ポリティカル・コレクトネス
ぽりてぃかるこれくとねす
概要
スペルは「political correctness」。
日本語では「政治的正しさ」と訳される。
呼称としては短縮して「ポリコレ」「PC」などと呼ばれるのが一般的である。本記事ではPCで呼称を統一する。
政治的な話題が語られる場において、人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まないとされる、中立的な表現や用語を用いる行為を指す。
PCはリベラル思想的背景を持ち、フェミニズムやLGBTや宗教的少数派などのマイノリティ(≒社会的弱者)への配慮を支持する思想と親和性がある。このためマイノリティ基準の作品では取り上げられ難かった題材や、取り上げても正確性や配慮に欠けて差別的表現になってしまう側面がフォローされやすくなる。
一方で、匙加減を誤るとマジョリティ差別となる逆差別や、被差別者がダブルマイノリティ、他の被差別者を糾弾・差別する等、結果的に『別種の差別に繋がっている』等の批判もあり、一般大衆に「正しい」と共感・納得を得られない面も問題となっている(詳細は後述を読まれたい)。
前歴
元は1980年代以降のアメリカ合衆国において「政治の話題が語られる場」における「特定の人種に対する差別」を防ぐ理由から「そうした意味を含む可能性がある言語や表現をしないようにするべき」とする意識の高まりから使用されるようになったとされる。人種のサラダボウルと称されるアメリカ社会の特殊性がその背景にはある。
1990年代以降には人種に止まらず、宗教や性別、更には職業・文化・民族・障害者・年齢・婚姻に至るまで、同様の配慮が求められるようになり、中にはそのあまり自主規制されるに至ったものもある。PCとは「適切な表現」の追加だけでなく「不適切な表現」の除去や自粛をも含む性質を、歴史的にも備えている実態を示している。
2010年代以降『誰もがスマホでいつでもアクセスできるようになってからは、PCの議論がより活発化・先鋭化し、毎日のように世界のどこかで、PC絡みで何かしらの炎上が起きている』と言われている。
2010年代前半からは宗教右派とされる世界平和統一家庭連合(旧統一教会)が、宗教的マイノリティに対するヘイトスピーチや、朝鮮民族へのヘイトスピーチ防止、更には教義である「環境の浄化」「倫理道徳・家庭教育の再興」にふさわしくない性的コンテンツや、暴力コンテンツ規制の為に推進している。
世界各国の主要メディアや、我々一般市民の生活に欠かせないプラットフォームを提供するような大手企業は、拠点を置く国のマジョリティのみならず、マイノリティや外国人を顧客として持つケースが多いため、おおむねPCに対して賛同的な立場を採る。逆説的に(彼らの定義する)ポリコレに対して反抗的な態度を取る、もしくはそうした顧客・従業員の態度を許容するような企業・個人は取引の打ち切りに遭ってしまう事例も見られるようになってきている。一部R18サイトで、クレジットカードの大手ブランドであるMastercardが使えなくなったのはその一例である。
参考:GIGAZINE『アダルト産業を実質的に規制しているのは政府や国際条約ではなく「クレジットカード会社」だという指摘』
もしこれがGoogleやAmazonから取引を打ち切られたり、個人としても利用できなくなってしまったりすれば生活への影響は甚大であり、結果として彼らの考えるポリコレに対して、盲目的に従わざるを得ない状況に既に追い込まれている状況にある。
主な例
名称の変更
PCにおいて最も基本的な運動が、不適切とされる名称の除去あるいは変更である。英語においては、かつて職業を指す言葉に「~man」表記が多かったが、女性の同業者が存在する以上不適切であるとして「~person」などに改められるようになった(例:Policeman→Police officer、Spokesman→Spokesperson等々)。日本でも「トルコ風呂」が「ソープランド」へ、「母子手帳」が「親子手帳」へと変更されるなどしている。過剰な名称変更は時に言葉狩りと見做されもするが、先述のように下手をすれば国際問題になりかねないような名称も過去には存在したため、一般社会の理解を得やすいものも多い。
被害者に偏重し過ぎた不公平
著名人によるハラスメント事件などでは、無論被害者を守るのは当然の行為であり、これは誰もが納得する事案である。
ただし、加害者たる人物の関係者まで及ぶと、極めて複雑な事態に発展する。
加害者の関係者は当然『直接的・間接的を問わず関与の否定』をするが、自らの潔白を主張する余り「絶対にない」等の強い言葉を使用すると「被害者への無配慮な攻撃」と見なされ、事実上の『脅迫』だと糾弾されるケースも起こりつつある。
上記の通り、被害者の意を酌み守るのは当然だが、加害者との関与が疑われる人物の潔白の主張も守るものであるにも拘らず、被害者の意見だけを無条件に酌みながら、関与が疑われる人物の意見だけ「この表現では被害者を蔑ろにしている」等と粗を見つけ攻撃するのは、まさしく政治的正しさに反した状況を生んでいる。
また、法治国家内は基本『推定無罪』を基本としているが、電車内の痴漢行為に関しては、ほぼほぼ被害者の証言だけで成立(=事実上の『推定有罪』が横行)している現実もある。
その為、法曹界の中でも「痴漢冤罪の濡れ衣を着せられた場合、本当に潔白ならば駅員に対し『後日話を伺います』等と提案し、そのまま逃げた方が良い(=自分の潔白を晴らす為に、駅員に促されるまま車掌室などに行くのは自首するも同然)」と答えている有識者がいる。
更に、加害者と被害者が裁判になっているケースだと、双方の事情に通じている第三者が「加害者の容疑を晴らす為に証言したい」と声を上げても、被害者並び告発者サイドが「貴方の意見は今回の案件とは別件であり無関係」として封殺する=加害者に対する擁護材料の提出の拒否を行う一方で、被害者並び告発者サイドは『被害者の保護』『情報提供者の保護』を名目に、情報の偏った開示が許される等も罷り通りつつある。
娯楽作品におけるPC
近年PCに関連する事例で最も議論を呼ぶのが、娯楽作品の表現へのPC適用である。
そもそも、前提として、アメリカの娯楽産業(映画業界etc……)は伝統的に、日本ならばオタクに近い「学生時代はスクールカーストの最下層」だった者や、人種的マイノリティ(白人であってもユダヤ系や非WASP)が多く、端的に「『差別が格好悪い』思想を広めないと自分達の身の安全に関わる」「自分達に対するステレオ・タイプなイメージは、好意的なものでも傍迷惑なものとなり得る。まして、悪意が有ったり否定的なステレオ・タイプ・イメージが広まると命が危なくなる場合さえ有る」ような従事者が多かった。
当然ながら、差別問題等に関しては、他の業種の従事者に比べて厳しい見方をする者の割合が多くなる。日本で喩えるならば、1990年前後のオタク・パッシングを経験した世代のオタクが、オタク向けコンテンツに対する批判に対して、非オタクからすれば過剰反応に思える反応をしてしまうようなものである。
また、『ソルジャー・ブルー』等を初めとする70年代以降のアメリカの西部劇映画のように「人気が落ちつつあるジャンルにおいて、新しい客層を開拓しジャンルそのものを再活性化する等の理由で、わざとそれまでのジャンルの定番の逆張りをやったり、そのジャンルであえて描かなかった表現を積極的に描いていく」等をやった場合に、今日的観点からすると「過剰なポリコレ配慮」に見える場合も有る(例えば、70年代以降のアメリカの西部劇映画では、有色人種のキャラを積極的に出す、先住民を単純な悪として描かない、白人が西部開拓時に行なった残虐行為をわざと描く等)。
尚、アメリカ映画界の自主規制であったヘイズ・コードが制定される前のアメリカ映画では「戦争映画など当時の価値観における『男らしさ』を描いた作品で男性同士のキス・シーンが有る」「下手したら1980年代よりも女性映画監督の比率が多い」「白人以外の人種の俳優が重要な役で多く出る」等々、現代的観点からすると「過剰なポリティカル・コレクトネスへの配慮」に見える可能性が少なくなかった。
逆説的に「過剰なポリティカル・コレクトネスへの配慮」がされているように見える作品の増加は、かつての表現規制により強制的に「消されていた」作品が、それらの表現規制の撤廃と、作り手や観客の無意識の内に残っていたかつて存在していた表現規制による影響が消えていった結果、「かつては存在していたのに強制的に消されていた表現・作品が復活している過程」とも評せなくもない。
ある意味で、かつて有った押し付けや規制に対する反動が、現在進行形で起きているとも見做し得るであろう(それらの規制が続いた期間が長く、押し付けも強かったので反動も、それだけ大きくなる)。
近年のアメコミは主人公や主要メンバーに、女性や黒人を据える作品が増えているが、これは従来のアメコミの主人公が「白人の男性」ばかりであった経緯から来ている。批判によるものもあるが、純粋に主役級を担える白人男性キャラを消費しすぎたために、「主役級を担える女性や黒人キャラ」に活躍の順番が回って来た側面も大きい。また、アフリカの王族であるブラックパンサーのように、設定レベルで白人には不可能なキャラクターに焦点が当たる機会も増えてきており、設定上で女性や黒人であるべきキャラクターまで、白人男性以外は全てポリコレと扱うのは間違いである点の認識ができていない現状によるズレも発生している。
ただし、コミックス・コードにより1970年代初頭まで大手のアメコミでは「主人公は白人である」制約が有ったり、性的マイノリティの描写に制約が有ったため、現代的な観点からするとポリコレに準拠・配慮したコミックの方が出版・流通に制約が有り、それらの規定が廃止されたり、アメリカ社会が性的マイノリティやエスニック・マイノリティに寛容になると、それまでの反動で白人以外のヒーローや性的マイノリティやエスニック・マイノリティのヒーローが一気に多くなる事象も有った。もちろん当然だが、アメリカ社会には元から一定数の性的マイノリティや、エスニックマイノリティは存在しており、そのような人々は「自分達と同じ属性のヒーロー」を求めており、性的マイノリティやエスニックマイノリティのヒーローには潜在的な需要は有った(アメコミ大手2社がコミックス・コードではなく独自基準を採用する以前のアメリカにはコミックス・コードに準拠していないコミックも存在したが、そのようなコミックは現代日本の映画に譬えるなら「映倫の審査を通していない映画」のようなもので、流通経路や置いてある店からして違った)。
また、DCコミックの代表的ヒーローであるスーパーマンとMARVELコミックの代表的ヒーローであるキャプテン・アメリカは、前者が「本名(クリプトン星人としての名前)がヘブライ語風の名前」「移民・難民を思わせる設定」であり、後者は公式設定で「白人ではあるが、アメリカ白人の中でも主流派ではない民族に属する移民2世」であり、また、1970年代前半には「アフリカ系ヒーローを主人公にするべく『コミックの主人公は白人のみ』のコミックス・コード自主規制を変えさせる」事例や、1970年代後半には元々はウーマンリブ(現代でのフェミニズム運動)用語だった「Ms.」をコードネーム(ヒーローとしての名前)に含む女性ヒーローが登場する、2020年以降に性的マイノリティに設定変更されたキャラの中には、当初から作り手がそのような設定にしたかったが、時代的な制約でようやく出来るようになった事例も有るなど、ある意味でアメコミのジャンルそのものが「ポリティカル・コレクトネスの言葉が表面化していなかった時代から極めてポリコレ的」傾向が有った。
更に、アメリカでは「都市部ほどエスニック・マイノリティが多い(たとえば、一時期は「都会的」を意味する「urban」が「アフリカ系の歌手が歌っているポップ・ミュージック」の意味でも使われていた)」「性的マイノリティに寛容なのは田舎よりも都市部なので、性的マイノリティは都市部で暮す場合が多い」「同じアメリカでも地域ごとに多数派の民族グループが違う(例えばデトロイトの白人はアメリカの他の地域ではマイノリティであるポーランド系が圧倒的に多く、ワシントンD.C.の地元住民の約半数はアフリカ系)」「アメリカ以外の国では『アメリカはWASPが主流派の国』とのイメージが今でも残っている一方で、白人の中でも人口が上位の民族グループは非WASPで、アメリカ人の半数近くは民族的アイデンティティが『アメリカが独立して以降にアメリカに移住してきた者の子孫』」などの特殊事情が有り、アメリカの大都市を舞台にした物語の場合、登場人物が「白人だとしても非WASP」「エスニック・マイノリティや性的マイノリティ」の方が自然になったり、いわゆる「話を転がしやすい」ケースが有る(例えばスティーブ・ロジャースが生まれ育ったブルックリンやピーター・パーカーが住んでいるクイーンズは、現実では非WASP系の白人や有色人種が多い町であり、日本に置き換えるなら「読者が親しみ易いキャラクターにする為に『大都市出身・在住だが、その大都市の中でも庶民的なイメージのある地区』の設定にすると、どうしても主人公は日本社会におけるマジョリティにしても、近所にはマイノリティが住んでいないと違和感が出てしまう」となってしまうようなものである)。
また、近年のハリウッド映画では、弁護士・医師・科学者・エンジニアなどの高学歴の職業(特に理系)の役にアジア系やインド系の俳優がキャスティングされるケースが多いが、これらは単に現実のアメリカの現状や、多くのアメリカ人のそれらの人種・職業に対する一般的イメージが反映されているに過ぎない(逆にアジア系アメリカ人が監督・脚本家となったアジア系アメリカ人が主人公または重要キャラの作品では、そのような偏見が有るのを踏まえた上で「アジア系であっても高学歴ばかりじゃない」「高学歴になれなかったアジア系アメリカ人やその家族の悲喜劇」な内容になるケースが多い)。
また、アメリカ合衆国ではヒスパニック系の人口増加が著しく、21世紀中には(下手したら21世紀半ばには)「アメリカ最大の民族グループは白人ではなくヒスパニク」「アメリカで高学歴が必要な職業は(大学への進学率が他の民族グループより高い)アジア系・インド系が更に多くなる」ような事態になる可能性が高く、アメリカの一部の白人層にとっては、ポリティカル・コレクトネスの中でも特に人種多様性に配慮したエンタメ作品(映画・アニメ・コミック・ドラマ・ゲームetc……)は、「自分達は子供か孫の世代には少数派になる」「自分達は、企業にとっての『太い客』ではなくなりつつある」とする嫌な現実をエンタメ作品で見せられてもいる。
ある意味で「ポリティカル・コレクトネスはノイジー・マイノリティを優遇しているだけ」の主張と、そのような主張をしている人々が持つ「自分達こそノイジー・マイノリティと化しつつ有るのではないか??」とする恐怖は、同じコインの裏表との見方も可能であろう。
一方で、現在でも有色人種の役を白人が演じる〈ホワイトウォッシュ問題〉は「有色人種の役者から成功の機会を結果として奪っている」との見方もある。例えば「物語の舞台によってはその地域の人種構成に近づけた配役を行うべきである」との主張・提案がされるケースがある。しかし、これは同時に白人目線でのステレオタイプなアジアやアフリカの押し付けに陥るリスクも抱えており、中には役回りや現地文化と照らし合わせると変更が妥当なケースもあり、やはり一概に全ての変更が悪とは評し難い。黒人で売れている役者の中にも、一定のお決まりの役ばかりを与えられるケースも多く、デンゼル・ワシントンのように型通りの役を断り、正当な意味で評価を受けられる有色人種は稀である。
また日本含め外国で作られた作品をリメイクする際でも、男女比や人種などの設定を変更するケースがよくある。Pixiv的に馴染みの深い例はパワーレンジャーシリーズで、その為に原作が男性キャラだったのが女性になっていたり、スタメン全員が実兄弟のマジレンジャーやゴーゴーファイブ、親族であるニンニンジャーなどはオリジナルから設定変更が行われており、傍目では「主題である『家族の絆や繋がり』よりも、副題にもなっていない『(強引かつ無理矢理な)公平性』を最重視する」理不尽な構成が罷り通っている。ただし兄弟、家族ヒーローがいないかと必ずしもそうでもなく、『ミスティックフォース(マジレンジャー)』のブルーとピンクは姉妹、レッドとウドナ(マジマザー)、コーラッグ(ウルザード)が親子、『RPM(ゴーオンジャー)』のゴールドとシルバーは原典通り兄妹、『ライトスピードレスキュー(ゴーゴーファイブ)』はピンクとオリキャラのタイタニアムレンジャーが兄妹となっている。
「PCがアメコミの売上に悪い影響を及ぼしている」との意見もあるが、読売新聞1社でアメリカの三大紙の発行部数を上回るほど活字文化が盛んで、幅広い世代に読まれるのが当然の日本の漫画と、「漫画は子供と一部のマニアの読み物」とする認識が根強い社会で読まれているアメコミを単純に比較は難しい。
過去作のリメイク・リブートの際にPCの要素(性別や言葉遣い、婚姻年齢など)を取り入れて改変した場合、旧来のファンとの衝突事件が起きる事態もある。映画『Rub and Tug』では『実写映画の配役に当たってトランスジェンダー役を「実際のトランスジェンダーの役者が演じるべき」と個人や団体が抗議する』反対が起こった(演じる予定だったスカーレット・ヨハンソンは後に降板を表明した)が、この際にも反対を口にした当事者への攻撃が起こっている。こちらはトランスジェンダーの俳優は他に仕事がふられる事態とそもそもの絶対数が、シスジェンダーの役者より少ない状況が背景にある。しかし、こうした「当事者(同じ人種)であるべき」を指摘し出すと「職業や不法行為もその経験者を起用すべきではないか?」等々、いくらでも波及でき役者の業種そのものを根幹から否定するとの見方もある。
日本では「めくら」「かたわ」等の昔の作品の表現が、PC的見地から別の言葉や「ピー音」に差し替えられるケースが多い。しかしリアリティを追求する立場や、過去作を純粋に楽しみたいファンからはそれに反対の声があり、作品の最初に「当時の作者や時代背景をそのままお伝えすることにしました」とする断りを入れた上で、差し替えをせずに発表する例も少なくない。
いずれにせよ、重要な要素は作品そのものの構成上は必要の無い、役者や設定変更ありきの不自然な改編がポリコレの根幹である。この為、シナリオ構成や役者演技力、舞台そのものの違い等が合理的な理由が明示されていても尚、設定変更や白人男性以外主役は全てポリコレかのように見做すのは、ポリコレとは何かを見失い結果として的外れな指摘になる点には留意したい。
新作ゲーム、アニメに対する批判
近年では新作ゲームやアニメに美形ではない造形の人物や、被差別人種のキャラクターがいると「PCに屈した」等との批判を受ける例がある。もともとこうしたキャラクターはPC流行以前から珍しくはなかったものであるが、『TheLastofUsPart2』の炎上や、『HorizonZeroDawn』で行われた初期デザイン、実在するモデルの顔造形の修正などが話題になり、更にそうした作品の展開に伴って「ゲームに美人を出す考え自体が悪」(美男美女しか出ないのはそうでない人間への差別)との趣旨の主張まで行われてしまい、界隈に「もはや美形のキャラクターをゲームで扱えなくなるのではないか?」とする警戒感が生じた為に、一部の制作サイドや購入層などが敏感に反応している状況である。
その一方で、欧米のサブカルチャーでは「すべからく主役(特にバトルもの)は大柄かつ筋骨隆々の肉体の持ち主でないとならない」「子供に危険な行為をさせるべきではないし想起させるのも良くない」等とする風潮が未だに根強く、原典では中性的な少年の主人公が欧米で展開されるに至り壮年になる、極初期では小柄だったキャラが欧米人に好まれる体型にされた等の実例も多々あり、結局自分達の好き嫌いを押し付ける側面が強い現実もままある。
一連のポリティカル・コレクトネスに配慮し過ぎた結果、従来の表現が不可能に陥るケースも散見されるようになった。顕著な実例はダークエルフで、今までは『褐色肌のエルフ』だったが「有色人種差別を助長する」との声を考慮してからは、褐色肌から青肌に変更されるケースもあれば、オーガやオークと大差ないモンスターにされるケースもある。前者ならまだしも、後者になると「最早ダークエルフと判別し難い上、こうまでするならダークエルフ自体を使うべきではない」との意見もあり、事実上の表現の規制にもなりつつある。
また、身障者への配慮が過度になり過ぎた結果、体の異形や欠損を連想させる風貌のキャラクターは例え神話由来の超越存在、民間伝承の妖怪や妖精、果ては現実世界に存在しない亜人種であっても、ほぼ例外なく五体満足に表現されるケースもあり(TVアニメ版の『悪魔くん』のサシペレレ等が典型例)、結果的に史実の否定や原作レイプを生んでいる側面も秘めている。
近年では更に顔や皮膚の色だけでなく、肌の露出をも過度に規制する傾向も多く見られるようになった。
他にも、海外向けに配信されていた日本のアニメの翻訳を一部のローカライザーによって、意図的に原作の台詞を政治メッセージに変えるケースが目立った。
PC推進を巡る問題
「何が政治的に正しいか」はそれこそ多種多様な意見が存在し、全員が納得いく形での実現は難しい。この為、PC上配慮したつもりでも別の方面でおざなりになってしまったり、あるいは新たな問題を起こし論争と炎上を招くケースも少なくない。
原作で白人だったアリエル・ベル・白雪姫等がリメイクで当然のように有色人種にされた事例は物議をかもしており、人間ですらない人魚はまだしも、白雪姫は「雪のように白い肌」が名前の由来である為に、必然的に白人の中でも限られた人間しか本来は演じられない配役である。
また「ポリティカル・コレクトネスに過剰に配慮した」と見做された娯楽作品への批判に関しても、例えば「白人のイメージが有る役をアフリカ系の俳優が演じる」点では同じでも、そのアフリカ系の俳優が新人または無名の場合と、世界的大スターの場合(例としてはこの俳優が『ロミオとジュリエット』のジュリエットの配役に決定した際)とでは、ポリティカル・コレクトネス批判派の声の大きさ・批判の熱心さが明らかに違う事態も稀によくある。
また、同じく「一般的な『美人』から外れたアジア系の女性俳優が重要な役を演じる」ケースでも、演者が無名の新人だった場合にはポリティカル・コレクトネス批判派による批判の声が大きかったのに、演者がこの時点で既に有名だったミュージシャンの場合には、ほとんど批判が無かった等の実態も有った(早い話がポリティカル・コレクトネス批判派は「勝てそうな相手にしか喧嘩を売らない」傾向が有る)。
また、「ギリシャ系だった」のが考古学会の定説となっている歴史上の人物クレオパトラを、ドキュメンタリー映画が黒人として表現するなどの問題も発生しており(ただし、古代ギリシャ人は人種的に、現代の我々がイメージするいわゆる典型的な白人よりも中東・北アフリカ系に近く、例えば古代ギリシャ神話の神々の中には「『浅黒い肌の神』としてイメージされていたものの有ったのではないか?」とする学説は、実際に1980年代後半に唱えられ現在でも論争が続いており、この番組そのものが「その学説が正しいかどうかは別にして単にポリティカル・コレクトネスが一般化する以前から有る学説に基いて製作されたもの」に過ぎない可能性が有る)、日頃のポリコレ批判の流れもあって、ミスではなく意図的な歴史改変であると即座に断じられ大炎上している(現実として「エジプト人」のイメージからこの騒動以前の誤解も少なくなかったが、結果的にこの騒動で白人王朝の存在が広く認知されるに至った。ただし、付け加えるならばアテナイ・スパルタ等の「古代ギリシャ人の本流」の人々からすると、プトレマイオス朝の王族の先祖である古代マケドニア人は「たまたま自分達が信仰しているのと同じ神々を信仰している蛮族」扱いのギリシャ人と「それ以外」の境界に相当するような民族だったり、19世紀〜20世紀前半の優生学が広く信じられていた時代における「理想的な白人」のイメージは北欧系・ゲルマン系をベースとし南欧系・東欧系は「白人の中でも劣った人種」と見做されてきており、現代でもそのイメージが残っているが、古代ギリシャ人が白人だとしても北欧系・ゲルマン系的な容姿であった保証はない、むしろギリシャの位置からして南欧・東欧系の容姿の可能性も無視出来ないので「白人王朝と言っても、どこまで現代の我々がイメージする一般的な白人に近い容姿だったのか?」は更にややこしくなる)
反PC側だけでなく、PC推進側からも「差別があった歴史そのものを抹消しようとしている」との批判もあり、眉をひそめる物は日に日に増えている。女性差別や人種差別を歴史作品から撤廃した結果、悪人の悪行が無くなってしまい、歴史修正の上にシナリオ自体が破綻する実態は、もはやタチの悪いジョークのようである。結果として、現在の過剰なポリコレ・反ポリコレ戦争は、お互いの見たくない物を消す為に都合良く利用し合う結果、お互いに守るべきはずのものまで消えて行ってしまう矛盾を生じせている状態にある。
過去の発言を掘り起こして現在のPC基準で断罪する「キャンセルカルチャー」は、アメリカではドナルド・トランプとバラク・オバマなど、政治的対局に位置するはずの2人の元大統領から批判的なコメントが出る、世界各地でかつて差別的行為を行ったとされる歴史上の人物の像が撤去されるなど、社会的な論争となっている。それどころか、これまでマイノリティとされてきた人達、あるいは「マイノリティの味方」を自称する人達が「マジョリティに対して逆差別とも取れるような言動が現れ始めた」との意見もある。
作り手の側に立てば、マイノリティ側にとっては創作活動や自分達がそこで望む形で表現されるチャンスであるが、一方で文章や画像、映像などの製作における表現が制限される事態にも繋がる。出版物・映像業界のリソースも無限ではないため、単純に制作側の「パイが奪われる」状況にもなる。更にPC推進論者の中には「『男の子と思われたキャラクターが実は女の子だった』設定・展開は規制・禁止すべき(=「多様性が唄われる現代社会で、着衣がボーイッシュかガーリッシュかで性別を決め付けるのは不適当」) 」との極論まで挙げる層も居る。
またPCへの配慮が進むに連れ「多人数の実兄弟ものが作りづらくなる」「昔ながらの従属的な女性を否定するあまり、強い女性ばかりが出てくる」「人種を均等に入れなければならないので、グループもののメンバー構成が似通ってしまう」等々、作品の多様性の観点で悪影響が生まれた事例もある。本質的な話をすれば、ただ多様な人種を出すだけでは、既に批判を受けているマジカル・ニグロや白人の救世主等の焼き直しになり兼ねない為、登場させた多様なキャラクターは人格を深く掘り下げる事態が望ましいと思われる。
その上、逆に人種の多様性を作品に持ち込んで批判・炎上した実例もあり、TVドラマ『ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪』が挙げられる。端的に批判した者達の意見を要約すると「原作=中つ国の住民には褐色肌のエルフはいないから、世界観を破壊する肌の俳優はただちに白人俳優に変えろ」であり、これには製作サイドは当然反論している。
しかし、もしこれが古いアフリカが舞台等で黒人しかいないはずの世界の作品に、人種多様性の為に白人キャストを投入していた場合、上記の黒人エルフを擁護した層が納得するかが甚だ疑問が残る。すなわち「多様性」ではなく「少数者」(を名乗っている側)への一方的な配慮を半ば強制するのが現在のポリコレを巡る実情であり、本来の平等性や多様性からはかけ離れた特権濫用と化してしまっている。
他にも類似したケースでは『スター・ウォーズ』シリーズで白人系ではない俳優が主役に抜擢されるも、後のシリーズで脇役に追いやられるケースもあった。
そもそもこのようなポリコレブームは「社会正義への切なる願いが届いたもの」ではなく、商業的なリスクを及ぼす勢力に媚を売っているだけでしかないのが実情である。商業的リスクを与えられない小規模なコミュニティや、日本人のように国民性として大規模な抗議活動を控えがちな民族に対しては、配慮を欠いた言動が当然のように行われている。
また、上記とは全く逆の問題として「欧米では現実にポリティカル・コレクトネスに配慮した言動をする人が一定数居たり、ポリティカル・コレクトネスに配慮した言動をしなければならない状況が存在する」「欧米のフィクションでは話の必然性からポリティカル・コレクトネスに配慮した(または一見そう思える)表現がされている場合も有る(例えば「お堅い性格で公務員などの仕事をしている人物」や「無神経な人間ではない」などの判り易い表現)」にも拘らず、日本語訳・日本語吹き替え・日本語字幕などがポリティカル・コレクトネスに配慮されていないものになってしまう問題も有る。
例えば「フェミニスト/リベラルに見える女性」が誰かを非難している台詞を、迂闊に「女々しい」「男らしくない」等と訳してしまったり、『(現実において、少なくとも公的な場ではポリコレに配慮した発言をするように気を付けている場合が多い)リベラル系の政治家』の設定の登場人物のセリフを判り易さや字幕の字数などの制約で、ポリコレに配慮していないものに翻訳してしまえば、製作者・翻訳者の意図せぬ所で、その台詞は観客・視聴者から見れば「何故か回収されなかった伏線」になってしまう可能性が有る。
例えば、TVドラマ『Sherlock』において「堅物っぽい性格だが頭が良く、回りくどいが相手に誤解を与えないような話し方をする登場人物」が「話の流れからして明らかに同性カップルについて話している(なので「結婚当事者双方」などの当事者の性別を明確にしない、いわば “ポリコレに配慮した表現” となっていた)」にも拘らず、日本語字幕ではその「同性カップル」を「夫婦」「夫と妻の両方」と直訳してしまった事例が有った(※1)。
※1:イギリスでの同性婚法制化は2013年で、本エピソードの放映は2012年だが、本エピソード公開時のイギリスでは既に同性カップルの事実婚についても「結婚」「離婚」などの用語が使われる実例は有った。「同性婚法制化前だが、近い将来に同性婚を合法化する法律が成立するのはほぼ確実で、社会的には『同性カップルの事実婚』を『結婚』と見做す人が一定数居た」とする過渡期的な時期に製作・放映されたエピソードだった為、字幕並び吹き替えをどうするかをややこしくしている点も有る。
また2007年製作・2008年日本公開のイギリス映画「ホット・ファズ ─俺たちスーパーポリスメン!─」(原題は単に「Hot Fuzz」)は警官を昔の呼び方の「ポリスマン」で呼ぶか、ポリコレに配慮した「ポリスオフィサー」の呼び方にするかが劇中で大きな意味を持っていた(それも「ポリコレ」に関する一般的なイメージからは外れているが、現実では十分に有り得るようなもの)にも拘らず、ある意味で観客の感想・印象を一方に誘導しかねない邦題となってしまった。
更には『ブラック企業』『ブラック校則』等々「ポリコレに配慮していない表現」の方が結果的に「本当にマズいものをソフトな言葉でごまかしている」ような事例も皆無では無い。例えば『ブラック校則』の提唱者の1人である評論家の荻上チキは「今時、このような場合に『ブラック』の単語を使うのはどうか?」との指摘を受け、より実態に即した『理不尽校則』の呼び方を使うようになった。
上記に列挙された「ポリコレに配慮した表現」の問題点の中には、「ポリコレに配慮した表現」特有の問題ではなく「ポリコレに配慮していない表現」「わざとポリコレをガン無視した表現」にも当て嵌る場合や、「ポリコレに配慮した呼び方を使って『本当にマズいものをソフトな言葉でごまかしている』ような事例が改善される」場合も、十分に起き得る事態も考慮するべきであろう。
ぶっちゃけた話「ポリティカル・コレクトネスに配慮した作品は、そうでない作品よりつまらないか??」「ポリティカル・コレクトネスに配慮していない作品の方が、より過激な内容にしやすいか??」「逆にポリティカル・コレクトネスに配慮していない作品の方が、過去にやられたパターンの安易な再生産になるのではないか??」「過剰なポリコレ配慮や逆にポリコレ無視が気になる作品は、全体的に出来が悪かったり『出来が悪くなった』原因が複数有った結果、その点も目に付いてしまっただけなのではないか??」等々……ケース・バイ・ケースであるし、ポリティカル・コレクトネスを日本語に直訳すると「政治的妥当性」である以上、現実問題に関して真面目に論じる際に「意図しない炎上を避けたい」「自分の主張に対して、自分が望まない解釈をされるのを避けたい」場合や「問題提起などのつもりで、わざと炎上狙いの作品を作ったりSNSなどで炎上狙いの発言をしたのに、炎上を狙った箇所には誰も注目せず、自分にとっては当り前やどうでもいいと思っていた深く考えずにやった枝葉末節の箇所ばかり批判された」などという事態を避けたいのであれば、ポリティカル・コレクトネスを踏まえるのは安全策の1つとして有効であろう。
また、欧米の娯楽大作映画にとって巨大市場の1つである中国の映画検閲基準は、ポリティカル・コレクトネスへの配慮と相性が悪く(性的多様性を肯定的に描いたり、欧米を舞台にしているが人種的多様性に配慮している映画は検閲を通りにくい)、中国での公開を諦めた欧米の大作映画において、中国に配慮した作品では出来なかった表現を好き勝手にやった場合、結果的に「ポリコレへの配慮をやり過ぎている」と批判される場合も有る(一例としてはMCUシリーズの「エターナルズ」などがあげられる)。
更には「個々の暴力シーンは極めて過激で残酷だが、作品全体のテーマは暴力の否定」「個々のシーンは極めてエロチックだが作品全体のテーマは『男性向けエロ・コンテンツに対する批判・否定』」といったケースが有るように、ある作品全体としてのテーマ・メッセージがポリティカル・コレクトネスに配慮されているかと、その作品の個々のシーンに表現萎縮や逆に過激さが有るかと、その作品がポリティカル・コレクトネスに配慮した製作体制で作られたかは分けて考えるべき問題であり、日本でも徹底的にポリティカル・コレクトネスに配慮した製作体制だったからこそ過激なシーンが撮影出来たという逆説的な事例も存在している。
当然ながら、かつては実写作品で一般的に行なわれていたような「出演者をわざと精神的に追い込む事で監督・演出家が望んだ演技を引き出す」「SEXシーンなどのセンシティブな場面を出演者の精神的負担を減らす措置なしに撮影する」ような事はスポーツで喩えるなら「『指導する相手に如何に怪我をさせないか?』のノウハウを持っていない監督・コーチが無茶苦茶なしごきを行なう」ような危険な行為であり、作品のテーマや個々のシーンが「PCガン無視」なものだとしても、撮影現場や演技指導まで「PCガン無視」であれば「監督・演出家・脚本家などの上位の者の『表現の自由』の為なら、出演者などの下位の者の表現者生命を削っても良い」という歪んだ考えにより作られた作品だ、と批判されても仕方ないだろう。
PCをガン無視した作品を作りたい場合こそ、皮肉にも作り手がPCとは何かに関して徹底的かつ真面目に考えたり、チームで作る場合は製作現場では徹底的なPC配慮を行なわなければいけないケースも十分に有り得るのである。
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ダブルスタンダード:現在の(俄)PC論者および(俄)PC否定論者の基本スタンス。
特別じゃない、しあわせな時間。:極当たり前の家族団欒の光景であるのだが、欧米のPC推進派からは「片親家庭orLGBTを考えていない無神経な描写」と糾弾されている。しかし、それと同じかそれ以上に「PCのせいでこのような光景が見られなくなってツラい」との声も多数挙がっており、現在のPCが如何に本質からかけ離れている実態を端的に示している。
おおえのたかゆき:配信者兼ポリコレ評論家。アンチポリコレ派であり、昨今の行き過ぎたポリコレ問題について多角的に分析し、様々な名言を残している。