複数人数の戦国武将や武人を纏めて呼称する事が我が国・日本では多い。が、大概は後年の講談による喧伝なので現実にそぐわない点も多々あるのは注意すべきであろう。
代表例
・頼光四天王
源頼光に仕えた四名の武人。渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光の四名で、特に酒呑童子を退治した伝説は有名である。
・三英傑
戦国時代の戦国武将の中でも一番有名であり、乱世の日本を天下統一に導いた、共通して現在の愛知県出身である、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三名。
・織田四天王
織田信長の元で活躍した四人の戦国武将。柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀が該当する。
・羽柴四天王
豊臣秀吉が羽柴姓であった頃に活躍した四人の戦国武将。宮田光次、神子田正治、尾藤知宣、戸田勝隆がそれに当たるが、他の四天王に比べて大身になった訳でもないにも関わらず全員が全員、後継が無く無嗣断絶か追放の上、刑死や切腹という恵まれない最期を遂げているのが特徴。
・徳川四天王
天下三傑として有名な徳川家康の元で活躍した四人の戦国武将。酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政が該当する。家康は手柄を立てても中々加増しない代わりに、余程の事がなければ解雇しなかった為、四天王が揃って顕在し家も続いているのが特徴である。が、晩年の家康は戦場指揮官よりも政治ブレーンを求めた為、関ヶ原の戦い前後で本多忠勝や榊原康政は遠ざけられていたようである(酒井忠次は既に没後。井伊直政は政治でも活躍したので寵愛され、最も出世した)。
・毛利両川
毛利元就の次男、吉川元春と三男、小早川隆景の二名。三本の矢の故事で有名だが、長男、毛利隆元は早世したため含まれない。隆元死後、次男の元春でもなく三男の隆景でもなく、隆元嫡男の毛利輝元が毛利家の家督を相続しているのは、当時の世相を知るに貴重な故事である。
・両兵衛
二兵衛とも。豊臣秀吉の元で活躍した名参謀の黒田孝高と竹中重治の両名。
・武田四天王
武田信玄の元で特に活躍した四名の戦国武将。基本的には馬場信房(馬場信春)、内藤昌豊、山県昌景、高坂昌信だが、信玄初期政権下の板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌、小山田昌辰を指す場合もある。
・戦国三弾正
室町時代末から安土・桃山時代に於いて官職に弾正を持った優秀な三名を指す。信州真田家初代で「攻め弾正」の真田幸隆、武田四天王の一人で退却戦が上手い「逃げ弾正」こと高坂昌信、槍捌きに掛けて天下随一の「槍弾正」こと保科正俊の三名。
・武田五名臣
武田信玄が直々に召し抱えていた信玄直臣の足軽大将五名を指す。原虎胤、小畠虎盛、横田高松、多田三八郎、山本勘助の五名。山本勘助のみが武田信玄によって直接、登用された人物であり、勘助を除く四名が前線指揮官として活躍しているのに対し、勘助のみは築城や参謀としての幕僚色合いが強いのは興味深い(少なくとも前線指揮官ではなかった)。
・武田二十四将
武田信玄を含めた信玄政権下の二十四名を指す言葉。江戸期に創作されたので史実と異なる記載などもある。
・日本三大梟雄
主家を乗っ取り主人を追放、殺害しと正に下克上を体現して一角の人物にのし上がった三名の戦国武将を指す言葉。具体的には、父が美濃の有力土豪である長井家を乗っ取った長井新右衛門で、最終的には親子二代で美濃国主、土岐頼芸を追放して新たな国主となった斎藤道三、元は三好長慶の家臣ながら長慶の死後、三好家の実権を掌握し室町幕府第十三代将軍である足利義輝を御輿に担ぎ上げ国政を握り、足利義輝が邪魔になると一転して永禄の変で足利義輝を殺害し、三好三人衆らとの戦火が原因で過失ながら東大寺大仏殿を焼失させ挙げ句、織田信長が上洛してくると早々に恭順の姿勢を示し大和国を安堵されその実権を掌握した松永久秀、前者二名が道徳、規範を除外すれば極めて合理的に下克上を果たし、政務では善政を敷いた点に対し経歴を見てみれば毒殺に謀殺に離反に虐殺と、寧ろ悪行が趣味だったのではないかと疑いたくなるような宇喜多直家(直家をよく補佐した弟の宇喜多忠家も、直家と会う際には必ず鎖帷子を下に着込んでいたとか)の三名を指す言葉。
・中国三大謀将
中国地方で謀略を主としてのし上がった尼子経久、毛利元就、宇喜多直家の三名を指す。但しこの三名は活躍した時期がそれぞれ大凡、一世代ずつずれており、最終的な中国地方は尼子経久亡き後、尼子氏を下した毛利元就の毛利氏が大部分を接収している。宇喜多直家は毛利元就遠行後、毛利隆元、毛利輝元の代に備前、備中で特に勢力を拡大した。
・山家三方衆
室町末から安土・桃山時代に於いて三河国奥三河、信濃国と国境を接する山間の集落を拠点とした豪族三家を指す言葉。長篠の戦いで奮闘した作手村の奥平信昌(奥平貞昌)を筆頭とした奥平家が三河譜代として明治に至るまで家系を残しているが(奥平信昌は徳川家康の娘を娶っているので三河譜代なのである)、この地方は長く侵略に晒されていた為、特に室町時代末に至ってからは甲斐国の武田氏に付くか駿河国の今川氏に付くか、今川氏が衰退すると今度は三河の徳川氏に付くかで従属を余儀なくされていた。故に三家の内、残る二家である設楽町田峰の田峰菅沼氏と鳳来寺町長篠の長篠菅沼氏は長篠の戦いでも武田勝頼に従った為に、零落の一途を辿る事になる。
忠誠なぞ涙を誘うのみにしかならぬと云う戦国の世というものをまざまざと見せつけてくれるこの三家は当初、今川義元の父である今川氏親によって今川家の配下に置かれた。今川氏が衰退すると徳川氏(当時は松平姓)に属するが武田氏の進攻に降り武田氏配下に。武田信玄没後は徳川氏との内通を疑われた奥平氏のみが徳川方に離反し、甲府の人質が殺害される憂き目に遭っている。何とも厳しい現実である。
・西美濃三人衆
美濃国が織田信長の麾下に入る以前、特に西濃地方で巨大な権力を誇った三名を指す言葉。稲葉良通(稲葉一鉄)、安藤守就、氏家直元(氏家卜全)。
・府中三人衆
柴田勝家が越前国に封じられた折、その麾下で領地の運営を担った三名を指す言葉。不破光治、佐々成政、前田利家で、筆頭は実は不破光治。不破光治は上記の西美濃三人衆に加えて美濃四人衆とされる場合もある。
・摂津三守護
織田信長によって摂津国を統治するよう命じられた三名の武将を指す言葉。池田勝正、伊丹親興、和田惟政の三名。最終的には三名とも逐われ摂津国統治は荒木村重に命じられるがこれも離反する。
・大坂牢人五人衆
大阪の役で豊臣側に付いて活躍した五人の戦国武将を指す言葉。後藤基次(後藤又兵衛) 、真田信繁(真田幸村)、毛利勝永 、長宗我部盛親、明石全登の五名。
・島津三兄弟
薩摩国島津家、島津貴久の子で島津義久、島津義弘、島津歳久の三名を指す。
・島津四兄弟
上記の義久達島津三兄弟に、彼らとは異母弟の島津家久を含めた四名。
・三好三人衆
大内義隆と並んで京都に上洛し一時、安定した政権を造り出す事に成功した三好長慶の一族である三好長逸、三好政康、岩成友通の三名を指す。織田信長が足利義昭を伴って上洛した折、かつての美濃国主である斉藤龍興と結んで義昭の御所である本國寺を襲った六条合戦(本國寺の変)や、姉川の戦いが終結した後に石山合戦へと繋がる摂津国での決起が有名である。
・賤ヶ岳七本槍
賤ヶ岳の戦いで活躍した七名の戦国武将を指す言葉。福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元の七名を指すが、内の福島正則と加藤清正は豊臣秀吉の縁戚である為、少なくとも当人の前でこの七名を「同列に」列べる場合は蔑称にすらなりかねず、本人二名も語られる事を強く嫌ったそうな。
正味なお話、この両名が秀吉没後に行った豊臣家への利敵行為を考えれば、その程度の汚辱は甘んじて受けろと云いたい所ではある。
・五大老、五奉行、三中老
豊臣秀吉の晩年から没後、嫡子の豊臣秀頼がまだ幼かった事よりその補佐を任命されたそれぞれ五名ずつを指す。基本的には政権指針を五大老による合議制で定め、政権運営は五奉行に任せるという、謂わば現代の国会議員と官僚に当たる(余談ではあるが、今より四百年前の当時に於いて是だけ先進的な政治システムを確立した豊臣秀吉には嘆息する他ない)。
五大老が徳川家康、前田利家(利家死後は嫡子、前田利長)、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景(隆景死後は隆景に後継が居なかった為、上杉景勝が席を埋める)。五奉行は司法担当に浅野長政、行政担当に石田三成、土木担当に増田長盛、財政担当に長束正家、宗教担当に前田玄以が挙がる。
五大老と五奉行の意見に齟齬が見られた場合、調整役として三中老が間に入る事もあったとされるが、実際に機能したという記述には乏しい。三中老は生駒親正、堀尾吉晴、中村一氏の三名。
・天下の三陪臣
江戸時代後期、戦国時代の武将が述べたとされる言動を纏めた言語録、名将言行録に記されている、天下を任せても人後に落ちぬとされた三名の、秀吉が称賛した陪臣(家老)。直江山城(直江兼続)、小早川左衛門(小早川隆景)、堀監物杯(堀直政)の三名。
天下の三陪臣は実は名将言行録だけに記されているものでもなく、江戸時代中期に発行された葉隠には三名として直江兼続、小早川隆景までは同じであるものの三人目には堀直政ではなく鍋島直茂が挙がっている。
・維新の三傑
「関ヶ原の巻き返し」とされた明治維新にてその原動力を司った武士三名を指す。大久保利通(薩摩藩士)、西郷隆盛(薩摩藩士)、木戸孝允(長州藩士)の三名。明治維新によって四民平等が(名目上でも)成し遂げられた為、文字通り「最後の武士」である。維新の十傑も参照の事。
等々。