デーヴァ)を同一視する信仰。

神仏の習合は、仏教が伝来した様々な土地で見られるが「神仏習合」と呼ぶ場合はこのことを指す事が多い。

神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいい、渡来した仏教が日本の各地固有信仰である神道が混淆し、それぞれの地域や見解において再構成(習合)された宗教現象である。

統一見解というものはなく、寺社やその系列ごとに本地とされる仏菩薩と垂迹とされる天神地祇が違っている。

同じ八幡信仰でも八幡大菩薩の本地が阿弥陀如来だったり釈迦如来だったり愛染明王だったりする。

仏教伝来時には対立も起こったが、次第に双方が相手を守護する存在を説いたり、相手は自身の化身であるとする解釈が起こり、神仏関係は緊密な協力し合う仲となった。とくに密教怨霊信仰修験道熊野信仰八幡信仰などが代表的。神と仏は一体として神仏と呼ばれた。また、寺には『鎮守社』として神社が建てられ、神社には『神宮寺』として寺が建てられ、これらを合わせて寺社と呼ばれた。

なかでも、奈良時代から鎌倉時代にかけて成立して中世日本文化に浸透したのが、「和光同塵」「本地垂迹説」である(五味文彦『躍動する中世』)。

「和光同塵」とは、仏がその威光を和らげて世俗に交わり、教えを広めるために神の姿をとって表れたという思想である。

「本地垂迹説」とは、神に詣でることはその本来の姿(本地)である仏に詣でることに同じだという説であり、五味によれば、天応元年(781年)、桓武天皇の即位に際して八幡神に大菩薩の尊号が送られ、『春日権現験記絵巻』には承平三年(937年)菩薩号を求める春日神の託宣が伝えられている。

また、その逆で仏の本来の姿が神であるという「神本仏迹説」もある。

神道は、日本人の先祖が大自然の中で暮らしながら会得したものであり、自然を神として崇めたのには日本特有の理由がある。

言うまでもなく日本列島は世界有数の火山列島であり、台風の通り道でもあることから、神である火山の大噴火や河川の氾濫が起こるたび、朝廷は「天がお怒りになっている」と考え、勅使を遣わし山や河川の怒りを鎮めるための贈位をくり返している。

仏教も同様に、開祖である釈迦が大自然の中で修行を積んだ末に会得したものであり、どちらも自然とする」面で共通する信仰であり、故にこの信仰形態が形成されたとされ、兄弟のような関係と言って良い」とも言われている。

実際に、神道には日本神話に見られるように「この世のありとあらゆるもの全て『森羅万象』には、神々が宿っている」という考え方である八百万の神(やおよろずのかみ)』があるが、仏教にも同じく、『悉有仏性(しつうぶっしょう)』という思想があり、これは「この世のありとあらゆるもの全てには、が宿っている」という意味で、非常に似通っている。

神道仏教日本にあまりに大きな影響を与えてきたため、神道と仏教を抜きにしては日本古来の伝統精神文化を語ることは出来ず、もし日本から全ての神道色や仏教色を取り払ってしまうと、もはや日本ではなくなってしまうとされる。

余談だが、日本にとってインドは歴史的仏教を通じて後何世紀にもわたる長く深い交流があり、文化的思想的に最も強く影響を受けた国であり、文化交流は6世紀に仏教が日本に伝来したことから始まり、その交流の歴史は約1500年にも及び、一説では仁徳天皇の時代にすでに天竺(インド)から裸形上人(薄着の高僧)が来日し、寺院を建立したとする伝承が現在も残っている。

更に、民間シンクタンク『独立総合研究所』の代表取締役社長青山繁晴氏が、インド政府人材開発省(文部省)の元次官であるスシール・チャンドラ・トリパティ氏に聞いた話によれば、神道思想日本神話神々には、仏教に通じているインド神話神々やその信仰思想に似通った同じような考え方があり(祇園祭の山鉾など)、深い文化の共通点があるのだという。

分離

しかし1867年(慶応3年)に、日本欧米列強による侵略から守るためとして、王政復古の号令が発せられ明治維新の実現後に、国家の近代化と国民の統制を同時にはかるために、イギリス式の政治体制・イギリス国教会中心の仕組みを取り入れて日本に合った形に作り変え、天皇陛下国家元首とした体制をとるべく、復古神道の影響のもとに国学者や神道家を登用されて神道の国教的立場が大きくなった(天皇神道にとってローマ教皇の様な存在であるため)。

そのため1868年(明治元年)3月17日以降、神道仏教神社寺院とをはっきり区別し宗教を明確化させるため神仏分離令(正式には神仏判然令)」など一連の法令が次々に発布された。

その後、神道か仏教か曖昧なものが廃され、弁天信仰は神社となり、豊川稲荷は寺とされるなど、明確に分けられるようになった。

修験道に至っては一時期のあいだ信仰自体が禁止されたが、後に僧・修験者たちの明治政府への嘆願によって、天台宗修験派』などといった仏教宗派の形で活動を認められる。

また、神仏分離令は決して仏教排斥を意図したものではないのだが、これがきっかけで全国各地で民衆による廃仏毀釈運動」が起こり、多くの寺や仏像が廃されることになった。

これは、元々は江戸幕府によってキリシタンを(正確には宣教師に化けた間者を)取り締まるため、宗教を統制するためにあった寺請制度(てらうけせいど)』のもとで、政治への癒着から汚職に走り、腐敗していた一部の寺院に民衆が苦しめられていたことも原因であり、そうした腐敗の防止も神仏分離令の要因の一つだった。

このとき、東京大学に招かれて来日していたアメリカ人哲学者、美術研究家・フェノロサはこのことを憂いて岡倉天心らと協力して多くの仏教芸術を保護し、フェノロサの帰国とともに多くの仏教芸術が海を渡ることになった。

仏教伝来時の廃仏イコノクラズムは、例えば落語「御神酒徳利」では、お稲荷さんがにわか占い師へ

大坂はそも守屋大臣が拝仏派と戦った際仏像を捨ててできた所なので、仏像はいくらでも出てくる」

からと説明するように、いつの間にかぐだぐだになっている。

その後

結局、神仏分離は不要な対立を残す形で終わった。

以降、それまで続いた神道と仏教の繋がりが多く失われたほか、天皇とつながりのある神だけが重視されるようになった。

これにより伝統信仰はどんどん衰退した一方、もともと神仏習合の要素が少ない鎌倉仏教系、とくに日蓮の派閥が大きく勢力を拡大。戦後の無宗教や創価学会躍進の伏線となる。

神仏習合によって築かれた文化日本文化の大きな一部となっているため、完全に分離することはほぼ不可能で、習合の信仰は現在も続いている。神社や寺院には所によって神仏習合時代の名残があり、現在でもそれは感じることができる。

更には、宗教学者山折哲雄の提唱により、明治維新以前の『神仏同座』『神仏和合』の精神の復活を目指し、平成20年(2008年)3月2日に近畿を中心とした125の寺社によって『神仏霊場会』が設立され、東大寺の長老である森本公誠が初代会長となった。

その後、更に151の寺社に拡大し、同年の9月8日には伊勢神宮にて発足奉告式典が行われた。

伊勢神宮を特別参拝として、同じく霊場会に所属する150の霊場である寺社巡りは、『神仏霊場巡拝の道』と公式に名づけられている。

 日本でブラジルへ成人してから行った移民の内、病気治しなどの加持祈祷を行うものが、向こうで日系人ほかの参拝者を集め、第2次世界大戦後、興される寺(神道もだけど)は、一応本山の末寺になる行動を見せつつも、非仏教徒の「黒人の呪術」に対抗する相談と、その敬虔な異教徒の信仰や儀礼も受け入れ、習合が暴走し「アパレシダ(ブラジルの守護聖人としての聖母マリア様)を崇拝する修験者」というものがいるまでになった(ブラジル稲荷の方は、「守護聖人への祈願成就の返礼の不履行」による罰を解消してもらうためにクリスチャンが来るとか)。

信仰一覧

海外

一般に「神仏習合」というと日本特有の宗教現象と思われがちだが、必ずしも日本に限ったものではない。

日本と同じく仏教の信仰国であるタイ王国の仏教は、日本と同じくタイ独自の精霊信仰であるピー(ผี)』習合し、同じく信仰国である中国台湾の仏教も道教土着信仰と習合した独特なものとなっている。

例えば関羽を神格化した関聖帝君が伽藍神(仏教寺院の守護神)として祀られたりしている。

道教には哪吒太子といった仏典経由で伝わったインドの神を原型とする神格がいる。中華圏の民間信仰に大きな影響を与えた『封神演义封神演義)』には普賢真人など後に仏教の菩薩になるという設定の仙人たちも登場する。

道教寺院では観世音菩薩などが普通に祀られており、泰山府君地蔵菩薩と同一視される、道教寺院で仏教経典が読経されるケースがある等、日本での神仏習合に近似した信仰が行われている。

仏教は教義において、何が真理で何が真理でないかを明確に峻別するタイプの宗教だが、多神教である、という性質上、布教した地域の民族独自の信仰融合しやすく(神々をそのまま取り込みやすく)、地域によって独自の仏教文化が築かれている。

そもそも仏教そのものに、インド神話ヒンドゥー教の神々を体系化し直した部分がある。帝釈天梵天阿修羅は古層の『阿含経』にも登場する。大乗仏典が生まれると共に迦楼羅王といった他の神も取り入れられ、釈迦の没後にヒンドゥー側で生まれた神(ガネーシャ等)もそれに続いた。

そうした神々が経典で語られる際、しばしば「(仏教にとっての)悪神として知られた神々が改心して仏法に帰依し、仏法の守護者となった」形をとった。歓喜天はその代表例と言える。

ただし相手の宗教において元から善なる神である場合は、降三世明王に懲らしめられる大自在天夫妻のように「高慢な存在」として造り替えられた上で降伏させられる、という形をとることになった。

これらのフォーマットは仏典以外でも展開され、チベット仏教の説話でも高僧パドマサンバヴァによる「土着神の調伏」譚が語られている。

 

別名・表記揺れ

神仏混淆 神仏混交

関連タグ

信仰  宗教 異教

神道 仏教 神仏 寺社

習合 混淆

神仏分離 鎮守社 神宮寺

修験道 山岳信仰

特定の作品・キャラクターに関するタグ

仏法Project(東方Project(二次創作))

アカ白は俺たちの神仏習合(MUGENカップリング一覧)

外部リンク

詳細

日本固有の信仰である日本神話神道の神々とインド伝来の如来菩薩明王、および仏典に説かれるインド神話由来の天部デーヴァ)を同一視する信仰。

神仏の習合は、仏教が伝来した様々な土地で見られるが「神仏習合」と呼ぶ場合はこのことを指す事が多い。

神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいい、渡来した仏教が日本の各地固有信仰である神道が混淆し、それぞれの地域や見解において再構成(習合)された宗教現象である。

統一見解というものはなく、寺社やその系列ごとに本地とされる仏菩薩と垂迹とされる天神地祇が違っている。

同じ八幡信仰でも八幡大菩薩の本地が阿弥陀如来だったり釈迦如来だったり愛染明王だったりする。

仏教伝来時には対立も起こったが、次第に双方が相手を守護する存在を説いたり、相手は自身の化身であるとする解釈が起こり、神仏関係は緊密な協力し合う仲となった。とくに密教怨霊信仰修験道熊野信仰八幡信仰などが代表的。神と仏は一体として神仏と呼ばれた。また、寺には『鎮守社』として神社が建てられ、神社には『神宮寺』として寺が建てられ、これらを合わせて寺社と呼ばれた。

なかでも、奈良時代から鎌倉時代にかけて成立して中世日本文化に浸透したのが、「和光同塵」「本地垂迹説」である(五味文彦『躍動する中世』)。

「和光同塵」とは、仏がその威光を和らげて世俗に交わり、教えを広めるために神の姿をとって表れたという思想である。

「本地垂迹説」とは、神に詣でることはその本来の姿(本地)である仏に詣でることに同じだという説であり、五味によれば、天応元年(781年)、桓武天皇の即位に際して八幡神に大菩薩の尊号が送られ、『春日権現験記絵巻』には承平三年(937年)菩薩号を求める春日神の託宣が伝えられている。

また、その逆で仏の本来の姿が神であるという「神本仏迹説」もある。

神道は、日本人の先祖が大自然の中で暮らしながら会得したものであり、自然を神として崇めたのには日本特有の理由がある。

言うまでもなく日本列島は世界有数の火山列島であり、台風の通り道でもあることから、神である火山の大噴火や河川の氾濫が起こるたび、朝廷は「天がお怒りになっている」と考え、勅使を遣わし山や河川の怒りを鎮めるための贈位をくり返している。

仏教も同様に、開祖である釈迦が大自然の中で修行を積んだ末に会得したものであり、どちらも自然とする」面で共通する信仰であり、故にこの信仰形態が形成されたとされ、兄弟のような関係と言って良い」とも言われている。

実際に、神道には日本神話に見られるように「この世のありとあらゆるもの全て『森羅万象』には、神々が宿っている」という考え方である八百万の神(やおよろずのかみ)』があるが、仏教にも同じく、『悉有仏性(しつうぶっしょう)』という思想があり、これは「この世のありとあらゆるもの全てには、が宿っている」という意味で、非常に似通っている。

神道仏教日本にあまりに大きな影響を与えてきたため、神道と仏教を抜きにしては日本古来の伝統精神文化を語ることは出来ず、もし日本から全ての神道色や仏教色を取り払ってしまうと、もはや日本ではなくなってしまうとされる。

余談だが、日本にとってインドは歴史的仏教を通じて後何世紀にもわたる長く深い交流があり、文化的思想的に最も強く影響を受けた国であり、文化交流は6世紀に仏教が日本に伝来したことから始まり、その交流の歴史は約1500年にも及び、一説では仁徳天皇の時代にすでに天竺(インド)から裸形上人(薄着の高僧)が来日し、寺院を建立したとする伝承が現在も残っている。

更に、民間シンクタンク『独立総合研究所』の代表取締役社長青山繁晴氏が、インド政府人材開発省(文部省)の元次官であるスシール・チャンドラ・トリパティ氏に聞いた話によれば、神道思想日本神話神々には、仏教に通じているインド神話神々やその信仰思想に似通った同じような考え方があり(祇園祭の山鉾など)、深い文化の共通点があるのだという。

分離

しかし1867年(慶応3年)に、日本欧米列強による侵略から守るためとして、王政復古の号令が発せられ明治維新の実現後に、国家の近代化と国民の統制を同時にはかるために、イギリス式の政治体制・イギリス国教会中心の仕組みを取り入れて日本に合った形に作り変え、天皇陛下国家元首とした体制をとるべく、復古神道の影響のもとに国学者や神道家を登用されて神道の国教的立場が大きくなった(天皇神道にとってローマ教皇の様な存在であるため)。

そのため1868年(明治元年)3月17日以降、神道仏教神社寺院とをはっきり区別し宗教を明確化させるため神仏分離令(正式には神仏判然令)」など一連の法令が次々に発布された。

その後、神道か仏教か曖昧なものが廃され、弁天信仰は神社となり、豊川稲荷は寺とされるなど、明確に分けられるようになった。

修験道に至っては一時期のあいだ信仰自体が禁止されたが、後に僧・修験者たちの明治政府への嘆願によって、天台宗修験派』などといった仏教宗派の形で活動を認められる。

また、神仏分離令は決して仏教排斥を意図したものではないのだが、これがきっかけで全国各地で民衆による廃仏毀釈運動」が起こり、多くの寺や仏像が廃されることになった。

これは、元々は江戸幕府によってキリシタンを(正確には宣教師に化けた間者を)取り締まるため、宗教を統制するためにあった寺請制度(てらうけせいど)』のもとで、政治への癒着から汚職に走り、腐敗していた一部の寺院に民衆が苦しめられていたことも原因であり、そうした腐敗の防止も神仏分離令の要因の一つだった。

このとき、東京大学に招かれて来日していたアメリカ人哲学者、美術研究家・フェノロサはこのことを憂いて岡倉天心らと協力して多くの仏教芸術を保護し、フェノロサの帰国とともに多くの仏教芸術が海を渡ることになった。

仏教伝来時の廃仏イコノクラズムは、例えば落語「御神酒徳利」では、お稲荷さんがにわか占い師へ

大坂はそも守屋大臣が拝仏派と戦った際仏像を捨ててできた所なので、仏像はいくらでも出てくる」

からと説明するように、いつの間にかぐだぐだになっている。

その後

結局、神仏分離は不要な対立を残す形で終わった。

以降、それまで続いた神道と仏教の繋がりが多く失われたほか、天皇とつながりのある神だけが重視されるようになった。

これにより伝統信仰はどんどん衰退した一方、もともと神仏習合の要素が少ない鎌倉仏教系、とくに日蓮の派閥が大きく勢力を拡大。戦後の無宗教や創価学会躍進の伏線となる。

神仏習合によって築かれた文化日本文化の大きな一部となっているため、完全に分離することはほぼ不可能で、習合の信仰は現在も続いている。神社や寺院には所によって神仏習合時代の名残があり、現在でもそれは感じることができる。

更には、宗教学者山折哲雄の提唱により、明治維新以前の『神仏同座』『神仏和合』の精神の復活を目指し、平成20年(2008年)3月2日に近畿を中心とした125の寺社によって『神仏霊場会』が設立され、東大寺の長老である森本公誠が初代会長となった。

その後、更に151の寺社に拡大し、同年の9月8日には伊勢神宮にて発足奉告式典が行われた。

伊勢神宮を特別参拝として、同じく霊場会に所属する150の霊場である寺社巡りは、『神仏霊場巡拝の道』と公式に名づけられている。

 日本でブラジルへ成人してから行った移民の内、病気治しなどの加持祈祷を行うものが、向こうで日系人ほかの参拝者を集め、第2次世界大戦後、興される寺(神道もだけど)は、一応本山の末寺になる行動を見せつつも、非仏教徒の「黒人の呪術」に対抗する相談と、その敬虔な異教徒の信仰や儀礼も受け入れ、習合が暴走し「アパレシダ(ブラジルの守護聖人としての聖母マリア様)を崇拝する修験者」というものがいるまでになった(ブラジル稲荷の方は、「守護聖人への祈願成就の返礼の不履行」による罰を解消してもらうためにクリスチャンが来るとか)。

海外

一般に「神仏習合」というと日本特有の宗教現象と思われがちだが、必ずしも日本に限ったものではない。

日本と同じく仏教の信仰国であるタイ王国の仏教は、日本と同じくタイ独自の精霊信仰であるピー(ผี)』習合し、同じく信仰国である中国台湾の仏教も道教土着信仰と習合した独特なものとなっている。

例えば関羽を神格化した関聖帝君が伽藍神(仏教寺院の守護神)として祀られたりしている。

道教には哪吒太子といった仏典経由で伝わったインドの神を原型とする神格がいる。中華圏の民間信仰に大きな影響を与えた『封神演义封神演義)』には普賢真人など後に仏教の菩薩になるという設定の仙人たちも登場する。

道教寺院では観世音菩薩などが普通に祀られており、泰山府君地蔵菩薩と同一視される、道教寺院で仏教経典が読経されるケースがある等、日本での神仏習合に近似した信仰が行われている。

仏教は教義において、何が真理で何が真理でないかを明確に峻別するタイプの宗教だが、多神教である、という性質上、布教した地域の民族独自の信仰融合しやすく(神々をそのまま取り込みやすく)、地域によって独自の仏教文化が築かれている。

そもそも仏教そのものに、インド神話ヒンドゥー教の神々を体系化し直した部分がある。帝釈天梵天阿修羅は古層の『阿含経』にも登場する。大乗仏典が生まれると共に迦楼羅王といった他の神も取り入れられ、釈迦の没後にヒンドゥー側で生まれた神(ガネーシャ等)もそれに続いた。

そうした神々が経典で語られる際、しばしば「(仏教にとっての)悪神として知られた神々が改心して仏法に帰依し、仏法の守護者となった」形をとった。歓喜天はその代表例と言える。

ただし相手の宗教において元から善なる神である場合は、降三世明王に懲らしめられる大自在天夫妻のように「高慢な存在」として造り替えられた上で降伏させられる、という形をとることになった。

これらのフォーマットは仏典以外でも展開され、チベット仏教の説話でも高僧パドマサンバヴァによる「土着神の調伏」譚が語られている。

 

別名・表記揺れ

神仏混淆 神仏混交

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